今回は,見上げる「天」と見下ろす「地」について,万葉集を見て行きましょう。
まず山上憶良が詠んだとされる長歌を1首紹介します。
父母を見れば貴し 妻子見ればめぐし愛し 世間はかくぞことわり もち鳥のかからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓を脱き棄るごとく 踏み脱きて行くちふ人は 石木よりなり出し人か 汝が名告らさね 天へ行かば汝がまにまに 地ならば大君います この照らす日月の下は 天雲の向伏す極み たにぐくのさ渡る極み 聞こし食す国のまほらぞ かにかくに欲しきまにまに しかにはあらじか(5-800)
<ちちははをみればたふとし めこみればめぐしうつくし よのなかはかくぞことわり もちどりのかからはしもよ ゆくへしらねば うけぐつをぬきつるごとく ふみぬきてゆくちふひとは いはきよりなりでしひとか ながなのらさね あめへゆかばながまにまに つちならばおほきみいます このてらすひつきのしたは あまくものむかぶすきはみ たにぐくのさわたるきはみ きこしをすくにのまほらぞ かにかくにほしきまにまに しかにはあらじか>
<<父母を見れば尊敬の念を抱き,妻子を見れば可愛く,愛おしくてたまらない。世の中にはこうした道理がある。とりもちの罠にかかった鳥のように家族への愛情は断ち切り難いのだ。にもかかわらず,行末も分からない世の中だからといって,穴のあいた沓を脱ぎ捨てるように父母や妻子を捨てて行くという人は,非情の石や木と同じ生まれだろうか。蒸発したおまえは誰なのか。天へ行ったなら,思いのままにするがよい。ただし,この地上は大君が治めている。太陽と月が照らすこの国は,雲の垂れる果てまで、ヒキガエルが這い回る地の果てまで、大君が統治している国土なのだ。逃げて思いのままにしたいと,おまえは思うかもしれないが,いつまでもそんな訳には行かないだろう>>
今の日本は,大君(天皇)が治めるのではなく,法治国家です。それでも「大君」を「法」に読み替えれば,まさに現代の世の中でもまったく古さを感じない長歌だと思いませんか?
<1,300年前も同じ>
事件の報道を聞くにつけ,自分を産んでくれた父母に対して尊敬の念を抱かないどころか,気に入らないので殺してしまう子供がいる。
いっぽう,自分の楽しみを奪う邪魔者だからと子供を虐待したり,殺してしまう父母がいる。
また,自分達の思想や行動を邪魔するものは抹殺するというテロリズム的行動も依然無くなっていません。
「道徳教育」というと戦前の軍国主義と結くというイメージがあり,また,超近代化社会では新しい技術や用語を教えるだけで古い倫理観をじっくり教えていくことの優先度が低くなってしまうのは,ある程度仕方ないことかも知れません。また,価値観の多様化によって,ベースとなる倫理観自体の有効な教育の困難性も増しているようにも思います。
実は,私もコンサーバティブ(保守的な)より,イノベーション(革新,改革)という言葉にポジティブなイメージを持つ人間の一人です。
<歴史的教訓は簡単には捨てられない?>
ただ,どんなに革新的な社会であっても古い考え方を全面的に否定して成り立っているのではないと私は思うのですがどうでしょうか。私は常にイノベーションを積極的に考えることと,古くて良いこと(モノ,考え方)をすべて捨て去ることとは同じではないと考えています。
本当の意味のイノベーションは,古いて良いモノは残し,時代に合わなくなってモノは捨て,斬新な考えやモノを積極的に導入する。その時,捨ててしまう古いモノが無くなってしまうことによるデメリット,新しい考えやモノを導入するときに発生しうる変化のリスクを正しく評価という手順を踏んで,やっと実施に移す。
そして,イノベーションを起こす人達(リーダーもメンバー)すべてがその手順の過程(ストーリ)を共有していることこそ,初めてイノベーションが成功できる要因なのだというのが私の考えです。
「ゆっくり考えるなんて悠長なことは言ってられないのだ。失敗を恐れずに何でもいいからチャレンジするんだ!突き進め!」と発破を掛けられ,失敗だけで済むなら良いのですが,失ってはならない貴重なモノまで失ってしまっては本も子もありません。
憶良の上の長歌に対する反歌を続けて紹介します。
ひさかたの天道は遠しなほなほに家に帰りて業を為まさに(5-801)
<ひさかたのあまぢはとほし なほなほにいへにかへりて なりをしまさに>
<<現状から逃避する天の道は遠い(逃避は結局できない)。黙々と家に帰って自分の仕事をしなさい>>
現状や現場をしっかり見て,着実により良くする(改善)ことが,実は本来のイノベーションなのです。地に足を着けて,難しい状況の中で改善を続けられることは本当に素晴らしい改革なのです。
現状を全面否定し,そこから逃げ出し,一足飛びに解決できることを探す(天の道を探す)ことは簡単に見えますが,結局はそんな道(ショートカットパス)は見つからないことの方がはるかに多いのです。
憶良が伝えたかったのは,そんなことではないかと私は思います。
堅い話が続きましたが,うれしいときや楽しみが近づいているとき,天にも昇る思いや地に足が付かづ,ふあふあした気持ちになることがありますね。
立ちて居てたどきも知らず我が心天つ空なり地は踏めども(12-2887)
<たちてゐてたどきもしらず あがこころあまつそらなり つちはふめども>
<<立ったりすわったりして,どうしていいかわからず,私の心はまるで天空を舞っているようです。しっかり地を踏んではいるのだけれど>>
この詠み人知らずの短歌は,恐らく恋人がやってくるのを心待ちにしていて,落ち着かない状態を詠んだのでしょう。
来週は七夕です。こんな気持ちで心待ちにしている人もいるかもしれません。その期待が実現し,多くの牽牛と織姫のデートが実現するといいですね。
対語シリーズ「逢うと別れ」に続く。