「行く」の最終回は,「行って帰る」「あの人は行ってしまった。でも帰ってきてほしい」「旅行く途中だけど,早く家に帰りたいな」など,「行く」は「帰る」とセットで使われることがあります。
万葉集で何らかの形で「行(く)」と「帰(る)」の両方が同じ和歌に出てくるものが36首あります。
いくつか紹介しましょう。
な行きそと帰りも来やとかへり見に行けど帰らず道の長手を(12-3132)
<なゆきそと かへりもくやと かへりみに ゆけどかへらず みちのながてを>
<<「行かないで」と。僕は「必ず帰って来るから」と振り返り振り返り家を出て行ってしまったけど,未だ帰れないこの長い道のり>>
この短歌は詠み人知らずの羈旅の歌です。行けども行けどもたどり着かない長い旅路。いったいいつ帰れるのだろう。家を出るときの別れの辛さを思い出す。
そんな心細い旅先での気持ちがこの短歌から私にはハッキリと伝わってきます。
玉敷ける清き渚を潮満てば飽かず我れ行く帰るさに見む(15-3706)
<たましける きよきなぎさを しほみてば あかずわれゆく かへるさにみむ>
<<玉を敷いたような清らかな渚に潮が満ちてきたならば,見て飽きないほど美しい渚を,(私たちは次の寄港地<新羅>に行くが)帰ってきたときはたのしみに見よう>>
これは,遣新羅使の阿倍継麻呂が対馬の竹敷の港に寄港したときに詠んだ短歌です。
対馬は島でありながらリアス式の海岸が多い場所です。竹敷の浦もそんな場所にあり,入江の奥深くの港で波も静かで,砂浜も白い宝石を敷き詰めたように本当に美しい渚だったのでしょう。
私は対馬にはまだ行ったことはありませんが,Googleの地図の航空写真を見ると,まさにそんな印象をもちます。航空写真は近代的な建物をあまり意識させないためか,当時の状況を想像するのに非常に便利だと私は思います。
我妹子がやどの籬を見に行かばけだし門より帰してむかも(4-777)
<わぎもこが やどのまがきをみにゆかば けだしかどよりかへしてむかも>
<<あなたの家の生垣を見に行ったら、ひっとして門から「帰ってください」と追い返そうとなさるのでしょうか>>
これの短歌は大伴家持が10歳ほど年上でバツイチの紀女郎に贈ったものです。家持は当時紀女郎にお熱を上げていたようです。結婚は難しい関係であることは紀女郎も良く分かっていて,ある一定の距離を置こうとしますが,若き家持はそんなことお構いなしです。
家持は相聞歌を何首も紀女郎に贈って強烈なアプローチをします。いっぽう紀女郎は失礼がないように「愛おしい」と返していますが「自分は年をとっています」と気付かせることも忘れていません。
紀女郎は万葉集で唯一名前(小鹿という名)が明らかになっている女性だそうです。他の女性は「○○の女性」といった呼び方で名前は出てきません。紀女郎という呼び方も「紀氏の女性」という意味ですから名前ではありません。
家持は若き日に陥った結ばれぬ恋の思い出を自分の大切な心の宝にしたかったのでしょうか。万葉集に「小鹿」の名の残したのもそのせいかも知れませんね。
さて,実はまだまだ載せたい動詞がたくさんあるのですが,今回で動きの詞シリーズは一旦お休みし,次回から新シリーズを開始します。
新しいシリーズは「対語シリーズ」です。今回紹介した「行く」と「帰る」のような関係の言葉を取りあげて,私の考えをお伝えすることをしばらく続けてみようと思います。
対語シリーズ「紅と白」に続く。
2011年7月30日土曜日
2011年7月23日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…行く(3) 「おみやげ」を持って行こう♪
少し遅きに失した感がありますが,「なでしこJAPAN」がサッカー女子ワールドカップで優勝し,世界一になったことは本当に素晴らしく,嬉しいことだと思います。けっして諦めない気持ちがあれば難しい状況でも乗り越えられることを示してくれ,日本を大いに勇気づけるビッグニュースでしたね。
さて,万葉集では秋の七草のひとつ「なでしこ」の花が26首の和歌で出てきます。その中で「行く」も併せて詠んでいる次の旋頭歌が1首あります。
射目立てて跡見の岡辺のなでしこの花ふさ手折り我れは持ちて行く奈良人のため(8-1549)
<いめたててとみのをかへのなでしこのはな ふさたをりわれはもちてゆくならひとのため>
<<跡見の岡辺に咲くなでしこ(撫子)の花をたくさん手折って持って行くことにしましょう。奈良にいるあの人へのお土産として>>
この旋頭歌は,紀女郎(きのいらつめ)の父紀鹿人(きのしかひと)が大伴旅人の弟である大伴稲公(いなぎみ)の荘園の別荘に招かれたとき詠んだとされるものです。以前にもこのブログで書きましたが,大伴一族はあちこちに荘園をもっていたようです。
そして,手おり束ねて平城京の家人におみやげとして持っていきたいほどその別荘には美しくなでしこの花が咲き乱れていることを賞賛した歌だと私は思います。
さて,奈良時代「おみやげ」のことを「づと」と呼んでいました。それを持って行くと誰でもうれしいものです。
あしひきの山行きしかば山人の我れに得しめし山づとぞこれ(20-4293)
<あしひきのやまゆきしかば やまびとのわれにえしめしやまづとぞこれ>
<<山村に行ったところ山人が余にお土産をくれたのだ。これがその土産なのだ>>
この短歌,聖武(しやうむ)天皇が即位する前の女性天皇である元正(げんしやう)天皇が詠んだとされるものです。しかし,この短歌に対して伯父の舎人親王(とねりのしんわう)が次のように返歌しています。
あしひきの山に行きけむ山人の心も知らず山人や誰れ(20-4294)
<あしひきのやまにゆきけむ やまびとのこころもしらずやまびとやたれ>
<<山村に行かれた陛下は実は山人だったのに,おっしゃっている意味が分かりませんぞ。山人が陛下でなかったらいったい誰だったのですかな?>>
元正天皇が山村に行って美味しそうな山菜,キノコ,木の実などをたくさん採ったのだけれど,天皇(まして女性天皇)がそんなはしゃいではしたない行動をしたと悟られたくなくて,現地の山人がおみやげとして渡してくれたものだと詠った。
天皇自らが山に入り,お付きの者が怪我させたら大変だと制止するのを無視していっぱい採ろうしたことが舎人親王にはバレバレで,親王はそれを婉曲に皮肉って返歌したのではないかと私は解釈します。
<万葉集勅撰論には反対>
でも,こんなやり取りの短歌が天皇が詠ったと正式な記録に残っているでしょうか。
この2首の左注には藤原仲麻呂邸で紹介され,大伴家持が記録したとあります。
これが紹介されたのは恐らく宴席で,参加者は男だけ。「女帝ばかり続くと大変なのでは?」というような話が出たとき「そうそう元正天皇のとき,こんなやり取りをしたという逸話がある」として紹介されたものではないかと私は勝手に想像します。
この2首の紹介は天平勝寶5年(753年)5月の行われたとあり,聖武天皇の次帝である孝謙天皇(女帝)の時代です。
「天武系の皇族は女性がどうしてこんなに強いのかなあ。何をおみやげに持って行けば良いか分からん」などとこの席の出席者(男達)が言っていたかどうかは,さすがの私も想像することはできません(天の川君ならするかな)。
行く(4:まとめ)に続く。
さて,万葉集では秋の七草のひとつ「なでしこ」の花が26首の和歌で出てきます。その中で「行く」も併せて詠んでいる次の旋頭歌が1首あります。
射目立てて跡見の岡辺のなでしこの花ふさ手折り我れは持ちて行く奈良人のため(8-1549)
<いめたててとみのをかへのなでしこのはな ふさたをりわれはもちてゆくならひとのため>
<<跡見の岡辺に咲くなでしこ(撫子)の花をたくさん手折って持って行くことにしましょう。奈良にいるあの人へのお土産として>>
この旋頭歌は,紀女郎(きのいらつめ)の父紀鹿人(きのしかひと)が大伴旅人の弟である大伴稲公(いなぎみ)の荘園の別荘に招かれたとき詠んだとされるものです。以前にもこのブログで書きましたが,大伴一族はあちこちに荘園をもっていたようです。
そして,手おり束ねて平城京の家人におみやげとして持っていきたいほどその別荘には美しくなでしこの花が咲き乱れていることを賞賛した歌だと私は思います。
さて,奈良時代「おみやげ」のことを「づと」と呼んでいました。それを持って行くと誰でもうれしいものです。
あしひきの山行きしかば山人の我れに得しめし山づとぞこれ(20-4293)
<あしひきのやまゆきしかば やまびとのわれにえしめしやまづとぞこれ>
<<山村に行ったところ山人が余にお土産をくれたのだ。これがその土産なのだ>>
この短歌,聖武(しやうむ)天皇が即位する前の女性天皇である元正(げんしやう)天皇が詠んだとされるものです。しかし,この短歌に対して伯父の舎人親王(とねりのしんわう)が次のように返歌しています。
あしひきの山に行きけむ山人の心も知らず山人や誰れ(20-4294)
<あしひきのやまにゆきけむ やまびとのこころもしらずやまびとやたれ>
<<山村に行かれた陛下は実は山人だったのに,おっしゃっている意味が分かりませんぞ。山人が陛下でなかったらいったい誰だったのですかな?>>
元正天皇が山村に行って美味しそうな山菜,キノコ,木の実などをたくさん採ったのだけれど,天皇(まして女性天皇)がそんなはしゃいではしたない行動をしたと悟られたくなくて,現地の山人がおみやげとして渡してくれたものだと詠った。
天皇自らが山に入り,お付きの者が怪我させたら大変だと制止するのを無視していっぱい採ろうしたことが舎人親王にはバレバレで,親王はそれを婉曲に皮肉って返歌したのではないかと私は解釈します。
<万葉集勅撰論には反対>
でも,こんなやり取りの短歌が天皇が詠ったと正式な記録に残っているでしょうか。
この2首の左注には藤原仲麻呂邸で紹介され,大伴家持が記録したとあります。
これが紹介されたのは恐らく宴席で,参加者は男だけ。「女帝ばかり続くと大変なのでは?」というような話が出たとき「そうそう元正天皇のとき,こんなやり取りをしたという逸話がある」として紹介されたものではないかと私は勝手に想像します。
この2首の紹介は天平勝寶5年(753年)5月の行われたとあり,聖武天皇の次帝である孝謙天皇(女帝)の時代です。
「天武系の皇族は女性がどうしてこんなに強いのかなあ。何をおみやげに持って行けば良いか分からん」などとこの席の出席者(男達)が言っていたかどうかは,さすがの私も想像することはできません(天の川君ならするかな)。
行く(4:まとめ)に続く。
2011年7月16日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…行く(2) 行く川の流れは絶えずして...。
鴨長明(かものながあきら)が鎌倉時代に表した方丈記(はうぢやうき)には「行く川のながれはたえずして、しかももとの水にあらず。よどみにうかぶうたかたは、かつきえかつむすびてひさしくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくのこどし。(後略)」とあります。
方丈記は仏教の無常観を前提にしたと思われる「常なるものを求めることのはかなさ」を述べた日本三大随筆のひとつとされています。
冒頭の有名な書き出しは,行く川の水や淀みの泡沫(うたかた)を例に世の中に常なるものはないことの譬えを示しているのですが,方丈記より400年ほどさかのぼる万葉集にも行く水の行き先は分からない(常でない)ことを表現した和歌が出てきます。
~ 吹く風の 見えぬがごとく 行く水の 止まらぬごとく 常もなく うつろふ見れば にはたづみ 流るる涙 留めかねつも(19-4160)
<~ ふくかぜの みえぬがごとく ゆくみづの とまらぬごとく つねもなく うつろふみれば にはたづみ ながるるなみた とどめかねつ>
<<~ 吹く風の方向が見えないように,行く水が形を変え止まらず流れて行くように,世の中に常なるものがなく変わって行く姿を見れば,流れる涙を抑えることができない>>
これは大伴家持が越中で世の無常を悲しんで詠んだ長歌の後半部分です。
恐らく元気だった家臣の急死を悼んで詠んだものだと思われます。人はいつまでも良い状態であることを望むが,その通りには行かない。そのことを現実として見せつけられるとやはり悲しい。そして,涙がとめどなく流れてしまう。
この家持の長歌は,山上憶良の仏教観の影響を強く受けて詠まれたものではないかと私は感じます。
また,万葉集では方丈記の表現に使われた水に浮かぶ泡沫を見て,次のような無常観を詠った短歌も出てきます。
巻向の山辺響みて行く水の水沫のごとし世の人我れは(7-1269)
<まきむくのやまへとよみて ゆくみづのみなわのごとしよのひとわれは>
<<巻向山の麓を水音を立てて流れ行く水の泡沫が消えたりできたりするように,世の中の無常さを感じている私です>>
しかし,万葉集全体でみると,途絶えることのない流れを序とした恋の歌や,無常観を逆手にとり今は逢えない状態が続いているがそのままではない(逢える)というも歌も出てきます。
巻向の穴師の川ゆ行く水の絶ゆることなくまたかへり見む(7-1100)
<まきむくのあなしのかはゆ ゆくみづのたゆることなくまたかへりみむ>
<<巻向の穴師川を流れる水のように、絶えることなく何度もまた(あなたに逢うために)見に来ましょう>>
一瀬には千たび障らひ行く水の後にも逢はむ今にあらずとも(4-699)
<ひとせにはちたびさはらひ ゆくみづののちにもあはむ いまにあらずとも>
<<川の瀬では中州や岩などの障害物だらけの中流れ行く水も後にはかならず合流するようにあなたと逢えるでしょう。今はそれができないとしても>>
後の方の短歌は万葉集に5首ほど短歌を載せている大伴像見(おほとものかたみ)という人物が詠んだもので,5月21日のこのブログでも紹介しました百人一首の崇徳院の歌とほとんど同じことを表現しているように私は感じます。
瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ(崇徳院:77)
<<急流の瀬の岩に掛かって流れる滝の水は岩の左右に別れても岩を過ぎた後はまた合流するようにあなたとまた逢えましょう>>
万葉時代の万葉歌人は既に行く川の水や泡沫の変化を見て,いろいろなものの考え方,見方の譬え(序詞)にしょうとしていた。そして,後世の人々もその表現を利用して短歌や随筆を創作したのかも知れませんね。
行く(3)に続く。
方丈記は仏教の無常観を前提にしたと思われる「常なるものを求めることのはかなさ」を述べた日本三大随筆のひとつとされています。
冒頭の有名な書き出しは,行く川の水や淀みの泡沫(うたかた)を例に世の中に常なるものはないことの譬えを示しているのですが,方丈記より400年ほどさかのぼる万葉集にも行く水の行き先は分からない(常でない)ことを表現した和歌が出てきます。
~ 吹く風の 見えぬがごとく 行く水の 止まらぬごとく 常もなく うつろふ見れば にはたづみ 流るる涙 留めかねつも(19-4160)
<~ ふくかぜの みえぬがごとく ゆくみづの とまらぬごとく つねもなく うつろふみれば にはたづみ ながるるなみた とどめかねつ>
<<~ 吹く風の方向が見えないように,行く水が形を変え止まらず流れて行くように,世の中に常なるものがなく変わって行く姿を見れば,流れる涙を抑えることができない>>
これは大伴家持が越中で世の無常を悲しんで詠んだ長歌の後半部分です。
恐らく元気だった家臣の急死を悼んで詠んだものだと思われます。人はいつまでも良い状態であることを望むが,その通りには行かない。そのことを現実として見せつけられるとやはり悲しい。そして,涙がとめどなく流れてしまう。
この家持の長歌は,山上憶良の仏教観の影響を強く受けて詠まれたものではないかと私は感じます。
また,万葉集では方丈記の表現に使われた水に浮かぶ泡沫を見て,次のような無常観を詠った短歌も出てきます。
巻向の山辺響みて行く水の水沫のごとし世の人我れは(7-1269)
<まきむくのやまへとよみて ゆくみづのみなわのごとしよのひとわれは>
<<巻向山の麓を水音を立てて流れ行く水の泡沫が消えたりできたりするように,世の中の無常さを感じている私です>>
しかし,万葉集全体でみると,途絶えることのない流れを序とした恋の歌や,無常観を逆手にとり今は逢えない状態が続いているがそのままではない(逢える)というも歌も出てきます。
巻向の穴師の川ゆ行く水の絶ゆることなくまたかへり見む(7-1100)
<まきむくのあなしのかはゆ ゆくみづのたゆることなくまたかへりみむ>
<<巻向の穴師川を流れる水のように、絶えることなく何度もまた(あなたに逢うために)見に来ましょう>>
一瀬には千たび障らひ行く水の後にも逢はむ今にあらずとも(4-699)
<ひとせにはちたびさはらひ ゆくみづののちにもあはむ いまにあらずとも>
<<川の瀬では中州や岩などの障害物だらけの中流れ行く水も後にはかならず合流するようにあなたと逢えるでしょう。今はそれができないとしても>>
後の方の短歌は万葉集に5首ほど短歌を載せている大伴像見(おほとものかたみ)という人物が詠んだもので,5月21日のこのブログでも紹介しました百人一首の崇徳院の歌とほとんど同じことを表現しているように私は感じます。
瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ(崇徳院:77)
<<急流の瀬の岩に掛かって流れる滝の水は岩の左右に別れても岩を過ぎた後はまた合流するようにあなたとまた逢えましょう>>
万葉時代の万葉歌人は既に行く川の水や泡沫の変化を見て,いろいろなものの考え方,見方の譬え(序詞)にしょうとしていた。そして,後世の人々もその表現を利用して短歌や随筆を創作したのかも知れませんね。
行く(3)に続く。
2011年7月11日月曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…行く(1) 恋路を行くのは苦難が多い?
<梅雨明けの我が家周辺>
関東地方は昨年より1週間以上早く,梅雨があけてしまいました。近所の街路樹に100本ほど植えてある百日紅(サルスベリ)の花は,まだほんの数本しか咲いていません。
また,近くの観光ぶどう園では,急いで袋かけを行っているようです。
写真は今年咲き始めた百日紅の花,一部(奥)のぶどうに袋かけが終わったぶどう畑の様子です。
さて,また動きの詞シリーズに戻り,今回から数回にわたり「行く」を取りあげます。
「行く」を国語辞典で調べると多くの意味が出てきます。万葉集にも次のようないろいろなニュアンスの違いの用例が何か所にも出てきます。
朝行く(あさゆく)…朝に出かける。朝歩く。
天行く(あまゆく)…(月や太陽が)天上を行く。
打ち行く(うちゆく)…ちょっと行く。馬に乗って行く。
離り行く(かりゆく)…離れ行く。
来経行く(きへゆく)…年月が過ぎゆく。
里行く(さとゆく)…里を行く。里を歩く。
去り行く(さりゆく)…(季節などが)移り巡り行く。
携はり行く(たづさはりゆく)…連れ立って行く。
旅行く(たびゆく)…旅に出て行く。旅行する。たびたつ。
尋め行く(とめゆく)…尋ねて行く。
鳴き行く(なきゆく)…(鳥,獣などが)鳴きながら飛んでいく(彷徨う)。
泥み行く(なづみゆく)…行き悩みながら行く。
更け行く(ふけゆく)…夜が深くなって行く。
二行く(ふたゆく)…二心がある。心が両方に通う。二度繰り返す。
道行く(みちゆく)…道を行く。旅をする。
山行く(やまゆく)…山に登る。山の中を行く。
前に付く言葉によって「行く」の意味が微妙に異なっていることが分かるでしょうか。万葉時代から「行く」はいくつもの意味合いで使われてきた言葉と言えそうです。
「行く」がさまざまな意味合いを万葉時代から持っていた理由として,私はいろいろな言葉と連なって使われてきたからかもしれないのでは?と考えています。当時から「行く」という言葉は単に人がどこかに行くことのみを指しているのではなく,広い概念を持つ抽象的な言葉だったのだろうとも私は感じます。
具体的期用例を万葉集に出てくる短歌で見てみましょう。
うつせみの世やも二行く何すとか妹に逢はずて我がひとり寝む(4-733)
<うつせみの よやもふたゆく なにすとか いもにあはずて わがひとりねむ>
<<世の中を二度繰り返すことができるなどありはしない。どうして貴女と逢わないで私独りで寝ることができるだろうか>>
この短歌は大伴家持が 坂上大嬢に対して送った恋の歌です。「二行く」とは「二度繰り返す」という意味で使われています。結構激しく恋情を表した恋の歌だと私は思います。
まそ鏡持てれど我れは験なし君が徒歩より泥み行く見れば(13-3316)
<まそかがみ もてれどわれはしるしなしき みがかちよりなづみゆくみれば>
<<澄み切った鏡を私が持っていても甲斐がありません。あなた様がお歩きになられるときの行き先をお悩みになる姿を見ますと>>
この短歌は詠み人知らずの女歌です。私の解釈ですが,「まそ鏡」は自分の純粋な相手への恋愛感情を表し,「泥み行く」は相手(男)が自分への愛情が定まっているのかどうか分からない状態を指します。
その「泥み行く」状態があまりにひどいため,自分だけが相手の男に対する純粋な愛情を持っていても仕方がないと相手の男に伝え,本気になるよう促そうとしている女性の気持ちを表現している歌だと私は解釈します。
本当は恋路を二人で一緒に手をつないで行きたいのに,なかなかそうならない。それが,昔も今も変わらない恋愛の悩ましいところなのでしょうか。
行く(2)に続く。
関東地方は昨年より1週間以上早く,梅雨があけてしまいました。近所の街路樹に100本ほど植えてある百日紅(サルスベリ)の花は,まだほんの数本しか咲いていません。
また,近くの観光ぶどう園では,急いで袋かけを行っているようです。
写真は今年咲き始めた百日紅の花,一部(奥)のぶどうに袋かけが終わったぶどう畑の様子です。
さて,また動きの詞シリーズに戻り,今回から数回にわたり「行く」を取りあげます。
「行く」を国語辞典で調べると多くの意味が出てきます。万葉集にも次のようないろいろなニュアンスの違いの用例が何か所にも出てきます。
朝行く(あさゆく)…朝に出かける。朝歩く。
天行く(あまゆく)…(月や太陽が)天上を行く。
打ち行く(うちゆく)…ちょっと行く。馬に乗って行く。
離り行く(かりゆく)…離れ行く。
来経行く(きへゆく)…年月が過ぎゆく。
里行く(さとゆく)…里を行く。里を歩く。
去り行く(さりゆく)…(季節などが)移り巡り行く。
携はり行く(たづさはりゆく)…連れ立って行く。
旅行く(たびゆく)…旅に出て行く。旅行する。たびたつ。
尋め行く(とめゆく)…尋ねて行く。
鳴き行く(なきゆく)…(鳥,獣などが)鳴きながら飛んでいく(彷徨う)。
泥み行く(なづみゆく)…行き悩みながら行く。
更け行く(ふけゆく)…夜が深くなって行く。
二行く(ふたゆく)…二心がある。心が両方に通う。二度繰り返す。
道行く(みちゆく)…道を行く。旅をする。
山行く(やまゆく)…山に登る。山の中を行く。
前に付く言葉によって「行く」の意味が微妙に異なっていることが分かるでしょうか。万葉時代から「行く」はいくつもの意味合いで使われてきた言葉と言えそうです。
「行く」がさまざまな意味合いを万葉時代から持っていた理由として,私はいろいろな言葉と連なって使われてきたからかもしれないのでは?と考えています。当時から「行く」という言葉は単に人がどこかに行くことのみを指しているのではなく,広い概念を持つ抽象的な言葉だったのだろうとも私は感じます。
具体的期用例を万葉集に出てくる短歌で見てみましょう。
うつせみの世やも二行く何すとか妹に逢はずて我がひとり寝む(4-733)
<うつせみの よやもふたゆく なにすとか いもにあはずて わがひとりねむ>
<<世の中を二度繰り返すことができるなどありはしない。どうして貴女と逢わないで私独りで寝ることができるだろうか>>
この短歌は大伴家持が 坂上大嬢に対して送った恋の歌です。「二行く」とは「二度繰り返す」という意味で使われています。結構激しく恋情を表した恋の歌だと私は思います。
まそ鏡持てれど我れは験なし君が徒歩より泥み行く見れば(13-3316)
<まそかがみ もてれどわれはしるしなしき みがかちよりなづみゆくみれば>
<<澄み切った鏡を私が持っていても甲斐がありません。あなた様がお歩きになられるときの行き先をお悩みになる姿を見ますと>>
この短歌は詠み人知らずの女歌です。私の解釈ですが,「まそ鏡」は自分の純粋な相手への恋愛感情を表し,「泥み行く」は相手(男)が自分への愛情が定まっているのかどうか分からない状態を指します。
その「泥み行く」状態があまりにひどいため,自分だけが相手の男に対する純粋な愛情を持っていても仕方がないと相手の男に伝え,本気になるよう促そうとしている女性の気持ちを表現している歌だと私は解釈します。
本当は恋路を二人で一緒に手をつないで行きたいのに,なかなかそうならない。それが,昔も今も変わらない恋愛の悩ましいところなのでしょうか。
行く(2)に続く。
2011年7月7日木曜日
天の川特集(3:まとめ)‥「七夕」はビジネスチャンス?
万葉集で,山上憶良と大伴家持とは別に「天の川」や「七夕」に関して詠まれた和歌は,ほとんどが巻10に詠み人知らずの和歌として掲載されています。
これは万葉集の編者(家持)が,ただ集めたら偶然その巻にしかなかったというのではなく,意図的に(強い意志を込めて)配置したものと私は考えています。
大伴氏は旅人の時代以前から各地に大きな農園(平安時代に荘園と呼ばれたようなもの)を持っていて,さまざまな農作物(含む中国,朝鮮伝来作物)を植え,それらや,またその加工品(養蚕,製紙,酒造なども含む)を作って,また売って,富を得ていたのではないかと私は想像します。
そのため,大伴氏一族は経済的には比較的豊かで,昔からの名家としてのプライドは高かったこともあり,権力の座にどんな汚い手段を使ってでも執着することに,それほど興味がなかったのかも知れません。
<七夕は今で言えばバレンタインデー見ないなもの?>
それよりも,七夕などのような行事で,願いが叶うような供物としての野菜や花木,その加工品などを流行らせることができれば,大農園や関連手工業を営んでいる大伴氏にとって,安定的な消費が期待でき,ビジネスとして計画的な経営が行えます。
現在も,母の日にはカーネーション,クリスマスにはモミの木やポインセチア,冬至にはユズ湯,夏至にはショウブ湯,正月には松飾り,花まつりには甘茶,桃の節句には雛あられ,端午の節句には柏餅などなど,関係する生産者はその時の消費を当てこんで生産計画を立てています。
また,バレンタインデー,ホワイトデーなど,従来日本には存在しなかった外国の習慣を新たに流行させ,プレゼントなどに使う製品の消費を格段に高めようとする関係業界の経営戦術も見受けられます。
<七夕を流行らせようとした憶良と家持?>
実は憶良(遣唐使で得た知識によって大伴氏の助言役だった?)や家持が,天の川や七夕の和歌を詠み,またみんなに詠ませる機会を作り,七夕を流行させようとしたのではないかと私は想像するのです。
では,七夕(今の八月上旬)でどんなものが消費されるのか,万葉集の七夕の和歌を見て考えてみます。
天の川霧立ち上る織女の雲の衣のかへる袖かも(10-2063)
<あまのがはきりたちのぼる たなばたのくものころもの かへるそでかも>
<<天の川に霧が立ち昇っている。織女の雲の衣の風にひるがえる袖のようだ>>
織姫は長い袖を持った服装であることがこの短歌でイメージされ,意中の男性からの妻問いを待つ女性は,このような長い袖をもつ服装を着て,紐を解き,寝床で待っていたのかも知れません。
男性の方も妻問いをするときは,七夕伝説の牽牛のような出で立ちで,女性の家まで夜路を行ったと思われます。
すなわち,七夕のときはいつもと違う服装で逢瀬を迎える訳ですから,七夕は男も女も妻問いのために服装を新調する一大イベントだったのかも知れません(今でいえは夏に浴衣を新調するように)。当時,機織や裁縫は身内や自分でやるとしても,機織のために生糸や染色のための植物などの需要は確実に増えます。
繰り返しになりますが,七夕伝説を利用して男女の出会いを演出することを流行らせれば,この時期の前に確実に織物が盛んになり,生糸や染め物の材料の需要が増すはずです。
他に需要を増やすものがありそうな短歌があります。
天の川波は立つとも我が舟はいざ漕ぎ出でむ夜の更けぬ間に(10-2059)
<あまのがは なみはたつとも わがふねは いざこぎいでむ よのふけぬまに>
<<天の川に荒波が立とうとも,いざこの舟を漕ぎ出そう。あの娘と逢える一年で一日だけのこの夜が更けてしまわないうちに>>
この短歌は,七夕の節会で詠まれた短歌だと私は思います。歌会を伴う七夕の節会があちこちで広がると,当然ですが酒や肴の消費が増えます。この短歌の作者は酒の勢いで,この歌を詠んでいるように私には感じ取れます。
また,歌会で詠んだ歌を書く,木簡や当時超高級品だった和紙も多く使われたのではないでしょうか。節会が終わった後,妻問いする相手に作った和歌を書いて渡したことも考えられます。
天の川 「たびとはん。ところで,このブログもワイのお陰で人気が沸騰しているやんか。ワイの『天の川』ブランドの高級ドレス,シューズ,バッグ,小物なんかを通販やブティックで大々的に売りだしてな,ひと儲けしよやんか。」
この特集は「天の川」特集で「天の川君」の特集ではないと言ったのに,君はやっぱり最後に出しゃばってきたな。
確かに,最近このブログは以前に比べてかなり多くの方に見て頂いているけれど,それが君の人気のお陰だとは..ね? それに「天の川」はいろいろな製品でとっくに商標登録されいるから「天の川」プランドも残念ながら無理だね。
まあ,天の川君の夢物語には付き合わず,天の川特集はこれくらいにし,次回からはまた動きの詞シリーズに戻りましょう。今回の「天の川」特集,多くの方のご愛読をいただき,ありがとうございました。
動きの詞シリーズ…行く(1)に続く。
これは万葉集の編者(家持)が,ただ集めたら偶然その巻にしかなかったというのではなく,意図的に(強い意志を込めて)配置したものと私は考えています。
大伴氏は旅人の時代以前から各地に大きな農園(平安時代に荘園と呼ばれたようなもの)を持っていて,さまざまな農作物(含む中国,朝鮮伝来作物)を植え,それらや,またその加工品(養蚕,製紙,酒造なども含む)を作って,また売って,富を得ていたのではないかと私は想像します。
そのため,大伴氏一族は経済的には比較的豊かで,昔からの名家としてのプライドは高かったこともあり,権力の座にどんな汚い手段を使ってでも執着することに,それほど興味がなかったのかも知れません。
<七夕は今で言えばバレンタインデー見ないなもの?>
それよりも,七夕などのような行事で,願いが叶うような供物としての野菜や花木,その加工品などを流行らせることができれば,大農園や関連手工業を営んでいる大伴氏にとって,安定的な消費が期待でき,ビジネスとして計画的な経営が行えます。
現在も,母の日にはカーネーション,クリスマスにはモミの木やポインセチア,冬至にはユズ湯,夏至にはショウブ湯,正月には松飾り,花まつりには甘茶,桃の節句には雛あられ,端午の節句には柏餅などなど,関係する生産者はその時の消費を当てこんで生産計画を立てています。
また,バレンタインデー,ホワイトデーなど,従来日本には存在しなかった外国の習慣を新たに流行させ,プレゼントなどに使う製品の消費を格段に高めようとする関係業界の経営戦術も見受けられます。
<七夕を流行らせようとした憶良と家持?>
実は憶良(遣唐使で得た知識によって大伴氏の助言役だった?)や家持が,天の川や七夕の和歌を詠み,またみんなに詠ませる機会を作り,七夕を流行させようとしたのではないかと私は想像するのです。
では,七夕(今の八月上旬)でどんなものが消費されるのか,万葉集の七夕の和歌を見て考えてみます。
天の川霧立ち上る織女の雲の衣のかへる袖かも(10-2063)
<あまのがはきりたちのぼる たなばたのくものころもの かへるそでかも>
<<天の川に霧が立ち昇っている。織女の雲の衣の風にひるがえる袖のようだ>>
織姫は長い袖を持った服装であることがこの短歌でイメージされ,意中の男性からの妻問いを待つ女性は,このような長い袖をもつ服装を着て,紐を解き,寝床で待っていたのかも知れません。
男性の方も妻問いをするときは,七夕伝説の牽牛のような出で立ちで,女性の家まで夜路を行ったと思われます。
すなわち,七夕のときはいつもと違う服装で逢瀬を迎える訳ですから,七夕は男も女も妻問いのために服装を新調する一大イベントだったのかも知れません(今でいえは夏に浴衣を新調するように)。当時,機織や裁縫は身内や自分でやるとしても,機織のために生糸や染色のための植物などの需要は確実に増えます。
繰り返しになりますが,七夕伝説を利用して男女の出会いを演出することを流行らせれば,この時期の前に確実に織物が盛んになり,生糸や染め物の材料の需要が増すはずです。
他に需要を増やすものがありそうな短歌があります。
天の川波は立つとも我が舟はいざ漕ぎ出でむ夜の更けぬ間に(10-2059)
<あまのがは なみはたつとも わがふねは いざこぎいでむ よのふけぬまに>
<<天の川に荒波が立とうとも,いざこの舟を漕ぎ出そう。あの娘と逢える一年で一日だけのこの夜が更けてしまわないうちに>>
この短歌は,七夕の節会で詠まれた短歌だと私は思います。歌会を伴う七夕の節会があちこちで広がると,当然ですが酒や肴の消費が増えます。この短歌の作者は酒の勢いで,この歌を詠んでいるように私には感じ取れます。
また,歌会で詠んだ歌を書く,木簡や当時超高級品だった和紙も多く使われたのではないでしょうか。節会が終わった後,妻問いする相手に作った和歌を書いて渡したことも考えられます。
天の川 「たびとはん。ところで,このブログもワイのお陰で人気が沸騰しているやんか。ワイの『天の川』ブランドの高級ドレス,シューズ,バッグ,小物なんかを通販やブティックで大々的に売りだしてな,ひと儲けしよやんか。」
この特集は「天の川」特集で「天の川君」の特集ではないと言ったのに,君はやっぱり最後に出しゃばってきたな。
確かに,最近このブログは以前に比べてかなり多くの方に見て頂いているけれど,それが君の人気のお陰だとは..ね? それに「天の川」はいろいろな製品でとっくに商標登録されいるから「天の川」プランドも残念ながら無理だね。
まあ,天の川君の夢物語には付き合わず,天の川特集はこれくらいにし,次回からはまた動きの詞シリーズに戻りましょう。今回の「天の川」特集,多くの方のご愛読をいただき,ありがとうございました。
動きの詞シリーズ…行く(1)に続く。
2011年7月2日土曜日
天の川特集(2)‥憶良・家持は「七夕」通?
貧窮問答歌や家族愛を詠った優れた歌人山上憶良は,遣唐使の経験から仏教や中国の律令制度などさまざまな知識をもった学者肌の人であったと私は思います。
その憶良が万葉集で詠っている七夕の和歌は,長歌1首,短歌11首の計12首あります。
万葉集で七夕の和歌を同じく長歌1首,短歌12首の計13首を詠っているもうひとりの歌人がいます。それは大伴家持です。
このほかに万葉集では100首ほどの七夕の和歌が出てきますが,ほとんどが詠み人知らずの和歌です。
憶良と家持の七夕の和歌を見比べてみましょう。まず,憶良が詠んだ短歌です。
天の川相向き立ちて我が恋ひし君来ますなり紐解き設けな(8-1518)
<あまのがはあひむきたちて あがこひしきみきますなり ひもときまけな >
<<天の川に向き合って立ってる私の恋しいあの方がいらっしゃいます。紐をほどいて寝所の準備をしましょう>>
次に家持が詠んだ類似部分のある短歌を紹介します。
秋風に今か今かと紐解きてうら待ち居るに月かたぶきぬ(20-4311)
<あきかぜに いまかいまかとひもときて うらまちをるにつきかたぶきぬ>
<< (七夕の)秋風が吹く中、あの方が今にもいらっしゃるかと紐を解)いて心待ちにしているうちに月が傾いてしまいました>>
憶良も家持も,ともに七夕に牽牛(彦星)が天の川を渡ってやってくるのを待っている織女(織姫星)の立場で詠んでいます。
憶良は牽牛が来る準備をルンルン気分で行っている織女,家持は待てども来ない牽牛に今年は来ないのかなと半ばあきらめかけている織女の気持ちを詠んでいます。
もうひと組,憶良と家持の七夕の短歌を比較してみましょう。こちらも憶良から。
袖振らば見も交しつべく近けども渡るすべなし秋にしあらねば(8-1525)
<そでふらば みもかはしつべく ちかけども わたるすべなし あきにしあらねば>
<<袖を振れば、お互い見交わすこともできるほど近いけれど、(天の川を)渡るすべがない。(七夕の)秋でないので>>
次に家持の短歌です。
天の川橋渡せらばその上ゆもい渡らさむを秋にあらずとも(18-4126)
<あまのがは はしわたせらば そのへゆも いわたらさむを あきにあらずとも>
<<天の川に橋が渡してあったなら、その上を通って渡っていらっしゃれるのに、たとえ(七夕の)秋ではなくとも>>
両方とも,七夕の時以外でも逢えること望む気持ちを詠っています。
<家持は憶良の七夕に対する思い入れを引き継いだ?>
私は憶良と家持の七夕の和歌を比較して見て,家持の七夕の和歌の多くは憶良の七夕を詠んだ12首の和歌を意識しつつ詠んでいたのではないかと思いたくなります。
憶良と家持の接点は,家持の父大伴旅人が大宰府の長官であった時,憶良は旅人の歌友として筑紫歌壇を形成した主要歌人のひとりとなっていたことに端を発するのではないかと私は考えます。
旅人は家持を大宰府に呼び寄せた可能性が高く,その時10歳足らずの家持と憶良との出会いがあったのだろうと私は想像します。
ここで,家持は父旅人と憶良から和歌に関する英才教育を受けたのかもしれません。
上でも紹介した天平元年7月7日と同2年7月8日に憶良が詠んだ七夕の和歌12首は,家持に七夕について大きな興味を抱かせた可能性がありそうです。
また,旅人が大納言になって帰京した後も,憶良は奈良で晩年の旅人を訪れ,歌論に花を咲かせたと想像できます。
青年家持は父旅人没後も憶良が主催する歌人サークル(七夕伝説も題材にしていた?)にたびたび参加して,作歌の他流試合をやった可能性があるのではないでしょうか。
憶良が編んだととされる「類聚歌林」(現存せず)には,きっと七夕の和歌がたくさん載っていたと私は想像します。
憶良没後(天平5年頃)も家持は憶良が詠った和歌を大切に保管し,憶良の歌風を参考に,当時「七夕」研究の第一人者だった憶良にも増して「七夕」について詳しく研究し,広めようとしたのではないかと私は考えます。
家持が「七夕」通であることを後世も知っていて,次の百人一首の一首が家持作とされる理由がこれで少し見えてくるような気がします。
鵲(かささぎ)の渡せる橋の 置く霜の白きを見れば 夜ぞ更けにける(百人一首6:中納言家持)
<<七夕に牽牛と織女を逢わせるために天の川にできる鵲の橋(逢瀬の橋)に冬霜が降って白く光っているのを見ると夜が更けてきたんだなあ>>
天の川特集(3:まとめ)に続く。
その憶良が万葉集で詠っている七夕の和歌は,長歌1首,短歌11首の計12首あります。
万葉集で七夕の和歌を同じく長歌1首,短歌12首の計13首を詠っているもうひとりの歌人がいます。それは大伴家持です。
このほかに万葉集では100首ほどの七夕の和歌が出てきますが,ほとんどが詠み人知らずの和歌です。
憶良と家持の七夕の和歌を見比べてみましょう。まず,憶良が詠んだ短歌です。
天の川相向き立ちて我が恋ひし君来ますなり紐解き設けな(8-1518)
<あまのがはあひむきたちて あがこひしきみきますなり ひもときまけな >
<<天の川に向き合って立ってる私の恋しいあの方がいらっしゃいます。紐をほどいて寝所の準備をしましょう>>
次に家持が詠んだ類似部分のある短歌を紹介します。
秋風に今か今かと紐解きてうら待ち居るに月かたぶきぬ(20-4311)
<あきかぜに いまかいまかとひもときて うらまちをるにつきかたぶきぬ>
<< (七夕の)秋風が吹く中、あの方が今にもいらっしゃるかと紐を解)いて心待ちにしているうちに月が傾いてしまいました>>
憶良も家持も,ともに七夕に牽牛(彦星)が天の川を渡ってやってくるのを待っている織女(織姫星)の立場で詠んでいます。
憶良は牽牛が来る準備をルンルン気分で行っている織女,家持は待てども来ない牽牛に今年は来ないのかなと半ばあきらめかけている織女の気持ちを詠んでいます。
もうひと組,憶良と家持の七夕の短歌を比較してみましょう。こちらも憶良から。
袖振らば見も交しつべく近けども渡るすべなし秋にしあらねば(8-1525)
<そでふらば みもかはしつべく ちかけども わたるすべなし あきにしあらねば>
<<袖を振れば、お互い見交わすこともできるほど近いけれど、(天の川を)渡るすべがない。(七夕の)秋でないので>>
次に家持の短歌です。
天の川橋渡せらばその上ゆもい渡らさむを秋にあらずとも(18-4126)
<あまのがは はしわたせらば そのへゆも いわたらさむを あきにあらずとも>
<<天の川に橋が渡してあったなら、その上を通って渡っていらっしゃれるのに、たとえ(七夕の)秋ではなくとも>>
両方とも,七夕の時以外でも逢えること望む気持ちを詠っています。
<家持は憶良の七夕に対する思い入れを引き継いだ?>
私は憶良と家持の七夕の和歌を比較して見て,家持の七夕の和歌の多くは憶良の七夕を詠んだ12首の和歌を意識しつつ詠んでいたのではないかと思いたくなります。
憶良と家持の接点は,家持の父大伴旅人が大宰府の長官であった時,憶良は旅人の歌友として筑紫歌壇を形成した主要歌人のひとりとなっていたことに端を発するのではないかと私は考えます。
旅人は家持を大宰府に呼び寄せた可能性が高く,その時10歳足らずの家持と憶良との出会いがあったのだろうと私は想像します。
ここで,家持は父旅人と憶良から和歌に関する英才教育を受けたのかもしれません。
上でも紹介した天平元年7月7日と同2年7月8日に憶良が詠んだ七夕の和歌12首は,家持に七夕について大きな興味を抱かせた可能性がありそうです。
また,旅人が大納言になって帰京した後も,憶良は奈良で晩年の旅人を訪れ,歌論に花を咲かせたと想像できます。
青年家持は父旅人没後も憶良が主催する歌人サークル(七夕伝説も題材にしていた?)にたびたび参加して,作歌の他流試合をやった可能性があるのではないでしょうか。
憶良が編んだととされる「類聚歌林」(現存せず)には,きっと七夕の和歌がたくさん載っていたと私は想像します。
憶良没後(天平5年頃)も家持は憶良が詠った和歌を大切に保管し,憶良の歌風を参考に,当時「七夕」研究の第一人者だった憶良にも増して「七夕」について詳しく研究し,広めようとしたのではないかと私は考えます。
家持が「七夕」通であることを後世も知っていて,次の百人一首の一首が家持作とされる理由がこれで少し見えてくるような気がします。
鵲(かささぎ)の渡せる橋の 置く霜の白きを見れば 夜ぞ更けにける(百人一首6:中納言家持)
<<七夕に牽牛と織女を逢わせるために天の川にできる鵲の橋(逢瀬の橋)に冬霜が降って白く光っているのを見ると夜が更けてきたんだなあ>>
天の川特集(3:まとめ)に続く。
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