私はまだ富士山頂に登ったことがありません。万葉歌人で唯一富士山頂まで登った可能性があるのは次の万葉集の東歌の作者だけでしょうか。
富士の嶺のいや遠長き山道をも妹がりとへばけによばず来ぬ(14-3356)
<ふじのねの いやとほながき やまぢをも いもがりとへば けによばずきぬ>
<<富士山頂までのとっても長い山道でも、お前のところへと思えば、息も切らせずに来れたんだぜ>>
私が初めてこの目で富士山を見たのは小学5年生の1月下旬でした。京都から国鉄在来線団体夜行列車に乗り,富士駅でバスに乗り換え,富士宮市の寺院に参詣に行ったのが初めてです。
前々回の投稿でも書きましたが,我が家や親戚では,正月小倉百人一首の歌留多取りを毎年のようにやっていました。
当然次の百人一首山部赤人の短歌を知っていましたので,行く前から富士山を見るのが本当に楽しみだったのです。
田子の浦にうち出でてみれば白妙のふじのたかねに雪はふりつつ(百人一首4:赤人)
<<田子の浦に出て富士を見ると、白妙のように真っ白に見える富士の高嶺には雪が繰り返し降り重なったからでしょう>>
富士宮から見た冬の快晴の富士山は一般によく描かれているような山頂付近が平らではなく,少しとがって見えました。富士山西側にある大澤崩れもハッキリ見え,全体としては非常に美しい優雅な富士山だけど,荒々しい一面を見ることができ感動しました。
また,今はない富士山レーダー(2001年撤去)のドームが冬晴れの朝日が当って,雪煙りが飛ぶ中,ハッキリ見えました。ちなみに,当時私は両眼とも視力2.0でした。
さて,万葉集でも富士山が詠われていることを多くの方がご存知だと思います。それは,次の山部赤人の短歌をご存知だからではないでしょうか。
田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける(3-318)
<たごのうらゆ うちいでてみれば ましろにぞ ふじのたかねに ゆきはふりける>
<<田子の浦を通って富士が見える場所にでると、おお真っ白だ!富士の高嶺には雪が降ったのだなあ>>
百人一首の短歌(新古今和歌集に収録)は,山部赤人ではなく後の人がアレンジしたのだと一般的に言われていますが,私にはあまり興味がないテーマです。万葉集の巻3-318の短歌でさえ赤人本人のオリジナルかどうか確実に証明できるものは何もありません。
ところで,万葉集で富士が入っている和歌は,上記赤人の短歌を含め11首ほどあります(実は,数え方で少し数が変わります)。ただ,その出現は非常に偏っています。巻3,巻11,巻14にしか富士は出てこないのです。
それも,巻3は317~321の連続した5首で,前の2首は赤人,後ろの3首は高橋虫麻呂が詠んだ長歌,短歌と言われています。
巻5は2695,2697の2首で間に別地名を詠んだ短歌はありますが,非常に近い場所に配置されてる詠み人知らず短歌です。
また,巻14も3355~3358の連続した4首で,すべて詠み人知らずの東歌です。
このように見てみると,富士山が万葉時代一般には知られていない様子がうかがえます。
どちらかと言うと,遠州(とほたふみ)の駿河(するが),甲斐(かひ)の間に富士山と言う非常に高くて美しい山があること,東国人は富士を題材に短歌をつくっていることを都人に教える目的で万葉集に収録したとの編者の意図を私は感じます。
平安初期の伊勢物語の東下りの部分で,旧暦5月の富士山について次のように短歌を残し,この短歌の後の文で,少し誇張した表現ですが比叡山の20倍の高さだと書いています。
時知らぬ 山は富士の嶺 いつとてか 鹿の子まだらに 雪の降るらむ(伊勢9段)
<<季節を選ばない山は富士山。いつもでも(旧暦5月でも),鹿の子供の毛色のようなまだら模様に雪が積もっている>>
同じく平安前期に創作されたという竹取物語の最後では,月に帰って行くかぐや姫が帝(みかど)に残した不老不死の薬と天の羽衣を駿河で一番高い富士山で燃やしたという部分があります。
どちらも,富士山を珍しい山だということを都人に知らせる役割をしたのは間違いないでしょう。
東京近辺に住みだしてからの私は,車で富士山の5合目まで登ったり,富士五湖をはじめ,何度も周辺の名所に足を運んだりしています。雰囲気の良い場所がいっぱいありますね。
また,朝の通勤では,今時分の冬の晴れた日に武蔵野線新座駅・東所沢駅間で(数十秒間だけ)見られる富士山の遠景を楽しんでいるこの頃です。
私の接した歌枕(4:伊香保)に続く
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