2018年6月24日日曜日

続難読漢字シリーズ(30)…常磐(ときは)

今回は「常磐(ときは)」について万葉集をみていきます。現代では,常磐は「ときわ」または音読みで単に「じょうばん」と読み,意味として,常陸の国と磐城の国の併称,福島県いわき市,その地域の施設(常磐公園=偕楽園)や史跡(常磐神社=偕楽園内にある水戸光圀を祀る神社)を指す言葉として使われているようです。
しかし,万葉集では別のいくつかの意味で詠まれています。
最初に紹介するのは,山上憶良が世の無常を神亀5(728)年7月21日に太宰府で詠んだとされる短歌です。

常磐なすかくしもがもと思へども世の事なれば留みかねつも(5-805)
<ときはなすかくしもがもと おもへども よのことなればとどみかねつも>
<<大きな岩のようにいつまでも変わらずにいて欲しいと思いたいが,世の中のことはひと時も変わらないことがない>>

憶良は仏教の無常観から「無常」の反対語として「常磐」という言葉を使い,この短歌を詠んだのだろうと私は思います。
人間は「常磐」のように絶対的に変化しない状態(真実は一つ)がいつまでも続いてほしいと願うものである。その絶対的なものにすがることが安心・安寧な幸せな人生だと考える人が多いが,世の中は「生老病死」という苦悩が常にいろいろな形で予断無くやってきて,それを許してくれないと。
ところで,万葉時代は「生老病死」の苦悩の中でも「老病死」の比率が高かったと想像できます。ただ,今の時代では「生きる」の苦悩の比率が高いのかも知れません。
人間関係の悪化,他人との比較での落胆,人生の目的や夢の喪失,仕事のスキルアンマッチなどにより,社会の中で「生きる」こと自体が苦しいと感じ,場合によっては精神疾患になる人が少なくない現代社会になっているような気がします。
「これだけをやっておけば大丈夫」というもの(宣伝文句によく使われる?)を求め,面倒なことを避けたり,今やるべきことを先送りしていた結果,あるとき「こんなはずではなかった」と気が付いてしまうのです。その失敗を繰り返し,(悪いのは他人だと思いつつも)失敗の後悔が重なることで「生きる」苦悩が強くなり,「生きている今の自分」を「その自分」が責め,苦しめることになってしまうのです。そして,自殺を選んだ人の中にはそんな「生きている自分」に対し,自分自身が作る苦悩に耐えられなくなった人も多いのでしょうか。
私は,世の中は無常(常に変化するもの)が前提と考え,常に状況の変化を注視し,先の変化を的確に予測できる能力を磨いていく努力が,「生きる」苦悩を乗り越え,「生きる」楽しさを得る有効な道の一つだと考えています。
さて,次に紹介するのは,常緑樹の橘の葉を形容として「常磐」を使い,大伴家持が高岡で元正(げんしやう)上皇崩御を悼み,その後見役の橘諸兄(たちばなのもろえ)に期待する短歌です。

大君は常磐にまさむ橘の殿の橘ひた照りにして(18-4064)
<おほきみはときはにまさむ たちばなのとののたちばな ひたてりにして>
<<太上天皇は常磐の橘の葉ようにそのお力は不変です。橘様の橘もいつも照り輝き続けています>>

京では藤原仲麻呂(ふぢはらのなかまろ)の力が増大し,強引なやり方をセーブする役割として諸兄にいつまでも(常磐に)期待している家持の気持ちが表れた短歌だと私は感じます。
最後に紹介するのは,同じく家持が天平宝字2(758)年2月に式部大輔(しきぷのたいふ)中臣清麻呂朝臣(なかとみのきよまろあそみ)宅の宴で,変わらぬ結束の誓いを詠んだ短歌です。

八千種の花は移ろふ常盤なる松のさ枝を我れは結ばな(20-4501)
<やちくさのはなはうつろふ ときはなるまつのさえだを われはむすばな>
<<いろんな花がありますが,みないずれ色あせてしまいますが,いつまでも変わらぬ色の葉を持つ松の枝のように私たちは友情を結び合いましょう>>

家持より10歳以上年上だが将来は大臣になると目される清麻呂との関係を強く持ちたいという家持の思いがこの短歌から読み取れます。この10年余り後,家持が光仁朝になって昇進を速めるのですが,その当時清麻呂は右大臣に昇進していたのです。家持の期待通り,清麻呂と家持の関係は比較的良かったのではないかと私は思います。
ところで,広辞苑で「常磐」を引いてみると,この3首が3つの意味の違いの用例として出ているのです。約1300年前に「ときは」という言葉が,どのような異なる意味で使われていたかを万葉集はそれぞれ別用例で示してくれているのです。
万葉集は,五十音順などの並び順でないことを気にしなければ,まるで当時の日本語(ヤマト言葉)の辞書か文法書のような目的で編纂されたのではないかと感じてしまう私がいます。
(続難読漢字シリーズ(31)につづく)

2018年6月14日木曜日

続難読漢字シリーズ(29)…黄楊(つげ)

今回は「黄楊(つげ)」について万葉集をみていきます。「黄楊」は植物の名前です。小さな丸みのある葉の常緑樹で。丸い形に剪定して庭木などにします。私の庭にもまだ幼木ですが植えています。
ツゲは漢字で「柘植」とも書きますが,万葉集の万葉仮名ではツゲを詠んだすべての和歌で「黄楊」が使われています。「柘植」は三重県などに地名としてありますので読める人も結構いらっしゃるかも知れませんが,「黄楊」はなかなかの難読漢字でしょうか。
さて,最初に紹介するのは,播磨地方(今の兵庫県)に着任していた役人の石川大夫が京に選任され(帰任),地元を離れるときに地元の娘子が別れを惜しんで贈ったされる短歌です。

君なくはなぞ身装はむ櫛笥なる黄楊の小櫛も取らむとも思はず(9-1777)
<きみなくはなぞみよそはむ くしげなるつげのをぐしも とらむともおもはず>
<<あなた様が京に帰られたたら,私は身を装いましょうか。化粧箱の黄楊の櫛を取ろうとさえ思いませんわ>>

黄楊の幹は非常に硬く,櫛の歯のような細い切り込み加工をしても,歯が折れたりすることがすくなく,万葉時代から櫛の材料として非常に重宝されていたのです。高級なツゲの櫛ももう使う必要なくなりましたという歌意でしょう。
なお,今でも国産のツゲの木で作った櫛は,最高級品で2万円以上していそうですが,それでも購入して利用する人がいるようです。
次に紹介するのは,柿本人麻呂歌集に出ていたという,黄楊の枕を詠んだ短歌です。

夕されば床の辺去らぬ黄楊枕何しか汝れが主待ちかたき(11-2503)
<ゆふさればとこのへさらぬ つげまくらなにしかなれが ぬしまちかたき>
<<夕方になると夜床の傍らから離しはしないぞ黄楊の枕よ。何か彼女を夢に見させておくれ>>

黄楊の木を細かくしたものの角を削り丸くしたチップを枕に入れると,頭に当てて寝返りをするとサラサラと音がして気持ちが良かったのかも知れませんね。今でも,木片やプラスチックのチップ,そば殻などを枕の中に入れたものが売られています。
最後に紹介するのは,やはり黄楊の櫛に関するものですが,黄楊の産地が分かるものです。

朝月の日向黄楊櫛古りぬれど何しか君が見れど飽かざらむ(11-2500)
<あさづきのひむかつげくし ふりぬれどなにしかきみが みれどあかざらむ>
<<日向の黄楊櫛は使い古して古くなりましたが,どうしてあなたはいつ見ても見飽きないのでしょう>>

日向(ひむか)はどこの場所か私は知りませんが,良い櫛の材料となる黄楊の木がたくさん生えていて,日向黄楊櫛は万葉時代長持ちする櫛の高級ブランドだったのかも知れません。
(続難読漢字シリーズ(30)につづく)

2018年6月6日水曜日

続難読漢字シリーズ(28)…搗く(つく)

今回は「搗く(つく)」について万葉集をみていきます。意味は杵(きね)や棒の先で打って押しつぶす動作です。「餅を杵で搗く」「戦時中の疎開先で,一升瓶に入れた玄米を棒で搗いて白米にした」といった使い方をします。
最初に紹介するのは東歌で「搗く」がでくるものです。

おしていなと稲は搗かねど波の穂のいたぶらしもよ昨夜ひとり寝て(14-3550)
<おしていなといねはつかねど なみのほのいたぶらしもよ きぞひとりねて>
<<強いて嫌だと思って稲を搗いてあなたを待っていたのではないのよ。せっかく搗いたのに搗く前の稲穂が揺れるように心が不安定になっているの。昨夜はひとりで寝ることになってしまったから>>

何もしないで彼が来るのを待っているのは,時間の流れが遅いので,辛い力仕事だけど稲を搗いて待っていた彼女たけれど,結局来てくれなくて昨晩は一人で寝ることになった。搗く前の稲穂のように心がゆれ「待っている時間にやっていた稲を搗いた作業が無駄になったのよ」という彼女の気持ちが私には伝わってきますね。
次に紹介するのは,過去のブログでも何回か紹介している短歌です。

醤酢に蒜搗きかてて鯛願ふ我れにな見えそ水葱の羹(16-3829)
<ひしほすにひるつきかてて たひねがふわれになみえそ なぎのあつもの>
<<醤に酢を入れ,蒜を潰して和えた鯛の膾(なます)を食べたいと願っている私に,頼むからミズアオイの葉っぱしか入っていない熱い吸い物を見せないでくれよ>>

この短歌の説明は2009年11月15日の投稿をご覧ください。前半の部分は「なめろう」のような料理をイメージしている料理だったのでしょうか。期待していたその料理が出ずに,〆の吸い物が出そうなので,作者は非常に残念がっている表現力に私は感心します。
さて,最後に紹介するのは,長歌の一部です。

~ 天照るや日の異に干し さひづるや韓臼に搗き 庭に立つ手臼に搗き ~(16-3886)
<~ あまてるやひのけにほし さひづるやからうすにつき にはにたつてうすにつき ~>
<<~ 日ごとに干して,韓臼で搗き,庭に据えた手臼で搗いて粉にし ~>>

干した蟹を粉々にするために搗く部分です。なんでそんなことをするのかは,2015年3月1日の投稿で詳しく私の考察を述べています。
この長歌全体を是非見てほしいと私はお薦めします。
(続難読漢字シリーズ(29)につづく)

2018年5月30日水曜日

続難読漢字シリーズ(27)…官(つかさ)

今回は「官(つかさ)」について万葉集をみていきます。同様の意味で「つかさ」と読む漢字は「司」「寮」というものもあります。意味は,役所や官庁,官職,役人などの意味で万葉集では使われています。
最初に紹介するのは,禁酒令を今晩は許してほしいという詠み人しらずの短歌です。敢て作者名を隠しているのかも知れませんね。

官にも許したまへり今夜のみ飲まむ酒かも散りこすなゆめ(8-1657)
<つかさにもゆるしたまへり こよひのみのまむさけかも ちりこすなゆめ>
<<お上からお許しが出たぞ。今夜だけ飲める酒になってしまうのか。梅の花よ散らないほしい>>

万葉時代の花見といえば「梅見」です。禁酒令が出ているのですが,梅の花が咲いているときの「梅見」では多少飲んでも良いということになっていたのでしょうか。それとも,「きっと許してくれるに違いない」と勝手な解釈をして詠んだのかも。
明日も飲みたいから,名残の梅の花は散らないでほしいという酒好きの偽らざる気持ちをストレートに詠んだに違いないと私は思います。
さて,日本人が比較的寛容な民族なのは,移ろいゆく季節の変化と実は関係があるような気がします。季節の変化で長く同じ状態が続かないのだから,たとえば花見ができる今の時期だけは少し大目にみてあげようという気持ちになるというのがこの持論です。
次に紹介するのは,大宰府で山上憶良が対馬海峡で水難に遭い亡くなった志賀白水郎という船人を悼んで詠んだ10首の和歌の中の1首です。

官こそさしても遣らめさかしらに行きし荒雄ら波に袖振る(16-3964)
<つかさこそさしてもやらめ さかしらにゆきしあらをら なみにそでふる>
<<お役所の仕事なら命じて遣わすだろうけれど,自らの意思で海に出たあの勇者たち,波をものともせず袖を振っていた>>

本当は,お役所が責任をもってやるべき危険な仕事を民間の若者が買って出て,尊い命を落としてしまった。
現代でも,よく役所が怠慢で住民がケガをしたとか,役所がやらないので善意でやったら勝手なことをしたと訴えられたとか,同じようなことがありそうですね。
為政者による社会の制度は,あくまで全体としての社会システムの効率化に帰する目的で作られますが,法律や規則で規定されている以外のことには役所は手を出そうとしないのは基本的に今も昔も変わらないのかも知れません。
三権分立が確立された現代では,法律の内容や行政の実行不備は立法府や司法によって是正されますが,万葉時代ではなかなか役所は動いてくれなかったのは想像に難くありません。
有識者の憶良なら,そんな制度上の問題も意識して作歌していたのでしょうね。
最後に紹介するのは,天平感宝元(749)年閏(うるふ)5月に越中で大伴家持が詠んだ長歌の冒頭の一部です。

大君の遠の朝廷と 任きたまふ官のまにま み雪降る越に下り来 あらたまの年の五年~(18-4113)
<おほきみのとほのみかどと まきたまふつかさのまにま みゆきふるこしにくだりき あらたまのとしのいつとせ~>
<<天皇に任命された職務の内容により,雪がたくさん降る越中に下って来て5年の間~>>

天平感宝は,天平21年4月14日に改元され,約3か月半後(閏月含む)の天平感宝元年7月2日に天平勝宝に改元されてしまいます。
この短い間に家持は何首もの和歌を詠んでいます。越中にもそういった情報がかなりの早さで伝わり,それを記録しつつ作歌する家持の几帳面さを感じてしまいます。
この長歌は,家持には珍しく「越中のど田舎に5年も住んでもう飽きた」という内容で終わっています。
改元が頻繁に行われるような京の急な動きが気になっているので,のんびりとした越中にいる家持をなおさらそんな気にさせているのでしょうか。
(続難読漢字シリーズ(28)につづく)

2018年5月28日月曜日

続難読漢字シリーズ(26)…衢(ちまた)

今回は「衢(ちまた)」について万葉集をみていきます。同様の意味で「ちまた」と読む漢字は「街」「港」「岐」というものもあります。
「ちまた」が出で来る万葉集の和歌の万葉仮名は意味からとった「街」「衢」が使われています。
そのため,漢字かな交じりでもこの二つの漢字がほぼそのまま使われてきたのかも知れません。今回紹介するのは「衢」の字だけです。
最初に紹介するのは,飛鳥時代の歌人といわれる三方沙弥(みかたのさみ)が園臣生羽(そののおほみいくは)の娘を娶ったが,それほど経たないうちに病に臥したときに作った3首の中の1首です。

橘の蔭踏む道の八衢に物をぞ思ふ妹に逢はずして(2-125)
<たちばなのかげふむみちの やちまたにものをぞおもふ いもにあはずして>
<<橘の木蔭を踏んで行く道が八方に分かれているように思い乱れている。逢いに行くことができずに>>

橘は柑橘系の常緑樹です。万葉時代の街では,街路樹として橘を植え,夏の暑い時でも,分厚い葉で木陰を作って,快適にショッピングや散歩ができるようにしたのではないでしょうか。
木陰を選んで歩きたいが,あまりにも枝が分かれていて,どの枝の影を選べばよいか分からない。妻問に行けない自分の心の乱れは,まさにそんな気持ちだと作者は表現したいのでしょう。
さて,次に紹介するのは,時代は奈良時代の天平11(739)年8月に橘諸兄邸で行われた宴席で,高橋安麻呂が三方沙弥が詠んだ上の巻2の短歌を意識して,故人である豊島采女(とよしまのうねめ)が詠んだとして紹介した短歌のようです。

橘の本に道踏む八衢に物をぞ思ふ人に知らえず(6-1027)
<たちばなのもとにみちふむ やちまたにものをぞおもふ ひとにしらえず>
<<橘の下で道を踏む影が八衢に分かれるように,あれこれと物思いをしてしまう。人に知られもしないで>>

宴席の主人である橘諸兄を意識して,橘様の下で何にお役に立てるか思い悩んでいますという諸兄へのヨイショの気持ちを表した短歌と感じてしまいます。何せ,あくまで宴席で披露された短歌ですからね。
最後に紹介するのは,車持娘子(くるまもちのいらつめ)が病に臥し,臨終のときに,ようやく訪れた夫の前で詠んだとされる長歌の反歌です。

占部をも八十の衢も占問へど君を相見むたどき知らずも(16-3812)
<うらへをも やそのちまたもうらとへど きみをあひむたどきしらずも>
<<占い師を招いたり道の四つ辻占いなど無用です。あの方に逢える手段など知らないのですもの>>

どんな占いに頼ってもだめでしたという諦め感が娘子を襲っています。妻問婚がどれほど妻にとって苦痛の慣習だったか,この和歌を始め万葉集に出てくる多くの妻の和歌から想像できます。
妻はただ待つだけしかできない。できることといえば,夫に和歌を送り,ただひたすら訪ねてきてほしいことを訴えるしかないのです。
夫に別の妻が何人もできたとしても,それを知る由もない。こんな理不尽なことを万葉集は多くの和歌で示しているのです。
しかし,万葉集を研究してきた人は圧倒的に男性が多く,こういった女性の苦痛を広く知らしめることは日本の風習だからとしてスルーされてきたように思います。
つい最近まで,たとえ夫婦が同じ家で暮らすようになっても,夫が外で勤め,妻が夫の帰りを何時になっても待つという専業主婦という標準家庭が前提での制度が残ってきたのです。
万葉集の編者は,律令制度などの当時としては先進的な制度の導入によって発生しうる影の部分も和歌として,客観的にそのまま残そうとしたと私には思えてなりません。
しかし,万葉集は後の為政者や研究者にとって都合よいところだけを秀歌などと称して利用され,ほんの一部の和歌だけでイメージが(編者の意図に反して)後世の人たちの好き嫌いや都合によってゆがめられて形作られてしまっているのです。
私は,これからも万葉集の和歌に優劣を付けず,先入観を排除した万葉集の和歌を情報としてリバーズエンジニアリング(あくまで現物全体から編者の意図解析)を続けていこうと考えています。
(続難読漢字シリーズ(27)につづく)

2018年5月25日金曜日

続難読漢字シリーズ(25)…携ふ(たづさふ)

今回は「携ふ(たづさふ)」について万葉集をみていきます。同伴する,連れ立つ,互いに手を取るといった意味に万葉集では使われています。現代仮名遣いでは「携える(たずさえる)」が多用されます。
最初に紹介するのは,恋人と手を携えて床を共にしたい気持ちを詠んだ詠み人しらずの短歌です。

人言は夏野の草の繁くとも妹と我れとし携はり寝ば(10-1983)
<ひとごとは なつののくさのしげくとも いもとあれとしたづさはりねば>
<<夏野の草が刈ってもすぐ出てくるように他人の噂が五月蠅いけど,お前と私が手をとって寝てしまえばよいのさ>>

この作者,かなりやけっぱちになっていそうですね。彼女の手を携えて,それから共に寝たら,誰が何を言おうと幸せだという願いが伝わってきます。
次に紹介する短歌は,柿本人麻呂歌集に出てくる初冬の紀伊の国の浜辺で詠まれたとされるものです。

黄葉の過ぎにし子らと携はり遊びし礒を見れば悲しも(9-1796)
<もみちばのすぎにしこらと たづさはりあそびしいそを みればかなしも>
<<もみじの葉が散るように死んでしまった子と手を取り合って遊んだ磯を見うると悲しい>>

この作者は,幼いころ遊んだ懐かしい磯に来たが,そのとき手をつないで遊んだ子は今は死んでいない。その悲しさがこみあげて,この短歌を詠んだのでしょうか。
最後に紹介するのは,最愛の妻が亡くなったことに対する夫の慟哭の長歌(作者不詳)です。

天地の神はなかれや 愛しき我が妻離る 光る神鳴りはた娘子 携はりともにあらむと 思ひしに心違ひぬ 言はむすべ 為むすべ知らに 木綿たすき肩に取り懸け 倭文幣を手に取り持ちて な放けそと我れは祈れど 枕きて寝し妹が手本は 雲にたなびく(19-4236)
<あめつちのかみはなかれや うつくしきわがつまさかる ひかるかみなりはたをとめ たづさはりともにあらむと おもひしにこころたがひぬ いはむすべせむすべしらに ゆふたすきかたにとりかけ しつぬさをてにとりもちて なさけそとわれはいのれど まきてねしいもがたもとは くもにたなびく>
<<天地に神が無いのか,愛おしい妻は去ってしまった。光る神のような美しい機織り娘だった。手に手を取って共に生きようと思ったのに願いは通じなかった。言うべき言葉もなく,為すすべも知らずに,木綿襷を肩に掛け倭織の幣を手に持ち,僕たちを離れ離れにしないでと祈ったが,抱いて寝た妻の腕は雲のように白く横たわっている>>

おそらく病気で妻は亡くなったのでしょう,妻の最期に寄り添った夫の無念さが本当に伝わってくる長歌です。
現代では,病気の治療技術や予防技術により,若いうちに病気で死亡する人の割合が100年,200年前に比べ格段に減っています。マスコミ等で若くして亡くなった人の報道がされますが,それはニュースになるから敢てとりあげられているのであって,10万人あたりといった全体統計では,昔に比べて大きく減っているのは事実です。そのため,生命保険の保険料も値下げになっているくらいです。
ただし,比率は減っても,ゼロではありません。私の友人にお子さんまだ幼いうちに夫を急病で亡くされた女性がいます。また,私も今回大病を患い,想定寿命を見直し,余生をどう過ごすか,再検討をしているところです。
生きていることの大切さと,いつ終わるか分からない生きているとき何を生きがいとして,幸福感をもって誰と生きていくか,定期的に考えることが求められる状況になりました。
ただ,それはそれで,いろんな選択肢があり,想像力を働かせ,どれが最適か私は前向きに取り組んでいます。
(続難読漢字シリーズ(26)につづく)

2018年5月21日月曜日

続難読漢字シリーズ(24)…激る(はしる)激つ(だきつ)

今回は「激る(はしる)激つ(だきつ)」について万葉集をみていきます。「激つ(だきつ)」は現代仮名遣いでは「激る(たぎる)」となります。なお,現在では「水がはしる」という言い方はしなくなったようです。「激流」「激水」「激浪」「激端」などの音読み言葉ばかりで,この訓読みは両方とも思い出しにくいかもしれません。
今回は,「激る(はしる)」「激つ(だきつ)」が使われている,それぞれ長歌を紹介します。
最初に紹介する長歌は,「激る(はしる)」が詠み込まれている柿本人麻呂が吉野の離宮を賛美したものです。持統天皇が吉野に行幸したときに詠んだとされています。

やすみしし我が大君の きこしめす天の下に 国はしもさはにあれども 山川の清き河内と 御心を吉野の国の 花散らふ秋津の野辺に 宮柱太敷きませば ももしきの大宮人は 舟並めて朝川渡る 舟競ひ夕川渡る この川の絶ゆることなく この山のいや高知らす 水激る瀧の宮処は 見れど飽かぬかも(1-36)
<やすみししわがおほきみの きこしめすあめのしたに くにはしもさはにあれども やまかはのきよきかふちと みこころをよしののくにの はなぢらふあきづののへに みやばしらふとしきませば ももしきのおほみやひとは ふねなめてあさかはわたる ふなぎほひゆふかはわたる このかはのたゆることなく このやまのいやたかしらす みづはしるたきのみやこは みれどあかぬかも>
<<今の我が君が統治されている土地は天の下に多くあるけれど,山も川も清き河内の地とお好きな吉野の国の花散る秋津の野辺に,宮柱も太き宮殿を建立され,多くの大宮人は舟を浮かべて朝川を渡り,舟を競って夕川を渡っている。この川が絶えることのないように,この山がいつまでも高くそびえ立つように,我が君も永遠に高々と統治されることだ。水が大変な速さで走るように流れるこの滝の都はいくら見ても素晴らしい>>

吉野は,天武天皇のゆかりの地であり,暑い奈良盆地の夏の時期の避暑地として離宮を整備したのだと思います。
避暑地である吉野に到着した持統天皇一向に対して,人麻呂は吉野の素晴らしさを読み上げ,「素敵な吉野での避暑をお過ごしください」と,ここまでの旅の疲れをこの和歌で癒したのでしょうか。奈良盆地に流れる川と比較にならない水量,流の早さ,水の冷たさ,清らかさが,きっと天皇の心を潤すに違いないとこの長歌は締めているように私は解釈します。
紹介するもう一つの長歌は,「激つ(だきつ)」が詠み込まれた大伴家持が越中で詠んだとされるものです。

あらたまの年行きかはり 春されば花のみにほふ あしひきの山下響み 落ち激ち流る辟田の 川の瀬に鮎子さ走る 島つ鳥鵜養伴なへ 篝さしなづさひ行けば 我妹子が形見がてらと 紅の八しほに染めて おこせたる衣の裾も 通りて濡れぬ(19-4156)
<あらたまのとしゆきかはり はるさればはなのみにほふ あしひきのやましたとよみ おちたぎちながるさきたの かはのせにあゆこさばしる しまつとりうかひともなへ かがりさしなづさひゆけば わぎもこがかたみがてらと くれなゐのやしほにそめて おこせたるころものすそも とほりてぬれぬ>
<<年があらたまって春になると花々が美しく咲く。(雪解け水で)山のふもとを轟かして激しく流れくだる辟田川。(夏になると)その川の瀬では鮎の元気に泳ぐ姿が見える。(夏の夜)鵜飼仲間と伴って,篝火をかざして川を行くと,我が妻が形見と思ってと,紅色に幾度も染めて送ってくれた着物がすっかり水に濡れてしまった>>

この長歌から家持は越中の春から夏にかけての自然を謳歌している気持ちが私に伝わってきます。特に,鵜飼は家持にとって大変楽しみな夏の夜にみんなで興じるスポーツだったのです。
妻が気を付けてほしいという気持ちで作らせた女性が着るような派手な着物も,楽しくてしょうがない鵜飼に興じているうちに,スプ濡れになったのでしょう。
水量が「激る」ほど豊かで,アユがたくさんいる辟田川の自然がどれたけ家持の気持ちを癒したか,私には共感するものが多くあります。
(続難読漢字シリーズ(25)につづく)