2018年1月27日土曜日

続難読漢字シリーズ(6)… 燕子花(かきつはた)

今回は,燕子花(かきつはた)をとりあげます。もちろん,現代用語では燕子花は「かきつばた」と書かないと正解にはならないと思います。
燕子花は,5~6月に咲く,アヤメ科の植物で,アヤメ,花菖蒲と見分けがつきにくいほどよく似ています。万葉時代は,その区別が完全になされていたは不明です。
後で紹介しますが,万葉時代には「かきつはた」と「かきつばた」と両方の発音をすることがあったようですが,伊勢物語の第九段では「かきつばた」となっていることから平安時代初期には濁音が主流になっていたのでしょうか。
では,燕子花を詠んだ万葉集の短歌を紹介していきます。なお,万葉集の漢字かな交じり文にはひらがなで「かきつはた」と書いているものが多いようですが,敢て「燕子花」と漢字にしています。
最初は,美しいカキツバタの花を夢に見るという詠み人しらず(作者未詳)の短歌です。

常ならぬ人国山の秋津野の燕子花をし夢に見しかも(7-1345)
<つねならぬひとくにやまの あきづののかきつはたをしいめにみしかも>
<<滅多に見ることができない人国山の秋津野に咲くカキツバタを夢にまで見たことよ>>

次は,カキツバタのような可愛い女性を詠んだ,これも詠み人しらずの短歌です。

燕子花丹つらふ君をいささめに思ひ出でつつ嘆きつるかも(11-2521)
<かきつはたにつらふきみをいささめに おもひいでつつなげきつるかも>
<<カキツバタのように愛らしく,頬をほんのり赤く染める君をふと思い出してはため息をつく>>

最後は,大伴家持が天平16年4月(新暦では花の咲くころ)にカキツバタを詠んだ短歌を紹介します。

燕子花衣に摺り付け大夫の着襲ひ猟する月は来にけり(17-3921)
<かきつばたきぬにすりつけますらをのきそひかりするつきはきにけり>
<<カキツバタを衣に摺り付けて,大夫が着重ねをして狩りをする時期になったなあ>>

ここでは「かきつばた」と濁音の「ば」で発音しています。
大伴家持は濁音で発音するのが好きだったのか,歌人の中では流行っていたのかわかりません。この短歌がきっかけで「かきつはた」から「かきつばた」に変わったということは,まさかないと思いますが。
(続難読漢字シリーズ(7)につづく)

2018年1月15日月曜日

続難読漢字シリーズ(5)… 陽炎(かぎろひ)

今回は,陽炎(かぎろひ)を見ていきます。もちろん,現代用語では陽炎は「かげろう」と読まないと正解にはなりません。
万葉時代には,「かげろう」は「かぎろひ」と発音していましたが,広辞苑などによると「かぎろひ」から「かげろう」になったのは事実のようです。万葉集では「陽炎」は日の出前に東の空にさす光という意味で使われている場合と「陽炎の」として,春や燃えるの枕詞として使われる場合があります。
古今集の時代になると「陽炎」を今の「かげろう」の意味で詠んだ,次の詠み人しらずの短歌が出てきますので,平安時代に入って意味が今の「かげろう」に近づいていったのでしょうか。

陽炎のそれかあらぬか春雨の古人なれば袖ぞ濡れぬる(古今集巻14-731)
<<陽炎のようにゆれているあなたのお気持ちなのかどうか,春雨の時期になってもあなたを待っている私は,あなたにとって過去の相手かもしれませんが,私の袖は濡れているのです>>

さて,万葉集の和歌の紹介に移りますが,陽炎を詠んだ有名な万葉集の短歌は次の柿本人麻呂が詠んだとされる次のものです。この短歌の解説については,2010年12月5日に投稿した「動きの詞(ことば)シリーズ…立つ(5:まとめ) 」に記していますので,省略します。

東の野に陽炎の立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ(1-48)
<ひむがしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ>
<<東の方向の野に日の出前に東の空にさす光が見えて,後ろを見たら月が西方に沈みかけている>>

次の詠み人しらずの短歌は,もしかしら今の「かげろう」の意味に近い用法の短歌かもしれません。

今さらに雪降らめやも陽炎の燃ゆる春へとなりにしものを(10-1835)
<いまさらにゆきふらめやも かぎろひのもゆるはるへと なりにしものを>
<<もう雪は降らないだろう。陽炎が燃える春にきっとなったことだから>>

「陽炎の」を「燃ゆる」の枕詞だとする説があります。でも,ここは「かげろう」が盛んに出ることを「燃ゆる」という言葉で形容したのだという風に訳してみました。
次は,「陽炎の」が枕詞として使われている例(田辺福麻呂歌集にあったという長歌の一部)です。

~ 八百万千年を兼ねて 定めけむ奈良の都は 陽炎の春にしなれば 春日山御笠の野辺に 桜花木の暗隠り 貌鳥は間なくしば鳴く ~(6-1047)
<~ やほよろづちとせをかねて さだめけむならのみやこは かぎろひのはるにしなれば かすがやまみかさののへに さくらばなこのくれがくり かほどりはまなくしばなく ~>
<<~ ずっと未来のことも見据えて定められた奈良の都は,春になると春日山の三笠の野に桜花が木を覆い隠すように咲き,貌鳥は絶間なくしきりに鳴く ~>>

奈良の京(みやこ)を讃嘆している長歌です。「陽炎の」は「春」の枕詞として訳しませんでした。ちなみに「貌鳥」も難読の漢字の一つでしょうか。
最後は,巻は異なりますが,同じく田辺福麻呂歌集にあったという長歌(弟の死別に対して詠んだもの)の一部です。

~ 天雲の別れし行けば 闇夜なす思ひ惑はひ 射ゆ鹿の心を痛み 葦垣の思ひ乱れて 春鳥の哭のみ泣きつつ あぢさはふ夜昼知らず 陽炎の心燃えつつ 嘆く別れを(9-1804)
<~ あまくものわかれしゆけば やみよなすおもひまとはひ いゆししのこころをいたみ あしかきのおもひみだれて はるとりのねのみなきつつ あぢさはふよるひるしらず かぎろひのこころもえつつ なげくわかれを>
<<~ (弟が)別れて行ってしまったので,闇夜に迷ふように心迷いをして,矢で射られた鹿ように心が傷むので,思い乱れて激しく泣きながら夜も昼も心が燒けるように嘆いているこの別れよ>>

やはり,長歌では5文字の句は枕詞として使われる場合が多いので,ここでも枕詞として「陽炎」は訳しませんでした。
これら万葉集の和歌から「陽炎(かぎろひ)」は今の「陽炎(かげろう)」より,もう少し抽象的な概念を表す言葉だったと考えてもよいでしょう。
(続難読漢字シリーズ(6)につづく)

2018年1月12日金曜日

続難読漢字シリーズ(4)… 篝(かがり)

今回は,篝火(かがりび)の篝について,万葉集を見ていきます。今回紹介する3首はすべて大伴家持作の長歌2首(一部もあり)と短歌一首です。
日本では各地でかがり火を焚く祭りが多く行われていますので,かがり火という言葉知っていても,篝火を読める人は全員ではなさそうですね。
ところで,万葉集で「篝」を詠んだ和歌は,これから紹介する3首のみです。
別の言い方をすると,大伴家持以外のこの「篝」という言葉を使った和歌を万葉集では誰も詠んでいないということになります。さて,家持が「篝」という言葉をどう使って和歌を詠んだのかを探ってみたいと思います。
最初は,越中で詠んだ短歌1首からです。

婦負川の早き瀬ごとに篝さし八十伴の男は鵜川立ちけり(17-4023)
<めひがはのはやきせごとに かがりさしやそとものをは うかはたちけり>
<<婦負川の早瀬ごとに篝火をかざし,大勢の男性役人達がう飼いを楽しんでいる>>

この短歌は,2016年1月13日の投稿「今もあるシリーズ「鵜(う)」…「う飼い」は「渓流釣り」より古いスポーツ? 」で一度紹介しています。この時は「鵜飼」がテーマでしたが,今回は篝火がテーマです。
実は昨年,愛知県犬山市の犬山城の近くで行われている木曽川鵜飼を観光船に乗って見学しました。鵜飼舟の先頭に突き出した金属製のカゴに火力が強く長持ちする松の木を燃やしたかがり火を焚きます。その光に寄ってくるアユを鵜がのどまで飲み込んだら,鵜匠が引き寄せ,吐かせるという実演でした。かがり火の火力の強さと鵜匠が素早く薪を投入し火力を維持する行動から,かがり火一つをとってもかなりの訓練が必要と感じました。
この短歌は家持が越中に赴任してそれほど立っていない時期で,初めて見た鵜飼に家持は魅せられたのですが,かがり火の列(当時は舟の上ではなく,河原に立てた)壮観さにも感動したのでしょう。
次は,同じく越中で鷹狩の鷹を逃がしてしまった家臣への怒りを詠んだ長歌の一部です。

~ 鮎走る夏の盛りと 島つ鳥鵜養が伴は 行く川の清き瀬ごとに 篝さしなづさひ上る 露霜の秋に至れば 野も多に鳥すだけりと 大夫の友誘ひて 鷹はしもあまたあれども 矢形尾の我が大黒に ~(17-4011)
<~ あゆはしるなつのさかりと しまつとりうかひがともは ゆくかはのきよきせごとに かがりさしなづさひのぼる つゆしものあきにいたれば のもさはにとりすだけりと ますらをのともいざなひて たかはしもあまたあれども やかたをのあがおほぐろに ~>
<<~ 川にアユが泳ぎ走る夏の盛りには鵜飼をする家臣が流れが清らかな瀬ごとにかがり火を立てて,川の水に入って鵜飼をする。露や霜が降りる秋になれば,野に多く鳥の巣ができるので,屈強な友を呼び出して,自分は鷹は多くもっているが,その中でも屋形尾の緒をもった真っ黒な大黒という名前の鷹 ~>>

この後,世話をさせていた家臣に大黒という一番気に入っていた鷹を逃がしてしまったことに対して延々とや家持は悪態をつくのですが,それはここでは触れません。
結局,「篝」はやはり,前段の鵜飼の話で使用されています。
最後も家持4年目の越中において鵜飼の話で「篝」を詠んだ長歌です。短いのですべて紹介します。

あらたまの年行きかはり  春されば花のみにほふ  あしひきの山下響み  落ち激ち流る 辟田の川の瀬に 鮎子さ走る  島つ鳥鵜養伴なへ  篝さしなづさひ行けば  我妹子が形見がてらと 紅の八しほに染めて  おこせたる衣の裾も 通りて濡れぬ(19-4156)
<あらたまのとしゆきかはり はるさればはなのみにほふ あしひきのやましたとよみ おちたぎちながるさきたの かはのせにあゆこさばしる しまつとりうかひともなへ かがりさしなづさひゆけば わぎもこがかたみがてらと くれなゐのやしほにそめて おこせたるころものすそも とほりてぬれぬ>
<<年が変わり春がやってきたので,花が美しく咲いている山の下に轟音を響かせて落ちて激して流れる辟田の川の瀬に,アユが泳ぎ走っているので,鵜飼の篝火を立てて,水につかって鵜飼をすると,妻が形見のついでにと贈ってくれた紅の色深く染めた著物の襴までも通って水に濡れたよ>>

家持は越中の生活にもすっかり慣れ,毎年季節ごとにやってくる楽しみも分かってきたのでしょう。
その中でも,この長歌から春になってアユが現れる夜に,かがり火を立てて行う鵜飼が家持にとっては楽しみでしょうがなかったのでしょうね。
越中赴任当初は,鵜飼は見ているだけだったのが,この歌を詠んだ頃には,自分が鵜匠となって鵜飼を楽しんだ様子が読み取れます。
結局,篝はこの3首のみ鵜飼との関連でしか,万葉集では使われていないようです。
そのため,かがり火を使った鵜飼という狩猟技法は,越中で考案され,スポーツとしても盛んになり,家持が万葉集で紹介したことで,全国各地で行われるようになったと考えるのは考えすぎでしょうか。
(続難読漢字シリーズ(5)につづく)

2018年1月8日月曜日

続難読漢字シリーズ(3)… 末(うら,うれ)

今回は「末」の漢字を「うら」「うれ」と発音するケースについて万葉集を見ていきます。何かの末端(先のほう)や終端(終わりのほう)という意味です。
なお,万葉集でも「末」を今でも使う「すゑ」と発音する歌はたくさんあります。そのほか,「末」を「ぬれ」と発音する歌もあります。
その「末」の部分ですが,元の万葉仮名に「末」という漢字がすでに使われている歌も多くあります。
「すゑ」と読む発音する万葉集の歌は,万葉集の中でも比較的後ろの時代のもののようです。そのため,もしかしたら「すゑ」という発音は奈良時代に入ってから流行り出した言い方かも知れませんね。
「ぬれ」「すゑ」と発音する歌については,後の機会に触れることにして,今回は「う」で始まる「うら」「うれ」について紹介していきます。
最初の短歌は,今の季節を詠んだものです。

池の辺の松の末葉に降る雪は五百重降りしけ明日さへも見む(8-1650)
<いけのへの まつのうらばにふるゆきは いほへふりしけあすさへもみむ>
<<庭園の池の脇に生えている松の葉先に降る雪は,幾重にも積もるといい,明日も見たい気持ちです>>

この短歌は,作者が未詳だが,阿部虫麻呂が宴席で披露したと左注に書かれています。
松は尖った葉が隙間をもって放射状に生えています。そのため,葉先に積もった雪は,外気のみにさらされ,ある部分が融けても,融けた水は下の落ち,他の雪をさらに融かしてしまうことがありません。雪がなかなか解けないので,その上に新たな雪が重なって積もってくことになります。
その雪が,明日まで残るだけでなく,さらにこれから幾重にもたくさん積もったものを見たいという気持ちを詠んだものだと私は考えます。
宴席のとき,外は雪が降ってきて,雪が積もることは良いことが重なるというイメージがあり,宴席参加者の幸(さち)多きを願って,披露したのだろうと想像ができます。
さらに想像を膨らませると阿部虫麻呂は宴席の司会のような役目だったとイメージしてしまいます。
さて,次も同じ季節で,やはり松が出てきます。家の外に出て詠んだものだと考えられます。

巻向の桧原もいまだ雲居ねば小松が末ゆ沫雪流る(10-2314)
<まきむくの ひはらもいまだくもゐねば こまつがうれゆあわゆきながる>
<<巻向山の裾野のヒノキ原にはまだ雪を降らすような雲も見えないのに,近くの松の葉先に泡雪がどこからか漂っている>>

巻向山(567m)は三輪山(467m)の東に位置し,奈良盆地から見た場合,三輪山の奥に立つ山となります。作者は,奈良盆地ではなく初瀬街道の長谷寺がある付近にいて,この短歌を詠んだのかも知れません。
山は晴れてはっきり見えるけれど,雪がちらつくのは山に囲まれた地方では珍しくないと私は思うのですが,作者は京から来た都会人で,これを珍しいこととして詠んだと私は想像します。
特に松の葉は濃い緑なので,葉先の前を風に流されていく雪がはっきり見えたことに驚きを感じたと考えます。
最後は,少し早いですが,春の気配を感じさせる柳が出てくる女性が詠んだとされる東歌です。

恋しけば来ませ我が背子垣つ柳末摘み枯らし我れ立ち待たむ(14-3455)
<こひしけばきませわがせこ かきつやぎうれつみからし われたちまたむ>
<<そんなに恋しいなら,早く来て。垣根の柳の葉先を摘みとってしまうくらい私はじっと立ってお待ちしているのよ>>

柳は春になると枝の先を中心に新芽がたくさん芽吹きます。それを全部摘み取ってしまうくらい,長い時間待っている気持ちを知ってほしいと詠んだものでしょうか。
春になって,少しずつ温かくなり,移動も楽になってくると,待ちに待った彼との恋の季節が始まる期待があふれる乙女心を感じますね。
東歌の女性作の相聞歌は気持ちをストレートに表現する積極さがいいですね。
(続難読漢字シリーズ(4)につづく)

2018年1月6日土曜日

続難読漢字シリーズ(2)… 労(いたは)し

今回は,「労(いたは)し」について,万葉集の用例を見ていきます。
この言葉は,「残された子がいたわしい」という言葉が普通に使われているため,難読のレベルは低いと思う方もいらっしゃるかもしれませんね。
しかし,万葉時代で使われている意味は今と少し違っていたようです。
まず最初は山上憶良が詠んだとされる長歌の紹介です。

うちひさす宮へ上ると  たらちしや母が手離れ  常知らぬ国の奥処を  百重山越えて過ぎ行き  いつしかも都を見むと  思ひつつ語らひ居れど  おのが身し労しければ  玉桙の道の隈廻に  草手折り柴取り敷きて  床じものうち臥い伏して  思ひつつ嘆き伏せらく  国にあらば父とり見まし  家にあらば母とり見まし  世間はかくのみならし  犬じもの道に伏してや命過ぎなむ(5-886)
<うちひさすみやへのぼると たらちしやははがてはなれ つねしらぬくにのおくかを ももへやまこえてすぎゆき いつしかもみやこをみむと おもひつつかたらひをれど おのがみしいたはしければ たまほこのみちのくまみに くさたをりしばとりしきて とこじものうちこいふして おもひつつなげきふせらく くににあらばちちとりみまし いへにあらばははとりみまし よのなかはかくのみならし いぬじものみちにふしてやいのちすぎなむ>
<<京へ行くため母のもとを離れ,知らなかった国の奥の方へと行って,幾重にも重った山を越えて,早く京を見ようと同行の人々と話し合っていたが,自分の体力が耐えられず,道の曲り角の土手の草を手折り,小枝を下に敷いて、それを床のようにして倒れ伏して,ため息をつき,いろいろ寢ながら考えたことは,生まれ故郷にいたら父が,家にいたら母が看病してくれる。しかし,世の中は思うようには行かないものだ。犬のように道端に伏して,最後は命が終わってしまうのだろう>>

この長歌は,京(みやこ)に向かったが,志半ばで路上に倒れてしまった人を見て,またはそれをイメージして,倒れた人の思いを想像して憶良が詠んだと考えられます。
この中に出てくる「おのが身し労しければ」は,倒れた旅人は最初集団で京を目指して移動したのだが,病気になったか,ケガをしたか,からだがひ弱だったのか,みんなに付いてくことができず,動けなくなってしまったのでしょう。
この場合の「労し」は「思うようにならない」という意味が近いのではないかと私は思います。
次も行き倒れ(ただし,溺死者)を詠んだ詠み人しらずの長歌です。

玉桙の道行く人は  あしひきの山行き野行き  にはたづみ川行き渡り  鯨魚取り海道に出でて  畏きや神の渡りは  吹く風ものどには吹かず 立つ波もおほには立たず  とゐ波の塞ふる道を  誰が心労しとかも直渡りけむ直渡りけむ(13-3335)
<たまほこのみちゆくひとは あしひきのやまゆきのゆき にはたづみかはゆきわたり いさなとりうみぢにいでて かしこきやかみのわたりは ふくかぜものどにはふかず たつなみもおほにはたたず とゐなみのささふるみちを たがこころいたはしとかも ただわたりけむただわたりけむ>
<<旅する人は山を行き,野を行き,川を渡渡り,海路に出で,荒神がいる渡り場は,吹く風も激しく,立つ波も高く,しきりなくおし寄せる波が邪魔をする道を,誰のことがひどく気になったのか分からいが,無理に渡ってしまった>>

この長歌に出てくる「誰が心 労しとかも」は,誰かのことが非常に気になって冷静さを欠いた状況になったと私は解釈します。渡し場にいる人たちは,「無理だ」「渡れないから止めとけ」といったのを溺死した人は聞かなかったのでしょう。
最後は,大伴家持が天平勝宝2年5月6日に兎原娘子(うなひをとめ)の物語を題材に詠んだ長歌の一部です。

~ たまきはる命も捨てて  争ひに妻問ひしける  処女らが聞けば悲しさ  春花のにほえ栄えて  秋の葉のにほひに照れる  惜しき身の盛りすら  大夫の言労しみ ~(19-4211)
<~ たまきはるいのちもすてて あらそひにつまどひしける をとめらがきけばかなしさ はるはなのにほえさかえて あきのはのにほひにてれる あたらしきみのさかりすら ますらをのこといたはしみ ~>
<<~命さへも捨てて,(二人の男が)競って求婚した娘のことは聞くも哀れなことである。春の花のように美しく,秋の黄葉のような見事さをもった娘子は,(その二人の)男たちからの命を顧みない求愛の言葉をつらく感じて~>>

この長歌の後の部分では,兎原娘子は自らの惜しき命を絶ってしまったとあります。「丈夫の言労しみ」は,二人の男から言い寄られ,どうすればよいか分からない兎原娘子の気持ちの戸惑いを「労し」は表現していると感じます。
「労し」のようなの心理的な辛さを表す言葉は,時代やその背景となる状況の違い,感じる人の立場(今回はすべて当事者の気持ちを代弁する作者の立場)の違いなどで現代語に訳すと微妙にニュアンスが変化するようです。
(続難読漢字シリーズ(3)につづく)

2018年1月3日水曜日

続難読漢字シリーズ(1)…可惜(あたら),可惜(あたら)し

今回から,新シリーズを開始します。
このシリーズは,2009年6月28日~2010年1月11日の間にアップした「万葉集で難読漢字を紐解く」シリーズで,紹介し切れなかった難読漢字について,万葉集ではどう詠まれているか私の考えをアップしていきます。
初回は,難読漢字「可惜」について,万葉集を見ていきます。これは「あたら」と読みます。一般的な意味は,「可惜」は「惜しむべき」「もったいないことに」といいった感動詞的に使われるものということです。
「可惜し」は形容詞で「立派だ」「素晴らしい」「惜しい」といった意味です。
では,万葉集での用例を紹介します。なお,紹介する歌で「可惜」としている部分は,ひらがなで書かれていることが多いようですが,敢て「可惜」という漢字にしています。

鳥総立て足柄山に船木伐り木に伐り行きつ可惜船木を(3-391)
とぶさたて あしがらやまにふなぎきり きにきりゆきつあたらふなぎを>
<<鳥総を立てて足柄山に生えている船材として伐れる木を,細かい木材として伐って行ってしまった。惜しいなあ船材にできるのに>>

この短歌は沙弥満誓(さみのまんせい)が筑紫で詠んだとされているものです。
勿体ないような才能や容姿をもつ人をその特長をより導き出すように周りは気を付けなければならない(特長を潰してはいけない)という教訓の歌のように私には思えます。

秋の野に露負へる萩を手折らずて可惜盛りを過ぐしてむとか(20-4318)
あきののに つゆおへるはぎをたをらずて あたらさかりをすぐしてむとか
<<秋の野に露に濡れた萩の花を手で折って生けることをせず,そのままにしておいたら,あら惜しいこと,盛りを過ぎてしまったなあ>>

この短歌は,天平勝宝6年,36歳の大伴家持が詠んだとされるものです。
家持にとって,露に濡れた萩が美しいから,ついそのままにしておいたが,盛りを過ぎてしまい部屋に飾れなくて残念という気持ちを詠んだものでしょうか。
ただ,これまで惜しいチャンスをいくつも逃し,昇進がほとんどできずに年齢を重ねてしまった家持の気持ちが詠ませたのかも知れないと私は思いをめぐらしてしまいます。

秋萩に恋尽さじと思へどもしゑや可惜しまたも逢はめやも(10-2120)
あきはぎに こひつくさじとおもへども しゑやあたらしまたもあはめやも
<<秋萩の花を長く深く愛でていたいと思うのだが,あ~,惜しいことにもう散ってしまう。また逢うことはないのだろうか>>

作者不明の短歌で,秋萩の花を題材にした季節の移ろいを詠んだものと考えられます。
しかし,「恋尽さじ」や「逢はめやも」という言葉から,「可惜し」の対象の秋萩の花は,可憐な女性のことを譬喩したものかも知れません。
最後に,万葉時代から200年以上後の平安時代中期には「あたら」の意味として「新しい」の「新」の意味が出てきたのです。万葉時代では「新しい」という意味のヤマト言葉は「あらたし」でした。
平安時代に仮名が使われるようになった際,まちがって「新し」の読みを「あらた」から「あたら」取り違えられたとの説があるようです。そのため,それまで「あたら」と発音する「可惜」が,利用する頻度から比較的陰に隠れてしまったのかもしれません。
(続難読漢字シリーズ(2)につづく)

2018年1月1日月曜日

2018年正月スペシャル‥万葉集から日本人と犬について考える

戌(いぬ)年の2018年が始まりました。みなさん,どんな気持ちで新年を迎えていらっしゃいますか?
昨年はこのブログ(万葉集をリバースエンジニアリングする),思うように投稿できませんでした。しかし,今年はあと少ししたら,このブログを立ち上げて10年目に入ります。来年の満10年で500投稿を達成するためには,週1回の投稿をキープする必要がありますので,気を引き締めていきたいと考えていますので,今年もよろしくお願いします。。
さて,後で紹介しますが,万葉集でについて詠んだ歌は多くありません。犬についてWikipediaなどでは,縄文遺跡に犬(縄文犬)の骨が発見されているとあることから,犬は古来狩猟犬などの目的で日本に人間と暮らしていたと考えられそうです。
飛鳥時代には渡来人系ともいわれる豪族犬上氏が琵琶湖に面した北東部の地域で大きな勢力を持ちました。日本書紀に出てくる犬上御田鍬(いぬかみのたすき)は,遣隋使遣唐使にもなっていて,朝鮮半島経由で中国にも渡ったとの記録があるとのことです。
犬のことを(こま)と呼びます。高麗も「こま」と発音する場合があり,神社の社殿の前に置かれる狛犬像は朝鮮半島系の犬をモチーフにしていたのかもしれません。飛鳥時代では,犬は狛犬のイメージから番犬の役目で飼育されていたケースが少なくなかったと想像できそうです。
さて,朝鮮半島では,古くから(現在もそうですが)犬食文化があります。明治維新の文明開化で肉食文化が日本で急速に普及したように,飛鳥時代にはイノシシ,ブタ,クマ,ウマ,ウシ,シカ,サル,ニワトリそしてイヌなどの肉食習慣が大陸,朝鮮半島から入り,繁殖,屠殺(さばき),販売,料理の専業化など商業的に広まった可能性があります(それまでも家畜の犬を食べることはあったかもしれませんが)。
それがあまりに盛んになりすぎ,何らかの弊害が出たり,殺生に否定的な仏教との兼ね合いのためか,日本書紀には天武天皇5(675)年には,農産物が豊富にとれる夏から秋の期間だけですが肉食の禁止令が出たとの記載があります。その禁止動物の中に犬が含まれています。そのため,当時の日本では犬食は,相当広まっていたとみてよいかと思います。
その後,殺生を嫌う仏教をさらに重視した日本では犬を含む肉食文化が衰退していったのに対し,儒教に重きを置いた朝鮮半島では犬食も含む肉食文化がずっと残ったとみることができるかもしれません。
さて,万葉集では,犬はどう詠われているでしょうか。
まず,巻13に出てくる長歌(前半男,後半女)で,犬を含むさまざまな動物が出てくる歌を紹介します。

赤駒を馬屋に立て  黒駒を馬屋に立てて  そを飼ひ我が行くがごと  思ひ妻心に乗りて  高山の嶺のたをりに  射目立てて鹿猪待つがごと 床敷きて我が待つ君を  犬な吠えそね(13-3278)
<あかごまをうまやにたて くろこまをうまやにたてて そをかひわがゆくがごと おもひづまこころにのりて たかやまのみねのたをりに いめたててししまつがごと とこしきてわがまつきみを いぬなほえそね
<<(男)赤い馬を馬屋を建てて飼い,黒い馬をおなじく馬屋を建てて飼い,その馬に乗って俺は行く愛するお前のことばかり考えてな。(女)高い山の嶺のくぼみに待ち伏せ小屋を建てて,シカやイノシシを待つように,床を敷いて待つあなたのことを番犬ちゃんは吠えないでね>>

この長歌には,主語として犬(番犬)自体は出てきませんが,その犬に向けて詠んだ反歌があります。

葦垣の末かき分けて 君越ゆと人にな告げそ 事はたな知れ(13-3279) 
あしかきのすゑかきわけて きみこゆとひとになつげそ ことはたなしれ
<<(女)葦垣の上をかきわけ,あの人が越えてやってきたと人に聞こえるように吠えないでおくれ。彼との関係が人に知られてしまうから>>

この和歌から,当時は番犬を飼っていた家があっただろうということが想像できます。
もう一首犬を詠んだ旋頭歌を紹介します。

垣越しに犬呼び越して鳥猟する君青山の茂き山辺に馬休め君(7-1289)
かきごしにいぬよびこしてとがりする きみあをやまのしげきやまへにうまやすめきみ>
<<垣越しに犬を呼び寄せて鷹狩りをなさっているあなた。青々と葉が茂っている山辺で馬を休ませてあげてね,あなた>>

この和歌から,鷹狩で捕らえたけものを獲りに行って,銜えて帰ってくる猟犬がいただろうことがわかります。
いずれにしても,万葉時代から,日本人とって犬は良き伴侶だったことがわかります。
(続難読漢字シリーズ(1)につづく)