<私の本業が忙しい理由>
今年はこの投稿を含め60件アップできました。今年始めの予想では70件以上いけるかなと思ったのですが,私の本業であるソフトウェア保守開発の業務が多忙で,やっとここまででした。
ところで,その業務が多忙な理由は次の通りだと私は考えています。
ソフトウェア保守開発の業務案件(以下,単に案件といいます)は,1案件単位の平均的な規模は比較的小さいのですが,規模のバラツキ(標準偏差)は結構大きいのです。また,案件発生は完全には予測不可能で,案件の発生はいわゆる「統計的な考え」に基づく必要があります。
ここでいう「統計的な考え」とは,銀行のATMの台数,駅の改札機の台数,スーパーのレジの稼働数,高速道路の料金所のゲート数などをどれだけ用意すれば,処理待ち時間がどの程度になるかという検討です。
<ATMの待ち行列で例示>
案件の発生は,ATMの例では出金,入金,振込,記帳,残高照会などを行うひとりのATM利用者の到着を指します。ソフトウェア保守開発要員数に対応するのは,ATMの設置数となります。
みなさんは,給料日前にATMコーナーに行くと空いている多くのATMを見るでしょう。いっぽう,給料日にはATMはフル稼働で,空くのを待っている人の列に出会います。
このようにバラツキが大きいのはソフトウェア保守開発案件もATMの利用者数も同じです。
また,利用者は残高照会だけして帰る人もいれば,ATM操作に慣れないのに何件もの振込をする人もいます(そんな人を見ているとイライラを感じた経験はありませんか?)。1利用者のATM専用時間のバラツキが非常に大きいのも保守開発案件対応時間と似ています。
<対応エンジニアに空きはない?>
ただ,似ていないのは,ATMはある程度利用されていない時間があっても統計学の待ち行列理論から見て最適であればOKですが,ソフトウェア保守開発の要員は空きが発生しないことが第一命題になっています。
そのため,待ち行列での最適性とは無関係に要員に空きを発生させなくする方法は,最低限の要員で体制を組み,案件が重なったときは残業でこなすということになります(私が勤める会社のように割増の残業代を払ってやるからよいだろうという経営者の発想はまだましで,残業が発生するのはお前のせいだからサービス残業で対応するんだというブラック企業もあると聞きます)。
もちろん,都度案件の外部委託も考えられますが,規模が比較的小さく,納期も短いため非効率です。結局,案件が極端に集中すると要員の残業時間が非常に多くなってしまいます。
待ち行列理論を勉強し,多少の空き時間が出来ても最適という認識になれば,空き時間は代休を取得したり,スキルアップや環境整備に回し,次の案件対応をより効率的にできることのメリットを経営サイドはもう少し理解すべきだと感じた一年でした。
<この1年のブログアップ>
さて,私事はこのくらいにして,本ブログの2012年を振り返ってみます。
年初は,(万葉集の)私の接した歌枕シリーズ「須磨」で始まりました。歌枕シリーズは福島県の「相馬」,愛媛県の「松山」と続き,1月7日からは前年(2011年)8月より続けている「対語シリーズ」戻りました。
3月末まで「対語リーズ」を続け,4月に入って,200投稿記念としてスペシャル記事を書きました。
その中でも,富山県高岡で学生時代に一緒に万葉集を研鑽したメンバーやその後輩たちと集いを持てたことは今でも印象に残っています。
その後,ゴールデンウィークスペシャルとして「私の接した歌枕」シリーズ(湯河原,三輪山,丹波,葛飾)をアップし,再び「対語シリーズ」に戻りました。
1年間連載してきた「対語シリーズ」は8月第1週で最終回としました。その後は私の夏休み近辺の状況をアップした夏休みスペシャルに入りました。
実は,今年の夏休み,私の行動力は結構すごかったと自画自賛したくなるほどです。
青春18きっぷで奈良の明日香村を往復したのは昨年でしたが,今年はそれに加えて大津から宇治まで奈良街道を夜を通して歩きました。
また,女夫淵温泉から加仁湯までや富士山本八合目(標高3,400m)までトレッキングをしました。さらに,私が会社でのポジションが変わったこともあり,多くの人たちと何度も宴で飲みました。
そんなこんなをブログにアップできたことは思い出深いことです。
そして,夏が終わり,新らたに「今もあるシリーズ」を開始しました。
その後も多忙な仕事の傍ら,8月加仁湯までしか行かなかった奥鬼怒ですが,10月上旬にはその先鬼怒沼(標高2,000m)まで登りました。秋晴れの空,筋雲,山並みが沼の水辺に映り,本当にきれいでした。
<閲覧数もアップ>
この1年のアクセス数は1年前の1.5倍に増えました。また,7月ひと月のアクセス数はこれまで1ヶ月のアクセス数の最高を40%以上上回るアクセス数となりました。そのほか特徴的なことは,海外からのアクセス比率がアップしました。特に米国からのアクセス数が今年の後半から急速に伸びています。
来年も300号を目指し,より多くの方に読んでもらえるよう,ブログアップを続けていきます。
ただ,次の有名な元興寺の僧侶が詠んだとされる旋頭歌に出てくる「白玉」を「万葉集」と考えるとその歌から諭(さと)されるため,アクセス数をあまり気にせず書き続けることにしましょう。
白玉は人に知らえず知らずともよし知らずとも我れし知れらば知らずともよし(6-1018)
<しらたまはひとにしらえずしらずともよし しらずともわれししれらばしらずともよし>
<<白玉の本当の価値は人に知られていない。知らなくても人は困りはしない。その価値を人は知らなくても自分さえが知っていれば人が知らなくてもそれでよいのだ>>
年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(1)」に続く。
2012年12月31日月曜日
2012年12月30日日曜日
今もあるシリーズ「笠(かさ)」
<従兄の他界>
2012年(平成24年)も後わずかになりました。12月下旬は仕事が予想外に忙しく,本ブログの更新が少し滞ってしまいました。
ようやく,会社も休みに入り,さあこれから,本ブログにたくさんアップしようかと思っていた矢先,私の従兄(いとこ)が亡くなったという知らせが入りました。亡くなった従兄は,滋賀県大津市の京阪電車石山坂本線石山駅の近くで鍼灸院を営んでいた私の父の兄の長男です。享年77歳。
私が小学校高学年から中学校にかけて,近江鉄道の職員から日産自動車の営業マンに転身した従兄は,私の父に会いに頻繁に来てくれて,いろいろ面倒を見てくれたことを覚えています。会社をリタイアした後は,若いころから趣味にしていた絵画(油絵)や木工の仲間達と展覧会を開いたり,展示即売会をしたりして楽しくゆったりと過ごしていたようです。
<万葉集にでてくる笠>
さて,今回は笠をテーマに万葉集をみていきます。
笠とは頭にかぶる帽子の役目(日よけ,雨よけ,虫よけ,風で髪の乱れの防止など)をするものです。今では笠はあまり見かけなくなっていますが,広辞苑の逆引き辞典を見ると「○○笠」がたくさん出てきます。江戸時代までは外出時の日常品としてさまざまな笠が利用されていたようです。
今笠を見たければ,各地の祭り(山形:花笠まつり,徳島:阿波踊り,富山:おわら風の盆など)に行くと,踊り手がかぶっているのを見ることができます。
万葉時代,笠の材料は次の柿本人麻呂歌集に出てくる詠み人知らずの旋頭歌のように菅(すげ)を編んで作っていたことが想像できます。
はしたての倉橋川の川の静菅我が刈りて笠にも編まぬ川の静菅(7-1284)
<はしたてのくらはしがはのかはのしづすげ わがかりてかさにもあまぬかはのしづすげ>
<<倉橋川の川辺にいつも生えている菅を私が刈りました。でも,刈ったままで笠に編まないままにしてあるいつも川に生えている菅なのです>>
解釈がいろいろ考えられますが,幼なじみの二人がなかなか結婚まで行けないことを滑稽に詠ったものだと私は解釈します。なお,静菅は何か特別な菅の種類を指すのではなく,「静」が「動かない」という意味から,いつも生えているという意味にしました。
なお,次の詠み人知らずの短歌のように菅の笠も地域ブランドがあったようです。
おしてる難波菅笠置き古し後は誰が着む笠ならなくに(11-2819)
<おしてるなにはすがかさ おきふるしのちはたがきむ かさならなくに>
<<難波の菅笠であっても使わず放っておいたら誰かが使うでしょうか? そんな(安っぽい)笠ではないのに>>
この短歌もいろいろ解釈ができそうです。私の勝手な解釈ですが,作者は女性で,高級ブランドの難波菅笠(難波には品質の良い菅と優秀な笠職人がたくさんいた?)のようなプライドを持った人ではないでしょうか。この作者「いつまでもたっても通ってきてくれず,放っておいたら古びてしまいますわよ」と言いたげですね。
次の詠み人知らずの短歌から,そのほかにも菅笠の地域ブランドが想像できます。
人皆の笠に縫ふといふ有間菅ありて後にも逢はむとぞ思ふ(12-3064)
<ひとみなのかさにぬふといふ ありますげありてのちにも あはむとぞおもふ>
<<人が皆笠に編むという有間菅。そのように,生きていれば,いつかきっとあなたに逢えると思う>>
有馬温泉がある兵庫県南東部ではきっと良い菅が採れ,その菅を編んで作った菅笠が平城京の西の市,東の市で大量に売られていたのかもしれませんし,有馬温泉のお土産として売られていたのかもしれません。有馬(ありま)は,在り待つ(生きてひたすら待つ)を連想させる言葉だったのでしょうね。
何をやってもなかなか上手くいかないことが多い今の世の中ですが,自分が今できることを着実・地道に行い,チャンスの到来をじっと待つ忍耐力の重要さを私はこの短歌から感じ取ります。
さて,今もあるシリーズはいったんお休みし,来年1月7日までは年末年始スペシャルをお送りします。
年末年始スペシャル「今年を振り返って」に続く。
2012年(平成24年)も後わずかになりました。12月下旬は仕事が予想外に忙しく,本ブログの更新が少し滞ってしまいました。
ようやく,会社も休みに入り,さあこれから,本ブログにたくさんアップしようかと思っていた矢先,私の従兄(いとこ)が亡くなったという知らせが入りました。亡くなった従兄は,滋賀県大津市の京阪電車石山坂本線石山駅の近くで鍼灸院を営んでいた私の父の兄の長男です。享年77歳。
私が小学校高学年から中学校にかけて,近江鉄道の職員から日産自動車の営業マンに転身した従兄は,私の父に会いに頻繁に来てくれて,いろいろ面倒を見てくれたことを覚えています。会社をリタイアした後は,若いころから趣味にしていた絵画(油絵)や木工の仲間達と展覧会を開いたり,展示即売会をしたりして楽しくゆったりと過ごしていたようです。
<万葉集にでてくる笠>
さて,今回は笠をテーマに万葉集をみていきます。
笠とは頭にかぶる帽子の役目(日よけ,雨よけ,虫よけ,風で髪の乱れの防止など)をするものです。今では笠はあまり見かけなくなっていますが,広辞苑の逆引き辞典を見ると「○○笠」がたくさん出てきます。江戸時代までは外出時の日常品としてさまざまな笠が利用されていたようです。
今笠を見たければ,各地の祭り(山形:花笠まつり,徳島:阿波踊り,富山:おわら風の盆など)に行くと,踊り手がかぶっているのを見ることができます。
万葉時代,笠の材料は次の柿本人麻呂歌集に出てくる詠み人知らずの旋頭歌のように菅(すげ)を編んで作っていたことが想像できます。
はしたての倉橋川の川の静菅我が刈りて笠にも編まぬ川の静菅(7-1284)
<はしたてのくらはしがはのかはのしづすげ わがかりてかさにもあまぬかはのしづすげ>
<<倉橋川の川辺にいつも生えている菅を私が刈りました。でも,刈ったままで笠に編まないままにしてあるいつも川に生えている菅なのです>>
解釈がいろいろ考えられますが,幼なじみの二人がなかなか結婚まで行けないことを滑稽に詠ったものだと私は解釈します。なお,静菅は何か特別な菅の種類を指すのではなく,「静」が「動かない」という意味から,いつも生えているという意味にしました。
なお,次の詠み人知らずの短歌のように菅の笠も地域ブランドがあったようです。
おしてる難波菅笠置き古し後は誰が着む笠ならなくに(11-2819)
<おしてるなにはすがかさ おきふるしのちはたがきむ かさならなくに>
<<難波の菅笠であっても使わず放っておいたら誰かが使うでしょうか? そんな(安っぽい)笠ではないのに>>
この短歌もいろいろ解釈ができそうです。私の勝手な解釈ですが,作者は女性で,高級ブランドの難波菅笠(難波には品質の良い菅と優秀な笠職人がたくさんいた?)のようなプライドを持った人ではないでしょうか。この作者「いつまでもたっても通ってきてくれず,放っておいたら古びてしまいますわよ」と言いたげですね。
次の詠み人知らずの短歌から,そのほかにも菅笠の地域ブランドが想像できます。
人皆の笠に縫ふといふ有間菅ありて後にも逢はむとぞ思ふ(12-3064)
<ひとみなのかさにぬふといふ ありますげありてのちにも あはむとぞおもふ>
<<人が皆笠に編むという有間菅。そのように,生きていれば,いつかきっとあなたに逢えると思う>>
有馬温泉がある兵庫県南東部ではきっと良い菅が採れ,その菅を編んで作った菅笠が平城京の西の市,東の市で大量に売られていたのかもしれませんし,有馬温泉のお土産として売られていたのかもしれません。有馬(ありま)は,在り待つ(生きてひたすら待つ)を連想させる言葉だったのでしょうね。
何をやってもなかなか上手くいかないことが多い今の世の中ですが,自分が今できることを着実・地道に行い,チャンスの到来をじっと待つ忍耐力の重要さを私はこの短歌から感じ取ります。
さて,今もあるシリーズはいったんお休みし,来年1月7日までは年末年始スペシャルをお送りします。
年末年始スペシャル「今年を振り返って」に続く。
2012年12月16日日曜日
今もあるシリーズ「苗(なへ)」
先月(11月)18日の北海道は,記録的に初雪が遅かったそうです。旭川は観測史上もっとも初雪が遅かったとのことです。ところが,今月に入り気候は一変しました。冬至はまだ先だというのに真冬並みの寒波が繰り返しとやってきています。
各スキー場は営業開始予定が今週末からのところも多いですが,すでに雪は結構積もっているようですね。このまま大寒の時期になるとどんな寒さになるかちょっと心配ですし,雪国の方々にとっては長くて厳しい冬になるのかなと非常に気になります。
さて,これからさらに本格的に寒くなるという時期ですが,今回の話題は植物の苗の話です。
万葉時代,農家は今と同じ田植えをすでに行っていたことが,次の万葉集で紀女郎(きのいらつめ)が大伴家持に贈った短歌でわかります。
言出しは誰が言にあるか小山田の苗代水の中淀にして(4-776)
<ことでしはたがことにあるか をやまだのなはしろみづの なかよどにして>
<<頻繁に逢いたい言い出したの誰ですか?山奥にある田の苗代に引く水路が途中で淀んで流れなくしてしまったのは,家持君の方だよ>>
この短歌を紀女郎が家持に贈る前,家持は紀女郎に「貴女を恋い慕う気持ちは変わらないけれど,忙しくでなかなか逢う時間が作れない」という意味の短歌を贈っています。
<万葉集の苗代から見えるもの>
相聞歌としてこのやり取りは非常に興味がありますが,本日のテーマは「苗」なので,この短歌の「苗代」について考えます。
稲作は稲の実(米)を種として,薄く水を張った柔らかく,平らな土(これを苗代と呼びます)の上に均等に蒔きます。そして,10㎝ほど芽がでたら,土ごと切り取って,数株ずつ分けて,実ったとき稲刈りをする田に田植えをします。
田植えは,苗代でそのまま育てる場合,育成途中に間引きという行為を何度か行う手間が掛かります。その点,田植えの手間をいとわなければ,間引きの必要がなく,種(米)を無駄にしません(すべての種を育てます)。
<山奥の稲作の苦労と談諸関係の苦労>
この短歌でさらに興味深いのは,山奥にある田の話です。万葉時代には,稲田の開墾がかなり進み,里山深くに田ができていたということを示します。今,明日香村やその付近の里山を訪れると美しい棚田をたくさん見ることができます。もしかしたら,万葉時代もこのような棚田が数多く見られたのではないかとこの短歌で想像したくなります。
しかし,山深い場所で南国系の稲を育てるには工夫がいります。その一つが水路です。山の水をそのまま苗代に流すと水が非常に冷たく,稲の苗を痛めてしまいます。
そのため,苗代の入るまでの水路を長くして,水路を通っていくうちに水の温度が上がる仕組みを考えていたと考えられます。しかし,水路を長くすることは簡単ではありません。長ければ長いほど水路の下り傾斜を緩やかにしなければなりません。
少しでも逆勾配や落ち葉・泥などで詰まった部分があると,水はそこで止まってしまいます。管理する農家は,常に水路の泥や落ち葉をきれいにさらい,逆勾配の場所を付近の部分も含めて緩やかな下り勾配になるよう維持しなければなりません。
恋愛関係の維持するのは,そんな気の使い方が必要だと年上の紀女郎は若き家持に教えたのかもしれませんね。
次は稲以外の苗について大伴駿河麻呂(おほとものするがまろ)が大伴坂上二嬢(おほとものさかのうへのおといらつめ)を妻問う(娶る)ときに詠んだ短歌を紹介します。
春霞春日の里の植ゑ子水葱苗なりと言ひし枝はさしにけむ(3-407)
<はるかすみかすがのさとの うゑこなぎなへなりといひし えはさしにけむ>
<<春日の里のお家にある庭の池に植えられたコナギはまだ早苗でしたが,今は枝が分かれるほど立派に育ちましたでしょうか>>
この短歌は二嬢のお母さんである大伴坂上郎女(いらつめ)に贈ったようです。二嬢のお姉さんの大嬢は家持と結婚し,二嬢も奈良時代の大伴家としては出世した方の駿河麻呂と結婚させた母坂上郎女の手腕はなかなかのものだと改めて感心します。
さて,コナギは水生植物で育つと紫色の可憐な花を咲かせます。駿河麻呂と二嬢は幼いころから許婚(いひなづけ)であったのかもしれません。二嬢をコナギに喩えて詠んだようです。
もう1首,稲以外の苗を詠んだ詠み人知らずの短歌を紹介します。
三島菅いまだ苗なり時待たば着ずやなりなむ三島菅笠(11-2836)
<みしますげいまだなへなり ときまたばきずやなりなむ みしますがかさ>
<<難波の三島江に生えている菅はまだ苗だから,十分育つまで待とうとすると,だれかに刈り取られて結局三島菅笠ができず着けることができない>>
あきらかに菅は若い娘の喩えです。可愛いけどまだ幼いといって放っておいたら,いつの間にか別の男に取られていたということですね。そんな経験のある男性は,結構多いのではないでしょうか。
実は,私が小学校のとき好きだった同級生の女子の名前が早苗でした。その子が好きな男子生徒は結構いて,競争相手が多くて結局付き合えなかったのですが,「苗」のことを書いていて,少し思い出してしまいました。
さて,次回は三島菅笠の「笠(かさ)」を取り上げます。カサといっても雨の日に使うものではなく,どちらかというと夏のかんかん照りのときに頭にかぶる方のものです。
今もあるシリーズ「笠(かさ)」に続く。
各スキー場は営業開始予定が今週末からのところも多いですが,すでに雪は結構積もっているようですね。このまま大寒の時期になるとどんな寒さになるかちょっと心配ですし,雪国の方々にとっては長くて厳しい冬になるのかなと非常に気になります。
さて,これからさらに本格的に寒くなるという時期ですが,今回の話題は植物の苗の話です。
万葉時代,農家は今と同じ田植えをすでに行っていたことが,次の万葉集で紀女郎(きのいらつめ)が大伴家持に贈った短歌でわかります。
言出しは誰が言にあるか小山田の苗代水の中淀にして(4-776)
<ことでしはたがことにあるか をやまだのなはしろみづの なかよどにして>
<<頻繁に逢いたい言い出したの誰ですか?山奥にある田の苗代に引く水路が途中で淀んで流れなくしてしまったのは,家持君の方だよ>>
この短歌を紀女郎が家持に贈る前,家持は紀女郎に「貴女を恋い慕う気持ちは変わらないけれど,忙しくでなかなか逢う時間が作れない」という意味の短歌を贈っています。
<万葉集の苗代から見えるもの>
相聞歌としてこのやり取りは非常に興味がありますが,本日のテーマは「苗」なので,この短歌の「苗代」について考えます。
稲作は稲の実(米)を種として,薄く水を張った柔らかく,平らな土(これを苗代と呼びます)の上に均等に蒔きます。そして,10㎝ほど芽がでたら,土ごと切り取って,数株ずつ分けて,実ったとき稲刈りをする田に田植えをします。
田植えは,苗代でそのまま育てる場合,育成途中に間引きという行為を何度か行う手間が掛かります。その点,田植えの手間をいとわなければ,間引きの必要がなく,種(米)を無駄にしません(すべての種を育てます)。
<山奥の稲作の苦労と談諸関係の苦労>
この短歌でさらに興味深いのは,山奥にある田の話です。万葉時代には,稲田の開墾がかなり進み,里山深くに田ができていたということを示します。今,明日香村やその付近の里山を訪れると美しい棚田をたくさん見ることができます。もしかしたら,万葉時代もこのような棚田が数多く見られたのではないかとこの短歌で想像したくなります。
しかし,山深い場所で南国系の稲を育てるには工夫がいります。その一つが水路です。山の水をそのまま苗代に流すと水が非常に冷たく,稲の苗を痛めてしまいます。
そのため,苗代の入るまでの水路を長くして,水路を通っていくうちに水の温度が上がる仕組みを考えていたと考えられます。しかし,水路を長くすることは簡単ではありません。長ければ長いほど水路の下り傾斜を緩やかにしなければなりません。
少しでも逆勾配や落ち葉・泥などで詰まった部分があると,水はそこで止まってしまいます。管理する農家は,常に水路の泥や落ち葉をきれいにさらい,逆勾配の場所を付近の部分も含めて緩やかな下り勾配になるよう維持しなければなりません。
恋愛関係の維持するのは,そんな気の使い方が必要だと年上の紀女郎は若き家持に教えたのかもしれませんね。
次は稲以外の苗について大伴駿河麻呂(おほとものするがまろ)が大伴坂上二嬢(おほとものさかのうへのおといらつめ)を妻問う(娶る)ときに詠んだ短歌を紹介します。
春霞春日の里の植ゑ子水葱苗なりと言ひし枝はさしにけむ(3-407)
<はるかすみかすがのさとの うゑこなぎなへなりといひし えはさしにけむ>
<<春日の里のお家にある庭の池に植えられたコナギはまだ早苗でしたが,今は枝が分かれるほど立派に育ちましたでしょうか>>
この短歌は二嬢のお母さんである大伴坂上郎女(いらつめ)に贈ったようです。二嬢のお姉さんの大嬢は家持と結婚し,二嬢も奈良時代の大伴家としては出世した方の駿河麻呂と結婚させた母坂上郎女の手腕はなかなかのものだと改めて感心します。
さて,コナギは水生植物で育つと紫色の可憐な花を咲かせます。駿河麻呂と二嬢は幼いころから許婚(いひなづけ)であったのかもしれません。二嬢をコナギに喩えて詠んだようです。
もう1首,稲以外の苗を詠んだ詠み人知らずの短歌を紹介します。
三島菅いまだ苗なり時待たば着ずやなりなむ三島菅笠(11-2836)
<みしますげいまだなへなり ときまたばきずやなりなむ みしますがかさ>
<<難波の三島江に生えている菅はまだ苗だから,十分育つまで待とうとすると,だれかに刈り取られて結局三島菅笠ができず着けることができない>>
あきらかに菅は若い娘の喩えです。可愛いけどまだ幼いといって放っておいたら,いつの間にか別の男に取られていたということですね。そんな経験のある男性は,結構多いのではないでしょうか。
実は,私が小学校のとき好きだった同級生の女子の名前が早苗でした。その子が好きな男子生徒は結構いて,競争相手が多くて結局付き合えなかったのですが,「苗」のことを書いていて,少し思い出してしまいました。
さて,次回は三島菅笠の「笠(かさ)」を取り上げます。カサといっても雨の日に使うものではなく,どちらかというと夏のかんかん照りのときに頭にかぶる方のものです。
今もあるシリーズ「笠(かさ)」に続く。
2012年12月9日日曜日
今もあるシリーズ「稲(いね)」
<日本のコメの消費量>
総務省の家計調査によれば2011年世帯員が2人以上いる世帯において,コメの購入額が平均27,425円なのに対して,パンの購入額が28,321円となって,初めて逆転したという結果が出たということです。日本の家庭における洋食化が進んでいるということを速断するのは早いと思いますが,着実に家庭でのコメ離れが進んでいるといえるのかもしれません。
パンに比べてコメは炊く手間が掛かり,食べ終わった後や残ったものの処理が楽ではないなど,家庭での料理の手間を省きたい人にはどうしても手軽なパン食になるのかも知れまんね。ただ,外食やコンビニでは和定食,丼,チャーハン,おにぎりなど,ご飯が主体のメニューの消費は減っていないようで,日本人がコメを嫌いになったわけではなさそうです。
<蘖(ひこばえ)>
さて,今回はご飯の話は済んでいますので,ご飯のもとになる稲を取り上げます。
私はここ数年11月に車で関西に行き帰りしています。同じ時期なので,自然の風景は同じ場所では毎年それほど変わりませんが,ひとつ気になることがあります。稲刈りをした後に再生したように緑色に生え出す蘖(ひこばえ)の穭(ひつじ)田を多く見ます。昨年と同じ場所を見ると稲の蘖が心なしか大きくなっているように思うのです。
天の川 「はびとはん? 最初は「何とか省の何とか調査」なんて偉そうな資料を出したくせに,これはほんまに大雑把な話やな~。ちゃんと稲の高さを定規で長さを測らんとアカンがな」
天の川君,高速道路を走っている最中,降りて測れるわけないでしょ。それから,ちょっとした直感もけっこう当たることもあるからね。簡単に温暖化の影響かもしれないというのは良くないことかもしれませんが,やはり少し気になっています。
<コメの保管も大変>
ところで,刈り取った稲を脱穀してコメとして保管するのは,今でも結構コストがかかっています。
私の妻の親戚に埼玉県北部でおコメを作っている兼業農家があります。作っているのは80歳近いおじいさんで,息子や嫁は会社務めです。ときどきコメを分けてもらうのですが,玄米を10℃台に維持した冷蔵倉庫に保管しているそうです。妻の親戚のおじいさんが言うには「春夏に外気温と同じ温度で保管するとコメはすぐに味が落ちる」とのことでした。
もちろん,そんな冷蔵倉庫のない万葉時代,稲の保管についてこんな短歌が万葉集で詠まれています。
あらき田の鹿猪田の稲を倉に上げてあなひねひねし我が恋ふらくは(16-3848)
<あらきたのししだのいねを くらにあげてあなひねひねし あがこふらくは>
<<新しく開墾したがシカやイノシシが荒らす田の稲を倉に収納したが,月日が経ってしまったので陳(ひ)ねてしまった。私の恋と同じように>>
新しく開墾した田は土が痩せていて,シカやイノシシが植えた稲を食べたり,土を掘ったりして,稲を育てるに苦労します。ようやく収穫できたコメを倉庫に入れたが,管理が悪いまま長く置いておいたので,陳ねて味が悪くなってしまったのを嘆いています。
しかし,この短歌の稲の話は作者の恋人の譬えです。若い女性を早くから自分の恋人にしようと努力(シカやイノシシは恋敵)して,ようやく自分恋人にできた。ところが,この短歌の作者である忌部黒麻呂(いむべのくろまろ)は少し手紙のやり取りをおろそかにしただけで,その恋人との関係は冷えてしまったということらしいですね。
ただ,いずれにしても稲穂が熟して刈り取り(稲刈り)のときは,恋人をゲットできた時のように収穫の喜びで年間で一番楽しいひと時だったのでしょう。
万葉集にもこんな短歌があります。
秋の田の穂田の刈りばかか寄りあはばそこもか人の我を言成さむ(4-512)
<あきのたのほたのかりばか かよりあはばそこもかひとの わをことなさむ>
<<秋の田での稲刈りで刈る場所の担当が隣同士になったりするだけでも私たちのことをあれこれ噂をするのかな>>
この短歌,草嬢(くさのをとめ)が詠んだと題詞に書かれています。どんな女性かわかりませんが,稲刈りのとき地主に臨時に雇われた女性かもしれません。
今で言えば,たとえば税務申告時期に臨時で役所に派遣されてた女性と職員の男性が密かに良い仲になり,申告書類の分類作業で長机の隣同士になったときの会話などの雰囲気からそれを周りに悟られるのを心配している様子と似ているように思います。
小学校の頃,学校の掃除の担当(ゴミ捨て,窓ふき,雑巾がけ,机移動など)が好きな女の子と一緒になったときのことを思い出しました。
<太安万侶の墓を訪れる>
さて,日本のことを「瑞穂(みづほ)の国」(みずみずしい稲穂が実る国)といったり,古事記,日本書紀で天孫降臨の場所が高千穂(高く多くの稲穂のある場所)であるように,日本の成り立ちと稲作は密接に関係しているのだろうと私は考えます。少なくとも,古事記や日本書紀が編纂された平城京時代では,そう考えられていたのだといえそうです。
写真は,先月訪れたときに撮った古事記(今年は編纂1,300年)の編者太安万侶(おほのやすまろ)の墓とされる場所とそこから見下ろす茶畑や里山の風景です。下の田は穭田となっていて緑色に染まっています。こんな閑静で眺めの良いところに墓があるのは羨ましい限りだと私は思いました。
次回ととは稲や他の植物の「苗」ついて,万葉集を見ていくことにします。
今もあるシリーズ「苗(なへ)」に続く。
総務省の家計調査によれば2011年世帯員が2人以上いる世帯において,コメの購入額が平均27,425円なのに対して,パンの購入額が28,321円となって,初めて逆転したという結果が出たということです。日本の家庭における洋食化が進んでいるということを速断するのは早いと思いますが,着実に家庭でのコメ離れが進んでいるといえるのかもしれません。
パンに比べてコメは炊く手間が掛かり,食べ終わった後や残ったものの処理が楽ではないなど,家庭での料理の手間を省きたい人にはどうしても手軽なパン食になるのかも知れまんね。ただ,外食やコンビニでは和定食,丼,チャーハン,おにぎりなど,ご飯が主体のメニューの消費は減っていないようで,日本人がコメを嫌いになったわけではなさそうです。
<蘖(ひこばえ)>
さて,今回はご飯の話は済んでいますので,ご飯のもとになる稲を取り上げます。
私はここ数年11月に車で関西に行き帰りしています。同じ時期なので,自然の風景は同じ場所では毎年それほど変わりませんが,ひとつ気になることがあります。稲刈りをした後に再生したように緑色に生え出す蘖(ひこばえ)の穭(ひつじ)田を多く見ます。昨年と同じ場所を見ると稲の蘖が心なしか大きくなっているように思うのです。
天の川 「はびとはん? 最初は「何とか省の何とか調査」なんて偉そうな資料を出したくせに,これはほんまに大雑把な話やな~。ちゃんと稲の高さを定規で長さを測らんとアカンがな」
天の川君,高速道路を走っている最中,降りて測れるわけないでしょ。それから,ちょっとした直感もけっこう当たることもあるからね。簡単に温暖化の影響かもしれないというのは良くないことかもしれませんが,やはり少し気になっています。
<コメの保管も大変>
ところで,刈り取った稲を脱穀してコメとして保管するのは,今でも結構コストがかかっています。
私の妻の親戚に埼玉県北部でおコメを作っている兼業農家があります。作っているのは80歳近いおじいさんで,息子や嫁は会社務めです。ときどきコメを分けてもらうのですが,玄米を10℃台に維持した冷蔵倉庫に保管しているそうです。妻の親戚のおじいさんが言うには「春夏に外気温と同じ温度で保管するとコメはすぐに味が落ちる」とのことでした。
もちろん,そんな冷蔵倉庫のない万葉時代,稲の保管についてこんな短歌が万葉集で詠まれています。
あらき田の鹿猪田の稲を倉に上げてあなひねひねし我が恋ふらくは(16-3848)
<あらきたのししだのいねを くらにあげてあなひねひねし あがこふらくは>
<<新しく開墾したがシカやイノシシが荒らす田の稲を倉に収納したが,月日が経ってしまったので陳(ひ)ねてしまった。私の恋と同じように>>
新しく開墾した田は土が痩せていて,シカやイノシシが植えた稲を食べたり,土を掘ったりして,稲を育てるに苦労します。ようやく収穫できたコメを倉庫に入れたが,管理が悪いまま長く置いておいたので,陳ねて味が悪くなってしまったのを嘆いています。
しかし,この短歌の稲の話は作者の恋人の譬えです。若い女性を早くから自分の恋人にしようと努力(シカやイノシシは恋敵)して,ようやく自分恋人にできた。ところが,この短歌の作者である忌部黒麻呂(いむべのくろまろ)は少し手紙のやり取りをおろそかにしただけで,その恋人との関係は冷えてしまったということらしいですね。
ただ,いずれにしても稲穂が熟して刈り取り(稲刈り)のときは,恋人をゲットできた時のように収穫の喜びで年間で一番楽しいひと時だったのでしょう。
万葉集にもこんな短歌があります。
秋の田の穂田の刈りばかか寄りあはばそこもか人の我を言成さむ(4-512)
<あきのたのほたのかりばか かよりあはばそこもかひとの わをことなさむ>
<<秋の田での稲刈りで刈る場所の担当が隣同士になったりするだけでも私たちのことをあれこれ噂をするのかな>>
この短歌,草嬢(くさのをとめ)が詠んだと題詞に書かれています。どんな女性かわかりませんが,稲刈りのとき地主に臨時に雇われた女性かもしれません。
今で言えば,たとえば税務申告時期に臨時で役所に派遣されてた女性と職員の男性が密かに良い仲になり,申告書類の分類作業で長机の隣同士になったときの会話などの雰囲気からそれを周りに悟られるのを心配している様子と似ているように思います。
小学校の頃,学校の掃除の担当(ゴミ捨て,窓ふき,雑巾がけ,机移動など)が好きな女の子と一緒になったときのことを思い出しました。
<太安万侶の墓を訪れる>
さて,日本のことを「瑞穂(みづほ)の国」(みずみずしい稲穂が実る国)といったり,古事記,日本書紀で天孫降臨の場所が高千穂(高く多くの稲穂のある場所)であるように,日本の成り立ちと稲作は密接に関係しているのだろうと私は考えます。少なくとも,古事記や日本書紀が編纂された平城京時代では,そう考えられていたのだといえそうです。
写真は,先月訪れたときに撮った古事記(今年は編纂1,300年)の編者太安万侶(おほのやすまろ)の墓とされる場所とそこから見下ろす茶畑や里山の風景です。下の田は穭田となっていて緑色に染まっています。こんな閑静で眺めの良いところに墓があるのは羨ましい限りだと私は思いました。
次回ととは稲や他の植物の「苗」ついて,万葉集を見ていくことにします。
今もあるシリーズ「苗(なへ)」に続く。
2012年12月5日水曜日
今もあるシリーズ「杯(さかづき)」
今の世の中,忘年会シーズンですね。いくら不景気とはいえ,今週ボーナスが出る人が多いと思います。きっと,今週末から来週にかけて,あちこちの居酒屋やレストランで多くの人たちが「乾杯」をする姿が見られるのだろうと予想しています。
さて,今「杯」の漢字は訓読みで「さかずき」と読みます。次の万葉集の長歌から万葉時代では,「つき(杯または坏)」は,お酒を入れるためだけではなく,様々な飲み物,食べ物を入れる丸い形をした器を指していたようです。
鹿島嶺の 机の島の しただみを い拾ひ持ち来て 石もち つつき破り 早川に 洗ひ濯ぎ 辛塩に こごと揉み 高坏に盛り 机に立てて 母にあへつや 目豆児の刀自 父にあへつや 身女児の刀自(16-3880)
<かしまねのつくゑのしまの しただみをいひりひもちきて いしもちつつきやぶり はやかはにあらひすすぎ からしほにこごともみ たかつきにもりつくゑにたてて ははにあへつやめづこのとじ ちちにあへつやみめこのとじ>
<<鹿島嶺近くの机島でシタダミ(巻貝)を取って帰り,石で殻を割り,早い川の流れで綺麗に洗い,辛塩でよく揉んで,脚付きの器に盛りつけて,机の上に置いて,お母さんに差し上げましたか可愛いお嫁さん,お父さんにご馳走しましたか,愛くるしいお嫁さん>>
この長歌は,今の石川県の能登地方に伝わる歌謡を万葉集で紹介しているようです。
<嫁として嫁いだ先の両親とうまくやる方法>
嫁に行った夫の家で舅,姑とうまくやる(この嫁は気が利くなあと思わせる)にはどうしたらよいか教えてくれているようです。当時,妻問婚が主流だったようですが,庶民(特に漁村)の間では,嫁取り婚の風習がある地方もあったのではないかと私は想像します。当時の都人にとってはなじみのない嫁取り婚で,女性が血のつながりのない義親とどううまくやっていくのか,興味津々でこの長歌を見たのではないでしょうか。
でも,万葉集で杯を詠んだ他の和歌は,酒を注ぐための杯ばかりです。
春日なる御笠の山に月の舟出づ風流士の飲む酒杯に影に見えつつ(7-1295)
<かすがなるみかさのやまにつきのふね いづ みやびをののむさかづきにかげにみえつつ>
<<奈良春日の三笠山に船のような月が出たぞ。風流な人たちが飲む酒杯の中に映っているね>>
この旋頭歌は,月見の宴で出席者が待ち遠しい月がようやく三笠の山に出た瞬間を詠んだものだと私は感じます。出た月を杯の酒に映しながら飲むとまた格別な味がしたのでしょう。こういった趣向を楽しむ風流人が奈良の都にはたくさんいたのかもしれませんね。
さて,最後は酒は花見で一杯が定番ですが,万葉時代では桜の花見ではなく,梅の花見が盛んだったようです。
酒杯に梅の花浮かべ思ふどち飲みての後は散りぬともよし(8-1656)
<さかづきにうめのはなうかべ おもふどちのみてののちは ちりぬともよし>
<<酒杯に梅の花を浮かべて友達同士で飲んだ後は,(梅の花が)散ってしまっても構いませんね>>
この短歌は,坂上郎女が詠んだとされています。花見など大勢で行う宴会ではお酒を飲んではいけないという禁酒令が出ている中,少ない人数で風流に梅の花を杯の酒に浮かべて歌でも詠みながら飲みましょう。それが許されるなら,散った後でもお酒を友達飲めますからという意味でしょうか。坂上郎女,その友人もお酒が大好きだったのですね。さすがに大伴旅人の親戚です。
次回は酒の原料である稲について取り上げます。
今もあるシリーズ「稲(いね)」に続く。
さて,今「杯」の漢字は訓読みで「さかずき」と読みます。次の万葉集の長歌から万葉時代では,「つき(杯または坏)」は,お酒を入れるためだけではなく,様々な飲み物,食べ物を入れる丸い形をした器を指していたようです。
鹿島嶺の 机の島の しただみを い拾ひ持ち来て 石もち つつき破り 早川に 洗ひ濯ぎ 辛塩に こごと揉み 高坏に盛り 机に立てて 母にあへつや 目豆児の刀自 父にあへつや 身女児の刀自(16-3880)
<かしまねのつくゑのしまの しただみをいひりひもちきて いしもちつつきやぶり はやかはにあらひすすぎ からしほにこごともみ たかつきにもりつくゑにたてて ははにあへつやめづこのとじ ちちにあへつやみめこのとじ>
<<鹿島嶺近くの机島でシタダミ(巻貝)を取って帰り,石で殻を割り,早い川の流れで綺麗に洗い,辛塩でよく揉んで,脚付きの器に盛りつけて,机の上に置いて,お母さんに差し上げましたか可愛いお嫁さん,お父さんにご馳走しましたか,愛くるしいお嫁さん>>
この長歌は,今の石川県の能登地方に伝わる歌謡を万葉集で紹介しているようです。
<嫁として嫁いだ先の両親とうまくやる方法>
嫁に行った夫の家で舅,姑とうまくやる(この嫁は気が利くなあと思わせる)にはどうしたらよいか教えてくれているようです。当時,妻問婚が主流だったようですが,庶民(特に漁村)の間では,嫁取り婚の風習がある地方もあったのではないかと私は想像します。当時の都人にとってはなじみのない嫁取り婚で,女性が血のつながりのない義親とどううまくやっていくのか,興味津々でこの長歌を見たのではないでしょうか。
でも,万葉集で杯を詠んだ他の和歌は,酒を注ぐための杯ばかりです。
春日なる御笠の山に月の舟出づ風流士の飲む酒杯に影に見えつつ(7-1295)
<かすがなるみかさのやまにつきのふね いづ みやびをののむさかづきにかげにみえつつ>
<<奈良春日の三笠山に船のような月が出たぞ。風流な人たちが飲む酒杯の中に映っているね>>
この旋頭歌は,月見の宴で出席者が待ち遠しい月がようやく三笠の山に出た瞬間を詠んだものだと私は感じます。出た月を杯の酒に映しながら飲むとまた格別な味がしたのでしょう。こういった趣向を楽しむ風流人が奈良の都にはたくさんいたのかもしれませんね。
さて,最後は酒は花見で一杯が定番ですが,万葉時代では桜の花見ではなく,梅の花見が盛んだったようです。
酒杯に梅の花浮かべ思ふどち飲みての後は散りぬともよし(8-1656)
<さかづきにうめのはなうかべ おもふどちのみてののちは ちりぬともよし>
<<酒杯に梅の花を浮かべて友達同士で飲んだ後は,(梅の花が)散ってしまっても構いませんね>>
この短歌は,坂上郎女が詠んだとされています。花見など大勢で行う宴会ではお酒を飲んではいけないという禁酒令が出ている中,少ない人数で風流に梅の花を杯の酒に浮かべて歌でも詠みながら飲みましょう。それが許されるなら,散った後でもお酒を友達飲めますからという意味でしょうか。坂上郎女,その友人もお酒が大好きだったのですね。さすがに大伴旅人の親戚です。
次回は酒の原料である稲について取り上げます。
今もあるシリーズ「稲(いね)」に続く。
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