2011年5月1日日曜日

私の接した歌枕(6:若狭)

若狭は福井県の南西部に位置し,若狭湾に面した地域を指します。
<少年時代の思い出>
私が少年時代住んでいた京都市の山科からは距離的に結構近い場所なのです。
私の父は大の海水浴好きで毎年のように家族で若狭湾にある海水浴場につれて行ってくれました。たまに民宿に泊まることもありましたが,ほとんどがお金を掛けない日帰りでした。
当時,仕事でマツダのファミリアバンに乗っていた父は,バンの後ろにゴザ,ビーチパラソル,タイヤのチューブ(浮輪用),携帯コンロ,おにぎり,野菜,大量のインスタント焼きそばなどを積んで,深夜に家を出ました。
国道1号線を東京方面に向かい,逢坂山を越え,大津から国道161号線を琵琶湖の西岸を北上します。近江今津で国道303号線(若狭街道)に入り,水坂峠を越えて福井県に入ると国道27号線(丹後街道)から小浜市に向かいます。小浜市から目的の海水浴場によって西に行くか,東に行くかが決まります。
丹後街道を西に行くと若狭和田若狭高浜の近辺の海水浴場や岩場(素潜りのため),国道162号線を東へ行くと三方五湖を過ぎ,美浜町近辺の海水浴場を目指しました(さらに東行して敦賀の気比の松原付近まで行くこともありました)。
夜明け前には海水浴場に着き(どこもとても水が綺麗),夕方近くまで家族で泳ぎ,帰路は来た道以外の道も探検しながら自宅にもどりました。14年ほど前に加賀温泉に父と母を連れていった帰り道「僕がちっちゃい頃,よう海水浴に連れてってくれたなあ~」と久々に若狭にも寄ってみました。どの町や漁村も私の少年時代とあまり変わらず,美しい風景はまるで次の万葉集の短歌のようでした。

若狭なる三方の海の浜清みい行き帰らひ見れど飽かぬかも(7-1177)
わかさなるみかたのうみのはまきよみ いゆきかへらひみれどあかぬかも
<<若狭に来て三方の湖の浜が清らかで,行ったり来たりしていろんな場所から眺めても見飽きることがない>>

今は亡き父,若い時は行動的だったけれど老いてからは遠出する機会も少なくなっていたので,昔の家族との思い出の場所に連れて行ってくれたことを大変喜んでくれました。
<IT研究会のアレンジ>
ところで,そんな経験から私は東京に来てからも若狭湾についての土地勘が十分あったことが役に立ちました。
11年ほど前になりますが,ソフトウェア保守開発専門の研究会(私は幹事の一人)の年次研究会会場を小浜市で開催してはどうかと提案しました。
今でこそ前回アメリカ大統領選(任期2009年1月~2007年1月)で同音のオバマ候補を応援したとか,貫地谷しほり主演のNHK連続テレビ小説「ちりとてちん」(放送2007年10~2008年3月)の舞台になったことで名前を知っている人も多いと思いますが,当時,研究会の他の幹事や研究員は小浜市がどこにあるのか,どんな交通手段で行けばよいか皆目見当もつかない様子で,実は反対も多かったのです。「ここは私が一切を仕切りますので任せてください」として,半ば強引に開催地の了解を取り付けました。
<小浜市は便利な交通手段が皆無>
何せ近くに飛行場はありません。新幹線も近くを通っておらず,東京,大阪,名古屋から直通の高速バスもありません。JR小浜線は完全な地方路線で,1時間に1本あるかどうかです。でも,私には土地勘を生かした比較的スムーズな移動手段の案がすでにありました。
参加予定者は30名ほどでしたので,私は宿泊予定の小浜市のホテルと交渉し,近江今津駅まで送迎バスで迎えに来てほしいと依頼しました。県境を越えて滋賀県まで迎えに来いと要求した団体客は今までなかったようで,ホテル側は最初は難色を示しました(私も少し焦りました)。しかし,東京,大阪,名古屋からわざわざ来るという話をして説得し,何とか特別に取り計らってもらえることができました。
参加者には新幹線で京都まで来てもらい,JR湖西線の指定発車時刻の新快速に乗り換え近江今津まで乗車するよう案内しました。JR湖西線で近江今津まで乗ったことのある参加者は誰もいませんでした。新快速列車は平日の昼であり堅田を過ぎる辺りから,乗客はほとんど参加者ばかりとなりました。そのため,参加者同士が車窓から美しい琵琶湖を眺めながらはしゃいでまるで遠足気分。
<ホテルバスの粋な取り計らい(熊川宿散策)>
京都から50分足らずで近江今津に着くと,予定通りホテルの送迎バスが迎えに来てくれていました。
バスは山道の国道に入りますが,ほどなく峠のトンネルを越えて,熊川宿で散策の時間をとるという計らいをしてくれたのです(私は特にお願いをしていませんでした)。
熊川宿は若狭(鯖)街道の宿場町として栄え,その名残の街並みがしっかり残されており,参加者にも昔にタイムスリップした感じしたと大変歓んでくれました。
そこから,30分も掛からず小浜市のホテルに着き,2泊3日の研究会が始まりました。毎食では美味しい山海の幸を堪能してもらい,研究会の途中に少し空いた時間を作り小浜市の古いお寺群をめぐってもらったのです。
若狭地方にこんな雰囲気が良くて,歴史ある町があったことを研究会参加者の多くは始めて知り,研究会自体のプログラムも活発に実施され,高い開催評価を得ることができたのです。

さて,万葉集で若狭を詠んだもう1首の短歌があります。
後に大伴家持の妻になる坂上大嬢が家持と恋の歌のやり取りを行ったなかの1首です。

かにかくに人は言ふとも若狭道の後瀬の山の後も逢はむ君(4-737 )
かにかくにひとはいふとも わかさぢののちせのやまののちもあはむきみ
<<とやかく他人は言うでしょうが、若狭道の後瀬山のように後にはお逢いしましょうね>>

後瀬山は小浜市内にある小高い山で,万葉時代からそこに行くと別れた後も逢瀬が可能という言い伝えがあった。この短歌で大嬢はそれを引合いに出したのでしょう。
家持も大嬢も小浜には行っていないと思います。ただ,二人はまさに後瀬山の言い伝えのように,いったん破局を迎えますが,結局は結婚することができたのです。
なお,若狭の後瀬山の伝説が奈良の都まで知られているということは,今の小浜の地に多くの人が住んでいたのでしょう。船を使った交易の港があり,鯖や海藻など海産物を陸揚げする立派な漁港もあり,都から若狭道を通って多くの商人がやってきては買付をする活気ある町だったに違いないと私は思います。当時,琵琶湖の海運も熊川宿もそういった行き来で栄えたのでしょう。
私の接した歌枕(7:京都伏見)に続く。

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