私が生まれた京都市伏見区には4歳までしかいませんでしたので,伏見での出来事は少ししか記憶がありません。
私の父と母は結婚後,京阪電鉄本線伏見桃山駅近くで,ご主人がアメリカ進駐軍(近くに進駐軍の支所があった)に勤務していた家の8畳1間を間借りしていました。
間借りしていたお宅はおそらく地元の名家(学者先生)だったのでしょう。
私の父は京都市内にあるいろんな工場に機械工具,部材などを注文があればバイクの荷台に載せ届ける商売をしていました。
私が一度だけご主人の書斎に入ってしまった記憶があります。書斎には立派な本棚に本がいっぱい入っていて,ご主人は多分英語新聞と思われるものを読んでいました。「お仕事のお邪魔せんようにな!」と母からすぐ連れだされたようなかすかな記憶があります。
ご主人の息子さんは高校生で,私とよく遊んでくれたようです。
私の家族が山科に引っ越した何ヶ月か後,息子さんが「何とか京大に受かりました。」と山科まで挨拶に来てくれたことははっきり記憶に残っています。
さて,万葉集で伏見を詠んだ和歌は,柿本人麻呂歌集から選んだという詠み人知らずの次の短歌1首のみです。ここに出てくる「射目人の」は伏見に掛かる枕詞です。
巨椋の入江響むなり射目人の伏見が田居に雁渡るらし(9-1699)
<おほくらの いりえとよむなり いめひとの ふしみがたゐに かりわたるらし>
<<巨椋池の入江で鳴き声が響いている。伏見の田んぼに雁が渡ってきているらしい>>
巨椋池(おぐらいけ)は昭和初期から戦中で干拓されるまで,京都の南部に位置する非常に大きな池(というより湖と呼べるもの)でした。
万葉時代,巨椋池には宇治川,木津川,桂川から大量の水が流入していつも豊富な水を湛えていたものと思われます。
この三川が大雨でさらに大量の水を流入させても巨椋池が自然のダム(バッファプール)の働きをして下流の淀川が大洪水を起こす可能性をきっと低くしていたと私は想像しています。
また,巨椋池のお陰で宇治川,木津川,桂川,淀川の舟の運航がスムーズにできたはずです。
こんな巨椋池は雨の多い季節には面積を増し,雨量の少ない時期には面積が小さくなったことでしょう。
季節により水に浸かったり,露出したりする土地(伏見の西部も)は,実は土地の栄養分が高く稲作に非常に適した場所だったといえます(人が住むのに適さないでしょうが)。
この短歌のように田んぼにはドジョウなどがいっぱいいて雁も美味しい食事にありつけたのでしょう。
ここで作られたお米は木津川を経由して明日香や奈良の京(みやこ)に送られ,京人の胃袋を満たしたに違いありません。巨椋池ではもちろん魚もたくさん獲れ,きっと京の食卓を多彩にしたことでしょう。
平安京になって,送り先は桂川,鴨川,高瀬川を通じて平安京内に変わっても伏見の稲作の重要性は変わりませんでした。
美味しいお米が安定的に収穫でき,井戸を掘ると綺麗で美味しい伏流水(伏し水⇒伏見との説もある)が豊富に流れていたのですから,伏見は銘酒の産地としても古くから有名だったと私は考えます。私の父は山科に引っ越した後もよく伏見の酒「明ごころ」の2級酒で晩酌していました。残念ながら「明ごころ」の蔵元は酒造から撤退し,今は幻の酒となっています。
天の川 「たびとはん。有名な伏見の酒の銘柄を入れて短歌を作ったで~。『富翁は あ玉乃光 松竹梅 日出盛も月桂冠にも』。どや? ただ,英勲もあるけど入れられへんかったな。ハハ。」
天の川君のセンスではこの程度が精いっぱいでしょう。
さて,「松竹梅」「宝焼酎」「Canチューハイ」「一刻者」の宝酒造が「タカラ(寶)ビール」を造っていたとき私は未成年でした。私には「タカラビール」どんな味か分かりませんが,ネット限定(数量限定)販売で復刻するとそれなりに評判になるかも知れませんね。
私の接した歌枕(8:唐崎)に続く。
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