「恋ふ」とは,相手(花鳥風月のように,人間だけとは限らない)に心が魅かれる,慕い求める,焦がれる,愛でるといった意味です。
当然,この気持ちを誰かに(妻,夫,恋人のような相手だけではなく友人等にも)伝えることになるが,ただ「恋ふ」だけではどの程度「恋ふ」の気持ちが強いのか分かりません。
外国のある国では「愛する」気持ちの強さを表す基準は,何回相手に「愛してる」と繰り返し言ったかが大きなウェイトを占めるということを聞いたことがあります。そのため,「最近1日に『愛してる』と彼が私に言った回数が減ってきた。彼の私に対する愛が冷めてきたのではないかと心配です」といった女性から真剣な人生相談が出るほどだそうです。
実は「恋ふ」ではないですが,万葉集でも繰り返し同じことを言うことでその程度の強さを表現した短歌(大海人皇子が詠んだとされる)があります。
淑き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見(1-27)
<よきひとのよしとよくみてよしといひし よしのよくみよよきひとよくみ>
<<昔の立派な人が素晴らしい所だと何度も見て,それでも素晴らしい所だと言ったというこの吉野をよく見ると良い。今の善良な人たちもこの地を何度も見てほしい>>
「恋ふ」という気持ちの動きを伝える表現を万葉集で見ると,少し違う基準があるように私は感じます。
何度も「恋ふ」と繰り返すのではなく,喩え話を出して,強く,いつまでも変わることがなく,大きく,深く,揺るぎなく「恋ふ」気持ちを表現している和歌が多いようにに感じます。
ますらをの現し心も我れはなし夜昼といはず恋ひしわたれば(11-2376)
<ますらをのうつしごころもわれはなし よるひるといはずこひしわたれば>
<<立派な男だてを示すガッツは私にはありません。夜昼もなく貴女のことを恋し続けているのですから>>
この詠み人知らずの短歌は,貴女のことを恋し,貴女のことだけを考えていると何も手が付かないほど貴女を「恋ふ」自分であることを伝えようとしているのです。
恋愛は人を元気にするという見方も多いかもしれませんが,万葉時代から日本では強烈な「恋ふ」気持ちはその人を落ち込ませてしまう表現も少なくありません。
その典型が「恋患い(恋煩い)」という状態ではないでしょうか。
ところで「恋煩い」を茶化した落語の演目で,次の百人一首の歌を使った「崇徳院」と名付けられたものがあります。
瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ(崇徳院:77)
落語「崇徳院」のストーリはインターネット等でご確認いただくとして,主人公の熊さんに助けを求めた大店(おおだな)の若旦那の恋患いはあまりにも重篤で,若旦那曰く「医者の診たてだと後5日の命」とのこと。
もちろん,恋煩いで余命5日というのは落語独特の作り話だとしても,このように恋患いが重症になり,周りがどうしょうもない状態になることもあり得る話だったのかもしれませんね。
万葉集でも,次のように恋患いと必死に戦っている詠み人知らずの短歌があります。
ひとり居て恋ふるは苦し玉たすき懸けず忘れむ事計りもが(12-2898)
<ひとりゐてこふるはくるし たまたすきかけずわすれむことはかりもが>
<<独りで恋する貴女のことばかり考えていて苦しくて仕方がない。何とか忘れる方法を考えなければなあ>>
こういった,恋患いが回復せず進むと死ぬほどつらい状況になって行きます。
次回は,「恋ふ」が昂じてついに「死ぬ?」について万葉集を見て行くことにします。
恋ふ(3)に続く。
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