2011年5月3日火曜日
私の接した歌枕(8:唐崎)
琵琶湖の南西部に位置し,琵琶湖に向かって小さく緩やかな円弧を描いて張り出している場所が唐崎です。
唐崎は一般に○○崎と呼ばれる場所のような突き出し方をしておらず,地図を見てもあまり特徴のない地形に見えます。
私はここを2~3度しか訪れていませんが,私にとって琵琶湖で最初に思いつくのはやはり唐崎なのです(写真は今年久々に訪れたときに撮ったものです)。
万葉集では「志賀の唐崎」または「志賀の辛崎」と呼ばれていますが,私にとって唐崎が心に残るのは何といっても次の柿本人麻呂の有名な短歌(長歌の反歌)があるからです。
楽浪の志賀の辛崎幸くあれど大宮人の舟待ちかねつ(1-30)
<ささなみのしがのからさきさきくあれど おほみやひとのふねまちかねつ>
<<志賀の唐崎は今も昔と変わらず無事であるけれども大宮人の舟を待つことはできないのだ>>
唐崎は,大津京があったとき,大宮人が舟遊びや魚釣りなどを楽しんだ象徴的な場所だったのでしょう。
さて,天智天皇がなぜ志賀の大津に京を移そうとしたのでしょうか。
もちろん私の勝手な解釈ですが,志賀の大津は奈良盆地に比べ,琵琶湖を経由して全国各地から物資が集まりやすく,琵琶湖は海に比べて格段に穏やかで,獲れた新鮮な魚や貝(特に瀬田シジミは旨い)はほとんど輸送することなく食料にできる地です。
自らの信ずる合理性でさまざまな改革を急速に行い,水に関する科学にも興味があったという天智天皇(日本の水時計の創始者ともいわれている)にとって,琵琶湖はことのほか興味を抱かせたのではないかと私は思います。
天智天皇は,合理性を追求していけばいずれ周りが分かってくれる信じていたのかも知れません。
しかし,それは結局周囲(特に大海人皇子)に理解されず,天智天皇がこの世を去った後,壬申の乱が起き,大津の京はあっという間に廃墟と化したのです。
唐崎は大津の京跡からは数㎞離れた場所です。大津の京が廃れた後もそのまま残っている唐崎は大津の京の象徴として,次の短歌のように人々の記憶に残ったのでしょう。
天地を嘆き祈ひ祷み幸くあらばまたかへり見む志賀の唐崎(13-3241)
<あめつちをなげきこひのみ さきくあらばまたかへりみむ しがのからさき>
<<天地の神に嘆き,祈り,求めて,無事でいられるなら是非また戻ってきて見たいものだ志賀の唐崎を>>
この短歌も長歌の反歌ですが,この短歌の左注には佐渡に配流になる穂積老が詠んだ記録があるとあります。
こんな左注を見ると,私は万葉集をあるフィルター(色メガネ)を掛けて分析したくなることがあります。
そのフィルターとは,天武天皇から称徳天皇までの天武系天皇の時代のあらゆる階層の和歌を記録し,検証することが万葉集の目的の一つではないかという先入観のことです。それ以前の和歌も万葉集にはありますが,目的をぼかすためだったかもしれません。
その期間は天智天皇の死から藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱が鎮圧されるまでです。
それは琵琶湖の西岸(大津京)に始まり,琵琶湖の西岸(仲麻呂が殺害された安曇川河口付近の湖岸)で終わる万葉集の壮大な物語なのです。
私の接した歌枕(9:砺波)に続く。
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