今回から,「たなびく」を題材に万葉集での用例を見て行きます。
「たなびく」を「棚引く」とせず平仮名にしたのは,棚のように引くという意味ではなく,接頭の「たな」は「十分に」「一面に」「広く」といった意味もあるかからです。そうすると「たなびく」は「一面に引いて広がる」といった意味になる可能性があります。
また,接頭の「た」は語調を強めたり,文字数を調整したりする意味があります。そうすると「たなびく」は「靡く」を強調した「た靡く」というい解釈ができるかもしれないのです。
このシリーズで「靡く」の後に「たなびく」について触れたのも,両者に関係があるのかもしれないと考えたからです。
さて,「たなびく」対象として,万葉集でどんなものが出てくるのか調べてみると,ほぼ「雲」「煙(けむり)」「霧」「霞」の4種類です。
今回は,まず「たなびく雲」を見て行きましょう。
昨日こそ君はありしか思はぬに浜松の上に雲にたなびく(3-444)
<きのふこそきみはありしか おもはぬにはままつのうへにくもにたなびく>
<<昨日という日あなたは生きていた。それが今日は思いもかけず浜松の上に雲となってたなびいている>>
この短歌は,天平元<729>年,丈部龍麻呂(はせつかべたつまろ)が突然自殺してしまったことに対し,本人との関係は不明だが判官大伴三中(おおとものみなか)が弔いとして詠んだ長歌の反歌です。
長歌では龍麻呂には父母妻子がいたにも関わらず,突然自殺した原因は一体何なんだろうと詠んでいます。
そして,この反歌で,龍麻呂が今日は天に昇り(たなびく雲となり),今日はもうこの世にいないという突然の死に対する戸惑いを詠んでいるのです。
律令制度では,優秀であれば家系や生まれた場所に関わらず,官吏として昇進できる可能性があったようです。
しかし,チャンスがあるとはいっても周囲が期待するほど思うように昇進できる人はわずかで,例え昇進できても官僚組織内の力関係などで自らの能力を発揮できないことに悩む人多かったのかもしれません。
まさに,今の能力・効率主義万能の時代のようにです。
ここにありて筑紫やいづち白雲のたなびく山の方にしあるらし(4-574)
<ここにありてつくしやいづち しらくものたなびくやまのかたにしあるらし>
<<ここ奈良から見て筑紫はどっちの方だろうか。白雲がたなびく山の遥か彼方であるらしい>>
いっぽう,この短歌は奈良に帰任した大伴旅人が,大宰府長官時代筑紫で和歌を交わし合い,筑紫に残っている沙弥満誓から贈られてきた短歌の返信として詠んだものです。
旅人が大納言に昇任(天平2<730>年11月)し,筑紫から帰任(同年12月)した後,翌年7月に66歳で没するまでの間に詠んだものと考えられます。
沙弥満誓が贈った「筑紫に貴殿がいなくなって寂しい」という歌(4-572,573)に対し,旅人は「筑紫の思い出は忘れることはない。筑紫の方角がいつも気になる。たなびいた雲のはるか先には筑紫があるのだろう。」とこの短歌で返したのでしょう。
大宰府長官時代,筑紫で妻を亡くし(埋葬した墓は筑紫に?),余命いくばくもない衰えた身体で遠路都まで帰った旅人にとって,懐かしい人々と和歌を交わすぐらいしかできない状態だったに違いありません。
旅人は,自分が死んだら,きっと「たなびく雲」となって,懐かしい人々を上から眺めようという気持ちになっていたのかもしれません。
難波津を漕ぎ出て見れば神さぶる生駒高嶺に雲ぞたなびく(20-4380)
<なにはとをこぎでてみれば かみさぶるいこまたかねにくもぞたなびく>
<<難波津を漕ぎ出て後方を見れば,神々しくも生駒の高嶺に雲がたなびいている>>
この短歌は,下野国梁田(やなだ)郡(今の栃木県足利市の西部)出身の防人である大田部三成(おほたべのみなり)が難波の港から防人に旅立つ(出帆)時に詠んだものです。
後世に「難波津」と漢字を当てていますが,万葉仮名は「奈尓波刀」のなっているため,「なにはと」と発音し,「難波門」とする本もあるようです。
この防人は難波の波止場を出港して,遠ざかる難波の港を眺めるていると生駒山の雲が一面に広がっている姿を見て,神が宿る荘厳な山だと感じのかも知れません。
前の旅人の短歌は生駒山を奈良から(西に)見,この防人の歌は難波津から(東に)見ていたのだろうと私は感じます。
このように,万葉時代「たなびく雲」には厳か,遠い彼方,人間の死後をイメージする何かが詠み手のなかに存在していたようだと私は思います。
たなびく(2)に続く。730>729>
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