前回紹介した「うち靡く」という枕詞に続くのは万葉集では「春」が圧倒的に多いのですが,「靡く」は秋風に関係して使われています。
秋風に靡くものは何か,いくつか見てみましょう。
秋の野に咲ける秋萩秋風に靡ける上に秋の露置けり(8-1597)
<あきののにさけるあきはぎ あきかぜになびけるうへに あきのつゆおけり>
<<秋の野に咲いた秋萩が秋風に靡いているその上に秋の露が乗っている>>
この短歌は,先月19日の当ブログで,大伴家持が25歳の時,恭仁京付近で秋を読んだ3首の最後1首を紹介しましたが,この短歌はその3首の内の最初の1首です。
「秋」という言葉が4回も出てくる短歌で,言葉遊びで家持が作ったのではないかという評価があるそうです。
靡いているのは秋の野に咲いた秋萩で,靡かせているのは秋風です。
真葛原靡く秋風吹くごとに阿太の大野の萩の花散る(10-2096)
<まくずはらなびくあきかぜふくごとに あだのおほののはぎのはなちる>
<<葛の原を靡かせる秋風が吹くたびに、阿太の大野に咲く萩の花が散ってしまう>>
詠み人知らずのこの短歌は,靡いているのは葛の原の葛で,靡かせているのは同じく秋風です。
夏に強烈に繁茂し,密集した葛の蔓(つる)が靡く位なので,阿太の大野に吹く秋風は萩の花も散るほどの強い風なのでしょうね。
秋の野の尾花が末の生ひ靡き心は妹に寄りにけるかも(10-2242)
<あきのののをばながうれのおひなびき こころはいもによりにけるかも>
<<秋の野の尾花の先が(秋風に)次々生えて靡くように、俺の気持ちはあの娘にだんだん魅かれているのかなあ>>
これも詠み人知らずの短歌です。靡いているのは尾花(ススキ)の先の穂であり,靡かせているのはやはり秋風となるでしょう。
しかし,この短歌が伝えたいことは,靡いているのは俺の心で,靡かせているのはあの娘となります。
秋風に靡く川辺のにこ草のにこよかにしも思ほゆるかも(20-4309)
<あきかぜに なびくかはびのにこぐさの にこよかにしもおもほゆるかも>
<<(天の川のほとりで)秋風に靡いているにこ草(柔らかい草)のように,わたしもにこやかな気持ちになるのね>>
この短歌は,家持36歳の天平勝宝6(754)年七夕に夜空に向かって独詠した七夕の歌8首の中の1首です。
この短歌は家持が織姫の立場で詠んだものだと言われています。
靡いているのはにこ草で,靡かせているのはここも秋風です。にこ草が靡くように一年に一度の七夕に貴方と逢えると思うとにこやかな気持ちになるという,そんなイメージであってほしいと家持は詠ったのかも知れません。
3回に渡り万葉集の「靡く」を見てきましたが,「靡く」は非常に良いイメージの言葉であって,そうあってほしいと期待する動きを示す言葉だったように私は感じます。
自然現象での「靡く」が枕詞や序詞となって,自分の想いを詠う技法が万葉時代ではよく使われたといえそうです。
たなびく(1)に続く。
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