「たなびく」の1回目は対象を雲としましたが,この2回目は対象を霞(かすみ)として万葉集ではどう詠われているか見てみましょう。
霞がたなびくという季節は,次の短歌のように万葉時代も今と変わらず春をイメージするもののようです。
冬過ぎて春来るらし朝日さす春日の山に霞たなびく(10-1844)
<ふゆすぎてはるきたるらし あさひさすかすがのやまにかすみたなびく>
<<冬が過ぎて春になったらしいなあ。朝日がさして来た春日の山に霞がたなびいているから>>
さて,どこかで似たような短歌を思い浮かべた方もいるでしょう。この短歌は次の有名な持統天皇の短歌のパロディと考えられるからです。
春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山(1-28)
<はるすぎてなつきたるらし しろたへのころもほしたりあめのかぐやま>
<<春が過ぎて夏になったらしいね。白い色の衣が天の香具山に干してあったから>>
日本人は,万葉時代から位の上下を問わず季節の移り変わりを何かの変化で感じることを常としてきたことが分かります。
さて,霞たなびくは春をイメージしますが,現代人が感じる明るい春のイメージかというと,万葉歌人たちどうもあまりそのように感じていないようです。特に大伴家持にとって,霞がたなびく春は心が沈みがちになる季節だったようです。
心ぐく思ほゆるかも春霞たなびく時に言の通へば(4-789)
<こころぐくおもほゆるかも はるかすみたなびくときにことのかよへば>
<<心が切なく苦しく思われるようです。春霞がたなびくこの時にお話しがありましたので>>
この家持の短歌は,藤原久須(訓儒)麻呂から「息子の嫁に家持さんの娘をください」という申し出の短歌に対して答えたもののようです。前後の短歌から,どうも家持の娘はまだ幼いという理由でこの申し出をうまく断れないかという意図が見受けられます。
それもそのはずです。藤原久須麻呂は当時政権を掌握し,一族(藤原南家)以外にとって大変な脅威となっていた藤原仲麻呂(恵美押勝)の息子なのです。藤原久須麻呂と縁を結ぶということは,それまで橘諸兄側にいたと思われる大伴氏が藤原仲麻呂側に付く(寝返る)ことを意味し,おいそれと同意できるはずがありません。
この短歌,作成年不詳ですが,家持と久須麻呂双方の年齢,居場所などから,もしかしたら家持が因幡で詠んだ万葉集最後の初春の短歌より後に行われた久須麻呂とのやり取りだった「可能性は否定できない(←最近の福島第一原子力発電所関連の記者会見で良く使われる用例です)」気がします。
いずれにしても,歌人(官僚ではない)家持として,次の有名な短歌のように,いろいろな異動(地方赴任も含む)や氏族間の調整事項が活発となる春は憂鬱な時期だったのかも知れませんね。
春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鴬鳴くも(19-4290)
<はるののにかすみたなびき うらがなしこのゆふかげにうぐひすなくも>
<<春の野に霞がたなびいている今,私は何となく悲しい気持ちである。夕方になって鶯が鳴いていても>>
霞がたなびくような穏やかな気候になり,仕事が終わった夕方になって盛んに鶯が鳴いて,春だなあと感じても,一日の仕事の疲れがどっと出て,家持は前向きな気持ちになれなかったのでしょうか。しかし,家持は和歌を詠うことによって,気持ちを切り替え,自分に課せられた難局打開へ立ち向かうモチベーションの低下を必死で防ごうとしていたと私は感じます。
たなびく(3:まとめ)に続く。
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