2009年11月4日水曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(の~)

引き続き,「の」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)

拭ふ(のごふ)…ぬぐう。
荷前,荷向(のさき)…毎年諸国から奉る貢の初物。
野阜(のづかさ)…小高い所。野にある岡。
祈まく、祷まく(のまく)…祈ること。
法、則、範、典(のり)…おきて。法令。法度。

ここでは,拭ふ(のごふ)が出現する長歌を紹介します。この長歌は大伴家持が難波の港を筑紫の赴任先へ出港しようする防人に成代わって詠んだものです。連用形「拭ひ」が前半若妻が涙を拭うシーンで出てきます。

大君の命畏み 妻別れ悲しくはあれど 大夫の心振り起し 取り装ひ門出をすれば たらちねの母掻き撫で 若草の妻は取り付き 平らけく我れは斎はむ ま幸くて早帰り来と 真袖もち涙を拭ひ 咽ひつつ言問ひすれば 群鳥の出で立ちかてに 滞りかへり見しつつ いや遠に国を来離れ いや高に山を越え過ぎ 葦が散る難波に来居て 夕潮に船を浮けすゑ 朝なぎに舳向け漕がむと さもらふと我が居る時に 春霞島廻に立ちて 鶴が音の悲しく鳴けば はろはろに家を思ひ出 負ひ征矢のそよと鳴るまで 嘆きつるかも(20-4398)
おほきみの みことかしこみ つまわかれ かなしくはあれど ますらをの こころふりおこし とりよそひ かどでをすれば たらちねの ははかきなで わかくさの つまはとりつき たひらけく われはいははむ まさきくて はやかへりこと まそでもち なみだをのごひ むせひつつ ことどひすれば むらとりの いでたちかてに とどこほり かへりみしつつ いやとほに くにをきはなれ いやたかに やまをこえすぎ あしがちる なにはにきゐて ゆふしほに ふねをうけすゑ あさなぎに へむけこがむと さもらふと わがをるときに はるかすみ しまみにたちて たづがねの かなしくなけば はろはろに いへをおもひで おひそやの そよとなるまで なげきつるかも
<<天皇の命を受け妻との別れは悲しいが,ますらおの心を振り起こして,旅立ちの準備をして家の門まで出たら,母は私の頭をかき撫でた。まだうら若い妻は私に取り付き「ご無事を私は身を清めて祈ります。幸運を得て早く帰って来て!」と,私の袖を持って涙を拭い,むせび泣きつつ私に訴え,旅立ちはなかなかできなかった。道中出てきた国を振り返りつつ,いくつもの国を越え,山を越えいよいよ難波に来た。筑紫へ行く船が出港すると春霞が島の周りに立ち込め,鶴が悲しげな鳴き声で鳴けば,はるかに出てきた家を思い出し,背負った矢が嗚咽で「そよ」と音がするまで嘆いたことよ>>

越中から帰任後,少納言,兵部少輔(国防を司る兵部省のナンバー2)になった家持38歳の時,難波で筑紫へ向かう防人達の管理する役目を担っていたようです。
この長歌は,その時いよいよ防人に向かう人が故郷で悲しみの別れをしたきた家族を思う姿を見て,防人の立場で詠ったものです。
家持が防人の気持ちになって詠んだ同様の長歌がこの他にも2首万葉集に残っています。
難波には,当時これから防人として筑紫へ向かう人たちが各地から続々と集まってきたようです。
難波にいた家持は,船の手配や潮待ちの間,その人たちに和歌の作り方を教えたり,家族や故郷を思う和歌を主題とした歌会を頻繁に行い,ねぎらったのではないかと想像します。
また,家持は自らお手本の和歌を作って彼らに示したのがこれらの長歌(と併せ短歌)だったのではないかとも。
防人に向かう若者たちは,家持の子供の年齢かそれより少し年上の人たちが多かったのではないでしょうか。
家持は彼らに故郷の家族や恋人を思う強い気持ちを持ち続けるよう和歌を通して教え続けた可能性があると私は思います(我が子のように)。
武門を伝統とする大伴氏は何よりも兵士を大切にするという血筋があり,官僚となった家持にもその思いが強かった。また,筑紫歌壇を形成した父旅人山上憶良が残した和歌の影響もあったのかもしれません。
そのような家持の指導により防人達が詠った和歌を家持は,政治的立場を顧みず積極的に収集し,残すようにした。
万葉集に燦然と輝く「防人の歌」が多く残ったのは,家持の地道な努力の賜物ではないかと私は考えるのです。
(「は」で始まる難読漢字に続く)

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