<お金の貸し借り>
人は一時的に金品が不足した場合,友人等から不足した金品を貸してもらえないかとお願いすることがあります。
その依頼を受けた側(貸し手)は,依頼者が信頼のおける人(返してくれる人)であり,一時的に貸せる金品があれば貸し与えます。
貸し与えられた側(借り手)は,しばらくして金品の不足が無くなった(必要なくなった)とき,金品を貸し手に返却します。その時,おカネの場合利息にあたる何らかのお礼を追加することがあります。
<万葉時代では?>
万葉集の和歌が詠まれた時代は「和同開珎(わどうかいちん)」という通貨が大量に流通し始めた頃とされています。しかし,少なくとも万葉集では通貨を表す「銭(ぜに)」を詠んだものはありません。
万葉集を文学とみれば,貨幣が流通していてもそれほど貨幣のことが出てこないことに違和感を感じる人は少ないかもしれません。
ただ,万葉集を当時の時代を後世に残す記録として見ると「銭」が出てこないのは「和同開珎」などの通貨がそれほど流通しておらず,物々交換がまだ主流だったのではないと私は想像します。
そのため,万葉集に出てくる「貸」「借」は,金銭ではなく品物が主流となります。なお,すべて動詞「貸す」「借る」の活用形で出てきます。
万葉集に出てくる「貸す」「借る」の対象(品物)は「衣(ころも)」「舟」「宿(やど)」がほとんどですが,最後の例のように「命」というのがあります。
まず,宿を「貸す」「借る」の両方を詠んだ詠み人しらずの短歌を紹介します。
あしひきの山行き暮らし宿借らば妹立ち待ちてやど貸さむかも(7-1242)
<あしひきの やまゆきぐらし やどからば いもたちまちて やどかさむかも>
<<山路を旅行く途中で日が暮れて今宵の宿をどうしようかと考えてたいたら,かわいい女の子が門に立って待っていて宿を誘ってくれるかもしれない>>
この短歌は「古集に出ず」とある羈旅(きりょ)を詠んだ歌群の1首です。
この短歌が万葉時代でさえ「古集」にあるということは,奈良時代以前から街道の峠などには宿泊施設(宿場)が整備されていて,旅行く人に宿を提供していたことが想像できます。おそらく,街道が整備され,日本各地の産品が行き交うようになってきたころなのでしょう。
中には泊まった時に若い女の子が世話をしてくれるような宿もあったのかもしれません。
あの宿場にはかわいい子がいっぱいいるぞという噂が旅人の間に流れていて,旅人たちは期待をもちつつ宿場へ向かうこともあったのでしょう。
そんな旅人の気持ちを詠んだ歌なのかもしれませんが,期待は外れる(宿を貸す側が求める対価と借りる側が求めるサービスの差が大きい)ことも多かっただろうと私は想像します。
この短歌から結局「宿を貸す」とは,商売(宿賃は銀など?)として泊まる場所や宿泊者へのサービスを提供することを意味します。困った旅人に慈善で泊まらせてあげるのとは意味が違います。
次に商売で貸し借りをする例ではなく,「衣」を夫に妻が「貸す」短歌を紹介します。
宇治間山朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに(1-75)
<うぢまやまあさかぜさむし たびにしてころもかすべき いももあらなくに>
<<宇治間山の朝の風はことに冷たい。今は旅をしているので衣を貸してくれるはずの妻もいないから>>
この1首は長屋王(ながやのおほきみ)が奈良の吉野付近にあるとされる宇治間山麓を旅の途中に通過したとき詠んだとされている短歌です。
旅先ではいくら朝の風が冷たかろうと衣を貸してくれる妻はいない。妻が恋しいなあという気持ちが伝わってくる1首です。
万葉時代は今までこのブログで何度も述べていますが,結婚後の生活は妻問い婚なのです。夫は妻の家で一夜を過ごして朝妻の家を出ます。
その時,朝の寒さが強いと夫が寒がらないように妻は衣を夫に貸します。
妻は夫が衣を返しにまた来てくれるのを心待ちにします。夫も借りた衣を返すという名目で再びやってくる口実を作るという習慣があったのかもしれないと私は思います。
最後に「命を借りる」という少し哲学的な詠み人知らず短歌(作者は女性)を紹介します。
月草の借れる命にある人をいかに知りてか後も逢はむと言ふ(11-2756)
<つきくさのかれるいのちにあるひとを いかにしりてかのちもあはむといふ>
<<この世に生命を借りて生まれてきた人間です。その命はいつ終わるともしれないはかないものなのにどうして「後で逢おうね」と簡単におっしゃるのですか?>>
私はこの作者は仏教の知識があったのだろうと想像します。
日本に伝わる仏教のいくつかの経典には「自分の生命が人間として生まれること,そして,たとえ人間として生まれても正しい生き方を全うすることの困難さ」を説いているものがあります。
人は皆,本当に偶然に生命を借りて生まれてきたのだから,今の一瞬を大切にしたい,大切にして欲しい。そんな思いを相手(男性)に伝えたいのかも知れませんね。
モノでさえ,カネでさえ,命でさえ,借りたものは大切に扱うようにしたいものですね。
対語シリーズ「遠と近」に続く。
2011年11月6日日曜日
対語シリーズ「晴と雨」‥晴耕雨詠?
万葉集では「雨」を詠んだ和歌が120首以上出てきます。それに対して「晴」を詠んだものは3首しかありません。その3首も併せて「雨」の文字が入っているのです。
これでは対語関係として勝負にならないですから「晴れ」を間接的に表す「日がさす」「日が照る」を詠んだ歌(枕詞として使われているものは除く)も「晴れ」側の援軍として入れるとすると何とか40首程度にはなります。
まず,「晴」を詠んだ3首の中から詠み人知らずの1首を紹介します。
思はぬに時雨の雨は降りたれど天雲晴れて月夜さやけし(10-2227)
<おもはぬに しぐれのあめはふりたれど あまくもはれてつくよさやけし>
<<思いがけずしぐれが降ったけれど,空を覆っていた雲が晴れて月夜がさわやかだなあ>>
「晴れて」といっても夜の晴れです。雨が降った後の空気が澄んでいるので,作者には雲が取れて出てきた月がさわやかに感じられたのでしょう。
雨で清められた直後の晴れは一層さわやかさが増すように感じるのは,昔より空気がきれいだとは言えないところに住んでいる私にとって全面的に同感する感性ですね。
次に「日がさす」方の1首(東歌)を紹介しましょう。
上つ毛野まぐはし窓に朝日さしまきらはしもなありつつ見れば(14-3407)
<かみつけの まぐはしまどにあさひさし まきらはしもなありつつみれば>
<<この上野(今の群馬県)に住んでいる俺,窓に朝日がさす綺麗な光線のように眩(まばゆ)いなあ。寝床の隣のおまえを見ていると>>
私は以前にも書きましたが,18歳まで京都市内の実家にいました。京都の冬は,太陽が少し顔を出したかと思うとすぐに雲に隠れ,そして時雨(しぐれ)たと思えばまた太陽の薄日がさすような,変わりやすい天気です。
山に囲まれている盆地地形なので太陽の出る時間も平地より少なく,京都の冬は「底冷え」という言葉で表わされるように寒暖計が示す温度よりもずっと寒く感じられます。
その後,私は埼玉県南部にずっと住むようになったのですが,関東平野の冬は雲ひとつない晴れの日が多く,その晴れ方も太陽が地平線から出て沈むまで精いっぱい照ってくれることで,陽だまりでは寒暖計が示す温度に比べ,結構暖かく感じることも多くありました。
この東歌はそのような冬の晴れた朝日が窓から美しいビームのようにさしてきて,目が覚めたら隣で寝ていた妻が眩いことを素直に詠っているように私は感じます。私のように関東平野に住む人には同感しやすい歌ではないかと私は思います。
私は結婚してしばらく埼玉県南部のとある公団住宅の5階に住んでいたのですが,まさにそのような朝日がさしてきたとき,まだ寝ている妻を美しく感じたのは,ただはるか遠い昔のことですね。
天の川 「たびとはん。そんなアカンこと書いて大丈夫かいな?」
おっと,天の川君,お久しぶりだね。今はマンションの1階に住んでいるから大丈夫だよ。
天の川 「たびとはん。何を訳の分らんことを言うてんねん。住んでる階数は関係あらへんやろ。」
さっ,さて,今度は「雨」に移ります。
万葉集でたくさん詠まれている「雨」には,単に「雨」だけでなく,いろんな種類の「雨」が出てきます。
例えば,「時雨(しぐれ)」「小雨(こさめ)」「春雨(はるさめ)」「長雨」「村雨(むらさめ)」「雨霧(あまぎり)」「雨障(あまつつみ,あまさはり)」「雨間(あまま)」「雨夜(あまよ)」「夕立ち」などです。
その中から冒頭の1首とは別の時雨を詠んだ歌の中から次の1首を紹介します。
十月時雨の常か我が背子が宿の黄葉散りぬべく見ゆ(19-4259)
<かむなづきしぐれのつねか わがせこがやどのもみちば ちりぬべくみゆ>
<<10月のしぐれが降ると,いつものように貴殿のお家の色づいた梨の葉がもうすく散りゆくのでしょうね>>
この短歌は,天平勝宝3(751)年10月22日,越中赴任から戻った大伴家持が左大弁(さだいべん)紀飯麻呂(きのいひまろ)宅で行われた宴席で,庭に植えてあった梨の木を見て詠んだとされています。
旧暦の10月22日は現在の11月下旬ですから,一雨ごとに寒さが加わって行く季節です。
紅葉も雨で葉がどんどん落ち行きますが,それも季節の変化の一要素として日本人は受け入れているのかも知れません。
写真は何年か前の11月下旬に京都の銀閣寺を訪れたときに撮ったものです。散った紅葉も美しく見せるため苔を庭の地面に植え付ける庭師のテクニックだと私は思います。
この他に紹介したい万葉集の雨の歌はたくさんあるのですが,いずれ「万葉集の雨歌」特集を企画して,そこでたっぷり紹介することにします。
ところで,万葉集に雨の歌が多いのは,晴れたときは仕事が忙しいので歌を詠む暇がない。けれども雨の日はやることがないので和歌を詠む。当時まさに晴耕雨詠(私の造語)だったのでしょうか。
ただ,Uta-Net というサイト(http://www.uta-net.com/)で「雨」がタイトルの一部となっている歌(10万曲以上の中)を検索すると,なんと1,214曲もありました。一方「晴」をタイトルに含む曲(「素晴らしい」などの天気と無関係なものは除く)のほうは,わずか200曲ほどしかありませんでした。
雨の日が暇かどうかは別にして,日本人にとって「雨」は昔も今も詩歌の題材になりやすいのだなあとつくづく感じます。
対語シリーズ「貸と借」に続く。
これでは対語関係として勝負にならないですから「晴れ」を間接的に表す「日がさす」「日が照る」を詠んだ歌(枕詞として使われているものは除く)も「晴れ」側の援軍として入れるとすると何とか40首程度にはなります。
まず,「晴」を詠んだ3首の中から詠み人知らずの1首を紹介します。
思はぬに時雨の雨は降りたれど天雲晴れて月夜さやけし(10-2227)
<おもはぬに しぐれのあめはふりたれど あまくもはれてつくよさやけし>
<<思いがけずしぐれが降ったけれど,空を覆っていた雲が晴れて月夜がさわやかだなあ>>
「晴れて」といっても夜の晴れです。雨が降った後の空気が澄んでいるので,作者には雲が取れて出てきた月がさわやかに感じられたのでしょう。
雨で清められた直後の晴れは一層さわやかさが増すように感じるのは,昔より空気がきれいだとは言えないところに住んでいる私にとって全面的に同感する感性ですね。
次に「日がさす」方の1首(東歌)を紹介しましょう。
上つ毛野まぐはし窓に朝日さしまきらはしもなありつつ見れば(14-3407)
<かみつけの まぐはしまどにあさひさし まきらはしもなありつつみれば>
<<この上野(今の群馬県)に住んでいる俺,窓に朝日がさす綺麗な光線のように眩(まばゆ)いなあ。寝床の隣のおまえを見ていると>>
私は以前にも書きましたが,18歳まで京都市内の実家にいました。京都の冬は,太陽が少し顔を出したかと思うとすぐに雲に隠れ,そして時雨(しぐれ)たと思えばまた太陽の薄日がさすような,変わりやすい天気です。
山に囲まれている盆地地形なので太陽の出る時間も平地より少なく,京都の冬は「底冷え」という言葉で表わされるように寒暖計が示す温度よりもずっと寒く感じられます。
その後,私は埼玉県南部にずっと住むようになったのですが,関東平野の冬は雲ひとつない晴れの日が多く,その晴れ方も太陽が地平線から出て沈むまで精いっぱい照ってくれることで,陽だまりでは寒暖計が示す温度に比べ,結構暖かく感じることも多くありました。
この東歌はそのような冬の晴れた朝日が窓から美しいビームのようにさしてきて,目が覚めたら隣で寝ていた妻が眩いことを素直に詠っているように私は感じます。私のように関東平野に住む人には同感しやすい歌ではないかと私は思います。
私は結婚してしばらく埼玉県南部のとある公団住宅の5階に住んでいたのですが,まさにそのような朝日がさしてきたとき,まだ寝ている妻を美しく感じたのは,ただはるか遠い昔のことですね。
天の川 「たびとはん。そんなアカンこと書いて大丈夫かいな?」
おっと,天の川君,お久しぶりだね。今はマンションの1階に住んでいるから大丈夫だよ。
天の川 「たびとはん。何を訳の分らんことを言うてんねん。住んでる階数は関係あらへんやろ。」
さっ,さて,今度は「雨」に移ります。
万葉集でたくさん詠まれている「雨」には,単に「雨」だけでなく,いろんな種類の「雨」が出てきます。
例えば,「時雨(しぐれ)」「小雨(こさめ)」「春雨(はるさめ)」「長雨」「村雨(むらさめ)」「雨霧(あまぎり)」「雨障(あまつつみ,あまさはり)」「雨間(あまま)」「雨夜(あまよ)」「夕立ち」などです。
その中から冒頭の1首とは別の時雨を詠んだ歌の中から次の1首を紹介します。
十月時雨の常か我が背子が宿の黄葉散りぬべく見ゆ(19-4259)
<かむなづきしぐれのつねか わがせこがやどのもみちば ちりぬべくみゆ>
<<10月のしぐれが降ると,いつものように貴殿のお家の色づいた梨の葉がもうすく散りゆくのでしょうね>>
この短歌は,天平勝宝3(751)年10月22日,越中赴任から戻った大伴家持が左大弁(さだいべん)紀飯麻呂(きのいひまろ)宅で行われた宴席で,庭に植えてあった梨の木を見て詠んだとされています。
旧暦の10月22日は現在の11月下旬ですから,一雨ごとに寒さが加わって行く季節です。
紅葉も雨で葉がどんどん落ち行きますが,それも季節の変化の一要素として日本人は受け入れているのかも知れません。
写真は何年か前の11月下旬に京都の銀閣寺を訪れたときに撮ったものです。散った紅葉も美しく見せるため苔を庭の地面に植え付ける庭師のテクニックだと私は思います。
この他に紹介したい万葉集の雨の歌はたくさんあるのですが,いずれ「万葉集の雨歌」特集を企画して,そこでたっぷり紹介することにします。
ところで,万葉集に雨の歌が多いのは,晴れたときは仕事が忙しいので歌を詠む暇がない。けれども雨の日はやることがないので和歌を詠む。当時まさに晴耕雨詠(私の造語)だったのでしょうか。
ただ,Uta-Net というサイト(http://www.uta-net.com/)で「雨」がタイトルの一部となっている歌(10万曲以上の中)を検索すると,なんと1,214曲もありました。一方「晴」をタイトルに含む曲(「素晴らしい」などの天気と無関係なものは除く)のほうは,わずか200曲ほどしかありませんでした。
雨の日が暇かどうかは別にして,日本人にとって「雨」は昔も今も詩歌の題材になりやすいのだなあとつくづく感じます。
対語シリーズ「貸と借」に続く。
2011年10月30日日曜日
対語シリーズ「明日と昨日」‥昨日から今日。そして今日から明日へ。
人間は日々の営みを考えながら生きている動物といえるかもしれませんね。
この「考えながら」とは,新しい1日(今日)が始まる時,当面の暮らしにとって欠かせないことを意識しつつ前の日(昨日)までのことを振り返り,次の日(明日)に向けて今日をどうするか考えていることだと私は考えています。
その「欠かせない意識」が,たとえば特定の人との関係を特別良好に保ちたいということなら,次のような万葉集の短歌をその人に贈ってみたくなるのかもしれません。
一昨日も昨日も今日も見つれども明日さへ見まく欲しき君かも(6-1014)
<をとつひもきのふもけふもみつれども あすさへみまくほしききみかも>
<<一昨日も昨日も今日もお会いしました。けれど明日も会いたい貴殿なのです>>
この歌は天平9(737)年の正月に,門部王(かどべのおほきみ)という聖武天皇に仕えた高級官僚宅において開かれた宴席で橘文成(たちばなのあやなり)という出席者が主人の門部王に贈ったとされるものです。
この前の歌(6-1013)では,主人の門部王が客人を歓迎する短歌を詠っており,橘文成の歌はその返歌という意味合いが近いようです。
ただ,橘文成の歌は宴席の儀礼的な歌にするのはもったいないと考える万葉集愛好家も多く,恋の歌に分類している万葉学者さんもいるようです。
どうでしょうか,異性の職場の同僚やクラスメイトに「一昨日も昨日も今日も見つれども...」と書いたものを贈ってみれば? 相手と恋人関係になれるかも?
さて,最初に明日と昨日をいう対語シリーズなのに両方含む万葉集の和歌を出してしまいました。次に,それぞれを詠った短歌を紹介します。
明石潟潮干の道を明日よりは下笑ましけむ家近づけば(6-941)
<あかしがたしほひのみちを あすよりはしたゑましけむ いへちかづけば>
<<明石の潟の潮が引いた道を明日からは心の中で微笑みながら歩くことだろう。家が近づいているので>>
この歌は,山部赤人が播磨へ旅をした帰りに詠んだ長歌に併せ詠んだ短歌です。
野宿もある厳しい陸路を中心とした播磨(はりま)への長い旅も終わりが見えてきたとき,家に帰ったら家族と何をしようか,何を食べようか,雨風を防げる寝床でゆっくり寝られるだろうなどと考えて行くと自然と心の中でうれしい気持ちになり,明るい気持ちになってしまうのでしょう。
赤人は,明日以降明るくなるその気持ちを「下笑ましけむ」と表現しているのです。恐らく,赤人だけでなく,旅の同行者の気持ちも代弁しているのだと私は想像します。
このように万葉集で「明日」を詠んだ多くは「明日」に期待する和歌ですが,中には次のように防人(さきもり)として故郷を後にする時「明日からは妻と別れて一人で草枕するしかない」という苦しい「明日」を詠んだ歌もあります。
作者は遠江(とほたふみ)出身の國造(くにのみやつこ)の丁(よぼろ)である物部秋持(もののべのあきもち)という防人です。
畏きや命被り明日ゆりや草がむた寝む妹なしにして(20-4321)
<かしこきやみことかがふり あすゆりやかえがむたねむ いむなしにして>
<<畏れ多いことに天皇の命を受け、明日からはカヤといっしょに寝ることになるだろう。妻なしで>>
さて,次に「昨日」について見て行きましょう。
住吉に行くといふ道に昨日見し恋忘れ貝言にしありけり(7-1149)
<すみのえにゆくといふみちに きのふみしこひわすれがひ ことにしありけり>
<<住吉に行く道で昨日見た恋忘れ貝。だけどただ名前だけだった(君に対する恋しい気持ちを忘れることができない)>>
昨日を詠ったこの詠み人知らずの短歌は,摂津(せっつ)地方を題材にしています。
私の勝手な解釈ですが,「すみのえの道」の「すみ」は「澄み」⇒「済み」からすっかり済んでしまった恋を忘れようと明日に向かう作者の気持ちだと思います。
しかし,「すみのえ」の海岸には「恋忘れ貝」という貝が棲(す)んでいて「それを見ると恋を忘れさせてくれる貝」があるというが,そういう貝の名前だけで結局効果は無かったんだよ~という嘆きの短歌だというのが私の解釈です。
昨日は通り過ぎた過去のことだが,忘れられない過去に引きずられるのも人間の性(さが)であることもこの短歌から感じられます。
<万葉集でのその他の扱い>
その他,万葉集で「昨日」について詠った和歌には「昨日も今日も変わりゃしない」「昨日はダメだっけど今日は期待したい」「昨日とは今日は違っているぞ」「今日の○○は昨日の△△があったから」というものもあります。
「明日」「昨日」を詠った万葉集の和歌を見てみると,結局「今日」を起点として「昨日」や「明日」と比較して,「今日(今)」の自分の想いを詠んでいる,そんな印象を私は持ちます。
<ライオン>
さて,ある生活用品メーカーが,来年から今の「おはようからおやすみまで、暮らしに夢をひろげる」というキャッチコピーから「今日を愛する。(life.love.)」という短いキャッチコピーに変えるそうです。
充実した「愛すべき今日」をしっかり生きて行く。そのために「昨日」をきちっと振り返り,「明日」を堅実に予測して「今日」を考える。そうして,今の不確実な時代に備えよ。そんなおもてに現れないメッセージもあるのかな?と私は感じています。
対語シリーズ「晴と雨」に続く。
この「考えながら」とは,新しい1日(今日)が始まる時,当面の暮らしにとって欠かせないことを意識しつつ前の日(昨日)までのことを振り返り,次の日(明日)に向けて今日をどうするか考えていることだと私は考えています。
その「欠かせない意識」が,たとえば特定の人との関係を特別良好に保ちたいということなら,次のような万葉集の短歌をその人に贈ってみたくなるのかもしれません。
一昨日も昨日も今日も見つれども明日さへ見まく欲しき君かも(6-1014)
<をとつひもきのふもけふもみつれども あすさへみまくほしききみかも>
<<一昨日も昨日も今日もお会いしました。けれど明日も会いたい貴殿なのです>>
この歌は天平9(737)年の正月に,門部王(かどべのおほきみ)という聖武天皇に仕えた高級官僚宅において開かれた宴席で橘文成(たちばなのあやなり)という出席者が主人の門部王に贈ったとされるものです。
この前の歌(6-1013)では,主人の門部王が客人を歓迎する短歌を詠っており,橘文成の歌はその返歌という意味合いが近いようです。
ただ,橘文成の歌は宴席の儀礼的な歌にするのはもったいないと考える万葉集愛好家も多く,恋の歌に分類している万葉学者さんもいるようです。
どうでしょうか,異性の職場の同僚やクラスメイトに「一昨日も昨日も今日も見つれども...」と書いたものを贈ってみれば? 相手と恋人関係になれるかも?
さて,最初に明日と昨日をいう対語シリーズなのに両方含む万葉集の和歌を出してしまいました。次に,それぞれを詠った短歌を紹介します。
明石潟潮干の道を明日よりは下笑ましけむ家近づけば(6-941)
<あかしがたしほひのみちを あすよりはしたゑましけむ いへちかづけば>
<<明石の潟の潮が引いた道を明日からは心の中で微笑みながら歩くことだろう。家が近づいているので>>
この歌は,山部赤人が播磨へ旅をした帰りに詠んだ長歌に併せ詠んだ短歌です。
野宿もある厳しい陸路を中心とした播磨(はりま)への長い旅も終わりが見えてきたとき,家に帰ったら家族と何をしようか,何を食べようか,雨風を防げる寝床でゆっくり寝られるだろうなどと考えて行くと自然と心の中でうれしい気持ちになり,明るい気持ちになってしまうのでしょう。
赤人は,明日以降明るくなるその気持ちを「下笑ましけむ」と表現しているのです。恐らく,赤人だけでなく,旅の同行者の気持ちも代弁しているのだと私は想像します。
このように万葉集で「明日」を詠んだ多くは「明日」に期待する和歌ですが,中には次のように防人(さきもり)として故郷を後にする時「明日からは妻と別れて一人で草枕するしかない」という苦しい「明日」を詠んだ歌もあります。
作者は遠江(とほたふみ)出身の國造(くにのみやつこ)の丁(よぼろ)である物部秋持(もののべのあきもち)という防人です。
畏きや命被り明日ゆりや草がむた寝む妹なしにして(20-4321)
<かしこきやみことかがふり あすゆりやかえがむたねむ いむなしにして>
<<畏れ多いことに天皇の命を受け、明日からはカヤといっしょに寝ることになるだろう。妻なしで>>
さて,次に「昨日」について見て行きましょう。
住吉に行くといふ道に昨日見し恋忘れ貝言にしありけり(7-1149)
<すみのえにゆくといふみちに きのふみしこひわすれがひ ことにしありけり>
<<住吉に行く道で昨日見た恋忘れ貝。だけどただ名前だけだった(君に対する恋しい気持ちを忘れることができない)>>
昨日を詠ったこの詠み人知らずの短歌は,摂津(せっつ)地方を題材にしています。
私の勝手な解釈ですが,「すみのえの道」の「すみ」は「澄み」⇒「済み」からすっかり済んでしまった恋を忘れようと明日に向かう作者の気持ちだと思います。
しかし,「すみのえ」の海岸には「恋忘れ貝」という貝が棲(す)んでいて「それを見ると恋を忘れさせてくれる貝」があるというが,そういう貝の名前だけで結局効果は無かったんだよ~という嘆きの短歌だというのが私の解釈です。
昨日は通り過ぎた過去のことだが,忘れられない過去に引きずられるのも人間の性(さが)であることもこの短歌から感じられます。
<万葉集でのその他の扱い>
その他,万葉集で「昨日」について詠った和歌には「昨日も今日も変わりゃしない」「昨日はダメだっけど今日は期待したい」「昨日とは今日は違っているぞ」「今日の○○は昨日の△△があったから」というものもあります。
「明日」「昨日」を詠った万葉集の和歌を見てみると,結局「今日」を起点として「昨日」や「明日」と比較して,「今日(今)」の自分の想いを詠んでいる,そんな印象を私は持ちます。
<ライオン>
さて,ある生活用品メーカーが,来年から今の「おはようからおやすみまで、暮らしに夢をひろげる」というキャッチコピーから「今日を愛する。(life.love.)」という短いキャッチコピーに変えるそうです。
充実した「愛すべき今日」をしっかり生きて行く。そのために「昨日」をきちっと振り返り,「明日」を堅実に予測して「今日」を考える。そうして,今の不確実な時代に備えよ。そんなおもてに現れないメッセージもあるのかな?と私は感じています。
対語シリーズ「晴と雨」に続く。
2011年10月22日土曜日
対語シリーズ「表・面と裏」‥ら・ら・ら
万葉時代「おもて」というと漢字で「面」と書き「顔」のことでした。そして,「顔」は「おもて」だけでなく「おも」とも発音していました。「外側」という意味の「表」が使われるようになったのは平安時代以降のようです。
「面(おもて)」を詠んだ万葉集に出てくる山上憶良の長歌の一部を紹介します。
~ 時の盛りを 留みかね 過ぐしやりつれ 蜷の腸 か黒き髪に いつの間か 霜の降りけむ 紅の面の上に いづくゆか 皺が来りし ~(4-804)
<~ ときのさかりを とどみかね すぐしやりつれ みなのわた かぐろきかみに いつのまか しものふりけむ くれなゐの おもてのうへに いづくゆか しわがきたりし ~>
<<~ 青春の盛りは留められず,やがて盛りの時期が過ぎ去ってしまうと,髪にいつの間に霜が降りたのか,顔の上にどこから皺がついて来たのか ~>>
「紅の面」は若い頃の顔色のつややかで顔色の良い状態を指しているのでしょう。
憶良は,「人は皆老人になり,思うように動けなくなる。また,若いときのような活躍もできなくなることを事実として受け入れなければならないときがくる」ことをこの長歌で詠っています。
特に,面(顔)は昔から第三者がその人の年齢を判断するのに重要な役割を示します。
例えば,たばこ自動販売機で購入者の顔の形状をコンピュータが読み取って成人かの判定をする仕組み(成人識別装置)が付いているものがあるようです。
私はたばこを吸わないので実際にやったことはありませんが,かなりの確度で識別できるようです。
次に「面隠し(おもかくし)」という言葉を使った詠み人知らずの短歌を2首(最初の作者は女性,後は男性)を紹介します。
相見ては面隠さゆるものからに継ぎて見まくの欲しき君かも(11-2554)
<あひみては おもかくさゆるものからに つぎてみまくのほしききみかも>
<<お目にかかれば恥ずかしくて顔を隠したくなるのですが,あなたには何度もお目にかかりたいのです>>
玉かつま逢はむと言ふは誰れなるか逢へる時さへ面隠しする(12-2916)
<たまかつま あはむといふはたれなるか あへるときさへおもかくしする>
<<あれほど逢いたいと言っていたのはどこの誰ですか? せっかく逢えても恥ずかしいからって両手で顔を隠しているのはなぜ?>>
女性が恥ずかしいからといって顔を隠すという行為は,女性は無闇に家族以外に顔を見せてはいけないという慣習からきているのかもしれませんね。今とは比べ物にならないほど治安の悪かった昔は,若い女性がいることが分かるだけで,男が女性を奪いに来たりして家族にも危険が及ぶことがあったためでしょうか。
日本だけでなく,イスラム教の世界でも女性が顔や身体を隠すための服装(アバヤ,ブルカ,ニカーブなど)がありますが,起源は自身と家族の安全を守るためではないかと思います。
今の日本で若い女性が恥ずかしさで顔を隠すという言葉が薄れているのは,それなりに注意をすれば女性一人暮らしができ,社会で男性と同じように活躍できる平和な社会となったことが大きな要因の一つではないかと私は考えます。
それはそれでもちろん大いに結構なことだと思うのですが,11-2554と12-2916の短歌の味わいを無くしてほしくないと思うのは私の年齢のせいでしょうか。
さて,「おもて」ばかりの話で長くなってしまいましたが,「うら」の話に移りましょう。
「裏」といったとたんに大衆紙や週刊誌の活字から「裏社会」「裏取引」「裏ビデオ」「裏帳簿」のような極端に悪いイメージの言葉を思い浮かばせる方も多いかもしれません。
万葉時代「うら」は「外側」に対して「内部」や「奥」という意味が強く,「表が正しく,裏がその反対」というイメージはそれほどなかったようです。
私の勝手な考え方ですが,当時「心(こころ)」のことを「うら」と呼んでいたので,顔である面と反対の意味として心や内部という意味が「うら」となったのではないかと考えています。
ただ,「心」は移ろい(心変りし)やすいためか,こんな詠み人知らずの短歌もありますよ。
橡の袷の衣裏にせば我れ強ひめやも君が来まさぬ(12-2965)
<つるはみの あはせのころも うらにせば われしひめやも きみがきまさぬ>
<< ツルバミで染めた袷(あはせ)の着物を裏返すような仕打ちをなさるなら,私は無理に来てとは言いません。あなたが来ないことに対して>>
大黒摩季の「ら・ら・ら」という歌の歌詞に「♪人の心 裏の裏は ただの表だったりして~」というのがあるのを思い出しました。
対語シリーズ「明日と昨日」に続く。
「面(おもて)」を詠んだ万葉集に出てくる山上憶良の長歌の一部を紹介します。
~ 時の盛りを 留みかね 過ぐしやりつれ 蜷の腸 か黒き髪に いつの間か 霜の降りけむ 紅の面の上に いづくゆか 皺が来りし ~(4-804)
<~ ときのさかりを とどみかね すぐしやりつれ みなのわた かぐろきかみに いつのまか しものふりけむ くれなゐの おもてのうへに いづくゆか しわがきたりし ~>
<<~ 青春の盛りは留められず,やがて盛りの時期が過ぎ去ってしまうと,髪にいつの間に霜が降りたのか,顔の上にどこから皺がついて来たのか ~>>
「紅の面」は若い頃の顔色のつややかで顔色の良い状態を指しているのでしょう。
憶良は,「人は皆老人になり,思うように動けなくなる。また,若いときのような活躍もできなくなることを事実として受け入れなければならないときがくる」ことをこの長歌で詠っています。
特に,面(顔)は昔から第三者がその人の年齢を判断するのに重要な役割を示します。
例えば,たばこ自動販売機で購入者の顔の形状をコンピュータが読み取って成人かの判定をする仕組み(成人識別装置)が付いているものがあるようです。
私はたばこを吸わないので実際にやったことはありませんが,かなりの確度で識別できるようです。
次に「面隠し(おもかくし)」という言葉を使った詠み人知らずの短歌を2首(最初の作者は女性,後は男性)を紹介します。
相見ては面隠さゆるものからに継ぎて見まくの欲しき君かも(11-2554)
<あひみては おもかくさゆるものからに つぎてみまくのほしききみかも>
<<お目にかかれば恥ずかしくて顔を隠したくなるのですが,あなたには何度もお目にかかりたいのです>>
玉かつま逢はむと言ふは誰れなるか逢へる時さへ面隠しする(12-2916)
<たまかつま あはむといふはたれなるか あへるときさへおもかくしする>
<<あれほど逢いたいと言っていたのはどこの誰ですか? せっかく逢えても恥ずかしいからって両手で顔を隠しているのはなぜ?>>
女性が恥ずかしいからといって顔を隠すという行為は,女性は無闇に家族以外に顔を見せてはいけないという慣習からきているのかもしれませんね。今とは比べ物にならないほど治安の悪かった昔は,若い女性がいることが分かるだけで,男が女性を奪いに来たりして家族にも危険が及ぶことがあったためでしょうか。
日本だけでなく,イスラム教の世界でも女性が顔や身体を隠すための服装(アバヤ,ブルカ,ニカーブなど)がありますが,起源は自身と家族の安全を守るためではないかと思います。
今の日本で若い女性が恥ずかしさで顔を隠すという言葉が薄れているのは,それなりに注意をすれば女性一人暮らしができ,社会で男性と同じように活躍できる平和な社会となったことが大きな要因の一つではないかと私は考えます。
それはそれでもちろん大いに結構なことだと思うのですが,11-2554と12-2916の短歌の味わいを無くしてほしくないと思うのは私の年齢のせいでしょうか。
さて,「おもて」ばかりの話で長くなってしまいましたが,「うら」の話に移りましょう。
「裏」といったとたんに大衆紙や週刊誌の活字から「裏社会」「裏取引」「裏ビデオ」「裏帳簿」のような極端に悪いイメージの言葉を思い浮かばせる方も多いかもしれません。
万葉時代「うら」は「外側」に対して「内部」や「奥」という意味が強く,「表が正しく,裏がその反対」というイメージはそれほどなかったようです。
私の勝手な考え方ですが,当時「心(こころ)」のことを「うら」と呼んでいたので,顔である面と反対の意味として心や内部という意味が「うら」となったのではないかと考えています。
ただ,「心」は移ろい(心変りし)やすいためか,こんな詠み人知らずの短歌もありますよ。
橡の袷の衣裏にせば我れ強ひめやも君が来まさぬ(12-2965)
<つるはみの あはせのころも うらにせば われしひめやも きみがきまさぬ>
<< ツルバミで染めた袷(あはせ)の着物を裏返すような仕打ちをなさるなら,私は無理に来てとは言いません。あなたが来ないことに対して>>
大黒摩季の「ら・ら・ら」という歌の歌詞に「♪人の心 裏の裏は ただの表だったりして~」というのがあるのを思い出しました。
対語シリーズ「明日と昨日」に続く。
2011年10月15日土曜日
対語シリーズ「深しと浅し」‥万葉時代も浅しより深しの方が好イメージ?
<現代用語の「深い」と「浅い」>
「深し」は現代用語では「深い」ですが,「深(い)」を使った今使われている言葉の例(音読みで使っているのは除く)をいくつかあげてみます。
「味わい深い」「意義深い」「疑い深い」「海が深い」「遠慮深い」「奥が深い」「感慨深い」「興味深い」「毛深い」「草深い」「親しみ深い」「嫉妬深い」「慈悲深い」「執念深い」「思慮深い」「慎み深い」「罪深い」「情け深い」「根深い」「懐が深い」「森が深い」「用心深い」「欲深い」
「深川(地名)」「深草(地名)」「深沓」「深酒」「深沢(姓)」「深染め」「深田(姓)」「深爪」「深手」「深情け」「深鍋」「深野」「深場」「深深」「深縁」「深み」「深緑(色)」「深紫(色)」「深谷(地名)」「深読み」「目深」
いっぽう「浅し」の現代用語「浅い」を同様に今使われている言葉の例をあげてみます。
「色が浅い」「海が浅い」「考えが浅い」「関係が浅い」「経験が浅い」「底が浅い」「知恵が浅い」「日が浅い」「読みが浅い」
「浅井(姓)」「浅瓜」「浅香(姓)」「浅川(地名)」「浅木」「浅黄(色)」「浅葱(色)」「浅草(地名)」「浅沓」「浅黒い」「浅事」「浅瀬」「浅田(姓)」「浅知恵」「浅葱(野菜)」「浅漬」「浅手」「浅鍋」「浅沼(姓)」「浅野(姓)」「浅場」「浅はか」「浅縹(色)」「浅間(地名)」「浅見(姓)」「浅緑(色)」「朝紫(色)」「浅蜊(貝)」「遠浅」
このように見てくると,深いと浅いはさまざまな対象に対して修飾していることがわかりますが,やはり深いの方が好イメージのように私は感じます。
<万葉集での「深し」と「浅し」>
さて,万葉集では,海や川の深い浅い,染め色の深い浅い,時が経つのが深い浅い,人の想いが深い浅いなどが出てきます。そのなかで,次のような染め色の濃淡を対照的に読んだ短歌をそれぞれ紹介します。
紅の深染めの衣色深く染みにしかばか忘れかねつる(11-2624)
<くれなゐのこそめのころもいろふかく しみにしかばかわすれかねつる>
<< 紅で色濃く染めた衣のように心が色濃くしみたのが忘れられません>>
紅の薄染め衣浅らかに相見し人に恋ふるころかも(12-2966)
<くれなゐのうすそめころもあさらかにあひみしひとにこふるころかも>
<<紅で薄く染めた衣の色が薄いように少しだけだけど相見た女性に,今恋してしまったなあ>>
両方とも詠み人しらずの短歌で,紅(ベニバナ)で染めた衣の染め色の濃さ,薄さを序詞として異性を思う気持ちを読んでいると私は思います。
1首目は,深く紅に染めた衣のようにあの人が自分の心の中に色濃く入ってきたことが忘れられない。おそらく,相手とは今逢うことが叶わない状況だろうと私は想像します。
2首目は,薄く紅に染めた衣のように淡いつき合いだったあの人だが,しっかり恋してしまった。それぐらい魅力的な異性だったのだろうと私は感じます。
さて,次に1首の中に深しと浅しの両方が入っている短歌が万葉集に出てきます。
広瀬川袖漬くばかり浅きをや心深めて我が思へるらむ(7-1381)
<ひろせがは そでつくばかりあさきをや こころふかめてわがおもへるらむ>
<<歩いて渡れるほど浅い広瀬川のようにあの人の私に対する心は浅いのに,心の底まで深く私はなぜこんなに思いつめているのだろう>>
これも川の浅さを片思いしている相手の自分に対する気持ちの薄さを比喩している詠み人しらずの短歌です。そして,その薄さとは正反対に自分はどれだけ深く相手を恋し慕っているかをこの短歌で訴え,自分自身を落ち着かせているのだろうと私は思います。
ところで,秋も徐々に深まってきました。近所はまだまだ秋を感じさせるのはススキ位ですが,北海道や東北,関東甲信越では山岳地帯で紅葉が始まったという情報が入るようになりました。
そんな情景を詠った短歌を紹介します。
我が門の浅茅色づく吉隠の浪柴の野の黄葉散るらし(10-2190)
<わがかどのあさぢいろづく よなばりのなみしばののの もみちちるらし>
<<我が門の浅茅は色づいたところだが,吉隠の浪柴の野の黄葉はもう散っているころだろう>>
浅茅は背の低く,疎(まば)らに生えたチガヤのことで,秋が深まると緑色から先端が赤く変色します。作者の自宅(恐らく平城京近辺)ではチガヤが色づいたので,山の方(吉隠の浪紫の野:今の桜井市長谷寺よりさらに奥)では,もう紅葉が散り始めているのだろうなと作者は想像しているのでしょう。
私は,北海道大沼公園,青森県十和田湖,奥入瀬渓谷,八甲田山,秋田県八幡平などで今頃紅葉が始まっているのかなあと想いを馳せます。いずれの場所も紅葉シーズンに過去訪れており,私にとってはその美しさが忘れられないのです。
対語シリーズ「表・面と裏」に続く。
「深し」は現代用語では「深い」ですが,「深(い)」を使った今使われている言葉の例(音読みで使っているのは除く)をいくつかあげてみます。
「味わい深い」「意義深い」「疑い深い」「海が深い」「遠慮深い」「奥が深い」「感慨深い」「興味深い」「毛深い」「草深い」「親しみ深い」「嫉妬深い」「慈悲深い」「執念深い」「思慮深い」「慎み深い」「罪深い」「情け深い」「根深い」「懐が深い」「森が深い」「用心深い」「欲深い」
「深川(地名)」「深草(地名)」「深沓」「深酒」「深沢(姓)」「深染め」「深田(姓)」「深爪」「深手」「深情け」「深鍋」「深野」「深場」「深深」「深縁」「深み」「深緑(色)」「深紫(色)」「深谷(地名)」「深読み」「目深」
いっぽう「浅し」の現代用語「浅い」を同様に今使われている言葉の例をあげてみます。
「色が浅い」「海が浅い」「考えが浅い」「関係が浅い」「経験が浅い」「底が浅い」「知恵が浅い」「日が浅い」「読みが浅い」
「浅井(姓)」「浅瓜」「浅香(姓)」「浅川(地名)」「浅木」「浅黄(色)」「浅葱(色)」「浅草(地名)」「浅沓」「浅黒い」「浅事」「浅瀬」「浅田(姓)」「浅知恵」「浅葱(野菜)」「浅漬」「浅手」「浅鍋」「浅沼(姓)」「浅野(姓)」「浅場」「浅はか」「浅縹(色)」「浅間(地名)」「浅見(姓)」「浅緑(色)」「朝紫(色)」「浅蜊(貝)」「遠浅」
このように見てくると,深いと浅いはさまざまな対象に対して修飾していることがわかりますが,やはり深いの方が好イメージのように私は感じます。
<万葉集での「深し」と「浅し」>
さて,万葉集では,海や川の深い浅い,染め色の深い浅い,時が経つのが深い浅い,人の想いが深い浅いなどが出てきます。そのなかで,次のような染め色の濃淡を対照的に読んだ短歌をそれぞれ紹介します。
紅の深染めの衣色深く染みにしかばか忘れかねつる(11-2624)
<くれなゐのこそめのころもいろふかく しみにしかばかわすれかねつる>
<< 紅で色濃く染めた衣のように心が色濃くしみたのが忘れられません>>
紅の薄染め衣浅らかに相見し人に恋ふるころかも(12-2966)
<くれなゐのうすそめころもあさらかにあひみしひとにこふるころかも>
<<紅で薄く染めた衣の色が薄いように少しだけだけど相見た女性に,今恋してしまったなあ>>
両方とも詠み人しらずの短歌で,紅(ベニバナ)で染めた衣の染め色の濃さ,薄さを序詞として異性を思う気持ちを読んでいると私は思います。
1首目は,深く紅に染めた衣のようにあの人が自分の心の中に色濃く入ってきたことが忘れられない。おそらく,相手とは今逢うことが叶わない状況だろうと私は想像します。
2首目は,薄く紅に染めた衣のように淡いつき合いだったあの人だが,しっかり恋してしまった。それぐらい魅力的な異性だったのだろうと私は感じます。
さて,次に1首の中に深しと浅しの両方が入っている短歌が万葉集に出てきます。
広瀬川袖漬くばかり浅きをや心深めて我が思へるらむ(7-1381)
<ひろせがは そでつくばかりあさきをや こころふかめてわがおもへるらむ>
<<歩いて渡れるほど浅い広瀬川のようにあの人の私に対する心は浅いのに,心の底まで深く私はなぜこんなに思いつめているのだろう>>
これも川の浅さを片思いしている相手の自分に対する気持ちの薄さを比喩している詠み人しらずの短歌です。そして,その薄さとは正反対に自分はどれだけ深く相手を恋し慕っているかをこの短歌で訴え,自分自身を落ち着かせているのだろうと私は思います。
ところで,秋も徐々に深まってきました。近所はまだまだ秋を感じさせるのはススキ位ですが,北海道や東北,関東甲信越では山岳地帯で紅葉が始まったという情報が入るようになりました。
そんな情景を詠った短歌を紹介します。
我が門の浅茅色づく吉隠の浪柴の野の黄葉散るらし(10-2190)
<わがかどのあさぢいろづく よなばりのなみしばののの もみちちるらし>
<<我が門の浅茅は色づいたところだが,吉隠の浪柴の野の黄葉はもう散っているころだろう>>
浅茅は背の低く,疎(まば)らに生えたチガヤのことで,秋が深まると緑色から先端が赤く変色します。作者の自宅(恐らく平城京近辺)ではチガヤが色づいたので,山の方(吉隠の浪紫の野:今の桜井市長谷寺よりさらに奥)では,もう紅葉が散り始めているのだろうなと作者は想像しているのでしょう。
私は,北海道大沼公園,青森県十和田湖,奥入瀬渓谷,八甲田山,秋田県八幡平などで今頃紅葉が始まっているのかなあと想いを馳せます。いずれの場所も紅葉シーズンに過去訪れており,私にとってはその美しさが忘れられないのです。
対語シリーズ「表・面と裏」に続く。
2011年10月9日日曜日
対語シリーズ「良しと悪(あ)し」‥指さし確認,○○ヨシ!
今回は,「良しと悪し(良いと悪い)」について万葉集を見ていきます。
<通貨論>
ところで,イギリスの財政家トーマス・グレシャムは「悪貨は良貨を駆逐する」という法則(グレイシャムの法則)を提唱しました。
私はIT系技術者ですが大学では経済学を割と真面目に学びましたので,この程度のことは少し知っています。
今のEU(ヨーロッパ連合)の単一通過ユーロ(€)は,以前に比べて悪貨になりつつあります。すなわち,通貨の価値(信用)はその国の健全な財政によりなりたっているのでずが,EU加盟国ギリシャの国債がディフォルト(債務不履行)のリスクが高まり,そのリスクが現実のものになるとギリシャ国債を大量に保有する他のEU諸国の銀行が経営危機に陥る恐れがあり,ユーロの信用が揺らいでいます。
EU以外の国々の事業者は,価値が下がると予想されるユーロを売って(保持せず),円やドルを買おう(保持しよう)とします。その結果,ユーロはさらに安くなって市場に放出されます。
この悪循環を放置すると,次はEU以外の国々の財政も廻りまわって悪化させ,まさに「悪貨が良貨を駆逐する」状態になってしまうのです。
<万葉集の話を戻す>
経済評論家的な話はこのくらいにしましょう。万葉集で「良し」を見ますと「好し」「淑し」「吉」「よし」「宜(よろ)し」とされる場合もあります。
そんな「よし」を詠った万葉集でもっとも有名なのは次の大海人皇子が詠ったとされる短歌でしょう。
淑き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見(1-27)
<よきひとのよしとよくみてよしといひし よしのよくみよよきひとよくみ>
<<昔の立派な人が素晴らしい所だと何度も見て,それでも素晴らしい所だと言ったというこの吉野をよく見ると良い。今の善良な人たちもこの地を何度も見てほしい>>
「よし」または「よく」が合わせい8回出てきます。大海人皇子(後の天武天皇)がどれほど吉野をこよなく愛していたことをこの短歌で示そうとしたのでしょうね。
それから「よし」は,次のように枕詞の最後に使われることがあります。
あさもよし‥紀または城に掛かる枕詞
ありねよし‥対馬に掛かる枕詞
あをによし‥奈良に掛かる枕詞
たまもよし‥讃岐に掛かる枕詞
ますげ(が)よし‥宗我に掛かる枕詞
これらは,ほとんど地名に掛かる枕詞です。たとえば「玉藻が良いという」讃岐の地というように,讃岐といえば「玉藻が良い」という決まり文句が当時あったのでしょう。
瀬戸内海に面し鳴門海峡にも近い讃岐産のワカメは品質が良く,京人の間でも評判だったのは間違いないと私は思います。
また,奈良といえば,青色や丹色(あか色)に綺麗に彩られた宮殿,社寺,邸宅,橋がたくさんあったため「青丹よし」が奈良の枕詞になったのだろうと私は思います。
あをによし奈良の都にたなびける天の白雲見れど飽かぬかも(15-3602)
<あをによしならのみやこに たなびけるあまのしらくも みれどあかぬかも>
<<奈良の都にたなびく白い雲は見ていてもけっして見飽きないものでしよう>>
この短歌は天平8(736)年に遣新羅使の一人が詠んだものとされています。
白い雲がたなびいているのはどの地でも見られると思いますが,青色や丹色に彩られた宮殿や社寺の甍(いらか)の上をたなびく白い雲は,当時平城京以外では見られなかったと想像できます。
いっぽう「悪し」は,かなり偏った作者によって使われています。たとえば,中臣宅守(なかとみのやかもり)と狭野茅上娘子(さののちがみのをとめ)と交わした悲別(宅守が越前に流されたため)の短歌63首の中で4首に出てきます。
宅守が3首,その後娘子が1首で「悪し」を詠んでいます。
宅守は次のように越前へ行く道が「悪し(つらい)」と読んでいます。
愛しと我が思ふ妹を思ひつつ行けばかもとな行き悪しかるらむ(15-3729)
<うるはしとあがもふいもを おもひつつゆけばかもとな ゆきあしかるらむ>
<<恋しいとあなたのことを思いながら歩くからでしょうか,行きづらくて先に進まないのです>>
娘子は他国はもっと住みづらい「住み悪し」というので早く帰ってきてほしいと伝えます。
他国は住み悪しとぞ言ふ速けく早帰りませ恋ひ死なぬとに(15-3748)
<ひとくにはすみあしとぞいふ すむやけくはやかへりませ こひしなぬとに>
<<異国は住みづらいといいます。すみやかに早く帰って来て下さいませ。私が恋い死にしてしまわないうちに>>
このように万葉時代の「悪し」は主につらいこと,我慢しなければならないことを指していることが多いようです。
勧善懲悪時代劇で悪代官が「○○屋,お主もなかなかの悪者よのう。」「いえいえ,代官様には到底及びませんでございやす。」といった悪者を指して「悪し」とはいっていないように私は思います。
天の川 「たびとはん。あんたさんもいいかげん悪ちゃうか?」
いえいえ,天の川様には到底...。おっと,何を言わせるのだよ天の川君。私は顔と頭は悪いが,善良な一市民だからね。
対語シリーズ「深しと浅し」に続く。
<通貨論>
ところで,イギリスの財政家トーマス・グレシャムは「悪貨は良貨を駆逐する」という法則(グレイシャムの法則)を提唱しました。
私はIT系技術者ですが大学では経済学を割と真面目に学びましたので,この程度のことは少し知っています。
今のEU(ヨーロッパ連合)の単一通過ユーロ(€)は,以前に比べて悪貨になりつつあります。すなわち,通貨の価値(信用)はその国の健全な財政によりなりたっているのでずが,EU加盟国ギリシャの国債がディフォルト(債務不履行)のリスクが高まり,そのリスクが現実のものになるとギリシャ国債を大量に保有する他のEU諸国の銀行が経営危機に陥る恐れがあり,ユーロの信用が揺らいでいます。
EU以外の国々の事業者は,価値が下がると予想されるユーロを売って(保持せず),円やドルを買おう(保持しよう)とします。その結果,ユーロはさらに安くなって市場に放出されます。
この悪循環を放置すると,次はEU以外の国々の財政も廻りまわって悪化させ,まさに「悪貨が良貨を駆逐する」状態になってしまうのです。
<万葉集の話を戻す>
経済評論家的な話はこのくらいにしましょう。万葉集で「良し」を見ますと「好し」「淑し」「吉」「よし」「宜(よろ)し」とされる場合もあります。
そんな「よし」を詠った万葉集でもっとも有名なのは次の大海人皇子が詠ったとされる短歌でしょう。
淑き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見(1-27)
<よきひとのよしとよくみてよしといひし よしのよくみよよきひとよくみ>
<<昔の立派な人が素晴らしい所だと何度も見て,それでも素晴らしい所だと言ったというこの吉野をよく見ると良い。今の善良な人たちもこの地を何度も見てほしい>>
「よし」または「よく」が合わせい8回出てきます。大海人皇子(後の天武天皇)がどれほど吉野をこよなく愛していたことをこの短歌で示そうとしたのでしょうね。
それから「よし」は,次のように枕詞の最後に使われることがあります。
あさもよし‥紀または城に掛かる枕詞
ありねよし‥対馬に掛かる枕詞
あをによし‥奈良に掛かる枕詞
たまもよし‥讃岐に掛かる枕詞
ますげ(が)よし‥宗我に掛かる枕詞
これらは,ほとんど地名に掛かる枕詞です。たとえば「玉藻が良いという」讃岐の地というように,讃岐といえば「玉藻が良い」という決まり文句が当時あったのでしょう。
瀬戸内海に面し鳴門海峡にも近い讃岐産のワカメは品質が良く,京人の間でも評判だったのは間違いないと私は思います。
また,奈良といえば,青色や丹色(あか色)に綺麗に彩られた宮殿,社寺,邸宅,橋がたくさんあったため「青丹よし」が奈良の枕詞になったのだろうと私は思います。
あをによし奈良の都にたなびける天の白雲見れど飽かぬかも(15-3602)
<あをによしならのみやこに たなびけるあまのしらくも みれどあかぬかも>
<<奈良の都にたなびく白い雲は見ていてもけっして見飽きないものでしよう>>
この短歌は天平8(736)年に遣新羅使の一人が詠んだものとされています。
白い雲がたなびいているのはどの地でも見られると思いますが,青色や丹色に彩られた宮殿や社寺の甍(いらか)の上をたなびく白い雲は,当時平城京以外では見られなかったと想像できます。
いっぽう「悪し」は,かなり偏った作者によって使われています。たとえば,中臣宅守(なかとみのやかもり)と狭野茅上娘子(さののちがみのをとめ)と交わした悲別(宅守が越前に流されたため)の短歌63首の中で4首に出てきます。
宅守が3首,その後娘子が1首で「悪し」を詠んでいます。
宅守は次のように越前へ行く道が「悪し(つらい)」と読んでいます。
愛しと我が思ふ妹を思ひつつ行けばかもとな行き悪しかるらむ(15-3729)
<うるはしとあがもふいもを おもひつつゆけばかもとな ゆきあしかるらむ>
<<恋しいとあなたのことを思いながら歩くからでしょうか,行きづらくて先に進まないのです>>
娘子は他国はもっと住みづらい「住み悪し」というので早く帰ってきてほしいと伝えます。
他国は住み悪しとぞ言ふ速けく早帰りませ恋ひ死なぬとに(15-3748)
<ひとくにはすみあしとぞいふ すむやけくはやかへりませ こひしなぬとに>
<<異国は住みづらいといいます。すみやかに早く帰って来て下さいませ。私が恋い死にしてしまわないうちに>>
このように万葉時代の「悪し」は主につらいこと,我慢しなければならないことを指していることが多いようです。
勧善懲悪時代劇で悪代官が「○○屋,お主もなかなかの悪者よのう。」「いえいえ,代官様には到底及びませんでございやす。」といった悪者を指して「悪し」とはいっていないように私は思います。
天の川 「たびとはん。あんたさんもいいかげん悪ちゃうか?」
いえいえ,天の川様には到底...。おっと,何を言わせるのだよ天の川君。私は顔と頭は悪いが,善良な一市民だからね。
対語シリーズ「深しと浅し」に続く。
2011年10月1日土曜日
対語シリーズ「老と若」‥今の若者は高齢者から「昔はね..」という話を聞きたがらない?
人にとって老いは避けられないものです。しかし,年を重ねても少しでも若くありたい,若く見せたいという気持ちを持つ人も少なくないようです。そのためか,最近ではアンチエイジング(抗老化医学)という考え方によって,年を重ねるごとに進む老化を防ぐ治療,施術,トレーニング,生活習慣が注目されていると聞きます。
さて,1300年前の万葉時代,「老と若」どう考えられていたのでしょうか。万葉集を見ていきます。
いにしへゆ人の言ひ来る老人の変若つといふ水ぞ名に負ふ瀧の瀬(6-1034)
<いにしへゆひとのいひける おいひとのをつといふみづぞ なにおふたきのせ>
<<昔から言い伝えられてきた、老人が若返ると言われている水ですよ、この滝は>>
この短歌は天平10(740)年10月に大伴東人(おほとものあづまと)という人物が,大伴家持と一緒に今の岐阜県養老町にある「養老の滝」を訪れたとき詠んだとされています。
「変若つ」は「をつ」と読み,若返るという意味です。
この水を飲むか浴びると老人が若返ると伝えられている養老の滝に来て,そのままを短歌にしています。
これは,一種の観光案内,または紀行文的な短歌で,京(みやこ)にいる老いを感じる人やもっと若くいたいと思う人に勧める気持ちが込められているように思います。もしかしたら,大伴氏はそういった旅行者を警護やガイドする仕事を請け負っており,旅行者を増やすことが氏族の繁栄につながっていたのかも知れませんね。
いずれにしても,このような短歌が詠まれたのは万葉人に若返りたいという欲求が強くあったことは間違いないと私は思います。
「落水」や「落合」という姓がありますが,この元は「変若水」や「変若合」だったのではないかと私は推理します。「変若合」の方は「生まれ変わってまた逢いましょう」というロマンチックな名前だということになりますね。
続いて「若」を詠んだ短歌を紹介しましたょう。
はねかづら今する妹をうら若みいざ率川の音のさやけさ(7-1112)
<はねかづらいまするいもをうらわかみ いざいさかはのおとのさやけさ>
<<はね鬘を着けた今夜初めて自分と床を共にする彼女はうら若いので「いざ!」と心がはやるが,率川(いさかわ)の音はさわやかに聞こえているなあ>>
さあ,いよいよ彼女にとっての初夜なのです。彼女はまだ若い。作者は早く交わりたいが率川(今の近鉄奈良駅近くの場所らしい)のさわやかな音が聞こえ,心地よい瞬間を詠っているように私は感じます。
作者はおそらく今まで妻問い経験を数多くしている男性なのでしょうが,彼女の家に行くのは初めてだったのかもしれません。
傍に流れる川の音とうら若い彼女の小息の繰り返しとの相乗が作者にこの歌を詠ませたのでしょうか。
このまま書き続けると成人向けになりそうなので,もう一方の「老」について詠んだ短歌を次に紹介します
あづきなく何のたはこと今さらに童言する老人にして(11-2582)
<あづきなくなにのたはこと いまさらにわらはごとする おいひとにして>
<<ダメだなあ。何をたわ言を言っているのだ,私は。あいかわらず子供じみたことを言っている。良い年をして>>
この詠み人しらずの短歌,何か自分のことを詠っているように感じてしまいますね。ただ,万葉時代での「老人」のイメージは単にお年寄りというより,人生を十分知りつくした大人というイメージを受け取ることができます。
<現代社会での老人の見方>
いっぽう,現代社会では新しいモノや新しい生き方が次々と現れ,昔からの経験を長く積んだことが必ずしも最新の世の中でうまく生きて行けるとは限らないケースもあるように思います。
そのため,人生経験豊かな老人に対する尊敬の念は昔より薄れてしまい,世代間のコミュニケーションが明らかに減ってきているように見えます。
老人側も新しい時代の変化に追従できず,自分の世界に閉じこもってしまう人が大半であるようにも見えます。
そして,さらに深刻なことには,年齢が若い人たちの中にも時代の変化に適応できず,今の社会からあまり必要とされない(例:就職先がない)状況が深刻になっているのかもしれません。
<産業革命と情報化革命>
18世紀から19世紀にかけて起こったいわゆる産業革命でも,それまで手工業で働いていた熟練工(老若男女)の多くが職を失ったと記録されています。
そして,産業で働く人達にも,資本(経営者)側と労働者側との格差(搾取)が労働者の不満を爆発させ,ロシアなどで社会主義(プロレタリアート)革命が起こったと歴史書に書かれています。
現在のいわゆる情報化革命でも,情報化を利用し,低コストで株主に利益を還元することを第一に考えている経営側とその隙間で低賃金で長時間労働者を強いられる労働者の発生,情報や資金(富)を持つものと持たないものの格差が国を越えて拡大する姿は,まさに産業革命の時と同様ではないかと私は見ています。
そういった状況が拡大すれば,第2次世界大戦の前に起こった民族や宗教に関する超保守主義や極左のような思想が台頭し,世界の安全がさらに脅かされる事態になるのではないかと私は心配しています。
<歴史に学べ>
もちろん,産業革命は悪いことばかりではありません。富を得た人達が都市開発,芸術,文学,教育,研究などにも資金を使い,それまでに多くはいなかった公務員,運輸関係者,芸術家,文学者,教育者,研究者などいった職業の規模を,それまでとは格段に増大し,中間層という消費が旺盛な人達を作り,経済が発展したのですから。
情報化革命でも,歴史から学び,社会を豊かにする新たな職業の必要性を認識し,その職業の規模を拡大させ,適用できる人材の育成努力を社会的コンセンサスのもとで実施していくことが,長期的に世界の未来を明るいものにする要素だと私は考えたいのです。
対語シリーズ「良しと悪し」に続く。
さて,1300年前の万葉時代,「老と若」どう考えられていたのでしょうか。万葉集を見ていきます。
いにしへゆ人の言ひ来る老人の変若つといふ水ぞ名に負ふ瀧の瀬(6-1034)
<いにしへゆひとのいひける おいひとのをつといふみづぞ なにおふたきのせ>
<<昔から言い伝えられてきた、老人が若返ると言われている水ですよ、この滝は>>
この短歌は天平10(740)年10月に大伴東人(おほとものあづまと)という人物が,大伴家持と一緒に今の岐阜県養老町にある「養老の滝」を訪れたとき詠んだとされています。
「変若つ」は「をつ」と読み,若返るという意味です。
この水を飲むか浴びると老人が若返ると伝えられている養老の滝に来て,そのままを短歌にしています。
これは,一種の観光案内,または紀行文的な短歌で,京(みやこ)にいる老いを感じる人やもっと若くいたいと思う人に勧める気持ちが込められているように思います。もしかしたら,大伴氏はそういった旅行者を警護やガイドする仕事を請け負っており,旅行者を増やすことが氏族の繁栄につながっていたのかも知れませんね。
いずれにしても,このような短歌が詠まれたのは万葉人に若返りたいという欲求が強くあったことは間違いないと私は思います。
「落水」や「落合」という姓がありますが,この元は「変若水」や「変若合」だったのではないかと私は推理します。「変若合」の方は「生まれ変わってまた逢いましょう」というロマンチックな名前だということになりますね。
続いて「若」を詠んだ短歌を紹介しましたょう。
はねかづら今する妹をうら若みいざ率川の音のさやけさ(7-1112)
<はねかづらいまするいもをうらわかみ いざいさかはのおとのさやけさ>
<<はね鬘を着けた今夜初めて自分と床を共にする彼女はうら若いので「いざ!」と心がはやるが,率川(いさかわ)の音はさわやかに聞こえているなあ>>
さあ,いよいよ彼女にとっての初夜なのです。彼女はまだ若い。作者は早く交わりたいが率川(今の近鉄奈良駅近くの場所らしい)のさわやかな音が聞こえ,心地よい瞬間を詠っているように私は感じます。
作者はおそらく今まで妻問い経験を数多くしている男性なのでしょうが,彼女の家に行くのは初めてだったのかもしれません。
傍に流れる川の音とうら若い彼女の小息の繰り返しとの相乗が作者にこの歌を詠ませたのでしょうか。
このまま書き続けると成人向けになりそうなので,もう一方の「老」について詠んだ短歌を次に紹介します
あづきなく何のたはこと今さらに童言する老人にして(11-2582)
<あづきなくなにのたはこと いまさらにわらはごとする おいひとにして>
<<ダメだなあ。何をたわ言を言っているのだ,私は。あいかわらず子供じみたことを言っている。良い年をして>>
この詠み人しらずの短歌,何か自分のことを詠っているように感じてしまいますね。ただ,万葉時代での「老人」のイメージは単にお年寄りというより,人生を十分知りつくした大人というイメージを受け取ることができます。
<現代社会での老人の見方>
いっぽう,現代社会では新しいモノや新しい生き方が次々と現れ,昔からの経験を長く積んだことが必ずしも最新の世の中でうまく生きて行けるとは限らないケースもあるように思います。
そのため,人生経験豊かな老人に対する尊敬の念は昔より薄れてしまい,世代間のコミュニケーションが明らかに減ってきているように見えます。
老人側も新しい時代の変化に追従できず,自分の世界に閉じこもってしまう人が大半であるようにも見えます。
そして,さらに深刻なことには,年齢が若い人たちの中にも時代の変化に適応できず,今の社会からあまり必要とされない(例:就職先がない)状況が深刻になっているのかもしれません。
<産業革命と情報化革命>
18世紀から19世紀にかけて起こったいわゆる産業革命でも,それまで手工業で働いていた熟練工(老若男女)の多くが職を失ったと記録されています。
そして,産業で働く人達にも,資本(経営者)側と労働者側との格差(搾取)が労働者の不満を爆発させ,ロシアなどで社会主義(プロレタリアート)革命が起こったと歴史書に書かれています。
現在のいわゆる情報化革命でも,情報化を利用し,低コストで株主に利益を還元することを第一に考えている経営側とその隙間で低賃金で長時間労働者を強いられる労働者の発生,情報や資金(富)を持つものと持たないものの格差が国を越えて拡大する姿は,まさに産業革命の時と同様ではないかと私は見ています。
そういった状況が拡大すれば,第2次世界大戦の前に起こった民族や宗教に関する超保守主義や極左のような思想が台頭し,世界の安全がさらに脅かされる事態になるのではないかと私は心配しています。
<歴史に学べ>
もちろん,産業革命は悪いことばかりではありません。富を得た人達が都市開発,芸術,文学,教育,研究などにも資金を使い,それまでに多くはいなかった公務員,運輸関係者,芸術家,文学者,教育者,研究者などいった職業の規模を,それまでとは格段に増大し,中間層という消費が旺盛な人達を作り,経済が発展したのですから。
情報化革命でも,歴史から学び,社会を豊かにする新たな職業の必要性を認識し,その職業の規模を拡大させ,適用できる人材の育成努力を社会的コンセンサスのもとで実施していくことが,長期的に世界の未来を明るいものにする要素だと私は考えたいのです。
対語シリーズ「良しと悪し」に続く。
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