2018年5月30日水曜日

続難読漢字シリーズ(27)…官(つかさ)

今回は「官(つかさ)」について万葉集をみていきます。同様の意味で「つかさ」と読む漢字は「司」「寮」というものもあります。意味は,役所や官庁,官職,役人などの意味で万葉集では使われています。
最初に紹介するのは,禁酒令を今晩は許してほしいという詠み人しらずの短歌です。敢て作者名を隠しているのかも知れませんね。

官にも許したまへり今夜のみ飲まむ酒かも散りこすなゆめ(8-1657)
<つかさにもゆるしたまへり こよひのみのまむさけかも ちりこすなゆめ>
<<お上からお許しが出たぞ。今夜だけ飲める酒になってしまうのか。梅の花よ散らないほしい>>

万葉時代の花見といえば「梅見」です。禁酒令が出ているのですが,梅の花が咲いているときの「梅見」では多少飲んでも良いということになっていたのでしょうか。それとも,「きっと許してくれるに違いない」と勝手な解釈をして詠んだのかも。
明日も飲みたいから,名残の梅の花は散らないでほしいという酒好きの偽らざる気持ちをストレートに詠んだに違いないと私は思います。
さて,日本人が比較的寛容な民族なのは,移ろいゆく季節の変化と実は関係があるような気がします。季節の変化で長く同じ状態が続かないのだから,たとえば花見ができる今の時期だけは少し大目にみてあげようという気持ちになるというのがこの持論です。
次に紹介するのは,大宰府で山上憶良が対馬海峡で水難に遭い亡くなった志賀白水郎という船人を悼んで詠んだ10首の和歌の中の1首です。

官こそさしても遣らめさかしらに行きし荒雄ら波に袖振る(16-3964)
<つかさこそさしてもやらめ さかしらにゆきしあらをら なみにそでふる>
<<お役所の仕事なら命じて遣わすだろうけれど,自らの意思で海に出たあの勇者たち,波をものともせず袖を振っていた>>

本当は,お役所が責任をもってやるべき危険な仕事を民間の若者が買って出て,尊い命を落としてしまった。
現代でも,よく役所が怠慢で住民がケガをしたとか,役所がやらないので善意でやったら勝手なことをしたと訴えられたとか,同じようなことがありそうですね。
為政者による社会の制度は,あくまで全体としての社会システムの効率化に帰する目的で作られますが,法律や規則で規定されている以外のことには役所は手を出そうとしないのは基本的に今も昔も変わらないのかも知れません。
三権分立が確立された現代では,法律の内容や行政の実行不備は立法府や司法によって是正されますが,万葉時代ではなかなか役所は動いてくれなかったのは想像に難くありません。
有識者の憶良なら,そんな制度上の問題も意識して作歌していたのでしょうね。
最後に紹介するのは,天平感宝元(749)年閏(うるふ)5月に越中で大伴家持が詠んだ長歌の冒頭の一部です。

大君の遠の朝廷と 任きたまふ官のまにま み雪降る越に下り来 あらたまの年の五年~(18-4113)
<おほきみのとほのみかどと まきたまふつかさのまにま みゆきふるこしにくだりき あらたまのとしのいつとせ~>
<<天皇に任命された職務の内容により,雪がたくさん降る越中に下って来て5年の間~>>

天平感宝は,天平21年4月14日に改元され,約3か月半後(閏月含む)の天平感宝元年7月2日に天平勝宝に改元されてしまいます。
この短い間に家持は何首もの和歌を詠んでいます。越中にもそういった情報がかなりの早さで伝わり,それを記録しつつ作歌する家持の几帳面さを感じてしまいます。
この長歌は,家持には珍しく「越中のど田舎に5年も住んでもう飽きた」という内容で終わっています。
改元が頻繁に行われるような京の急な動きが気になっているので,のんびりとした越中にいる家持をなおさらそんな気にさせているのでしょうか。
(続難読漢字シリーズ(28)につづく)

2018年5月28日月曜日

続難読漢字シリーズ(26)…衢(ちまた)

今回は「衢(ちまた)」について万葉集をみていきます。同様の意味で「ちまた」と読む漢字は「街」「港」「岐」というものもあります。
「ちまた」が出で来る万葉集の和歌の万葉仮名は意味からとった「街」「衢」が使われています。
そのため,漢字かな交じりでもこの二つの漢字がほぼそのまま使われてきたのかも知れません。今回紹介するのは「衢」の字だけです。
最初に紹介するのは,飛鳥時代の歌人といわれる三方沙弥(みかたのさみ)が園臣生羽(そののおほみいくは)の娘を娶ったが,それほど経たないうちに病に臥したときに作った3首の中の1首です。

橘の蔭踏む道の八衢に物をぞ思ふ妹に逢はずして(2-125)
<たちばなのかげふむみちの やちまたにものをぞおもふ いもにあはずして>
<<橘の木蔭を踏んで行く道が八方に分かれているように思い乱れている。逢いに行くことができずに>>

橘は柑橘系の常緑樹です。万葉時代の街では,街路樹として橘を植え,夏の暑い時でも,分厚い葉で木陰を作って,快適にショッピングや散歩ができるようにしたのではないでしょうか。
木陰を選んで歩きたいが,あまりにも枝が分かれていて,どの枝の影を選べばよいか分からない。妻問に行けない自分の心の乱れは,まさにそんな気持ちだと作者は表現したいのでしょう。
さて,次に紹介するのは,時代は奈良時代の天平11(739)年8月に橘諸兄邸で行われた宴席で,高橋安麻呂が三方沙弥が詠んだ上の巻2の短歌を意識して,故人である豊島采女(とよしまのうねめ)が詠んだとして紹介した短歌のようです。

橘の本に道踏む八衢に物をぞ思ふ人に知らえず(6-1027)
<たちばなのもとにみちふむ やちまたにものをぞおもふ ひとにしらえず>
<<橘の下で道を踏む影が八衢に分かれるように,あれこれと物思いをしてしまう。人に知られもしないで>>

宴席の主人である橘諸兄を意識して,橘様の下で何にお役に立てるか思い悩んでいますという諸兄へのヨイショの気持ちを表した短歌と感じてしまいます。何せ,あくまで宴席で披露された短歌ですからね。
最後に紹介するのは,車持娘子(くるまもちのいらつめ)が病に臥し,臨終のときに,ようやく訪れた夫の前で詠んだとされる長歌の反歌です。

占部をも八十の衢も占問へど君を相見むたどき知らずも(16-3812)
<うらへをも やそのちまたもうらとへど きみをあひむたどきしらずも>
<<占い師を招いたり道の四つ辻占いなど無用です。あの方に逢える手段など知らないのですもの>>

どんな占いに頼ってもだめでしたという諦め感が娘子を襲っています。妻問婚がどれほど妻にとって苦痛の慣習だったか,この和歌を始め万葉集に出てくる多くの妻の和歌から想像できます。
妻はただ待つだけしかできない。できることといえば,夫に和歌を送り,ただひたすら訪ねてきてほしいことを訴えるしかないのです。
夫に別の妻が何人もできたとしても,それを知る由もない。こんな理不尽なことを万葉集は多くの和歌で示しているのです。
しかし,万葉集を研究してきた人は圧倒的に男性が多く,こういった女性の苦痛を広く知らしめることは日本の風習だからとしてスルーされてきたように思います。
つい最近まで,たとえ夫婦が同じ家で暮らすようになっても,夫が外で勤め,妻が夫の帰りを何時になっても待つという専業主婦という標準家庭が前提での制度が残ってきたのです。
万葉集の編者は,律令制度などの当時としては先進的な制度の導入によって発生しうる影の部分も和歌として,客観的にそのまま残そうとしたと私には思えてなりません。
しかし,万葉集は後の為政者や研究者にとって都合よいところだけを秀歌などと称して利用され,ほんの一部の和歌だけでイメージが(編者の意図に反して)後世の人たちの好き嫌いや都合によってゆがめられて形作られてしまっているのです。
私は,これからも万葉集の和歌に優劣を付けず,先入観を排除した万葉集の和歌を情報としてリバーズエンジニアリング(あくまで現物全体から編者の意図解析)を続けていこうと考えています。
(続難読漢字シリーズ(27)につづく)

2018年5月25日金曜日

続難読漢字シリーズ(25)…携ふ(たづさふ)

今回は「携ふ(たづさふ)」について万葉集をみていきます。同伴する,連れ立つ,互いに手を取るといった意味に万葉集では使われています。現代仮名遣いでは「携える(たずさえる)」が多用されます。
最初に紹介するのは,恋人と手を携えて床を共にしたい気持ちを詠んだ詠み人しらずの短歌です。

人言は夏野の草の繁くとも妹と我れとし携はり寝ば(10-1983)
<ひとごとは なつののくさのしげくとも いもとあれとしたづさはりねば>
<<夏野の草が刈ってもすぐ出てくるように他人の噂が五月蠅いけど,お前と私が手をとって寝てしまえばよいのさ>>

この作者,かなりやけっぱちになっていそうですね。彼女の手を携えて,それから共に寝たら,誰が何を言おうと幸せだという願いが伝わってきます。
次に紹介する短歌は,柿本人麻呂歌集に出てくる初冬の紀伊の国の浜辺で詠まれたとされるものです。

黄葉の過ぎにし子らと携はり遊びし礒を見れば悲しも(9-1796)
<もみちばのすぎにしこらと たづさはりあそびしいそを みればかなしも>
<<もみじの葉が散るように死んでしまった子と手を取り合って遊んだ磯を見うると悲しい>>

この作者は,幼いころ遊んだ懐かしい磯に来たが,そのとき手をつないで遊んだ子は今は死んでいない。その悲しさがこみあげて,この短歌を詠んだのでしょうか。
最後に紹介するのは,最愛の妻が亡くなったことに対する夫の慟哭の長歌(作者不詳)です。

天地の神はなかれや 愛しき我が妻離る 光る神鳴りはた娘子 携はりともにあらむと 思ひしに心違ひぬ 言はむすべ 為むすべ知らに 木綿たすき肩に取り懸け 倭文幣を手に取り持ちて な放けそと我れは祈れど 枕きて寝し妹が手本は 雲にたなびく(19-4236)
<あめつちのかみはなかれや うつくしきわがつまさかる ひかるかみなりはたをとめ たづさはりともにあらむと おもひしにこころたがひぬ いはむすべせむすべしらに ゆふたすきかたにとりかけ しつぬさをてにとりもちて なさけそとわれはいのれど まきてねしいもがたもとは くもにたなびく>
<<天地に神が無いのか,愛おしい妻は去ってしまった。光る神のような美しい機織り娘だった。手に手を取って共に生きようと思ったのに願いは通じなかった。言うべき言葉もなく,為すすべも知らずに,木綿襷を肩に掛け倭織の幣を手に持ち,僕たちを離れ離れにしないでと祈ったが,抱いて寝た妻の腕は雲のように白く横たわっている>>

おそらく病気で妻は亡くなったのでしょう,妻の最期に寄り添った夫の無念さが本当に伝わってくる長歌です。
現代では,病気の治療技術や予防技術により,若いうちに病気で死亡する人の割合が100年,200年前に比べ格段に減っています。マスコミ等で若くして亡くなった人の報道がされますが,それはニュースになるから敢てとりあげられているのであって,10万人あたりといった全体統計では,昔に比べて大きく減っているのは事実です。そのため,生命保険の保険料も値下げになっているくらいです。
ただし,比率は減っても,ゼロではありません。私の友人にお子さんまだ幼いうちに夫を急病で亡くされた女性がいます。また,私も今回大病を患い,想定寿命を見直し,余生をどう過ごすか,再検討をしているところです。
生きていることの大切さと,いつ終わるか分からない生きているとき何を生きがいとして,幸福感をもって誰と生きていくか,定期的に考えることが求められる状況になりました。
ただ,それはそれで,いろんな選択肢があり,想像力を働かせ,どれが最適か私は前向きに取り組んでいます。
(続難読漢字シリーズ(26)につづく)

2018年5月21日月曜日

続難読漢字シリーズ(24)…激る(はしる)激つ(だきつ)

今回は「激る(はしる)激つ(だきつ)」について万葉集をみていきます。「激つ(だきつ)」は現代仮名遣いでは「激る(たぎる)」となります。なお,現在では「水がはしる」という言い方はしなくなったようです。「激流」「激水」「激浪」「激端」などの音読み言葉ばかりで,この訓読みは両方とも思い出しにくいかもしれません。
今回は,「激る(はしる)」「激つ(だきつ)」が使われている,それぞれ長歌を紹介します。
最初に紹介する長歌は,「激る(はしる)」が詠み込まれている柿本人麻呂が吉野の離宮を賛美したものです。持統天皇が吉野に行幸したときに詠んだとされています。

やすみしし我が大君の きこしめす天の下に 国はしもさはにあれども 山川の清き河内と 御心を吉野の国の 花散らふ秋津の野辺に 宮柱太敷きませば ももしきの大宮人は 舟並めて朝川渡る 舟競ひ夕川渡る この川の絶ゆることなく この山のいや高知らす 水激る瀧の宮処は 見れど飽かぬかも(1-36)
<やすみししわがおほきみの きこしめすあめのしたに くにはしもさはにあれども やまかはのきよきかふちと みこころをよしののくにの はなぢらふあきづののへに みやばしらふとしきませば ももしきのおほみやひとは ふねなめてあさかはわたる ふなぎほひゆふかはわたる このかはのたゆることなく このやまのいやたかしらす みづはしるたきのみやこは みれどあかぬかも>
<<今の我が君が統治されている土地は天の下に多くあるけれど,山も川も清き河内の地とお好きな吉野の国の花散る秋津の野辺に,宮柱も太き宮殿を建立され,多くの大宮人は舟を浮かべて朝川を渡り,舟を競って夕川を渡っている。この川が絶えることのないように,この山がいつまでも高くそびえ立つように,我が君も永遠に高々と統治されることだ。水が大変な速さで走るように流れるこの滝の都はいくら見ても素晴らしい>>

吉野は,天武天皇のゆかりの地であり,暑い奈良盆地の夏の時期の避暑地として離宮を整備したのだと思います。
避暑地である吉野に到着した持統天皇一向に対して,人麻呂は吉野の素晴らしさを読み上げ,「素敵な吉野での避暑をお過ごしください」と,ここまでの旅の疲れをこの和歌で癒したのでしょうか。奈良盆地に流れる川と比較にならない水量,流の早さ,水の冷たさ,清らかさが,きっと天皇の心を潤すに違いないとこの長歌は締めているように私は解釈します。
紹介するもう一つの長歌は,「激つ(だきつ)」が詠み込まれた大伴家持が越中で詠んだとされるものです。

あらたまの年行きかはり 春されば花のみにほふ あしひきの山下響み 落ち激ち流る辟田の 川の瀬に鮎子さ走る 島つ鳥鵜養伴なへ 篝さしなづさひ行けば 我妹子が形見がてらと 紅の八しほに染めて おこせたる衣の裾も 通りて濡れぬ(19-4156)
<あらたまのとしゆきかはり はるさればはなのみにほふ あしひきのやましたとよみ おちたぎちながるさきたの かはのせにあゆこさばしる しまつとりうかひともなへ かがりさしなづさひゆけば わぎもこがかたみがてらと くれなゐのやしほにそめて おこせたるころものすそも とほりてぬれぬ>
<<年があらたまって春になると花々が美しく咲く。(雪解け水で)山のふもとを轟かして激しく流れくだる辟田川。(夏になると)その川の瀬では鮎の元気に泳ぐ姿が見える。(夏の夜)鵜飼仲間と伴って,篝火をかざして川を行くと,我が妻が形見と思ってと,紅色に幾度も染めて送ってくれた着物がすっかり水に濡れてしまった>>

この長歌から家持は越中の春から夏にかけての自然を謳歌している気持ちが私に伝わってきます。特に,鵜飼は家持にとって大変楽しみな夏の夜にみんなで興じるスポーツだったのです。
妻が気を付けてほしいという気持ちで作らせた女性が着るような派手な着物も,楽しくてしょうがない鵜飼に興じているうちに,スプ濡れになったのでしょう。
水量が「激る」ほど豊かで,アユがたくさんいる辟田川の自然がどれたけ家持の気持ちを癒したか,私には共感するものが多くあります。
(続難読漢字シリーズ(25)につづく)

2018年5月13日日曜日

続難読漢字シリーズ(23)…験(しるし)

今回は「験(しるし)」について万葉集をみていきます。漢字体から見ると馬を識別するために確認したマークを付けるような意味でしょうか。
最初に紹介するのは,坂上郎女が詠んだ短歌です。

まそ鏡磨ぎし心をゆるしてば後に言ふとも験あらめやも(4-673)
<まそかがみとぎしこころを ゆるしてば のちにいふともしるしあらめやも>
<<磨きあげた鏡のような無垢な気持ちをゆるめてしまったら,後で悔やんでみても意味がないのです>>

実は坂上郎女が詠んだ和歌には「験」を詠み込んでものがいくつかあります。郎女は「験」という言葉に何らかの思い入れがあったのかも知れません。
次は,海犬養岡麻呂(あまのいぬかひのをかまろ)という官僚が聖武天皇を称え天平6(735)年に詠んだとされる短歌です。

御民我れ生ける験あり天地の栄ゆる時にあへらく思へば(6-996)
<みたみわれいけるしるしあり あめつちの、かゆるときに あへらくおもへば>
<<陛下のもとに生まれた私は生きがいを確実に感じております。天地が栄えているこの時に生まれ合わせたことを思いますとなお更でございます>>

「験あり」を「確実に」と訳してみました。天平文化が最高潮に達した時代を良くあらわした天皇ヨイショの短歌ですね。
最後は,遣新羅使(けんしらぎし)の一人が,天平8年に北九州の港に船が立ち寄り停泊しているときに詠んだという短歌です。

秋の野をにほはす萩は咲けれども見る験なし旅にしあれば(15-3677)
<あきののをにほはすはぎはさけれども みるしるしなしたびにしあれば>
<<秋の野に美しく萩は咲いている時期だが,私には見る当てがない。旅の途中なので>>

遣新羅使の「旅」の意味は,今の観光旅行とは全然違いのでしょう。
新羅がある朝鮮半島までは,壱岐,対島を経由すれば,そう遠距離でない船旅ですが,対馬海峡は波が比較的穏やかな瀬戸内海とは違い,当時の造船技術では難破する事故が絶えなかったのだろうと推測されます。
美しく咲いているだろう秋萩を,遣新羅使にとっては楽しんでゆっくり観る余裕なんかないという気持ちが伝わってきます。
(続難読漢字シリーズ(24)につづく)

2018年5月10日木曜日

続難読漢字シリーズ(22)…標(しめ)

今回は「標(しめ)」について万葉集をみていきます。標縄を「しめなわ」と読める人には,難読漢字に入らないかも知れませんね。
意味は,「記憶,記録,区別のために何らかの印しを残しておいたもの」というような意味です。
最初に紹介するのは,「標」について詠んだ万葉集の和歌の中で一番有名だと言っても良い額田王(ぬかだのおほきみ)が大海人皇子(後の天武天皇)に向けて詠んだものです。このブログでも何度か紹介しています。

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(1-20)
<あかねさす むらさきのゆきしめのゆき のもりはみずやきみがそでふる>
<<薬草園に行ったときも猟地に行ったときも番人が見ているにも関わらず貴方がお袖をお振りになる>>

ここに出てくる「標野」は,後続の猟場であることを柵や溝などで区切ってあり,それで区切られた中の野のことだと思われます。
このように何らかの意味を持たせた区切りを示すものも「標」と呼んだことが想定できます。
次に紹介するのは山部赤人が春の野に出て春菜を摘みに出ようとしたときに詠んだ短歌です。

明日よりは春菜摘まむと標し野に昨日も今日も雪は降りつつ(8-1427)
<あすよりははるなつまむと しめしのにきのふもけふも ゆきはふりつつ>
<<季節は春になったので,明日あたりから春菜を摘もうと,自分用の野に出ようとしているが,昨日も今日も雪が降り続いている>>

ワラビ,ゼンマイ,ツクシ,フキノトウ,タケノコ,ウド,フキ,カタクリ,ヨモギ,セリ,ワサビ,タラの芽などの春菜は,万葉時代どこまでどんな料理方法で食べられていたか分かりませんが,春を恵みをいただくという意味で,待ち遠しいのは今と変わらない気がします。
ところが,季節が冬に逆戻りして,雪が降ってしまい,春菜を摘みに出られない赤人の残念な気持ちが表れています。
この短歌で「標し野」とあるように,どこで春菜を摘んでも良いというわけではなく,自分用に所有または借用している区画があったことが分かります。
最後に紹介するのは,大伴家持が越中で平城京の人を懐かしんで詠んだ短歌です。

あをによし奈良人見むと我が背子が標けむ紅葉地に落ちめやも(19-4223)
<あをによしならひとみむと わがせこがしめけむもみち つちにおちめやも>
<<奈良の人に見せようと我が友が標を結った黄葉です。地に散って落ちて朽ち果てることなどないですよ>>

富山の黄葉は見事だったのでしょう。それを奈良にいる人に見せたい。友人にここの黄葉の木が最高だよと標を付けてもらった。
きっと,毎年見事な黄葉を見せてくれるに違いないという家持の感動を詠んだものと私は解釈します。
(続難読漢字シリーズ(23)につづく)

2018年5月6日日曜日

続難読漢字シリーズ(21)…撓ふ(しなふ)

今回は「撓ふ」について万葉集をみていきます。現代仮名遣いでは「撓る」です。
「枝が撓る」「竿が撓る」「弓が撓る」などと使われ,まっすぐなものが元の形に戻る力を保って(弾力性を維持し)曲がる様子を表します。
では,最初に紹介するのは,小田事(をだのつかふ)という歌人が藤原京末期に旅で和歌山県の勢能山を越えるときに詠んだといわれる短歌1首です。

真木の葉の撓ふ背の山偲はずて我が越え行けば木の葉知りけむ(3-291)
<まきのはのしなふせのやま しのはずてわがこえゆけば このはしりけむ>
<<真木の葉が少し曲がっている。勢能山の山深さが心細いが,山を越えて行くとき,その曲がっている木の葉がこれから行く道を知っているで安心だ>>

訳は,次の論文を参考に,自分なりに現代語にしました。
http://manyo-world.com/files/TakefuMS-2010-005a.pdf
葉が曲がっているのは人が踏んだ後だと解釈すれば,そこを歩けば,道に迷わずに済むということのようです。
次は,緩やかに揺れ曲がった合歓木の花を彼女に見立てた詠み人しらずの短歌です。

我妹子を聞き都賀野辺の撓ひ合歓木我れは忍びず間なくし思へば(11-2752)
<わぎもこをききつがのへのしなひねぶ われはしのびずまなくしおもへば>
<<あの娘の噂を聞いては、都賀野辺にしなやかに揺れて咲いている合歓の花のようなあの娘に恋している気持ちを隠すことができない>>

男性から見て魅力的な女性はやはり直線イメージはなく,曲線イメージといっていいでしょう。合歓木の枝がそよ風に揺れて,そこに咲く花がより美しく見える姿を彼女の顔の美しさに喩えたのでしょうか。残念ながら,当時の服装では,体の曲線美はよく見えなかったと思われますので。
最後に紹介するのは,京に向かう上総国郡司大原今城(かみふさのくにのこほりのつかさ おほはらのいまき)の妻が見送るときに詠んだ歌です。

立ち撓ふ君が姿を忘れずは世の限りにや恋ひわたりなむ(20-4441)
<たちしなふきみがすがたを わすれずはよのかぎりにや こひわたりなむ>
<<あなたのしなやかに立つお姿を忘れられないで,いつまでも恋い慕いながらずっと過ごしていくのよ>>

「しなやかに立つ」は夫の優しさも含めて,表現しているのでしょうか。
夫の今城は郡司ですから,地元トップの要人です。一人で旅をするわけではなく,お付きの人も多く付くはずです。ただ,今の千葉県から奈良県までの旅は,万葉時代,整備されていない道もあり,陸路では1カ月以上掛かったかも知れません。その間,夫が病気になる,ケガをする,盗賊に遭う,道に迷って行き倒れになるなど,妻にとっては心配なことだらけでしょう。
今では,旅行や外出などの移動中に事故や事件に遭う確率と,自宅にいて,災害,事故,事件に遭う確率にあまり差は無くなっている時代なのかも知れません。
それでも,家から出かけたり,帰る途中の家族に「気を付けてね」という気持ちと言葉は忘れたくないものですね。
(続難読漢字シリーズ(22)につづく)