今回は陸上の動物(哺乳類)を序詞に詠んだ万葉集の短歌を見ていきます。
最初は,万葉集では,この短歌以外ではあまり出てこない動物の「熊」を序詞に詠んだ短歌です。
荒熊のすむといふ山の師歯迫山責めて問ふとも汝が名は告らじ(11-2696)
<あらぐまのすむといふやまの しはせやませめてとふとも ながなはのらじ>
<<熊が棲んでいるという師歯迫山を強く攻めて奪取したように,強く攻めて聞いても名はあかしてくれない>>
今でも,ツキノワグマが里山の住居に入ったとか,山菜取りの人を襲ったといったニュースが流れます。
この短歌でも「荒熊」とあるように,熊は人を襲うことが知られていたのだと想像できます。
万葉時代は,多くの荒れ地や山林の土地が開墾されて,農地が増えていった時代だったと私は考えます。その結果,熊の生息地を狭めたと思います。また,熊が冬眠する前に多くの食料を食べる必要がありますが,その食料が結果として農地によって豊富に作られる状況が発生したと想像できます。
熊は人が開拓・開墾した農地や農家に現れ,襲ったり,農産物を荒したりする事件は当時も頻繁に起こったと考えるのは可能だと私は思います。
師歯迫山は富士山の南にある愛鷹山という説もあります。攻めた相手は何なのか少し気になりますね。
さて,農地を荒すといえば猪も引けを取りません。そんなイメージを詠んだ短歌ではありませんが,次は猪を序詞に詠んだものを紹介します。
高山の嶺行くししの友を多み袖振らず来ぬ忘ると思ふな(11-2493)
<たかやまのみねゆくししの ともをおほみそでふらずきぬ わするとおもふな>
<<高山の峰を行く猪のように供が多いので別れの袖を振らないで来たけれど,あなたを忘れていると思わないで>
猪が高い山の嶺を堂々と行くかというと,少し違和感がありますね。ニホンカモシカなら絵になると思いますが,それは置いといて,猪は多産であり,子供を連れて移動することは不思議ではありません。
この短歌の作者は,それなりの立場の人で,仕事で旅に出るときにはお付きの人がたくさんいたのだろうと思います。本当は,最愛の人には特別に別れを告げたいのだけれど,妻問婚の世の中では夫婦一緒に暮らすことができない事情があり,それが叶わないのです。
夫婦と子供と一緒に暮らすという現代では当たり前な生活が,当時できなかった作者は,子連れで生活している猪がうらやましかったのかもしれません。
最後は,東歌の序詞でも触れましたが,奈良の周辺で飼育されている馬を序詞に詠んだ短歌を紹介します。
馬柵越しに麦食む駒の罵らゆれど猶し恋しく思ひかねつも(12-3096)
<ませごしにむぎはむこまののらゆれど なほしこひしくおもひかねつも>
<<馬柵越しに麦を食う馬が怒られるようにどんなに怒られてもさらに恋しく思ってしまうのだ>>
万葉時代,馬を垣の中で育てるような飼育方法もあったことが伺えます。
馬は垣の中の草を食んで大きく育てようと飼育者は目論んでいると私は考えます。
しかし,狭い土地だと馬の柵の隣が麦畑であれば,馬はそちらのほうがおいしそうなので,首を柵から出して,食べようとします。
飼育者は麦を作農して売る農家も兼ねていたり,隣が別の農家の麦畑であれば,麦の育成に被害が出ますがら,麦を食べようとする馬に対して,怒ったり,鞭で叩いたりしてやめさせようとします。それでも,麦のおいしさを知っている馬は,どんなに怒られても飼育者や麦畑の所有者の目を盗んでは,食べようとします。
そんな馬を見たことがあるこの短歌の作者は,自分が恋人(周囲から見ると他人の妻であっても?)を恋しく思うことを,どう反対されようともやめられない状況をこの序詞で表現しているように私は感じます。
天の川 「これ完璧な不倫の短歌やな。やったらアカンことほど,逆にえろうやりとうなるもんやなあ。そんでな~,たびとはんがネットで買うた金霧島。たびとはんが仕事に行っているときに届いたので,我慢できへんで,全部飲んでしもてん。」
え~っ! 天の川君をきつく指導するために馬用の鞭をネットで買いますか。
(序詞再発見シリーズ(20)に続く)
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