2016年3月28日月曜日

改めて枕詞シリーズ…うつせみの(1) 世の中も人もいずれは変わっていく?

今回万葉集で,枕詞「うつせみの」を取りあげます。
<世の中は無常。だから人間は絶対的なものを求める>
「うつせみ」とは,「この世に生きる人のことを表す」と国語の辞書には載っています。
生きている人はいずれ死ぬ,どんなに若々しく力強い人でもいずれ年老いる,人の心はいつまでも同じだと限らない,少し長い目で見れば「人」は無常なものとなるようです。また,「人」が暮らす「世の中(世間)」も「人」が無常であるがゆえに無常(ダイナミックに変化)とならざるを得ないと演繹できそうです。
他方で,「人」はいつまでも変わらず,ブレず,頼りになり,絶対的なモノを求めたいと願うことも事実です。それを「神」と名付けて崇めようとしたり,加護を受けよう(救いをもとめよう)としたりする人も少なくないでしょう。
<無常を楽しむ>
そのような中で,「世の中」や「人」の無常状態がどんなものかを分析し,その変化を予測し,変化を楽しむという生き方にもあるかと私は思うのです。その変化の予測精度を高めるには,「世の中」の動きや「人」の心理についてのより多くの情報収集が必要となるでしょう。
情報収集では,形式知(本,雑誌,ニュース等)だけの収集ではなく,積極的により多く社会への貢献的な経験を積むこと,多様な「人」との交流から得られる情報も貴重だと感じます。
そういったチャレンジ行動の中に,実は安定した,ブレることがない自分が形成されていく,そんな生き方が今の変化の激しい時代に合ったものかも知れないと私は思うのです(実践はそう簡単ではありませんが)。
<本題>
さて,本題の「うつせみの」の枕詞を使った万葉集の和歌を見ていきましょう。
まず,巻1の最初のほうに出てくる麻續王(をみのおほきみ)が伊良虞(いらご)の島に流罪となったときに詠んだと伝えられる短歌です。

うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り食す(1-24)
うつせみのいのちををしみ なみにぬれいらごのしまの たまもかりをす
<<(世の中で今も生きている)命を惜しんで(繋ぐために),波に濡れようとも伊良虞の島の玉藻を刈って食料とするのだ>>

この前の短歌は,その時に伊良虞の島にいた人が,麻續王に海人(漁業者)になって,これから玉藻を刈って行かれるのですか?と問う短歌を発しています。それに麻續王が答えたのが,この短歌です。
まるで,流罪となった麻續王に地元の記者が「お気持ちはいかがですか? これからどうされるのですか?」と無神経な質問し,その反応をゴシップ記事として京に伝えようとしているみたいですね。王と呼ばれた人の末路を気にする人は万葉時代でもたくさんいたのかもしれません。激変の時代,「明日は我が身」かもしれませんから。
次は,「うつそみの」という発音が異なっていますが,同じ枕詞と解釈されている大伯皇女(おほくのひめみこ)が弟の大津皇子(おほつのみこ)が処刑されたことを悼む有名な短歌です。

うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背と我が見む(2-165)
うつそみのひとにあるわれや あすよりはふたかみやまを いろせとわがみむ
<<この世に生き残った私は明日からは二上山を弟だと思って見るのでしょうか>>

大津皇子は天武天皇の皇子であっても,異母である持統天皇に粛清されてしまうのです。
このような短歌は,時の為政者(持統天皇系)にとっては邪魔なものでしかないのですが,万葉集に残されたのはどうしてでしょうか。
それは,万葉集の編者の意図だと思うのが自然だと私は感じます。
編者は少なくとも天武・持統系の崇拝者ではないことは確かだと私は想像します。そういう目で万葉集を見ていくと興味深い面も見えてくるのかもしれませんね。

今回の最後は,大伴家持が21歳前後のとき,亡き妻(最初の妻?)を悼んで詠んだ短歌です。

うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒み偲ひつるかも(3-465)
うつせみのよはつねなしと しるものをあきかぜさむみ しのひつるかも
<<この世の中は無常であると知っているつもりだが、秋風が寒く感じ(早く亡くなった妻を)偲んでしまうなあ>>

名家大伴家としては将来を期待される家持には,最初の妻として年上の女性と結ばれることがあったかもしれません。若き家持の面倒を見てくれた妻が亡くなってしまったことで,世の中の果敢なさを改めて知ったという気持ちの表れでしょうか。
大切な人が亡くなってしまうことを目の当たりにすることで,「世の中」の無常さ,「人」の果敢なさをしっかり受け止め,その結果として「世の中」や「人」の大切さを感じることができると私は思います。
今,「世の中」や「人」を大切にせず,「○以外はすべて×という二元的な否定」,そして「破壊」と「殺戮」を自分の主張を認めされる有効な手段としている状況を無くす必要性を私は強く感じます。
改めて枕詞シリーズ…うつせみの(2)に続く。

2016年3月21日月曜日

改めて枕詞シリーズ…いさなとり(2:まとめ) 海は別れの場,死の危険も潜む場?

枕詞「いさなとり」の1回目(前半)は短歌,旋頭歌,長歌のそれぞれで使われている例を万葉集から紹介しました。後半はすべて長歌で使われている例を紹介しますが,長い長歌ばかりですので,それぞれ一部の紹介に留めます。
まず最初は,柿本人麻呂石見(いはみ)の国で仲の良い妻の一人とされている依羅娘子(よさみのをとめ)との別れを詠んだ長歌です。

鯨魚取り海辺を指して 和多津の荒礒の上に か青なる玉藻沖つ藻 朝羽振る風こそ寄せめ 夕羽振る波こそ来寄れ~(2-131)
<~いさなとりうみへをさして にきたづのありそのうへに かあをなるたまもおきつも あさはふるかぜこそよせめ ゆふはふるなみこそきよれ~>
<<~海の沖から海辺に向け和多津の荒磯の上に青々と生える美しい藻,そこでは朝は強い風が寄せ、夕方には強い波が寄せて来る~>>

この長歌は,美しく藻が強い風で寄ってくるように,いつも寄り添っていた妻と別れなければならない感情を詠っています。「いさなとり」を前に置くことによって,海辺の長さと海の大きさを表していると私は感じます。妻と愛し合った時間の長さと寄り添って生きた幸せの大きさを示すのに「いさなとり」は相応しい枕詞でしょう。
次も人麻呂の長歌です。人麻呂が讃岐(さぬき)の国の沙弥島(さみねのしま)に行ったとき,海岸で横たわる死人を見て詠んだ1首です。

沖見ればとゐ波立ち 辺見れば白波騒く 鯨魚取り海を畏み 行く船の梶引き折りて をちこちの島は多けど 名ぐはし狭岑の島の~(2-220)
<~おきみればとゐなみたち へみればしらなみさわく いさなとりうみをかしこみ ゆくふねのかぢひきをりて をちこちのしまはおほけど なぐはしさみねのしまの~>
<<~沖を見るとうねりが立ち,岸辺を見ると白波がいっぱい立っている。大海を恐み,航行する船の梶を引込め,あちらこちらに島は多いが,名も麗しい狭岑の島の~>>

この島のごつごつした岩床に臥す死人の家を知っていれば家族に知らせることもできるが,何も答えてくれない。キミの奥さんはキミの帰りを心待ちにしているだろうにと悔やみの言葉を詠んでいるのです。
今も飛行機事故で犠牲になる人がいますが,万葉時代は海難で死ぬ人が多かったのでしょう。捜索もできず,流れ着いた死骸で事故の様子を想像するしかなかった時代です。でも,より豊かな暮らしをするために,ヒトやモノを輸送したり,漁業をする船(舟)と船乗り(海人)は,いつも危険と隣り合わせの職業として必要だったでしょう。そして,その人たちによる交易や生業によって,別に潤う人が多くいたに違いありません。
<経済学的に見て見れば>
経済が発展する過程で,事故などによる犠牲者をゼロにすることは不可能ではないですが,ゼロにすることイコール経済の成長を止めることにほかなりません。経済の成長が止まっても犠牲者をゼロにすべきと考える人がいるかもしれません。しかし,経済の成長を止めると,間違いなく経済学用語でいう縮小再生産(リセッション)に入ります。
その結果として,事業が破たんして多くの失業者を出し,その結果ローンが払えない,食べるものが買えない,医療費が払えないなどで自ら命を絶つ人が増える可能性が高くなります。リセッションも犠牲者を出すことになります。
亡くなられた方のご遺族の悲しみの深さを理解し,場合によっては寄り添って助けることも必要かもしれません。ただ,その犠牲が出たことだけをとりあげ,人類の未来をマクロに豊かにする研究や投資を否定したり,何でも反対するだけという行為に私は賛同できません。
<万葉集から見える万葉時代の社会>
万葉集に私が興味を持つことの一つとして,万葉時代には今の日本の礎となる大改革を当時の為政者が行い,その結果のメリット/デメリットがどんなものかを想像できる情報がちりばめられているからなのです。たいへんな痛みを伴ったけれども,結果として今の日本文化はその改革が無かったら,もっと違ったものになっていたかもしれないだけでなく,日本という国が今はないかもしれないと私は思うのです。
特に,律令制度や大陸の技術の導入,そして仏教の導入の影響は大きかったと私は思うのです。
今,起源がインド,中国,朝鮮半島という何らかのものでも,日本が導入し,独自の発展と高度化(改善)により,本家よりも魅力的になっているモノが多くあります。
さらに,戦後においてもアメリカの品質管理やコンビニのノウハウが日本に導入され,本家よりも優れた状態となり,逆にその成果が世界に広まっている状況です。
さて,最後は笠金村(かさのかねむら)が越前の敦賀湾の奥にある港から船に乗った時に詠んだ長歌です。

越の海の角鹿の浜ゆ 大船に真楫貫き下ろし 鯨魚取り海道に出でて 喘きつつ我が漕ぎ行けば~(3-366)
こしのうみのつのがのはまゆ おほぶねにまかぢぬきおろし いさなとりうみぢにいでて あへきつつわがこぎゆけば ~>
<<越前の敦賀の浜を通って,大船のメインオールを下して大きな海道に出て,オールを漕ぐ水夫の喘ぎ声を聞きながら進むと~>>

船旅は始まったばかりなのでしょう。行き先は越前の北の方か,能登半島を周って越中なのかは分かりませんが,この後に金村は南の方にある大和に連なる山を見て,望郷の思いを詠っています。
私は京都に住んでいた中学生・高校生の頃,何度も敦賀湾に海水浴に行きました。そのとき,苫小牧との間を結ぶ大型フェリーを見て,ここが海の交通の要所であることを感じていました。
そのため「いさなとり」が枕詞としてこの長歌で使われていても,特に違和感を感じることはありません。
改めて枕詞シリーズ…うつせみの(1)に続く。

2016年3月14日月曜日

改めて枕詞シリーズ…いさなとり(1) ♪海は広いな~,大きいな~

万葉集には枕詞と呼ばれる言葉が出てきます。
枕詞という分類は万葉時代にあった訳では無く,後世の人が名づけた分類用語です。その言葉自体の意味よりも,それに続く詞を導く言葉として修飾の一形態として分類されているようです。
しかし,枕詞を和歌が伝えたいことの修飾語あり,読み飛ばしても作者の意図と大きく違わないという考え方には私は同意しかねます。枕詞を文学的表現の技法として見ないからです。
万葉集の作者が表現をどう考えて,あくまで後世の人が分類した「枕詞」を使ったか。あまり先入観を持たずに見ていこうとするのが,情報を扱うIT技術者が書くこのシリーズの目的です。
なお,万葉集で枕詞と呼ばれる言葉がいくつも出てくるのは長歌であるため,長歌の一部のみを引用する場合もあることをご了承ください。
今回は「いさなとり」という「海」や海に関連する言葉に掛かる枕詞を2回で渡り取りあげます。
「いさな」とは今「鯨(くじら)」と呼んでいるものです。漢字では「鯨魚」と書きます。
まず,以前にも紹介した有名な旋頭歌からです。

鯨魚取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干て山は枯れすれ(16-3852)
いさなとりうみやしにするやまやしにする しぬれこそうみはしほひてやまはかれすれ
<<大海は死ぬのか? 山々も死ぬのか? 死ぬからこそ,海は潮が干いて,山は枯れる>>

「いさなとり」が枕詞として使われているのは,旋頭歌として最初の5字を整えるためだけでないと思います。やはり,その後に続く「海」は鯨が獲れるような大海をイメージしているのだろうと思いたいですね。
この旋頭歌の意味は,常にあるようなものでも死ぬのだという仏教でいう無常観を意識して詠まれたもとと私は解釈します。この考えを暗いと考えるのではなく,世の中は変化をしていること,その変化の先をしっかり読み取って,生きることが重要と諭している和歌だといえそうです。
次は天平2(730)年11月に大宰府から大納言となって帰任するため,瀬戸内海を船で移動する道中の大伴旅人に随行した付き人が詠んだ短歌です。

昨日こそ船出はせしか鯨魚取り比治奇の灘を今日見つるかも(17-3893)
きのふこそふなではせしか いさなとりひぢきのなだを けふみつるかも
<<昨日に船出して,今日には比治奇の灘が見えるところまできましたね>>

比治奇の灘は瀬戸内海のどこかは定かではありませんが,位置的には周防灘が一番合っているように思います。周防灘は瀬戸内海でも最も広く,大海に出たような雰囲気から「いさなとり」の枕詞が使われたのかもしれません。冬の季節風に乗って進めば,博多あたりから出向して,翌日には周防灘を航行ということも十分可能でしょう。
この短歌の作者は,帰京の旅が順調であることを示して,旅人を始め,同行者を元気づけようとしたと考えることができそうですね。
今回の最後は,車持千年(くるまもちのちとせ)が天皇と難波の宮に行幸した際,住吉(すみのえ)の浜を讃嘆した長歌です。

鯨魚取り浜辺を清み うち靡き生ふる玉藻に 朝なぎに千重波寄せ 夕なぎに五百重波寄す 辺つ波のいやしくしくに 月に異に日に日に見とも 今のみに飽き足らめやも 白波のい咲き廻れる住吉の浜(6-931)
いさなとりはまへをきよみ うちなびきおふるたまもに あさなぎにちへなみよせ ゆふなぎにいほへなみよす へつなみのいやしくしくに つきにけにひにひにみとも いまのみにあきだらめやも しらなみのいさきめぐれるすみのえのはま
<<浜辺は清く,なびき揺れて生えている玉藻に,朝なぎにや夕なぎにも幾重も波が寄せている。この岸辺の波のように,何度も何度も月を重ねて日に日に見てもずっと飽き足りることはないだろう。白波の花が咲き続ける住吉の浜は>>

浜辺への枕詞に「いさなとり」を使っているのは,やはり浜辺がずっと続いているほどの規模をイメージしているからだと私は思います。
浜辺には,綺麗な海藻がたくさん生えていて,それが朝なぎ,夕なぎに寄せるさざ波にきらきらと輝きながら揺れる姿は,海が無い平城京から来た人たちにとって,心安らぐ光景だったのでしょう。
住吉の浜は,万葉時代では「リゾート地」だったのでしょうか。鯨が獲れるような海だけれど,本当にきれいな風景の浜辺もあるよということを作者は表現したかったのではないか私は想像します。
改めて枕詞シリーズ…いさなとり(2:まとめ)に続く。

2016年3月5日土曜日

当ブログ8年目突入スペシャル(2)…八からは多数と同じ?

我が家の庭に20年ほど前から植えてあるサクランボの木の花のつぼみが昨年よりもはるかに多く膨らんできました。
今年はより多くの実が成りそうで楽しみにしています。


8年目突入スペシャルの最後は,「八」という数字について万葉集を見ていきます。
万葉時代では,「七」は「秋の七草」や仏教の経典(法華経や無量寿経)に出てくる「七宝(しっぽう)」のように,7つの名前がはっきり定義されいる。
しかし,「八」となったとたん,8種類の名前が何かはどうでもよくなって,多くという意味に近づいてきます。
八方という言葉も,北,東,南,西と北東,東南,南西,西北の八つの意味を表すより,八方美人,八方ふさがり,八宝菜のように8つの内容は気にしない使われ方が急に増えます。
万葉集で八の使われ方の例をいくつか見ます。
次は,遣新羅使対馬に着いた時に詠んだ短歌です。

竹敷の宇敝可多山は紅の八しほの色になりにけるかも(15-3703)
たかしきのうへかたやまは くれなゐのやしほのいろに なりにけるかも>
<<対馬の竹敷にある宇敝可多山は,黄葉が紅色を何度も染めたような鮮やかな色になっている>>

「八しほ」というのは,何とも染色液に漬けることを指します。この場合8回という意味ではないようです。
次は,天平16(744)年に難波の地の橘諸兄(たちばなのもろえ)宅で開かれた宮中の人たちが集まる宴である肆宴(とよのあかり)で元正(げんしやう)天皇が橘家を寿ぎ詠んだ短歌です。

橘のとをの橘八つ代にも我れは忘れじこの橘を(18-4075)
たちばなのとをのたちばな やつよにもあれはわすれじ このたちばなを
<<めでたい橘の中でも,たくさん実ったこの橘。いつの代までも私は忘れないだろう,この橘を>>

この短歌の「八つ代にも」は「何代にも」という意味で使われていると私は思います。
最後は,11年後の天平勝宝7(755)年に丹比国人(たぢひのくにひと)宅で催された宴席で橘諸兄が国人の健勝を願って詠んだ短歌です。

あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ(20-4448)
あぢさゐのやへさくごとく やつよにをいませわがせこ みつつしのはむ
<<紫陽花が八重に咲くように何代も健勝でいらしてください。紫陽花を眺めては貴方を思い出しましょう>>

この八重も八つに重なっているわけではなく,花びらが多く重なっているという意味に近いと感じます。
そのほか,「八」を多くの意味とする言葉としては万葉集には次のものが出てきます。

八尺(やさか)‥長いさま
八島(やしま)‥多くの島の意。日本の国
八十(やそ)‥もっと多い,多くの
八度(やたび)‥何度も
八千(やち)‥非常に多くの
八衢(やちまた)‥多くの分かれ道(市街地)
八百(やほ)‥相当多くの

これで,当ブログ開設8年目スペシャルを終わります。
次回からは,しばらくの間万葉集で使われる枕詞を順次紹介し,その役割と時代背景について考えていきたいと思います。
改めて枕詞シリーズ…いさなとり(1)に続く。