「麻」の最後は男女の恋愛の和歌でどのように使われたか万葉集を見ていきましょう。
万葉集で恋愛の和歌はやはり詠み人知らずが多いですね。次もそんな女性の短歌です。
桜麻の麻生の下草露しあれば明かしてい行け母は知るとも(11-2687)
<さくらをのをふのしたくさ つゆしあればあかしていゆけ はははしるとも>
<<桜麻の麻が生えている庭の下草は露が降り始めているので,お泊りになってくださいな。おなた様が来られていることを母が知ったとしても>>
いいですね。こんな短歌を女性からもらいたいですね(もちろん妻には内緒で)。
当時は妻問婚であり,男性が女性の部屋に密かに忍び込んで床を共にする(夜這い)のが一般的だったようです。
そうであるものの,親が気づかないはずはありません。気づかないふりをしているだけです。
この短歌は,自分自身も気に入り,親も気に入り,親を正式に紹介したいという口実ですね。
こうすることで,正式な婚姻の成立へ向かうことができたのでしょう。
正式な婚姻が成立すれば,男性(夫)が夜這いをする場合も,親に知られないように気を使う必要がなくなります。
もちろん親は正式な婚姻が成立した後も,両親は夫が夜妻問に来ても完全に知らぬふりをするでしょうね。
さて,次は前の短歌のパロディか返事ともとれそうな男性作の短歌です。
桜麻の麻生の下草早く生ひば妹が下紐解かずあらましを(12-3049)
<さくらをのをふのしたくさ はやくおひばいもがしたびも とかずあらましを>
<<桜麻の麻が生えている庭の下草が早く生えていれば,あなたの下紐を解かずにいただろうに>>
さて,この短歌の意味を素直に考えると,麻の下に草が生えておらず露に濡れる心配が無かったので,あなたと共寝をしたのですよということになりそうです。
そうなると,当然帰りも露に濡れる心配はないので,事を終えると男はさっさと帰ってしまった状況が推測できます。
今回の妻問は行きずりの逢瀬であり,結婚までは考えていませんよという男の言い訳(返信)ともとれます。
ただ,相聞ならば,万葉集内でもっと近くに置いても良さそうですが,巻も違います。
パロディとすると,いろいろな解釈ができそうですが,「麻生(をふ)」は「生ふ」,「終ふ」と同じ発音になります。
以降は,みなさんの想像力の豊かさにお任せします。
最後は,上質の麻布を織るために,織り子達が切れ目なく作業する姿を序詞として詠んだ短歌です。
娘子らが績み麻のたたり打ち麻懸けうむ時なしに恋ひわたるかも(12-2990)
<をとめらがうみをのたたり うちそかけうむときなしに こひわたるかも>
<<娘子たちが織る麻用のたたり(絡垜)を使い,柔らかい打ち麻にするよう丁寧に織り続けるように,間無く恋い続けているのです>>
この短歌から,作者の恋する気持ちの切れ目の無さを表現したと解釈するよりも,私は麻布を織る作業に使う道具や手順を想像したくなります。
このことで,この時代にどの程度の織布の技術があったか,また繊維産業がどの程度専業化し,どんな人が担ってきたのかなどを知ることができそうです。
今も残る麻の衣服。1,300年もの間,日本人の身体を暑さ,寒さ,日光,汚れなどから守ってきたのです。
これからも,「麻布」は我々の身近で使われていくのでしょうね。
今もあるシリーズ「石橋(いしはし)に続く。
2015年10月25日日曜日
2015年10月18日日曜日
今もあるシリーズ「麻(あさ)(2)」 … 麻の栽培は田舎の代名詞?
前回は東歌から「麻」を見ましたが,今回は東歌以外で「麻」が詠まれた万葉集の和歌をいていきましょう。
とはいえ,最初はの短歌は,東歌には分類されませんが,常陸娘子(ひたちのをとめ)という東国の女性が,現地で詠んだ短歌です。
庭に立つ麻手刈り干し布曝す東女を忘れたまふな(4-521)
<にはにたつあさでかりほし ぬのさらすあづまをみなを わすれたまふな>
<<庭に立つ麻を手で刈り干したり,布にしてさらしたりするような田舎者の東女ですが,どうかわたしをお忘れにならないでください>>
この短歌,藤原宇合(ふぢはらのうまかひ)が按察使(あぜち)設置時に常陸守として安房(あは),上総(かずさ)及び下総(しもふさ)3国の按察使に任命されるに赴いたのは養老3(719)年で,接待をした常陸娘子から赴任終了時に贈られたもののようです。
常陸娘子は庶民の出ではなく,現地で中央役人を接待するために,当時の教養,京人の作法,和歌を詠む素養,言葉遣いなどの教育をしっかり受けた豪族の家に生まれた女性だったのでしょう。
この短歌の前半部分は娘子が謙遜している部分ですが,東国では「麻」を自宅で栽培,製糸,機織,漂泊するような田舎であるというイメージが京人にはあったのでしょうね。
当然,娘子がそんなことはしていないし,する必要もないほど着るモノに困っていなかったとは思いますが。
次は,田辺福麻呂歌集に出ていたという新しくできた久邇京(恭仁京)を賛美する短歌です。
娘子らが続麻懸くといふ鹿背の山時しゆければ都となりぬ(6-1056)
<をとめらがうみをかくといふ かせのやまときしゆければ みやことなりぬ>
<<乙女らが麻糸に紡いで懸けておいたという桛(かせ),その名と同じ鹿背の山が時移り都となった>>
万葉時代には,製糸用具や織機のさまざまなパーツ,関連で使用する道具について,知っている人が多かったのでしょうか。
多くの人が着る服が麻布でできていた時代と考えると,麻糸の製糸,麻布を織ることに,多くの人が携わっていたのかもしれませんね。
ただ,新しい久邇京周辺で織物産業が活性化することを期待して,麻糸を製糸することを商売にする人が詠んだのかもしれないというと,万葉集を汚したという人が出そうですね。
久邇京はこの詠み手の思いとは裏腹に,天平12(740)年~同16(744)年の間しか存在しない仮の都のようなもので終わりました。
さて,最後は,藤原房前(ふぢはらのふささき)が詠んだとされる紀行風の短歌です。
麻衣着ればなつかし紀の国の妹背の山に麻蒔く我妹(7-1195)
<あさごろもきればなつかし きのくにのいもせのやまに あさまくわぎも>
<<麻衣を着るとなつかしく思い出されることだ。紀伊の国の妹背の山で麻の種を蒔いていたあの娘ことを>>
奈良の京の公卿が紀の国への天皇行幸に同伴したときといわれていますが,業務そっちのけで農家の可愛い娘を目ざとく見ているとはね~と思う人もいても不思議ではありません。
しかし,別の見方として,そんな可愛い女の子がいるなら,次の行幸では私も同行しようと思う公卿や紀の国へ旅してみようと思う人が増えることを願って詠ったのかもしれません。
紀の国は,平城京からの距離は,山城(京都)や難波(大阪)に比べてそれほど近くはありません。
しかし,平城京から南行し,今の橿原市,御所市,五條市まで行って,後は水量が豊かな紀の川を下って行けば,急峻な山越え無く,紀の国(和歌山)に到達できます。
万葉時代,紀の国は平城京へさまざまな海の幸,川の幸,山の幸,紀の川が氾濫した肥沃な土地で栽培される麻やコメなどの農作物,そして建材を供給する有望な地域となっていたのでしょう。
今もあるシリーズ「麻(あさ)(3:まとめ)」に続く。
とはいえ,最初はの短歌は,東歌には分類されませんが,常陸娘子(ひたちのをとめ)という東国の女性が,現地で詠んだ短歌です。
庭に立つ麻手刈り干し布曝す東女を忘れたまふな(4-521)
<にはにたつあさでかりほし ぬのさらすあづまをみなを わすれたまふな>
<<庭に立つ麻を手で刈り干したり,布にしてさらしたりするような田舎者の東女ですが,どうかわたしをお忘れにならないでください>>
この短歌,藤原宇合(ふぢはらのうまかひ)が按察使(あぜち)設置時に常陸守として安房(あは),上総(かずさ)及び下総(しもふさ)3国の按察使に任命されるに赴いたのは養老3(719)年で,接待をした常陸娘子から赴任終了時に贈られたもののようです。
常陸娘子は庶民の出ではなく,現地で中央役人を接待するために,当時の教養,京人の作法,和歌を詠む素養,言葉遣いなどの教育をしっかり受けた豪族の家に生まれた女性だったのでしょう。
この短歌の前半部分は娘子が謙遜している部分ですが,東国では「麻」を自宅で栽培,製糸,機織,漂泊するような田舎であるというイメージが京人にはあったのでしょうね。
当然,娘子がそんなことはしていないし,する必要もないほど着るモノに困っていなかったとは思いますが。
次は,田辺福麻呂歌集に出ていたという新しくできた久邇京(恭仁京)を賛美する短歌です。
娘子らが続麻懸くといふ鹿背の山時しゆければ都となりぬ(6-1056)
<をとめらがうみをかくといふ かせのやまときしゆければ みやことなりぬ>
<<乙女らが麻糸に紡いで懸けておいたという桛(かせ),その名と同じ鹿背の山が時移り都となった>>
万葉時代には,製糸用具や織機のさまざまなパーツ,関連で使用する道具について,知っている人が多かったのでしょうか。
多くの人が着る服が麻布でできていた時代と考えると,麻糸の製糸,麻布を織ることに,多くの人が携わっていたのかもしれませんね。
ただ,新しい久邇京周辺で織物産業が活性化することを期待して,麻糸を製糸することを商売にする人が詠んだのかもしれないというと,万葉集を汚したという人が出そうですね。
久邇京はこの詠み手の思いとは裏腹に,天平12(740)年~同16(744)年の間しか存在しない仮の都のようなもので終わりました。
さて,最後は,藤原房前(ふぢはらのふささき)が詠んだとされる紀行風の短歌です。
麻衣着ればなつかし紀の国の妹背の山に麻蒔く我妹(7-1195)
<あさごろもきればなつかし きのくにのいもせのやまに あさまくわぎも>
<<麻衣を着るとなつかしく思い出されることだ。紀伊の国の妹背の山で麻の種を蒔いていたあの娘ことを>>
奈良の京の公卿が紀の国への天皇行幸に同伴したときといわれていますが,業務そっちのけで農家の可愛い娘を目ざとく見ているとはね~と思う人もいても不思議ではありません。
しかし,別の見方として,そんな可愛い女の子がいるなら,次の行幸では私も同行しようと思う公卿や紀の国へ旅してみようと思う人が増えることを願って詠ったのかもしれません。
紀の国は,平城京からの距離は,山城(京都)や難波(大阪)に比べてそれほど近くはありません。
しかし,平城京から南行し,今の橿原市,御所市,五條市まで行って,後は水量が豊かな紀の川を下って行けば,急峻な山越え無く,紀の国(和歌山)に到達できます。
万葉時代,紀の国は平城京へさまざまな海の幸,川の幸,山の幸,紀の川が氾濫した肥沃な土地で栽培される麻やコメなどの農作物,そして建材を供給する有望な地域となっていたのでしょう。
今もあるシリーズ「麻(あさ)(3:まとめ)」に続く。
2015年10月10日土曜日
今もあるシリーズ「麻(あさ)(1)」 … 万葉時代の東国は絹の産地。でも庶民は麻を着ていた?
麻は,今も衣類の繊維として利用されています。強く,風通しが良いので,蒸し暑い季節に爽やかな感じて着られるシャツなどに利用されています。
また,麻という漢字は次のように,植物や繊維以外いろいろなところに使われています。
麻雀(ゲーム),麻薬(医療),麻婆豆腐(料理),麻生(人名),麻布(地名),麻田(人名)などがあります。
万葉時代は,木綿の栽培は今ほど盛んではないく,絹の生産も今と同じ高級服用に限られていたようです。
そうすると,庶民が着る服は丈夫で軽い麻の布で作られた服となります。
万葉集でも,麻はたくさん詠まれていますが,何といっても万葉集に載っている和歌の男性作者の名前の最後によく出てくる「~麻呂」は,「麻」の字が使われています。
では,実際の万葉集の和歌を見ていきましょう。「麻」が一番たくさん詠まれいる万葉集の巻は14(東歌)です。
確かに,東歌は東国の庶民(多くは農民)の歌が多いので,分かるような気がします。
麻苧らを麻笥にふすさに績まずとも明日着せさめやいざせ小床に(14-3484)
<あさをらををけにふすさに うまずともあすきせさめや いざせをどこに>
<<麻の糸を桶いっぱいになるまでよりあわせなくても,それで明日着せる服に間に合うはずもないから,さあ床で寝よう>>
夫が一生懸命夜まで働いている妻に対して,早く床に来いよと誘っている短歌と私は感じます。
麻の繊維をほぐして,糸に縒りあわせるのは結構面倒な作業だったのでしょうか。
そのため,庶民の妻の内職として,当時すでに定着していたのかもしれません。
妻は子どものためにせっせと内職をしているが,昼の仕事が終わった亭主は夜の営みをまだかまだかと待っている雰囲気が良く伝わってきます。
次も東歌です。
上つ毛野安蘇のま麻むらかき抱き寝れど飽かぬをあどか我がせむ(14-3404)
<かみつけのあそのまそむら かきむだきぬれどあかぬを あどかあがせむ>
<<上毛野の安蘇の群生した麻を腕一杯にかかえて寝たけれど、まだ満足できないが,どうすればよいのだろう>>
今の栃木県の安蘇郡で,渡良瀬川の流域で麻が群生しているところがあったのでしょうか。
麻は大麻(マリファナ)の原料となるように,その乾燥させたものには,精神を麻痺させるような薬理作用があるとされています。
そういったものを大量に抱きしめても,彼女を抱くのに比べたら全然満足できないといったことをこの短歌は表しているように私は思います。
最後も東歌です。
庭に立つ麻手小衾今夜だに夫寄しこせね麻手小衾(14-3454)
<にはにたつあさでこぶすま こよひだにつまよしこせね あさでこぶすま>
<<庭に生えている麻で作った小さな掛布団よ,今宵は夫が来るように願ってね,麻で作った小さな掛布団よ>>
自宅の庭に生えている麻で丹精込めて作った小さな掛布団は,二人がしっかり抱き合わないとはみ出てしまうような可愛いものだったのでしょうか。
夫が来てくれるのを今か今かと心待ちにしている様子がしっかりと伺えますね。
東歌では,次の短歌から養蚕は始まっていたと思われますが,庶民の普段着には使えない高級品だったのでしょう。
また,東歌には木綿の布を詠んだ和歌が出てこないため,当時の東国では衣類や寝具の生地して麻布が多く使われていたことも想像できます。
筑波嶺の新桑繭の衣はあれど君が御衣しあやに着欲しも(14-3350)
<つくはねのにひぐはまよの きぬはあれどきみがみけしし あやにきほしも>
<<筑波嶺の新桑で作った絹の最高級な衣があると聞くけど,私はあなたの衣を身につけてみたいのよ>>
今もあるシリーズ「麻(あさ)(2)」に続く。
また,麻という漢字は次のように,植物や繊維以外いろいろなところに使われています。
麻雀(ゲーム),麻薬(医療),麻婆豆腐(料理),麻生(人名),麻布(地名),麻田(人名)などがあります。
万葉時代は,木綿の栽培は今ほど盛んではないく,絹の生産も今と同じ高級服用に限られていたようです。
そうすると,庶民が着る服は丈夫で軽い麻の布で作られた服となります。
万葉集でも,麻はたくさん詠まれていますが,何といっても万葉集に載っている和歌の男性作者の名前の最後によく出てくる「~麻呂」は,「麻」の字が使われています。
では,実際の万葉集の和歌を見ていきましょう。「麻」が一番たくさん詠まれいる万葉集の巻は14(東歌)です。
確かに,東歌は東国の庶民(多くは農民)の歌が多いので,分かるような気がします。
麻苧らを麻笥にふすさに績まずとも明日着せさめやいざせ小床に(14-3484)
<あさをらををけにふすさに うまずともあすきせさめや いざせをどこに>
<<麻の糸を桶いっぱいになるまでよりあわせなくても,それで明日着せる服に間に合うはずもないから,さあ床で寝よう>>
夫が一生懸命夜まで働いている妻に対して,早く床に来いよと誘っている短歌と私は感じます。
麻の繊維をほぐして,糸に縒りあわせるのは結構面倒な作業だったのでしょうか。
そのため,庶民の妻の内職として,当時すでに定着していたのかもしれません。
妻は子どものためにせっせと内職をしているが,昼の仕事が終わった亭主は夜の営みをまだかまだかと待っている雰囲気が良く伝わってきます。
次も東歌です。
上つ毛野安蘇のま麻むらかき抱き寝れど飽かぬをあどか我がせむ(14-3404)
<かみつけのあそのまそむら かきむだきぬれどあかぬを あどかあがせむ>
<<上毛野の安蘇の群生した麻を腕一杯にかかえて寝たけれど、まだ満足できないが,どうすればよいのだろう>>
今の栃木県の安蘇郡で,渡良瀬川の流域で麻が群生しているところがあったのでしょうか。
麻は大麻(マリファナ)の原料となるように,その乾燥させたものには,精神を麻痺させるような薬理作用があるとされています。
そういったものを大量に抱きしめても,彼女を抱くのに比べたら全然満足できないといったことをこの短歌は表しているように私は思います。
最後も東歌です。
庭に立つ麻手小衾今夜だに夫寄しこせね麻手小衾(14-3454)
<にはにたつあさでこぶすま こよひだにつまよしこせね あさでこぶすま>
<<庭に生えている麻で作った小さな掛布団よ,今宵は夫が来るように願ってね,麻で作った小さな掛布団よ>>
自宅の庭に生えている麻で丹精込めて作った小さな掛布団は,二人がしっかり抱き合わないとはみ出てしまうような可愛いものだったのでしょうか。
夫が来てくれるのを今か今かと心待ちにしている様子がしっかりと伺えますね。
東歌では,次の短歌から養蚕は始まっていたと思われますが,庶民の普段着には使えない高級品だったのでしょう。
また,東歌には木綿の布を詠んだ和歌が出てこないため,当時の東国では衣類や寝具の生地して麻布が多く使われていたことも想像できます。
筑波嶺の新桑繭の衣はあれど君が御衣しあやに着欲しも(14-3350)
<つくはねのにひぐはまよの きぬはあれどきみがみけしし あやにきほしも>
<<筑波嶺の新桑で作った絹の最高級な衣があると聞くけど,私はあなたの衣を身につけてみたいのよ>>
今もあるシリーズ「麻(あさ)(2)」に続く。
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