今回は「寂しい」という意味の「寂(さぶ)し」が万葉集でどう詠まれているか見ていきます。
人が一般的に「寂しい」と感じるのはどんな時でしょうか。やはり「自分は一人ぼっちだと孤独感を感じるとき」ではないでしょうか。
「人と一緒にいるのは疲れる」「他人に干渉されたくない」「静かに一人になりたい」という人が今の都会生活者に多いのかもしれません。でも,そういった他人との接触に煩わしさを感じている人でもいつまでも一人でいたいわけではないと私は思います。
素敵な異性と一緒に居たいとか,気の合う仲間とたまにはじっくりおしゃべりしたいとか,バーのカウンター越しに経験豊かなバーテンダーとさまざな薀蓄を語り合いたいとか,ストレスを感じない形で自分以外のヒトと接触を望むような気持ちは多かれ少なかれ持っている人は多いと思います。
その望む気持ちが満たされない時,「寂しい」というという感情が出てくるのかもしれません。
万葉集でも恋人と一緒の時間を過ごせないので「寂し」と詠んでいる和歌は少なくありません。
たとえば,次の詠み人知らずの相聞歌です。
秋萩を散り過ぎぬべみ手折り持ち見れども寂し君にしあらねば(10-2290)
<あきはぎをちりすぎぬべみ たをりもちみれどもさぶし きみにしあらねば>
<<秋萩の花が散っていってしまうのが惜しくて,手折り持ち眺めてみたが心寂しい。それはあなたではないから>>
相聞歌の相手の女性は秋萩のように可憐な女性なのかもしれません。秋萩が相手の女性のように可愛くて,手に取ってはみたけれど,花は花でしかない。そんな寂しい気持ちでしょうか。
次は,大伴家持が若いころお熱を上げた年上の女性「紀女郎」が家持宛てに詠んだ意味深長な短歌です。
神さぶといなにはあらずはたやはたかくして後に寂しけむかも(4-762)
<かむさぶといなにはあらず はたやはたかくしてのちに さぶしけむかも>
<<(あなた様より年老いていますから)もう先に死んじゃう身です。もしかしたら(私と一緒になると)後で寂しく思うことになるかもしれませんよ>>
家持が先を見越して真剣かつ冷静に考えているのか,それとも若気の至りで一時的にお熱を上げているだけか,「私が先に逝って寂しいと感じるかもしれないけど大丈夫?」と試しているように私には思えます。この家持と紀女郎とのやり取りについては,2010年1月4日の記事で少し詳しく書いていますので割愛します。
さて,次は山上憶良が筑紫で詠んだ短歌です。
荒雄らが行きにし日より志賀の海人の大浦田沼は寂しくもあるか(16-3863)
<あらをらがゆきにしひより しかのあまのおほうらたぬは さぶしくもあるか >
<<荒雄たちが出て行った日から志賀の漁師たちが住む大浦田沼は寂しげであるようです>>
この短歌は,筑紫から対馬に荷物を運ぶ際に遭難して帰らぬ人となった荒雄という人物の妻になり代わって詠んだとされています。このあたりについては,2010年6月6日のブログに少し詳しく書いていますので,興味のある方は見てください。
家族はいつも顔を合わしていて,時には煩わしい存在だと思うことがありますが,いなくなってみると寂しさが襲い,そのありがたさを痛切に感じることがあります。家族や友人の関係は大切に保持していくことが,結果として豊かな人生(寂しいと感じることが少ない人生)を送るうえで重要と考えるのは私だけでしょうか。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「惜(を)し」に続く。
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