東日本大震災後の電力需要のひっ迫から,街角の照明は少し暗く感じてしまいます。
その暗さにもかなり慣れてきましたが,たまに名古屋に出張に行くと駅や地下街の明るく,東京は名古屋に比べると暗いなあと感じます。
さて,万葉時代は現代のように照明によって夜も昼間と同じ暮らしができる技術が少なかったのはずですが,次のような照明(漁火)を詠んだ遣新羅使による短歌が万葉集にあります。
海原の沖辺に灯し漁る火は明かして灯せ大和島見む(15-3648)
<うなはらの おきへにともし いざるひは あかしてともせ やまとしまみむ>
<<海原の沖に灯す漁火はもっと明るく灯してくれよ,懐かしい大和島を見たいから>>
ただ,「明るさ」の大半は次の詠み人知らずの短歌2首のように,やはり太陽,月によってもたらされるものだったようです。
朝霜の消なば消ぬべく思ひつついかにこの夜を明かしてむかも(11-2458)
<あさしもの けなばけぬべくおもひつつ いかにこのよをあかしてむかも>
<<朝霜が朝日によって次々と消えてしまうように,私の果敢ない期待の気持ちのみでどうして夜を明かすことができるのか>>
今夜の有明月夜ありつつも君をおきては待つ人もなし(11-2671)
<こよひのありあけつくよありつつも きみをおきてはまつひともなし>
<<今夜の有明の月夜のように朝お日様が出てくるまで夜通し起きてあなたを待つなんて私以外誰もいなのです>>
いっぽう,万葉集の「暗」の用例を見ると,夜が暗いという用例は少なく,日影の暗さを指すことが多かったように想像できます。
次は,大伴家持が初夏になってホトトギスが来て鳴くのを待ち焦がれている1首です。
霍公鳥思はずありき木の暗のかくなるまでに何か来鳴かぬ(8-1487)
<ほととぎすおもはずありき このくれのかくなるまでに なにかきなかぬ>
<<霍公鳥よ私は思いもしなかったよ。葉が繁って木陰が暗さがこんなに増すまで,どうしておまえは来て鳴かないのか>>
ホトトギスは,恋人に「夏になったら逢おうね」と手紙を出したことに対する彼女からの返事のことを例えているのかも知れませんね。
では,万葉集で夜の暗さを表現する言葉は何を使って表現しているのでしょうか。それは「闇」という言葉です。次は詠み人知らずの短歌です。
闇の夜は苦しきものをいつしかと我が待つ月も早も照らぬか(7-1374)
<やみのよはくるしきものを いつしかとわがまつつきも はやもてらぬか>
<<闇夜は苦しいもの。いつなのだろう私が待っている月よ早く出て照らないのかなあ>>
こうやって万葉集を見てみると,明るいことと良いことを結びつけて考えるのは,今も昔もあまり変わらないことが分かる気がします。
<性格の明るさ,暗さ>
それは,人の性格にも当てはまるのではないでしょうか。明るい性格は人に好かれる傾向があり,仕事で人と接することが多い場合も,さまざまな人の協力が得られることが多く,良い結果となることが多いようです。
でも,逆の暗い性格は良くないと断定してしまうのは言いすぎだと私は思います。
性格が暗いという判断は非常に曖昧だと私は思います。実は単に自分は嫌いだから暗いヤツだと感じてしまうこともあるのではないでしょうか。
ユニークな才能を持った人は関心のある視点が多くの人と違っていて,多くの人が楽しいと思うことに対してそう感じないことがあります。
特に考える力に秀でた人は,あるテーマに関して並はずれた集中力で思考している最中,まったく周囲に関心を払わないことがあります。
それから,間違いや矛盾を発見する能力が抜群の人は,間違いを放置することができず,間違いを誰彼となくずばり言ってしまうことがあります。
でも,その人達は一般の人より超越した能力をもっているかもしれないのですが,以前の私は往々にして「何て根が暗い人だ」と思い込んで,距離を置いてしまうことがありました。
その結果,知らない内にその人の心を傷つけていたのかもしれません。
今の私は,もし性格が暗いと感じる人がいたら,その人を暗くさせている原因の一つに自分の接し方や態度がある可能性はないのかまず考えるようにしてます。
そして,その人を明るく感じられるようにするには「私自身」がどうすればよいか考えます。その人に「もう少し明るくなってほしい」などと求めるのではなく。
対語シリーズ「内と外」に続く。
2012年1月29日日曜日
2012年1月15日日曜日
対語シリーズ「白と黒」‥肌は透き通るほどの白さか?:健康的な黒さか?
「白」と「黒」は対象的なものをイメージするのによく使われます。カラー映像が一般的でなかった時代は特にそうかもしれません。
また,囲碁,オセロの石,チェスの駒は白と黒で構成され,それぞれの色を持つ者同士が対戦して確保した陣地や石の数,特定の駒の獲得で勝敗を決めます。日本では,日の丸や,いわゆる源平合戦の源氏(白)と平家(赤)が起源と言われる小学校の運動会での白組紅組対抗戦のように,赤と白が一般的です。しかし,世界的に見れば赤と白の対抗戦をするゲームやスポーツは少ないのかも知れませんね。
さて,本題の「白」と「黒」に戻します。万葉集では「白」と「黒」を詠んだ和歌がたくさん出てきます。しかし,多くは「白」や「黒」単独では出てきません。
「白」は昨年8月最初に投稿した「紅と白」で,白で始まる熟語を出していますので,万葉集で詠まれた「黒」で始まる熟語を紹介します。
黒髪,黒木(木の皮が付いたままの木),黒酒(白酒に黒い色に着色した酒),黒沓(漆を塗ったクツ),黒駒,黒馬。
この中から,長屋王(ながやのおほきみ)宅での宴席で,黒木を詠んだ元正(げんしやう)太上天皇,元正天皇から譲位された聖武(しやうむ)天皇作の短歌をそれぞれ紹介しましす。
はだすすき尾花逆葺き黒木もち造れる室は万代までに(8-1637)
<はだすすきをばなさかふき くろきもちつくれるむろは よろづよまでに>
<<尾花を逆さに葺いて削らない荒木で作っている奥の部屋だが,いついつまでも栄えていくことでしょう>>
あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室は座せど飽かぬかも(8-1638)
<あをによしならのやまなる くろきもちつくれるむろは ませどあかぬかも>
<<奈良の山の黒木で造ったこの室は、いつまで居ても飽きないことだ>>
これらの短歌は,聖武天皇即位(神亀元年:724年)後,長屋王(当時左大臣)がいわゆる「長屋王の変」(神亀6年:729年)でこの世を去るまでの間に詠まれたものだと考えられます。急に左大臣になった長屋王は,急ごしらえで天皇と太上天皇を迎える奥の部屋を建てたのでしょう。材木を削る暇もなく,(黒木のままで)柱を建てたようです。
ただ,両天皇は黒木で造った離れも趣があり,なかなか良いし,これからもこんな造りが流行って行くかもしれないと褒めたものがこの2首の意味です。両天皇が期待した長屋王ですが,藤原氏との軋轢が次第に高まっていき,藤原氏の陰謀説が燻っている長屋王の変で命を落とす結果となったのです。
万葉集の編者がこの両天皇の短歌を巻8の「冬の雑歌」にさりげなく入れている意味をどうしても私は考えたくなります。結局,冬の雑歌にしては季節感が無さ過ぎるように私は感じます。主題は季節ではなく,あきらかに黒木で造った長屋王の室です。編者はどうしても長屋王の自宅に元正太政天皇,聖武天皇が行って,宴が行われたことを目立たないように残したかったという意図があったのではないかと私は推理します。
さて,次は「白」と「黒」の両方を詠んだ短歌を中心に紹介します。
黒髪に白髪交り老ゆるまでかかる恋にはいまだ逢はなくに(4-563)
<くろかみに しろかみまじり おゆるまで かかるこひには いまだあはなくに>
<<黒髪に白髪が混じるほど年寄った今まで,こんな恋をまだ経験したことはありませんのに>>
この短歌は,坂上郎女(さかのうえのいらつめ)が筑紫で詠んだとされる内の1首です。このとき郎女の年齢は30歳前後(アラサー?)だったろうと思われますが,今で言うとアラフォーに近いイメージかも知れませんね。
年上の女性の言葉の巧みさが私には伝わってきます。郎女にコロッといった男性(年齢に関わらず)が結構いたのかも知れませんね。
髪の色の次は,肌の色について漫才のように掛けあった短歌です。訳は天の川君お願いするよ。
天の川 「たびとはん。おっしゃ,ええで。」
ぬばたまの斐太の大黒見るごとに巨勢の小黒し思ほゆるかも(16-3844)
<ぬばたまの ひだのおほぐろ みるごとに こせのをぐろし おもほゆるかも>
<<斐太はんが飛騨の大黒(黒毛の立派な馬)みたいに大きいて真っ黒に日焼けしてるのを見てると,そうそう巨勢はんのほんまにまっ黒けのちっちゃい子たちがおったのを思い出すわな~>>
駒造る土師の志婢麻呂白くあればうべ欲しからむその黒色を(16-3845)
<こまつくる はじのしびまろ しろくあれば うべほしからむ そのくろいろを>
<<何言うてんねん。いつも部屋ん中で土の駒人形ばっかり作って,日にあたらんさかい末生(うらな)りみたいに真っ白けの志婢麻呂はんには,本当は日焼けした黒い肌が羨ましいんやろ?>>
天の川君の訳は少し誇張しすぎた部分もあるけど,宴会の席で酒が入って,お互い言いたいことを言い合っている姿が目に浮かぶようですね。
奈良時代になり,いろんな職業の人達が一緒に生活していることが想像できます。天の川君みたいに喰っちゃ寝,喰っちゃ寝している人はほとんどいなかったと思いますけどね。
天の川 「うるさいなあ。放っといてんか。」
対語シリーズ「干潮と満潮」に続く。
また,囲碁,オセロの石,チェスの駒は白と黒で構成され,それぞれの色を持つ者同士が対戦して確保した陣地や石の数,特定の駒の獲得で勝敗を決めます。日本では,日の丸や,いわゆる源平合戦の源氏(白)と平家(赤)が起源と言われる小学校の運動会での白組紅組対抗戦のように,赤と白が一般的です。しかし,世界的に見れば赤と白の対抗戦をするゲームやスポーツは少ないのかも知れませんね。
さて,本題の「白」と「黒」に戻します。万葉集では「白」と「黒」を詠んだ和歌がたくさん出てきます。しかし,多くは「白」や「黒」単独では出てきません。
「白」は昨年8月最初に投稿した「紅と白」で,白で始まる熟語を出していますので,万葉集で詠まれた「黒」で始まる熟語を紹介します。
黒髪,黒木(木の皮が付いたままの木),黒酒(白酒に黒い色に着色した酒),黒沓(漆を塗ったクツ),黒駒,黒馬。
この中から,長屋王(ながやのおほきみ)宅での宴席で,黒木を詠んだ元正(げんしやう)太上天皇,元正天皇から譲位された聖武(しやうむ)天皇作の短歌をそれぞれ紹介しましす。
はだすすき尾花逆葺き黒木もち造れる室は万代までに(8-1637)
<はだすすきをばなさかふき くろきもちつくれるむろは よろづよまでに>
<<尾花を逆さに葺いて削らない荒木で作っている奥の部屋だが,いついつまでも栄えていくことでしょう>>
あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室は座せど飽かぬかも(8-1638)
<あをによしならのやまなる くろきもちつくれるむろは ませどあかぬかも>
<<奈良の山の黒木で造ったこの室は、いつまで居ても飽きないことだ>>
これらの短歌は,聖武天皇即位(神亀元年:724年)後,長屋王(当時左大臣)がいわゆる「長屋王の変」(神亀6年:729年)でこの世を去るまでの間に詠まれたものだと考えられます。急に左大臣になった長屋王は,急ごしらえで天皇と太上天皇を迎える奥の部屋を建てたのでしょう。材木を削る暇もなく,(黒木のままで)柱を建てたようです。
ただ,両天皇は黒木で造った離れも趣があり,なかなか良いし,これからもこんな造りが流行って行くかもしれないと褒めたものがこの2首の意味です。両天皇が期待した長屋王ですが,藤原氏との軋轢が次第に高まっていき,藤原氏の陰謀説が燻っている長屋王の変で命を落とす結果となったのです。
万葉集の編者がこの両天皇の短歌を巻8の「冬の雑歌」にさりげなく入れている意味をどうしても私は考えたくなります。結局,冬の雑歌にしては季節感が無さ過ぎるように私は感じます。主題は季節ではなく,あきらかに黒木で造った長屋王の室です。編者はどうしても長屋王の自宅に元正太政天皇,聖武天皇が行って,宴が行われたことを目立たないように残したかったという意図があったのではないかと私は推理します。
さて,次は「白」と「黒」の両方を詠んだ短歌を中心に紹介します。
黒髪に白髪交り老ゆるまでかかる恋にはいまだ逢はなくに(4-563)
<くろかみに しろかみまじり おゆるまで かかるこひには いまだあはなくに>
<<黒髪に白髪が混じるほど年寄った今まで,こんな恋をまだ経験したことはありませんのに>>
この短歌は,坂上郎女(さかのうえのいらつめ)が筑紫で詠んだとされる内の1首です。このとき郎女の年齢は30歳前後(アラサー?)だったろうと思われますが,今で言うとアラフォーに近いイメージかも知れませんね。
年上の女性の言葉の巧みさが私には伝わってきます。郎女にコロッといった男性(年齢に関わらず)が結構いたのかも知れませんね。
髪の色の次は,肌の色について漫才のように掛けあった短歌です。訳は天の川君お願いするよ。
天の川 「たびとはん。おっしゃ,ええで。」
ぬばたまの斐太の大黒見るごとに巨勢の小黒し思ほゆるかも(16-3844)
<ぬばたまの ひだのおほぐろ みるごとに こせのをぐろし おもほゆるかも>
<<斐太はんが飛騨の大黒(黒毛の立派な馬)みたいに大きいて真っ黒に日焼けしてるのを見てると,そうそう巨勢はんのほんまにまっ黒けのちっちゃい子たちがおったのを思い出すわな~>>
駒造る土師の志婢麻呂白くあればうべ欲しからむその黒色を(16-3845)
<こまつくる はじのしびまろ しろくあれば うべほしからむ そのくろいろを>
<<何言うてんねん。いつも部屋ん中で土の駒人形ばっかり作って,日にあたらんさかい末生(うらな)りみたいに真っ白けの志婢麻呂はんには,本当は日焼けした黒い肌が羨ましいんやろ?>>
天の川君の訳は少し誇張しすぎた部分もあるけど,宴会の席で酒が入って,お互い言いたいことを言い合っている姿が目に浮かぶようですね。
奈良時代になり,いろんな職業の人達が一緒に生活していることが想像できます。天の川君みたいに喰っちゃ寝,喰っちゃ寝している人はほとんどいなかったと思いますけどね。
天の川 「うるさいなあ。放っといてんか。」
対語シリーズ「干潮と満潮」に続く。
2012年1月7日土曜日
対語シリーズ「寒と暖(暑)」‥寒中お見舞い申し上げます。
年末年始スペシャルも終り,対語シリーズに戻りました。
日本列島も小寒が過ぎ,2月4日の立春まで暦の上では1年の内でもっとも寒い時期となります。暖房器具にお世話になる時期でもありますが,くれぐれも火の取り扱いには注意してください。ただ,火災が1年のうちでもっとも多いのは,2月,3月だそうです。寒暖の差が大きくなる早春は暖房器具に対する注意が散漫(不注意,不始末)になりやすいので,本当は危ないのかもしれませんね。
さて,万葉集の中で「寒」「暖」を見て行くと「暖」は1首のみ,また「暑」も1首のみです。いっぽう「寒」を詠んだ和歌は60首近くもあります。万葉時代は今のような暖かい服装,寒さを通さない断熱材,隙間風を入れない密封構造の家,夏を思わせるような暖房設備などはなかった時代です。今よりも寒さを感じることが多く,寒さを感じたときのつらい気持ちなどを詠んだ歌が万葉集で多くなるのは当然かもしれませんね。
では,まず「暖」を詠んだ短歌から紹介します。
しらぬひ筑紫の綿は身に付けていまだは着ねど暖けく見ゆ(3-336)
<しらぬひつくしのわたは みにつけていまだはきねど あたたけくみゆ>
<<この筑紫の綿は身に付けてまだ着たことはないけれど暖かそうに見える>>
この短歌は大伴旅人が筑紫の大宰府長官として赴任していた時期に,万葉集に短歌7首を残した沙弥満誓(さみのまんせい)が詠んだ1首です。満誓は元役人でしたが,その後出家し,筑紫に国に造営された観世音寺(くわんぜおんじ)の別当(べったう)の任に付いていたのです。
筑紫で採れる綿の品質が良く,その綿を使って衣を作って着るときっと暖かいでしょうと詠んでいるのですが,この歌は誰に贈っているのでしょう?
私は旅人に向けて詠んだのだと思います。旅人は齢60歳で平城京から遠く離れた大宰府まで左遷され,失意の底にいたのだと思います。満誓は「筑紫にも良いものがたくさんありますよ,その中でも..」と旅人に伝えたかったのかもしれません。
ところで,万葉集で旅人といえばほとんどが筑紫での彼の姿を映しています。しかし,巻9で高橋蟲麻呂(たかはしのむしまろ)歌集として取り上げられているなかに,旅人が夏の筑波山に登ったという長歌が出てきます。
衣手 常陸の国の 二並ぶ 筑波の山を 見まく欲り 君来ませりと 暑けくに 汗かき嘆げ 木の根取り うそぶき登り 峰の上を 君に見すれば~(9-1753)
<ころもでひたちのくにの ふたならぶつくはのやまを みまくほりきみきませりと あつけくにあせかきなげ このねとりうそぶきのぼり をのうへをきみにみすれば~>
<<常陸の国に二峰が並ぶ筑波の山を見たいとお思いになって貴殿が来られたというので,暑いさなか汗をかくことを嘆きつつ,木の根をつかみ,ふうふう言いながら登って山頂を貴殿にお見せすると~>>
このころ旅人は50歳代後半であったと考えると,夏の暑さの中筑波山(今のようにロープウェイはありません)を登ったとしたら,年齢の割に元気だったのということになりますね。
さて,今度はたくさん詠まれているほうの「寒」について,いくつか紹介しましょう。
旅先で一人で寝るのは,特に寒く感じます。そんな思いを常陸の国から防人(さきもり)に向かう旅路の途中で詠んだ短歌です。
旅衣八重着重ねて寐のれどもなほ肌寒し妹にしあらねば(20-4351)
<たびころもやへきかさねていのれども なほはださむしいもにしあらねば>
<<旅服を何枚着重ねて寝てもまだ肌寒い。その衣は妻ではないので>>
次は逆に妻と一緒に寝るなら,寒さもヘッチャラという詠み人知らずの短歌です。
刈り薦の一重を敷きてさ寝れども君とし寝れば寒けくもなし(11-2520)
<かりこものひとへをしきてさぬれども きみとしぬればさむけくもなし>
<<刈り取って作ったマコモの筵(むしろ)1枚を敷いて寝るような寒い家だけどキミと寝れられるならぜんぜん寒くはないよ>>
寒の入りになると早く春の兆(きざ)しが待ち遠しくなりますね。その兆しとして,よく例に出されるのは梅の便りでしょうか。早く梅には咲いてほしいが,無理はしないでほしいという梅へのいたわりの気持ちを詠んだ詠み人知らずの短歌を紹介して今回の記事を終りにします。
雪寒み咲きには咲かぬ梅の花よしこのころはかくてもあるがね(10-2329)
<ゆきさむみ さきにはさかぬうめのはな よしこのころはかくてもあるがね>
<< 雪がふるほどまだ寒いのでぱっとは咲けない梅の花よ。まだ今のうちはそうしているのが良いですよ>>
対語シリーズ「白と黒」に続く。
日本列島も小寒が過ぎ,2月4日の立春まで暦の上では1年の内でもっとも寒い時期となります。暖房器具にお世話になる時期でもありますが,くれぐれも火の取り扱いには注意してください。ただ,火災が1年のうちでもっとも多いのは,2月,3月だそうです。寒暖の差が大きくなる早春は暖房器具に対する注意が散漫(不注意,不始末)になりやすいので,本当は危ないのかもしれませんね。
さて,万葉集の中で「寒」「暖」を見て行くと「暖」は1首のみ,また「暑」も1首のみです。いっぽう「寒」を詠んだ和歌は60首近くもあります。万葉時代は今のような暖かい服装,寒さを通さない断熱材,隙間風を入れない密封構造の家,夏を思わせるような暖房設備などはなかった時代です。今よりも寒さを感じることが多く,寒さを感じたときのつらい気持ちなどを詠んだ歌が万葉集で多くなるのは当然かもしれませんね。
では,まず「暖」を詠んだ短歌から紹介します。
しらぬひ筑紫の綿は身に付けていまだは着ねど暖けく見ゆ(3-336)
<しらぬひつくしのわたは みにつけていまだはきねど あたたけくみゆ>
<<この筑紫の綿は身に付けてまだ着たことはないけれど暖かそうに見える>>
この短歌は大伴旅人が筑紫の大宰府長官として赴任していた時期に,万葉集に短歌7首を残した沙弥満誓(さみのまんせい)が詠んだ1首です。満誓は元役人でしたが,その後出家し,筑紫に国に造営された観世音寺(くわんぜおんじ)の別当(べったう)の任に付いていたのです。
筑紫で採れる綿の品質が良く,その綿を使って衣を作って着るときっと暖かいでしょうと詠んでいるのですが,この歌は誰に贈っているのでしょう?
私は旅人に向けて詠んだのだと思います。旅人は齢60歳で平城京から遠く離れた大宰府まで左遷され,失意の底にいたのだと思います。満誓は「筑紫にも良いものがたくさんありますよ,その中でも..」と旅人に伝えたかったのかもしれません。
ところで,万葉集で旅人といえばほとんどが筑紫での彼の姿を映しています。しかし,巻9で高橋蟲麻呂(たかはしのむしまろ)歌集として取り上げられているなかに,旅人が夏の筑波山に登ったという長歌が出てきます。
衣手 常陸の国の 二並ぶ 筑波の山を 見まく欲り 君来ませりと 暑けくに 汗かき嘆げ 木の根取り うそぶき登り 峰の上を 君に見すれば~(9-1753)
<ころもでひたちのくにの ふたならぶつくはのやまを みまくほりきみきませりと あつけくにあせかきなげ このねとりうそぶきのぼり をのうへをきみにみすれば~>
<<常陸の国に二峰が並ぶ筑波の山を見たいとお思いになって貴殿が来られたというので,暑いさなか汗をかくことを嘆きつつ,木の根をつかみ,ふうふう言いながら登って山頂を貴殿にお見せすると~>>
このころ旅人は50歳代後半であったと考えると,夏の暑さの中筑波山(今のようにロープウェイはありません)を登ったとしたら,年齢の割に元気だったのということになりますね。
さて,今度はたくさん詠まれているほうの「寒」について,いくつか紹介しましょう。
旅先で一人で寝るのは,特に寒く感じます。そんな思いを常陸の国から防人(さきもり)に向かう旅路の途中で詠んだ短歌です。
旅衣八重着重ねて寐のれどもなほ肌寒し妹にしあらねば(20-4351)
<たびころもやへきかさねていのれども なほはださむしいもにしあらねば>
<<旅服を何枚着重ねて寝てもまだ肌寒い。その衣は妻ではないので>>
次は逆に妻と一緒に寝るなら,寒さもヘッチャラという詠み人知らずの短歌です。
刈り薦の一重を敷きてさ寝れども君とし寝れば寒けくもなし(11-2520)
<かりこものひとへをしきてさぬれども きみとしぬればさむけくもなし>
<<刈り取って作ったマコモの筵(むしろ)1枚を敷いて寝るような寒い家だけどキミと寝れられるならぜんぜん寒くはないよ>>
寒の入りになると早く春の兆(きざ)しが待ち遠しくなりますね。その兆しとして,よく例に出されるのは梅の便りでしょうか。早く梅には咲いてほしいが,無理はしないでほしいという梅へのいたわりの気持ちを詠んだ詠み人知らずの短歌を紹介して今回の記事を終りにします。
雪寒み咲きには咲かぬ梅の花よしこのころはかくてもあるがね(10-2329)
<ゆきさむみ さきにはさかぬうめのはな よしこのころはかくてもあるがね>
<< 雪がふるほどまだ寒いのでぱっとは咲けない梅の花よ。まだ今のうちはそうしているのが良いですよ>>
対語シリーズ「白と黒」に続く。
2012年1月4日水曜日
私の接した歌枕(14:松山)
私は愛媛県松山市に過去2回訪れています。1回目はソフトウェア保守研究会の研究大会,2回目は完全なプライベートです。
1回目の往路だけ(他は空路)は,勤める会社の関西支社に前日出張が入ったため,新大阪から広島まで新幹線,呉までは在来線に乗り継ぎ,呉港から船で瀬戸内海を横断して松山観光港,そこから電車で松山市内に入りました。
全国いろいろな県庁所在地を私は今まで見てきましたが,松山には独特の雰囲気があります。まず,松山城(現存天守)が市街地の真ん中にある城山の上にそびえ,城山に上がるロープウェイまであります。とにかく学校が多いです。路面電車の路線が6系統も残っています。そして,県庁から直線距離でたった3㎞ほどに道後温泉(日本最古の温泉地)があります。
文学面では司馬遼太郎作「坂の上の雲」,夏目漱石作「ぼっちゃん」,正岡子規(出身地)のゆかりの地です。高知ほどではありませんが,交通の便があまり良いとは言えないにも関わらずずっと四国で一番人口が多い都市でもあります。
2回目に行った時は12月下旬で,ちょうどミカンが美味しい季節でした。ミカンが形は小さいですが一山100円で売られていたの感動もの...。
天の川 「あのなあ~。たびとはんはいっつも前置きが長いなあ~。 松山と万葉集との関係は何やねん?」
そうそう,万葉集の歌枕シリーズだったことを,正月ボーッしすぎたせいか忘れかけていました。
万葉集の額田王(ぬかだのおほきみ)の有名な次の短歌に出てくる「熱田津(にぎたつ)」が松山にあったといわれています。
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(1-8)
<にぎたつにふなのりせむと つきまてばしほもかなひぬ いまはこぎいでな>
<<熟田津から船に乗って出発しょうと月を待っていたが,潮の具合が出航ができる状況になってきた。今こそ漕ぎ出しましょう>>
熟田津は,一説には松山市の古三津あたりではないかということです。古三津地区は海岸線より奥ですが,松山のある道後平野は扇状地であり,四国山地から雨で浸食された土砂が流れてたまって行く。そのため,当時の海岸線は宮前川を約1㎞遡った古三津あたりにあったのだろうというのが根拠のようです。
しかし,1,300年前の海岸線はさらに奥だったのではないかと私は想像しています。今の松山市をGoogleの地図(航空写真)で見ると,1,300年前はどうだったは分かりませんが,過去は松山城のある城山公園,道後温泉前の道後公園,弁天山,岩子山などは海に浮かぶ島だったように見えます。道後温泉,石手寺の近くまで海だったとしたら,熱田津は「熱い田のある港」で,道後温泉の湯が流れ込んで港周辺の田は熱かったのかも知れませんね。
しかし,額田王がこの1首を詠んだ後年,山部赤人が熱田津を訪れた際,次の短歌を詠んでいます。
ももしきの大宮人の熟田津に船乗りしけむ年の知らなく(3-323)
<ももしきのおほみやひとの にきたつにふなのりしけむ としのしらなく>
<<大宮人が熟田津から船に乗ったであろう年はどれほど前かわからない>>
前の額田王の歌は斉明(さいめい)天皇の時代(660年代)に詠まれたとされます。斉明天皇と中大兄皇子(なかのおほえのわうじ)が百済支援のため,熱田津から九州へ船で移動したときに詠んだとこの歌の左注に書かれています。
その後,斉明天皇が九州で崩御した後663年白村江(はくそんこう)の戦いで大敗すると天皇による熱田津へ行幸(みゆき)を行わなくなったのでしょう。それによって,行幸が頻繁に行われていたころの賑やかな熱田津が,赤人が訪れたころには寂れたところになっていた。赤人は,そんな賑やかな船出の姿は本当にあったのかと疑いたくなるほど寂れていたと感じ,この歌を詠んだのだろうと思います。
もう1首熱田津を詠んだ詠み人知らずの短歌が万葉集に出てきます。
熟田津に船乗りせむと聞きしなへ何ぞも君が見え来ずあるらむ(12-3202)
<にきたつにふなのりせむとききしなへ なにぞもきみがみえこずあるらむ>
<<熟田津から船出したと人は言うのに,どうして貴方は帰ってこないのですか。生きていて欲しい>>
この短歌は巻12で悲別の歌として分類されている中にあるものです。もし,船出した夫が白村江の戦いに徴兵されたことを記すのなら,夫は戦死した可能性が高いことになります。本当に悲しい歌ですね。
ただ,その後は,石手川や重信川などが運ぶ土石で道後平野が広がり(大きな氾濫もあったかもしれません),肥沃な土地の開墾が進み,温暖な気候と温泉にも恵まれ,松山に多くの人々が暮らすようになったのでしょう。
こんな松山に,いずれ文学の同好と是非行ってみたいと考えています。
さて,明日は仕事始めです。これで今回の年末年始スペシャル「私の接した歌枕」シリーズの3回目を終り,次回から対語シリーズに戻ります。
対語シリーズ「寒と暖(暑)」に続く。
1回目の往路だけ(他は空路)は,勤める会社の関西支社に前日出張が入ったため,新大阪から広島まで新幹線,呉までは在来線に乗り継ぎ,呉港から船で瀬戸内海を横断して松山観光港,そこから電車で松山市内に入りました。
全国いろいろな県庁所在地を私は今まで見てきましたが,松山には独特の雰囲気があります。まず,松山城(現存天守)が市街地の真ん中にある城山の上にそびえ,城山に上がるロープウェイまであります。とにかく学校が多いです。路面電車の路線が6系統も残っています。そして,県庁から直線距離でたった3㎞ほどに道後温泉(日本最古の温泉地)があります。
文学面では司馬遼太郎作「坂の上の雲」,夏目漱石作「ぼっちゃん」,正岡子規(出身地)のゆかりの地です。高知ほどではありませんが,交通の便があまり良いとは言えないにも関わらずずっと四国で一番人口が多い都市でもあります。
2回目に行った時は12月下旬で,ちょうどミカンが美味しい季節でした。ミカンが形は小さいですが一山100円で売られていたの感動もの...。
天の川 「あのなあ~。たびとはんはいっつも前置きが長いなあ~。 松山と万葉集との関係は何やねん?」
そうそう,万葉集の歌枕シリーズだったことを,正月ボーッしすぎたせいか忘れかけていました。
万葉集の額田王(ぬかだのおほきみ)の有名な次の短歌に出てくる「熱田津(にぎたつ)」が松山にあったといわれています。
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(1-8)
<にぎたつにふなのりせむと つきまてばしほもかなひぬ いまはこぎいでな>
<<熟田津から船に乗って出発しょうと月を待っていたが,潮の具合が出航ができる状況になってきた。今こそ漕ぎ出しましょう>>
熟田津は,一説には松山市の古三津あたりではないかということです。古三津地区は海岸線より奥ですが,松山のある道後平野は扇状地であり,四国山地から雨で浸食された土砂が流れてたまって行く。そのため,当時の海岸線は宮前川を約1㎞遡った古三津あたりにあったのだろうというのが根拠のようです。
しかし,1,300年前の海岸線はさらに奥だったのではないかと私は想像しています。今の松山市をGoogleの地図(航空写真)で見ると,1,300年前はどうだったは分かりませんが,過去は松山城のある城山公園,道後温泉前の道後公園,弁天山,岩子山などは海に浮かぶ島だったように見えます。道後温泉,石手寺の近くまで海だったとしたら,熱田津は「熱い田のある港」で,道後温泉の湯が流れ込んで港周辺の田は熱かったのかも知れませんね。
しかし,額田王がこの1首を詠んだ後年,山部赤人が熱田津を訪れた際,次の短歌を詠んでいます。
ももしきの大宮人の熟田津に船乗りしけむ年の知らなく(3-323)
<ももしきのおほみやひとの にきたつにふなのりしけむ としのしらなく>
<<大宮人が熟田津から船に乗ったであろう年はどれほど前かわからない>>
前の額田王の歌は斉明(さいめい)天皇の時代(660年代)に詠まれたとされます。斉明天皇と中大兄皇子(なかのおほえのわうじ)が百済支援のため,熱田津から九州へ船で移動したときに詠んだとこの歌の左注に書かれています。
その後,斉明天皇が九州で崩御した後663年白村江(はくそんこう)の戦いで大敗すると天皇による熱田津へ行幸(みゆき)を行わなくなったのでしょう。それによって,行幸が頻繁に行われていたころの賑やかな熱田津が,赤人が訪れたころには寂れたところになっていた。赤人は,そんな賑やかな船出の姿は本当にあったのかと疑いたくなるほど寂れていたと感じ,この歌を詠んだのだろうと思います。
もう1首熱田津を詠んだ詠み人知らずの短歌が万葉集に出てきます。
熟田津に船乗りせむと聞きしなへ何ぞも君が見え来ずあるらむ(12-3202)
<にきたつにふなのりせむとききしなへ なにぞもきみがみえこずあるらむ>
<<熟田津から船出したと人は言うのに,どうして貴方は帰ってこないのですか。生きていて欲しい>>
この短歌は巻12で悲別の歌として分類されている中にあるものです。もし,船出した夫が白村江の戦いに徴兵されたことを記すのなら,夫は戦死した可能性が高いことになります。本当に悲しい歌ですね。
ただ,その後は,石手川や重信川などが運ぶ土石で道後平野が広がり(大きな氾濫もあったかもしれません),肥沃な土地の開墾が進み,温暖な気候と温泉にも恵まれ,松山に多くの人々が暮らすようになったのでしょう。
こんな松山に,いずれ文学の同好と是非行ってみたいと考えています。
さて,明日は仕事始めです。これで今回の年末年始スペシャル「私の接した歌枕」シリーズの3回目を終り,次回から対語シリーズに戻ります。
対語シリーズ「寒と暖(暑)」に続く。
2012年1月2日月曜日
私の接した歌枕(13:相馬)
<相馬訪問の思い出>
私が福島県相馬市に行ったのは,今から10年ほど前のGWのとき1回だけです。私が幹事をしているソフトウェア保守や進化を専門に研究する研究会の作業部会で,国際規格の翻訳や規格内容の評価をするため泊まり掛けで作業を行うことにしました。
私は当時その作業部会のリーダをしていた関係で,宿泊先を探す役目がありました。いろいろな会社などに所属するメンバーの都合がGWの真っ只中5月2日,3日しか空いていないため,やむなく5月2日泊で場所を探すことになりました。所属する会社などからの宿泊代補助がそれぞれ限られていることもあり,リーズナブルな宿泊場所がGWでなかなか見つかりません。
メンバーからは私が苦労して探していることも知らず「今まで房総は行ったことがないので房総はどう?」「伊豆で美味しい魚を食いながら研究というのは?」「美味しい魚だったら三浦でマグロも近くて良いんじゃない?」などと勝手なリクエストがどんどん入ってきました。断っておきますが,この私も含め多くの研究員がJIS(日本工業規格)の調査委員会メンバーなったくらいの非常にまじめな研究会なのです。研究内容が国際規格の翻訳と内容の評価ですから,非常に責任ある重い研究テーマのため,食事時くらいリラックスできる場所をリクエストしたくなるのは人情というものです。
<ちょっと遠いがGW中空いている宿がやっと見つかる>
さて,苦労の挙句,インターネットで探す範囲を関東圏から少しずつ外に広げていったら,ようやく相馬市の松川浦に面し,相馬港からもそう遠くない風光明媚と思われる旅館が見つかりました。旅行検索サイトで紹介されている宿泊プラン(お仕事出張プラン:平日のみ)が,1部屋の人数が4人以上ですが1泊2食付き(税・サ込)で一人8.500円というのが見つかったので,検索サイトから予約をすぐしました。
予約が完了し,予約完了メールが届き,一番心配していた宿泊先も何とか確保でき,作業部会メンバーにメールで連絡しました。
メンバーからは「ソウマ?」「どこ?」「どっかの山奥?」などと返信が来ました。場所は遠いが一旦仙台へ新幹線で行き,常磐線を南下すれば相馬駅までそう時間は掛からない,予約した旅館は,研究できる部屋を用意してくれ,また海の近くで,近海でとれたものを出してくれると答えると,「OK。楽しみだ」「よくぞGW中に確保した」などと研究会の目的とは少し違う意味で賛成してくれました。
<まだネット予約に慣れていない旅館の主人>
ところが,1週間ほどして,旅館の主(あるじ)と思われる人から電話があり,「部屋は空いているが,そのプランはGW中はやっていないので,大変申しをないが8,500円でお泊めできない」という内容でした。私は,キツネにつままれたようにキョトンとしました。意味が全く分かりません。「だって,旅行予約サイトでちゃんと予約ができたよ?」と返しました。
そうしたら「当方の設定不慣れで空きがあると予約できるようになっていたためのようです。何とか,GWでも利用できるプラン(同内容で10,000円)でお願いできないでしょうか?」との返事。「でも~」と私が言うと「予約サイトの営業マンが『簡単ですから』というので最近載せてもらいましたが,内容の更新が難しいというか,面倒というか..。つい設定の一部が漏れていまして。」と涙声に近い懇願でした。
<ネット予約サイトの反応>
私は,最悪キャンセルするという選択肢もあるので,一応了解し,予約サイト業者へこの事実を連絡しました。
その返事は「コンテンツや予約設定に関しましては,すべてご契約の宿泊施設様の責任となっておりまして,当方では如何ともしがたいのです。」というもの。私はITの専門家ですから「田舎の旅館の主(ITの非専門家)が間違えるような設定方法に問題があるのでは?どんなチェックや警告メッセージを出すようにしているのですか?」と問いただしました。「実はわたくしもそのへんはあまり詳しくありませんで,大変申し訳ございません」との回答で,話になりませんでした。「貴社のユーザは,片田舎のITに詳しくない人が多いのだから丁寧に説明・指導するか,システムの利用者インターフェース(操作性)を改善しないと,またこんなことが起こりますよ」と私は警告するに留め電話を切りました。
<結局GW価格で了解>
メンバー(私と同じIT専門家)からは「まあ,GWだからね。相馬松川浦は良いところらしいから楽しみ」「会社から補助が出ない分は自腹OK」「ユーザ側(旅館側)に立とうよ」などの意見をもらい,最終的に10,000円で利用することにしました。
当日昼,相馬駅から旅館までタクシーで旅館に乗り付けると予想通り純朴そうな主や女将でが出迎え東北訛りで「この度は大変申し訳ありません」と深々と頭を下げられました。
研究は,国際規格の翻訳を分担したメンバーがほぼ済ませて集まってきたので,用意された部屋でしっかりと内容の評価ができました。
夕食と朝食は見栄えは繊細とは言えませんが,大きなキンキ丸ごとの煮つけ,地魚の刺身,天ぷらなど,たっぷり出してもらいました。メンバーの意気もあがり,夜の規格評価結果の議論,翌朝のまとめも予定通り済ませ,翌日の昼にチェックアウトしました。
<翌日の散策>
すぐに東京へ帰るのはもったいないので,近辺を散策しました。相馬港までの海沿いの通りでは,祝日で出店や鮮魚市がたくさん並んでいて,なかなかの賑わいでした。
一番驚いたのは,毛ガニの小さいものが鮮魚市で売られていました。「この辺で獲れるの?」と聞くと,この辺りは寒流が入り込んでいるため獲れるそうですが,地元以外に出荷できるほどは獲れないとのことでした。
昼食は,近くの食堂で地魚定食を頼み,満腹の腹をこなすため,松川浦大橋の近辺を散策しているとメンバーのひとりが「万葉集の歌碑があるよ」と私に教えてくれました(次の歌)。
まつが浦にさわゑうら立ちま人言思ほすなもろ我が思ほのすも(14-3552)
<まつがうらに さわゑうらだち まひとごと おもほすなもろ わがもほのすも>
<<松が浦に潮騒が騒ぐように人の噂はうるさいけれどきっとあの方は私のことをお想いになっている。私があなたを想っているように>>
私が万葉集を学生時代少しやっていたことを知っているメンバーが何人かいて「訳してよ」とせがまれましたが,こんな東歌を学生時代みたこともなかった上,「まつが浦」「松川浦」だとも全然しりませんでした。また,非常に難しい上代東国方言も混じっていたので,結局「降参」しました。
このときの悔しさが4年ほど前から万葉集をもう一度やってみようと思う要因の一つになったのも事実です。
<そして,東日本大震災>
昨年3月11日の大震災の津波でこの一帯は壊滅的な被害を受けました。YouTubeに掲載されている相馬港,松川浦の津波の激しさ,津波後の本当にひどい状況を見て,私はその旅館は大丈夫か気になりました。
旅館のホームページを検索すると何とか倒壊は免れ,夏には一部営業を再開しているようです。ただ,相変わらず近海物の魚がまったく手に入らず困っていることが旅館のホームページの掲示板に載っていました。
旅館の主もかなりパソコンの操作に慣れているのか,常連客からの震災被害の状況問合せにもテキパキと答えているようです。
早く,近海の魚が普通に獲れるようになったら,相馬沖で獲れた小さな毛ガニを味噌汁に入れたものを食べに行きたいと考えています。
私の接した歌枕(14:松山)に続く。
私が福島県相馬市に行ったのは,今から10年ほど前のGWのとき1回だけです。私が幹事をしているソフトウェア保守や進化を専門に研究する研究会の作業部会で,国際規格の翻訳や規格内容の評価をするため泊まり掛けで作業を行うことにしました。
私は当時その作業部会のリーダをしていた関係で,宿泊先を探す役目がありました。いろいろな会社などに所属するメンバーの都合がGWの真っ只中5月2日,3日しか空いていないため,やむなく5月2日泊で場所を探すことになりました。所属する会社などからの宿泊代補助がそれぞれ限られていることもあり,リーズナブルな宿泊場所がGWでなかなか見つかりません。
メンバーからは私が苦労して探していることも知らず「今まで房総は行ったことがないので房総はどう?」「伊豆で美味しい魚を食いながら研究というのは?」「美味しい魚だったら三浦でマグロも近くて良いんじゃない?」などと勝手なリクエストがどんどん入ってきました。断っておきますが,この私も含め多くの研究員がJIS(日本工業規格)の調査委員会メンバーなったくらいの非常にまじめな研究会なのです。研究内容が国際規格の翻訳と内容の評価ですから,非常に責任ある重い研究テーマのため,食事時くらいリラックスできる場所をリクエストしたくなるのは人情というものです。
<ちょっと遠いがGW中空いている宿がやっと見つかる>
さて,苦労の挙句,インターネットで探す範囲を関東圏から少しずつ外に広げていったら,ようやく相馬市の松川浦に面し,相馬港からもそう遠くない風光明媚と思われる旅館が見つかりました。旅行検索サイトで紹介されている宿泊プラン(お仕事出張プラン:平日のみ)が,1部屋の人数が4人以上ですが1泊2食付き(税・サ込)で一人8.500円というのが見つかったので,検索サイトから予約をすぐしました。
予約が完了し,予約完了メールが届き,一番心配していた宿泊先も何とか確保でき,作業部会メンバーにメールで連絡しました。
メンバーからは「ソウマ?」「どこ?」「どっかの山奥?」などと返信が来ました。場所は遠いが一旦仙台へ新幹線で行き,常磐線を南下すれば相馬駅までそう時間は掛からない,予約した旅館は,研究できる部屋を用意してくれ,また海の近くで,近海でとれたものを出してくれると答えると,「OK。楽しみだ」「よくぞGW中に確保した」などと研究会の目的とは少し違う意味で賛成してくれました。
<まだネット予約に慣れていない旅館の主人>
ところが,1週間ほどして,旅館の主(あるじ)と思われる人から電話があり,「部屋は空いているが,そのプランはGW中はやっていないので,大変申しをないが8,500円でお泊めできない」という内容でした。私は,キツネにつままれたようにキョトンとしました。意味が全く分かりません。「だって,旅行予約サイトでちゃんと予約ができたよ?」と返しました。
そうしたら「当方の設定不慣れで空きがあると予約できるようになっていたためのようです。何とか,GWでも利用できるプラン(同内容で10,000円)でお願いできないでしょうか?」との返事。「でも~」と私が言うと「予約サイトの営業マンが『簡単ですから』というので最近載せてもらいましたが,内容の更新が難しいというか,面倒というか..。つい設定の一部が漏れていまして。」と涙声に近い懇願でした。
<ネット予約サイトの反応>
私は,最悪キャンセルするという選択肢もあるので,一応了解し,予約サイト業者へこの事実を連絡しました。
その返事は「コンテンツや予約設定に関しましては,すべてご契約の宿泊施設様の責任となっておりまして,当方では如何ともしがたいのです。」というもの。私はITの専門家ですから「田舎の旅館の主(ITの非専門家)が間違えるような設定方法に問題があるのでは?どんなチェックや警告メッセージを出すようにしているのですか?」と問いただしました。「実はわたくしもそのへんはあまり詳しくありませんで,大変申し訳ございません」との回答で,話になりませんでした。「貴社のユーザは,片田舎のITに詳しくない人が多いのだから丁寧に説明・指導するか,システムの利用者インターフェース(操作性)を改善しないと,またこんなことが起こりますよ」と私は警告するに留め電話を切りました。
<結局GW価格で了解>
メンバー(私と同じIT専門家)からは「まあ,GWだからね。相馬松川浦は良いところらしいから楽しみ」「会社から補助が出ない分は自腹OK」「ユーザ側(旅館側)に立とうよ」などの意見をもらい,最終的に10,000円で利用することにしました。
当日昼,相馬駅から旅館までタクシーで旅館に乗り付けると予想通り純朴そうな主や女将でが出迎え東北訛りで「この度は大変申し訳ありません」と深々と頭を下げられました。
研究は,国際規格の翻訳を分担したメンバーがほぼ済ませて集まってきたので,用意された部屋でしっかりと内容の評価ができました。
夕食と朝食は見栄えは繊細とは言えませんが,大きなキンキ丸ごとの煮つけ,地魚の刺身,天ぷらなど,たっぷり出してもらいました。メンバーの意気もあがり,夜の規格評価結果の議論,翌朝のまとめも予定通り済ませ,翌日の昼にチェックアウトしました。
<翌日の散策>
すぐに東京へ帰るのはもったいないので,近辺を散策しました。相馬港までの海沿いの通りでは,祝日で出店や鮮魚市がたくさん並んでいて,なかなかの賑わいでした。
一番驚いたのは,毛ガニの小さいものが鮮魚市で売られていました。「この辺で獲れるの?」と聞くと,この辺りは寒流が入り込んでいるため獲れるそうですが,地元以外に出荷できるほどは獲れないとのことでした。
昼食は,近くの食堂で地魚定食を頼み,満腹の腹をこなすため,松川浦大橋の近辺を散策しているとメンバーのひとりが「万葉集の歌碑があるよ」と私に教えてくれました(次の歌)。
まつが浦にさわゑうら立ちま人言思ほすなもろ我が思ほのすも(14-3552)
<まつがうらに さわゑうらだち まひとごと おもほすなもろ わがもほのすも>
<<松が浦に潮騒が騒ぐように人の噂はうるさいけれどきっとあの方は私のことをお想いになっている。私があなたを想っているように>>
私が万葉集を学生時代少しやっていたことを知っているメンバーが何人かいて「訳してよ」とせがまれましたが,こんな東歌を学生時代みたこともなかった上,「まつが浦」「松川浦」だとも全然しりませんでした。また,非常に難しい上代東国方言も混じっていたので,結局「降参」しました。
このときの悔しさが4年ほど前から万葉集をもう一度やってみようと思う要因の一つになったのも事実です。
<そして,東日本大震災>
昨年3月11日の大震災の津波でこの一帯は壊滅的な被害を受けました。YouTubeに掲載されている相馬港,松川浦の津波の激しさ,津波後の本当にひどい状況を見て,私はその旅館は大丈夫か気になりました。
旅館のホームページを検索すると何とか倒壊は免れ,夏には一部営業を再開しているようです。ただ,相変わらず近海物の魚がまったく手に入らず困っていることが旅館のホームページの掲示板に載っていました。
旅館の主もかなりパソコンの操作に慣れているのか,常連客からの震災被害の状況問合せにもテキパキと答えているようです。
早く,近海の魚が普通に獲れるようになったら,相馬沖で獲れた小さな毛ガニを味噌汁に入れたものを食べに行きたいと考えています。
私の接した歌枕(14:松山)に続く。
2012年1月1日日曜日
私の接した歌枕(12:須磨)
新春のお慶びを申し上げます。今年も当ブログをよろしくお願い致します。
年末年始スペシャル「私の接した歌枕シリーズ」は須磨を取りあげます。
<源氏物語に出てくる須磨>
ところで,源氏物語の第12帖は「須磨」というタイトルが付いています。それまで政治的には順風満帆だった光源氏(26歳)は,須磨という片田舎に蟄居(ちっきょ)して,京の女性とはまったく逢えないつらい状況となります。
さらに源氏の居た須磨では,雷や雹が降り,高潮や荒波が源氏の住まいにも到達するような暴風雨が何日も続くようになりました。その激しさに源氏も自分の命が危ういと感じるほどなのです(主人公ですから簡単には死にませんが..)。
そして,ついに落雷が直撃し源氏の侘び住まいは火事となり,源氏は焼け出されてしまうのです。
翌日,播磨守の明石入道が船で助けに来てくれて,10㎞以上西の明石にある入道宅に身を寄せるというハラハラドキドキの場面が次の13帖「明石」まで続きます。源氏物語の「須磨」から「明石」にかけては,平安時代の読者をきっとくぎ付けにしたことでしょう。
<万葉集では>
万葉集に出てくる須磨は次の短歌のように当時から塩田が整備され,製塩が盛んに行われていたと考えられます。
須磨人の海辺常去らず焼く塩の辛き恋をも我れはするかも(17-3932)
<すまひとの うみへつねさらず やくしほの からきこひをも あれはするかも>
<<須磨の海人がいつも海辺で焼いている塩のように、私は辛い恋をしています>>
この短歌は越中に赴任していた大伴家持へ奈良に住む平群氏女郎(へぐりうじのいらつめ)が贈った短歌12首の1首です。女郎は恐らく須磨には行ったことがないと思われますが,須磨では製塩が盛んで,その情報が京人にとってはほぼ常識だったのかも知れません。ちなみに須磨の西には塩屋という地名があります。
平城京の「西の市」や「東の市」では「須磨の海女さんが丹精込めて作った須磨の塩やで~。お一つ買(こ)うてくれへんかあ?」といったキャッチコピーで販売されていたとすると,この短歌も現実味が湧いてきます。
女郎はたくさんの短歌を越中の家持に贈っているのは,越中赴任前,二人はただならぬ関係だったということになりますね。
<最初の須磨訪問>
さて,私が初めて須磨を訪れたのは小学生に入学したての頃,家族で舞子浜に海水浴に行ったときでした(とにかく私の父は海水浴が大好き)。それ以降は列車で通過することはあっても,残念ながら訪れたことはありません。
その時は,京都山科駅から国鉄の快速電車で西を目指し,高槻,大阪,尼崎,西宮,三ノ宮,神戸を過ぎ,須磨に到着し,そこで各駅停車に乗り換えます。
須磨駅から見た瀬戸内海は夏の日差しを受けてキラキラと輝いていました。私にとって始めての本格的な海水浴でした。
各駅停車がようやく来て,乗り,塩屋駅,垂水駅と停車して舞子駅に家族は降り立ちました。目の前の砂浜が海水浴場です。私は気持ちの高鳴りを抑えることができませんでした。
しかし,それ以上に驚いたのは淡路島がすぐ前にあるように見えたのと,その狭い海峡を大小さまざまな船がすく前を行き来していたことです。
現在では,舞子駅の真上を明石海峡大橋が掛かっていますが,当時は船で行くしかなかったのでしょう。
まだ幼く泳ぎがままならない私は,淡路島との間を行き交う船を波打ち際に座っていつまでも眺めていたのを覚えています。「海は広いな~大きいな~ 行ってみたいなよその国」と幼い私は口ずさんでいたのかも知れません。
<万葉集の付近の和歌>
万葉集の次の大伴旅人が大納言になって京への帰路,侍従が旅人の気持ちを詠んだとされる短歌も明石海峡を通った舞子浜辺りから詠まれたのでしょうか。
淡路島門渡る船の楫間にも我れは忘れず家をしぞ思ふ(17-3894)
<あはぢしま とわたるふねのかぢまにも われはわすれずいへをしぞおもふ>
<<淡路島を眺めながら海峡を渡る船の櫂(かい)が一瞬止まる間も私は思いを忘れてはいない懐かしい里のわが家よ>>
また,対岸の淡路島には藤原定家(さだいへ)が小倉百人一首に入れた短歌に「松帆の浦」が出てきます。
来ぬ人を松帆の浦の夕凪に 焼くや藻塩の身も焦がれつつ(97番)
<<来ない人を,松帆の浦の夕なぎの時に焼いている藻塩のように,私は待ち焦がれているのです>>
万葉集にも「松帆の浦」を詠んだ次の笠金村(かさのかなむら)作の長歌があり,定家はこの長歌を明らかに意識して,待つ側の若い海女の立場でこの百人一首の短歌を詠んでいるように私は思えます。
名寸隅の舟瀬ゆ見ゆる 淡路島松帆の浦に 朝凪に玉藻刈りつつ 夕凪に藻塩焼きつつ 海人娘女ありとは聞けど 見に行かむよしのなければ ますらをの心はなしに 手弱女の思ひたわみて たもとほり我れはぞ恋ふる 舟楫をなみ(6-935)
<なきすみのふなせゆみゆる あはぢしままつほのうらに あさなぎにたまもかりつつ ゆふなぎにもしほやきつつ あまをとめありとはきけど みにゆかむよしのなければ ますらをのこころはなしに たわやめのおもひたわみて たもとほりあれはぞこふる ふなかぢをなみ>
<<名寸隅の船着き場から見える対岸淡路島の松帆の浦に,朝凪に玉藻を刈り,夕凪に藻塩を焼く若い海女がいるとは聞くが,見に行こうにも方法がないので,たくましい男の心もなく、か弱い女のように思いしおれて、同じ場所をぐるぐるまわりながら私は恋い慕っている。舟も梶もないので>>
今は亡き私の父は万葉集を意識して舞子浜に連れて来てくれたわけではないと思いますが,何かの縁(えにし)を感じます。
私の接した歌枕(13:相馬)に続く。
年末年始スペシャル「私の接した歌枕シリーズ」は須磨を取りあげます。
<源氏物語に出てくる須磨>
ところで,源氏物語の第12帖は「須磨」というタイトルが付いています。それまで政治的には順風満帆だった光源氏(26歳)は,須磨という片田舎に蟄居(ちっきょ)して,京の女性とはまったく逢えないつらい状況となります。
さらに源氏の居た須磨では,雷や雹が降り,高潮や荒波が源氏の住まいにも到達するような暴風雨が何日も続くようになりました。その激しさに源氏も自分の命が危ういと感じるほどなのです(主人公ですから簡単には死にませんが..)。
そして,ついに落雷が直撃し源氏の侘び住まいは火事となり,源氏は焼け出されてしまうのです。
翌日,播磨守の明石入道が船で助けに来てくれて,10㎞以上西の明石にある入道宅に身を寄せるというハラハラドキドキの場面が次の13帖「明石」まで続きます。源氏物語の「須磨」から「明石」にかけては,平安時代の読者をきっとくぎ付けにしたことでしょう。
<万葉集では>
万葉集に出てくる須磨は次の短歌のように当時から塩田が整備され,製塩が盛んに行われていたと考えられます。
須磨人の海辺常去らず焼く塩の辛き恋をも我れはするかも(17-3932)
<すまひとの うみへつねさらず やくしほの からきこひをも あれはするかも>
<<須磨の海人がいつも海辺で焼いている塩のように、私は辛い恋をしています>>
この短歌は越中に赴任していた大伴家持へ奈良に住む平群氏女郎(へぐりうじのいらつめ)が贈った短歌12首の1首です。女郎は恐らく須磨には行ったことがないと思われますが,須磨では製塩が盛んで,その情報が京人にとってはほぼ常識だったのかも知れません。ちなみに須磨の西には塩屋という地名があります。
平城京の「西の市」や「東の市」では「須磨の海女さんが丹精込めて作った須磨の塩やで~。お一つ買(こ)うてくれへんかあ?」といったキャッチコピーで販売されていたとすると,この短歌も現実味が湧いてきます。
女郎はたくさんの短歌を越中の家持に贈っているのは,越中赴任前,二人はただならぬ関係だったということになりますね。
<最初の須磨訪問>
さて,私が初めて須磨を訪れたのは小学生に入学したての頃,家族で舞子浜に海水浴に行ったときでした(とにかく私の父は海水浴が大好き)。それ以降は列車で通過することはあっても,残念ながら訪れたことはありません。
その時は,京都山科駅から国鉄の快速電車で西を目指し,高槻,大阪,尼崎,西宮,三ノ宮,神戸を過ぎ,須磨に到着し,そこで各駅停車に乗り換えます。
須磨駅から見た瀬戸内海は夏の日差しを受けてキラキラと輝いていました。私にとって始めての本格的な海水浴でした。
各駅停車がようやく来て,乗り,塩屋駅,垂水駅と停車して舞子駅に家族は降り立ちました。目の前の砂浜が海水浴場です。私は気持ちの高鳴りを抑えることができませんでした。
しかし,それ以上に驚いたのは淡路島がすぐ前にあるように見えたのと,その狭い海峡を大小さまざまな船がすく前を行き来していたことです。
現在では,舞子駅の真上を明石海峡大橋が掛かっていますが,当時は船で行くしかなかったのでしょう。
まだ幼く泳ぎがままならない私は,淡路島との間を行き交う船を波打ち際に座っていつまでも眺めていたのを覚えています。「海は広いな~大きいな~ 行ってみたいなよその国」と幼い私は口ずさんでいたのかも知れません。
<万葉集の付近の和歌>
万葉集の次の大伴旅人が大納言になって京への帰路,侍従が旅人の気持ちを詠んだとされる短歌も明石海峡を通った舞子浜辺りから詠まれたのでしょうか。
淡路島門渡る船の楫間にも我れは忘れず家をしぞ思ふ(17-3894)
<あはぢしま とわたるふねのかぢまにも われはわすれずいへをしぞおもふ>
<<淡路島を眺めながら海峡を渡る船の櫂(かい)が一瞬止まる間も私は思いを忘れてはいない懐かしい里のわが家よ>>
また,対岸の淡路島には藤原定家(さだいへ)が小倉百人一首に入れた短歌に「松帆の浦」が出てきます。
来ぬ人を松帆の浦の夕凪に 焼くや藻塩の身も焦がれつつ(97番)
<<来ない人を,松帆の浦の夕なぎの時に焼いている藻塩のように,私は待ち焦がれているのです>>
万葉集にも「松帆の浦」を詠んだ次の笠金村(かさのかなむら)作の長歌があり,定家はこの長歌を明らかに意識して,待つ側の若い海女の立場でこの百人一首の短歌を詠んでいるように私は思えます。
名寸隅の舟瀬ゆ見ゆる 淡路島松帆の浦に 朝凪に玉藻刈りつつ 夕凪に藻塩焼きつつ 海人娘女ありとは聞けど 見に行かむよしのなければ ますらをの心はなしに 手弱女の思ひたわみて たもとほり我れはぞ恋ふる 舟楫をなみ(6-935)
<なきすみのふなせゆみゆる あはぢしままつほのうらに あさなぎにたまもかりつつ ゆふなぎにもしほやきつつ あまをとめありとはきけど みにゆかむよしのなければ ますらをのこころはなしに たわやめのおもひたわみて たもとほりあれはぞこふる ふなかぢをなみ>
<<名寸隅の船着き場から見える対岸淡路島の松帆の浦に,朝凪に玉藻を刈り,夕凪に藻塩を焼く若い海女がいるとは聞くが,見に行こうにも方法がないので,たくましい男の心もなく、か弱い女のように思いしおれて、同じ場所をぐるぐるまわりながら私は恋い慕っている。舟も梶もないので>>
今は亡き私の父は万葉集を意識して舞子浜に連れて来てくれたわけではないと思いますが,何かの縁(えにし)を感じます。
私の接した歌枕(13:相馬)に続く。
登録:
投稿 (Atom)