2011年5月27日金曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…恋ふ(3)


<台湾旅行>
今,私はプライベートの観光で台北に来ています。このブログも台北のホテルから投稿しています。天の川君はもちろん連れてきていません。
台北は梅雨シーズンで,羽田を発つときの予報では雨の日ばかりでした。台風も近付いていて台北での散策ができるか心配でした。現地に着いて見ると,晴れている時間が大半で,さらに真夏の暑さはまだ来ておらず,思った以上に過ごしやすい気候で,故宮博物院(上は今回私が撮った写真です)などさまざまなところを廻れています。
それにしても,台北の人達にとっては肌寒いと感じる人もいるらしく,長袖の人の方が多かっただけでなく,カーディガンやジャケットを羽織っている人が普通にいたのに少し驚きました。
<「恋しい」と「死にそう」
さて,ブログのテーマに戻りましょう。「死ぬほど恋している」とか「恋いする苦しさで死にそうだ」とか「私の恋が死んでしまった」というように,恋と死が揃って出てくる表現を日本人はすることがあります。
万葉集でも,恋と死が揃って出てくる表現が40首を超える和歌で出てきます。

朝霧のおほに相見し人故に命死ぬべく恋ひわたるかも(4-599)
あさぎりのおほにあひみしひとゆゑに いのちしぬべくこひわたるかも
<<朝霧の中で見たようにぼんやりと見ただけの人なのに私は生命が絶たれ死ぬほどに恋しているのよ>>

この短歌は大伴家持に対する情熱的な恋の短歌を多く残した情熱の歌人笠女郎が24首まとめて家持に贈った短歌の1首です。
「貴方とはぼんやりと見ただけ」という表現は,なかなか逢ってくれない家持を示しているのだと私は思います。
それでも「死ぬほど恋している」自分の状況を本当にそのままストレートに訴えているのです。
そこまでストレートに恋する気持ちを表現する女性は,日本で「はしたない」という評価がその当時から既にあったのか無かったのか興味がありますね。
笠女郎はこの一つ前の短歌では,恋で人間が死ぬことがあるらしい,私はその方向に進んでいるのでは?という次の歌を送っています。

恋にもぞ人は死にする水無瀬川下ゆ我れ痩す月に日に異に(4-598)
こひにもぞひとはしにする みなせがはしたゆわれやす つきにひにけに
<<恋によっても人間は死ぬことがあるといいます。貴方にお目に掛かれない(見無せ川)状況の下で私は恋の病で日に日に痩せて行きます>>

この2首は「貴方(家持)様がもう少しお会いしてくだされは,私の恋の病も快方に向かうかもしれない」という願いが込められていると私は思います。
さて,笠女郎からこんな情熱的な短歌を多数贈られた家持はというと,そっけない短歌を少しだけ返すだけでした。
ところが,家持は将来自分の正妻となる坂上大嬢に対して次のような「恋ふ」と「死ぬ」を入れた短歌を贈っています。

夢にだに見えばこそあらめかくばかり見えずしあるは恋ひて死ねとか(4-749)
いめにだに みえばこそあれ かくばかり みえずてあるは こひてしねとか
<<せめて夢にでも姿を見せて欲しいのに,このように姿を見ることが出来ないのは恋の思いで死ねという事でしょうか>>

笠女郎は大伴家持を死ぬほど恋い慕い,大伴家持は坂上大嬢を死ぬほど恋い慕う。人が人を「恋ふ」ことは本当に難しいものですね。
相手の「恋ふ」対象が自分だけなのか?その「恋ふ」強さは無くなっていないか?という心配が,「恋ふ」を「死ぬ」ような苦しさに至るのかも知れませんね。
恋ふ(4)に続く。

2011年5月21日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…恋ふ(2)

「恋ふ」とは,相手(花鳥風月のように,人間だけとは限らない)に心が魅かれる,慕い求める,焦がれる,愛でるといった意味です。
当然,この気持ちを誰かに(妻,夫,恋人のような相手だけではなく友人等にも)伝えることになるが,ただ「恋ふ」だけではどの程度「恋ふ」の気持ちが強いのか分かりません。
外国のある国では「愛する」気持ちの強さを表す基準は,何回相手に「愛してる」と繰り返し言ったかが大きなウェイトを占めるということを聞いたことがあります。そのため,「最近1日に『愛してる』と彼が私に言った回数が減ってきた。彼の私に対する愛が冷めてきたのではないかと心配です」といった女性から真剣な人生相談が出るほどだそうです。
実は「恋ふ」ではないですが,万葉集でも繰り返し同じことを言うことでその程度の強さを表現した短歌(大海人皇子が詠んだとされる)があります。

淑き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見(1-27)
よきひとのよしとよくみてよしといひし よしのよくみよよきひとよくみ
<<昔の立派な人が素晴らしい所だと何度も見て,それでも素晴らしい所だと言ったというこの吉野をよく見ると良い。今の善良な人たちもこの地を何度も見てほしい>>

「恋ふ」という気持ちの動きを伝える表現を万葉集で見ると,少し違う基準があるように私は感じます。
何度も「恋ふ」と繰り返すのではなく,喩え話を出して,強く,いつまでも変わることがなく,大きく,深く,揺るぎなく「恋ふ」気持ちを表現している和歌が多いようにに感じます。

ますらをの現し心も我れはなし夜昼といはず恋ひしわたれば(11-2376)
ますらをのうつしごころもわれはなし よるひるといはずこひしわたれば
<<立派な男だてを示すガッツは私にはありません。夜昼もなく貴女のことを恋し続けているのですから>>

この詠み人知らずの短歌は,貴女のことを恋し,貴女のことだけを考えていると何も手が付かないほど貴女を「恋ふ」自分であることを伝えようとしているのです。
恋愛は人を元気にするという見方も多いかもしれませんが,万葉時代から日本では強烈な「恋ふ」気持ちはその人を落ち込ませてしまう表現も少なくありません。
その典型が「恋患い(恋煩い)」という状態ではないでしょうか。
ところで「恋煩い」を茶化した落語の演目で,次の百人一首の歌を使った「崇徳院」と名付けられたものがあります。

瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ(崇徳院:77)

落語「崇徳院」のストーリはインターネット等でご確認いただくとして,主人公の熊さんに助けを求めた大店(おおだな)の若旦那の恋患いはあまりにも重篤で,若旦那曰く「医者の診たてだと後5日の命」とのこと。
もちろん,恋煩いで余命5日というのは落語独特の作り話だとしても,このように恋患いが重症になり,周りがどうしょうもない状態になることもあり得る話だったのかもしれませんね。
万葉集でも,次のように恋患いと必死に戦っている詠み人知らずの短歌があります。

ひとり居て恋ふるは苦し玉たすき懸けず忘れむ事計りもが(12-2898)
ひとりゐてこふるはくるし たまたすきかけずわすれむことはかりもが
<<独りで恋する貴女のことばかり考えていて苦しくて仕方がない。何とか忘れる方法を考えなければなあ>>

こういった,恋患いが回復せず進むと死ぬほどつらい状況になって行きます。
次回は,「恋ふ」が昂じてついに「死ぬ?」について万葉集を見て行くことにします。
恋ふ(3)に続く。

2011年5月14日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…恋ふ(1)

万葉集で「恋ふ」という動詞を使った和歌は何と500首以上も出てきます。
万葉集の1割以上の和歌が何らかの形で「恋ふ」を使っているということは,当時の万葉歌人が作歌上もっとも重要なキーワードのひとつが「恋ふ」だったといえそうですね。そのため,万葉集で「恋ふ」の用例に事欠きません。万葉集は「恋ふ」または「恋」をテーマとした歌集だといってもよいのかなと感じることがあります。
このシリーズは通常一つの動詞に対して3回連載するのですが,おそらく「恋ふ」は3回をはるかに超えて書くことになりそうです。
さて,まず最初として大海人皇子(後の天武天皇)が額田王に贈った超有名な短歌を出さない訳にはいかないでしょう。

紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも(1-21)
むらさきのにほへるいもをにくくあらば ひとづまゆゑにわれこひめやも
<紫が似合う君がもし憎かったなら,人妻である君をどうして恋い慕うことがあるだろうか>>

これは,額田王の次の短歌の返歌であることをご存知の方も多いでしょう。

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(1-20)
あかねさす むらさきのゆきしめのゆき のもりはみずやきみがそでふる
<<薬草園に行ったときも猟地に行ったときも番人が見ているにも関わらず貴方がお袖をお振りになる>>

天の川 「たびとはんの訳はちっ~ともオモロないなあ。俺やったらこんな感じで訳しまっせ。
 ☆額田王『モト亭主やからってな,あちこちでそんな露骨なサインをだしたらアカンでしょ。ガードマンが見てはるやんか』
 ☆大海人皇子『今はあんたが俺の兄さん(天智天皇)の妻というてもや,ちょいとでも憎いと思てたらな,こんな好きな気持ちになるかいな。今もごっつう好きなんやからしゃ~ないやろ』
 どやっ!?」

天の川君の「どや顔」の点数付けをしてもしょうがないので先に進めましょう。

「恋ふ」の中でも「人妻を恋ふ」というのは,昔も今もインパクトが強いキーワードのようですよね。
万葉集で「人妻を恋ふ」ことを詠んだものが他にもいくつか出てきますが,巻12の詠み人知らずの1首を紹介しましょう。

おほろかに我れし思はば人妻にありといふ妹に恋ひつつあらめや(12-2909)
おほろかにわれしおもはば ひとづまにありといふいもにこひつつあらめや
<<いい加減な気持ちと私が思っているなら,人妻である貴女を思い続けていることができようか>>

まあ,人妻であろうがなかろうが「恋ふ」の強さをどちらの短歌も「人妻を恋ふ」という表現を使って相手の女性に伝えようとしていると私は感じます。
また,相手の女性が人妻ではない(不倫関係にない普通の恋人か夫婦同士)としても,「たとえキミが人妻であったとしても僕のキミを恋い慕う気持ちは変わらないんだよ」なんていう表現を使えば,相手に対する恋慕の想いの強さを伝える表現テクニックとしても結構行けるのではないでしょうか。
おっ,また天の川君が何か言ってきそうなので,今回はこのあたりで。
恋ふ(2)に続く。

2011年5月7日土曜日

私の接した歌枕(10:和歌の浦)

ゴールデンウィークスペシャルの最後は,和歌山市にある「和歌の浦」です。
何といっても,次の山部赤人の短歌が有名ですね。私が小学校6年の頃,万葉集に最初に興味を魅かれたきっかけになったのもこの短歌でした。

若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る(6-919)
わかのうらに しほみちくれば かたをなみ あしへをさして たづなきわたる
<<和歌の浦に潮が満ちて来れば潟が見えなくなってきたので,アシの生い茂った方角を目指してツルが鳴きながら飛んでいく>>

私が小学校低学年の頃,父の商売が比較的順調に行っていて少しお金が多く入ったときがありました。
このとき,父はそれまでバイクで工具などを工場に届けていたのですが,思い切ってニューモデルとして発売されたスズキ・スズライトTLを新車で購入しました。
父は,この新車で一家をどこかに連れて行きたくなったのか,突然「1泊二日で和歌山にでも行こか。泊るところはな,海辺のちゃんとした旅館やで。すごいやろ。」と言い出しました。
私の一家は,次の休日,颯爽とスズライトで京都の山科から和歌山を目指したのです。
いろんな所を廻ったようですが,私が覚えているのは和歌の浦での磯遊びと旅館の2階の部屋から見た朝日に映えた海岸線の美しさでした。
明るい日差しの中での磯遊びでは,磯に住んでいるいろんな生き物や海藻を見つけました。
ウミウシ,ウミソウメン(ウミウシなどの卵),ゴカイ,フナムシ,イソギンチャク,フジツボ,ヤドカリ,小さなカニ・魚,ホンダワラ,テングサ,ワカメなどです。

しかし,小学校6年の国語の教科書でこの赤人の短歌を見つけたとき,磯遊びのときの和歌の浦とは全然違う印象を持ちました。私が磯遊びをしたところは恐らく新若浦辺りの岩場で,この短歌は今の玉津島神社の南側に延びる片男波の砂洲をイメージしているのでしょう。
明るい磯辺とは違う夕方の波の静けさと少しずつ変化する情景表現の細やかさを感じ,私は百人一首以外の和歌に興味を持ち始めたのです。
それ以来,機会がなくて私は和歌の浦に行っていませんが,和歌の浦は万葉集に最初に出会った短歌の歌枕だったのです。

でも,私は今この短歌について別の解釈を考えています。聖武天皇が和歌山へ行幸したときこの短歌を赤人は読んでいますが,潮が満ちてくることが聖武天皇の時代が来ること,潟が無くなることは世の中の不幸が無くなること,ツルが飛んで去るのは不幸をもたらす悪いものが去って行くことの喩えと考えると,この和歌は聖武天皇にヨイショしたと解釈できると考えているからです。

天の川 「たびとはん。あんさん,世間で揉まれ過ぎやで。小さいころの素直な気持ちに戻って解釈した方がええのと違うか? 」

確かに。
以上,ゴールデンウィークスペシャルでいくつか私の接した歌枕を紹介しましたが,やはり近畿,北陸が多かったですね。
次回からは,また週1回のペースに戻って動きの詞(ことば)シリーズを続けます。お楽しみに。
恋ふ(1)に続く。

2011年5月5日木曜日

私の接した歌枕(9:砺波)

<トナミ運輸のトラック>
少年の頃,父の運転する自動車で家族一緒に海水浴へ出かけたときでした。京都から日本海に向かう未明の国道で,前面上部に「トナミ」とカタカナでライトアップした輸送トラックを何台もすれ違うのに気がつきました。
父に「ト,ナ,ミ,て何やろ?」と聞くと,父は「多分会社の名前か何かやろ。よう知らんわ。」と興味なしという感じでしたが,兄が「富山県の地名やと思うで。」と教えてくれました。
戻って早速地図帳(私は小さい頃から兄と地図を見るのが大好きでした)を見て,富山県に砺波という地名があることを知りました。
<砺波平野にあこがれた少年時代>
その後,中学校の地理の授業で使っていた地図帳に砺波平野散居村の航空写真が紹介されていて,一度行ってみたい思うようになったのです。
ただ,実際砺波に行けたのは大学2年のとき,大学の万葉集研究会で五箇山へ研修旅行に行った帰りに砺波平野を通りました。
当時国鉄の城端(じょうはな)線の城端駅から高岡に向かう列車に乗り,砺波平野の散居村の雰囲気を車窓から味わうことができました。
<万葉集での砺波の扱い>
さて,万葉集では砺波は砺波の関砺波山が詠われています。両方とも砺波平野の西側の石川県との県境にあります。
砺波の関は現在の小矢部市倶利伽羅(くりから)峠の富山側にあったのだろうと思われます。
そんな砺波の関を詠んだ大伴家持の次の短歌があります。

焼太刀を砺波の関に明日よりは守部遣り添へ君を留めむ(18-4085)
やきたちをとなみのせきに あすよりはもりへやりそへ きみをとどめむ
<<砺波の関所に明日にはもっと多くの番兵を差し向けて,あなたがお帰りになられるのを引き留めましょう>>

この短歌は,天平感宝元年の五月五日(まさに今日)に東大寺から来た僧たちが京に戻るときの宴の席で僧たちに贈った短歌です。
僧たちが越中に来たいきさつはあまり詳しく書かれていませんが,時期は東大寺の大仏開眼の3年前です。僧たちはさまざまな支援の依頼を家持にしに来たのかもしれませんね。
いっぽう,砺波山(国土地理院の2万5千分の1地図によると標高263m)は倶利伽羅峠の東約500mに山頂があります。
万葉集でこれを詠んでいるのは2首ありますが,両方とも長歌です。同じく家持が親友である大伴池主に贈った長歌の一部を紹介します。

君と我れと 隔てて恋ふる 砺波山 飛び越え行きて 明け立たば 松のさ枝に 夕さらば 月に向ひて あやめぐさ 玉貫くまでに 鳴き響め 安寐寝しめず 君を悩ませ(19-4177)
<~ きみとあれとへだててこふる となみやまとびこえゆきて あけたたばまつのさえだに ゆふさらばつきにむかひて あやめぐさたまぬくまでに なきとよめやすいねしめずきみをなやませ
<<~ 君と僕が離れた場所にいて会いたいと願っているから(霍公鳥よ)砺波山を飛び越えて行って,朝は松の小枝にとまり,夕方は月に向かって,菖蒲の花穂が延びるまで君が安眠できないで悩んでしまうくらい鳴き響びかせよ>>

家持がいた高岡から外に行くときは砺波山を越えていくことが一首の象徴であったようですね。

さて,私が4月16日高岡に泊まったことはこのブログでも紹介しましたが,翌日にどうしても行って見たかったのが鉢伏山山腹からの砺波平野の眺望でした。
ところが,冬季道路通行止めで車で上がることができず,徒歩で登ることも時間の関係で諦めざるを得ませんでした。
<自然の恩恵をたくさん受けられる富山地方>
砺波平野ではチューリップも咲き始め,桜,コブシ,モクレンの花があちこちの散居を構える家の庭で満開なのですが,砺波平野から車で10分も山に登っただけで,雪がいっぱい残っていて,道が閉鎖されている。
通行止めで散居村を展望できなかったのは残念ですが,私はこの大きなギャップに砺波平野と富山湾の豊かさの素があるのではと感じました。
4月中旬の砺波平野では田を耕すのにちょうどよい気候になってきますが,山にはまだ雪が大量に残っています。
田の耕しが済んだころ,大量の雪解け水が田を潤し,田植えがスムーズに行えます。また,雪解け水は五箇山近辺の山々や遠く立山の木々によってもたらされた豊富なミネラル分を含んでいます。
美味しいお米になるのは当然のことでしょう。「五百万石」という日本酒用のお米も作付されています。きっと,万葉時代でも上質な日本酒もでき,献上されたはずです。
ミネラル分を豊富に含んだ雪融け水は田を潤すだけでなく,庄川小矢部川(射水川)黒部川神通川などの河川のほか地下水脈からも富山湾に注ぎ,深層に流れ込み,富山湾の豊かな魚介類を育んでいるとのことです。
大伴家持は越中で多くの和歌を残せたのも美味しいご飯,美味しい酒,美味しい肴の存在があったればこそだと私は感じます。

天の川 「そやさかい,わてを連れていってくれへんかったんやろ。どや?」

その通り。私の接した歌枕(10:和歌の浦)に続く。

2011年5月3日火曜日

私の接した歌枕(8:唐崎)


琵琶湖の南西部に位置し,琵琶湖に向かって小さく緩やかな円弧を描いて張り出している場所が唐崎です。
唐崎は一般に○○崎と呼ばれる場所のような突き出し方をしておらず,地図を見てもあまり特徴のない地形に見えます。
私はここを2~3度しか訪れていませんが,私にとって琵琶湖で最初に思いつくのはやはり唐崎なのです(写真は今年久々に訪れたときに撮ったものです)。
万葉集では「志賀の唐崎」または「志賀の辛崎」と呼ばれていますが,私にとって唐崎が心に残るのは何といっても次の柿本人麻呂の有名な短歌(長歌の反歌)があるからです。

楽浪の志賀の辛崎幸くあれど大宮人の舟待ちかねつ(1-30)
ささなみのしがのからさきさきくあれど おほみやひとのふねまちかねつ
<<志賀の唐崎は今も昔と変わらず無事であるけれども大宮人の舟を待つことはできないのだ>>

唐崎は,大津京があったとき,大宮人が舟遊びや魚釣りなどを楽しんだ象徴的な場所だったのでしょう。
さて,天智天皇がなぜ志賀の大津に京を移そうとしたのでしょうか。
もちろん私の勝手な解釈ですが,志賀の大津は奈良盆地に比べ,琵琶湖を経由して全国各地から物資が集まりやすく,琵琶湖は海に比べて格段に穏やかで,獲れた新鮮な魚や貝(特に瀬田シジミは旨い)はほとんど輸送することなく食料にできる地です。
自らの信ずる合理性でさまざまな改革を急速に行い,水に関する科学にも興味があったという天智天皇(日本の水時計の創始者ともいわれている)にとって,琵琶湖はことのほか興味を抱かせたのではないかと私は思います。
天智天皇は,合理性を追求していけばいずれ周りが分かってくれる信じていたのかも知れません。
しかし,それは結局周囲(特に大海人皇子)に理解されず,天智天皇がこの世を去った後,壬申の乱が起き,大津の京はあっという間に廃墟と化したのです。
唐崎は大津の京跡からは数㎞離れた場所です。大津の京が廃れた後もそのまま残っている唐崎は大津の京の象徴として,次の短歌のように人々の記憶に残ったのでしょう。

天地を嘆き祈ひ祷み幸くあらばまたかへり見む志賀の唐崎(13-3241)
あめつちをなげきこひのみ さきくあらばまたかへりみむ しがのからさき
<<天地の神に嘆き,祈り,求めて,無事でいられるなら是非また戻ってきて見たいものだ志賀の唐崎を>>

この短歌も長歌の反歌ですが,この短歌の左注には佐渡に配流になる穂積老が詠んだ記録があるとあります。
こんな左注を見ると,私は万葉集をあるフィルター(色メガネ)を掛けて分析したくなることがあります。
そのフィルターとは,天武天皇から称徳天皇までの天武系天皇の時代のあらゆる階層の和歌を記録し,検証することが万葉集の目的の一つではないかという先入観のことです。それ以前の和歌も万葉集にはありますが,目的をぼかすためだったかもしれません。
その期間は天智天皇の死から藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱が鎮圧されるまでです。
それは琵琶湖の西岸(大津京)に始まり,琵琶湖の西岸(仲麻呂が殺害された安曇川河口付近の湖岸)で終わる万葉集の壮大な物語なのです。
私の接した歌枕(9:砺波)に続く。

2011年5月2日月曜日

私の接した歌枕(7:京都伏見)

私が生まれた京都市伏見区には4歳までしかいませんでしたので,伏見での出来事は少ししか記憶がありません。
私の父と母は結婚後,京阪電鉄本線伏見桃山駅近くで,ご主人がアメリカ進駐軍(近くに進駐軍の支所があった)に勤務していた家の8畳1間を間借りしていました。
間借りしていたお宅はおそらく地元の名家(学者先生)だったのでしょう。
私の父は京都市内にあるいろんな工場に機械工具,部材などを注文があればバイクの荷台に載せ届ける商売をしていました。
私が一度だけご主人の書斎に入ってしまった記憶があります。書斎には立派な本棚に本がいっぱい入っていて,ご主人は多分英語新聞と思われるものを読んでいました。「お仕事のお邪魔せんようにな!」と母からすぐ連れだされたようなかすかな記憶があります。
ご主人の息子さんは高校生で,私とよく遊んでくれたようです。
私の家族が山科に引っ越した何ヶ月か後,息子さんが「何とか京大に受かりました。」と山科まで挨拶に来てくれたことははっきり記憶に残っています。

さて,万葉集で伏見を詠んだ和歌は,柿本人麻呂歌集から選んだという詠み人知らずの次の短歌1首のみです。ここに出てくる「射目人の」は伏見に掛かる枕詞です。

巨椋の入江響むなり射目人の伏見が田居に雁渡るらし(9-1699)
おほくらの いりえとよむなり いめひとの ふしみがたゐに かりわたるらし
<<巨椋池の入江で鳴き声が響いている。伏見の田んぼに雁が渡ってきているらしい>>

巨椋池(おぐらいけ)は昭和初期から戦中で干拓されるまで,京都の南部に位置する非常に大きな池(というより湖と呼べるもの)でした。
万葉時代,巨椋池には宇治川木津川桂川から大量の水が流入していつも豊富な水を湛えていたものと思われます。
この三川が大雨でさらに大量の水を流入させても巨椋池が自然のダム(バッファプール)の働きをして下流の淀川が大洪水を起こす可能性をきっと低くしていたと私は想像しています。
また,巨椋池のお陰で宇治川,木津川,桂川,淀川の舟の運航がスムーズにできたはずです。
こんな巨椋池は雨の多い季節には面積を増し,雨量の少ない時期には面積が小さくなったことでしょう。
季節により水に浸かったり,露出したりする土地(伏見の西部も)は,実は土地の栄養分が高く稲作に非常に適した場所だったといえます(人が住むのに適さないでしょうが)。
この短歌のように田んぼにはドジョウなどがいっぱいいて雁も美味しい食事にありつけたのでしょう。
ここで作られたお米は木津川を経由して明日香や奈良の京(みやこ)に送られ,京人の胃袋を満たしたに違いありません。巨椋池ではもちろん魚もたくさん獲れ,きっと京の食卓を多彩にしたことでしょう。
平安京になって,送り先は桂川,鴨川高瀬川を通じて平安京内に変わっても伏見の稲作の重要性は変わりませんでした。
美味しいお米が安定的に収穫でき,井戸を掘ると綺麗で美味しい伏流水(伏し水⇒伏見との説もある)が豊富に流れていたのですから,伏見は銘酒の産地としても古くから有名だったと私は考えます。私の父は山科に引っ越した後もよく伏見の酒「明ごころ」の2級酒で晩酌していました。残念ながら「明ごころ」の蔵元は酒造から撤退し,今は幻の酒となっています。

天の川 「たびとはん。有名な伏見の酒の銘柄を入れて短歌を作ったで~。『富翁は あ玉乃光 松竹梅 日出盛も月桂冠にも』。どや? ただ,英勲もあるけど入れられへんかったな。ハハ。」

天の川君のセンスではこの程度が精いっぱいでしょう。
さて,「松竹梅」「宝焼酎」「Canチューハイ」「一刻者」の宝酒造が「タカラ(寶)ビール」を造っていたとき私は未成年でした。私には「タカラビール」どんな味か分かりませんが,ネット限定(数量限定)販売で復刻するとそれなりに評判になるかも知れませんね。
私の接した歌枕(8:唐崎)に続く。

2011年5月1日日曜日

私の接した歌枕(6:若狭)

若狭は福井県の南西部に位置し,若狭湾に面した地域を指します。
<少年時代の思い出>
私が少年時代住んでいた京都市の山科からは距離的に結構近い場所なのです。
私の父は大の海水浴好きで毎年のように家族で若狭湾にある海水浴場につれて行ってくれました。たまに民宿に泊まることもありましたが,ほとんどがお金を掛けない日帰りでした。
当時,仕事でマツダのファミリアバンに乗っていた父は,バンの後ろにゴザ,ビーチパラソル,タイヤのチューブ(浮輪用),携帯コンロ,おにぎり,野菜,大量のインスタント焼きそばなどを積んで,深夜に家を出ました。
国道1号線を東京方面に向かい,逢坂山を越え,大津から国道161号線を琵琶湖の西岸を北上します。近江今津で国道303号線(若狭街道)に入り,水坂峠を越えて福井県に入ると国道27号線(丹後街道)から小浜市に向かいます。小浜市から目的の海水浴場によって西に行くか,東に行くかが決まります。
丹後街道を西に行くと若狭和田若狭高浜の近辺の海水浴場や岩場(素潜りのため),国道162号線を東へ行くと三方五湖を過ぎ,美浜町近辺の海水浴場を目指しました(さらに東行して敦賀の気比の松原付近まで行くこともありました)。
夜明け前には海水浴場に着き(どこもとても水が綺麗),夕方近くまで家族で泳ぎ,帰路は来た道以外の道も探検しながら自宅にもどりました。14年ほど前に加賀温泉に父と母を連れていった帰り道「僕がちっちゃい頃,よう海水浴に連れてってくれたなあ~」と久々に若狭にも寄ってみました。どの町や漁村も私の少年時代とあまり変わらず,美しい風景はまるで次の万葉集の短歌のようでした。

若狭なる三方の海の浜清みい行き帰らひ見れど飽かぬかも(7-1177)
わかさなるみかたのうみのはまきよみ いゆきかへらひみれどあかぬかも
<<若狭に来て三方の湖の浜が清らかで,行ったり来たりしていろんな場所から眺めても見飽きることがない>>

今は亡き父,若い時は行動的だったけれど老いてからは遠出する機会も少なくなっていたので,昔の家族との思い出の場所に連れて行ってくれたことを大変喜んでくれました。
<IT研究会のアレンジ>
ところで,そんな経験から私は東京に来てからも若狭湾についての土地勘が十分あったことが役に立ちました。
11年ほど前になりますが,ソフトウェア保守開発専門の研究会(私は幹事の一人)の年次研究会会場を小浜市で開催してはどうかと提案しました。
今でこそ前回アメリカ大統領選(任期2009年1月~2007年1月)で同音のオバマ候補を応援したとか,貫地谷しほり主演のNHK連続テレビ小説「ちりとてちん」(放送2007年10~2008年3月)の舞台になったことで名前を知っている人も多いと思いますが,当時,研究会の他の幹事や研究員は小浜市がどこにあるのか,どんな交通手段で行けばよいか皆目見当もつかない様子で,実は反対も多かったのです。「ここは私が一切を仕切りますので任せてください」として,半ば強引に開催地の了解を取り付けました。
<小浜市は便利な交通手段が皆無>
何せ近くに飛行場はありません。新幹線も近くを通っておらず,東京,大阪,名古屋から直通の高速バスもありません。JR小浜線は完全な地方路線で,1時間に1本あるかどうかです。でも,私には土地勘を生かした比較的スムーズな移動手段の案がすでにありました。
参加予定者は30名ほどでしたので,私は宿泊予定の小浜市のホテルと交渉し,近江今津駅まで送迎バスで迎えに来てほしいと依頼しました。県境を越えて滋賀県まで迎えに来いと要求した団体客は今までなかったようで,ホテル側は最初は難色を示しました(私も少し焦りました)。しかし,東京,大阪,名古屋からわざわざ来るという話をして説得し,何とか特別に取り計らってもらえることができました。
参加者には新幹線で京都まで来てもらい,JR湖西線の指定発車時刻の新快速に乗り換え近江今津まで乗車するよう案内しました。JR湖西線で近江今津まで乗ったことのある参加者は誰もいませんでした。新快速列車は平日の昼であり堅田を過ぎる辺りから,乗客はほとんど参加者ばかりとなりました。そのため,参加者同士が車窓から美しい琵琶湖を眺めながらはしゃいでまるで遠足気分。
<ホテルバスの粋な取り計らい(熊川宿散策)>
京都から50分足らずで近江今津に着くと,予定通りホテルの送迎バスが迎えに来てくれていました。
バスは山道の国道に入りますが,ほどなく峠のトンネルを越えて,熊川宿で散策の時間をとるという計らいをしてくれたのです(私は特にお願いをしていませんでした)。
熊川宿は若狭(鯖)街道の宿場町として栄え,その名残の街並みがしっかり残されており,参加者にも昔にタイムスリップした感じしたと大変歓んでくれました。
そこから,30分も掛からず小浜市のホテルに着き,2泊3日の研究会が始まりました。毎食では美味しい山海の幸を堪能してもらい,研究会の途中に少し空いた時間を作り小浜市の古いお寺群をめぐってもらったのです。
若狭地方にこんな雰囲気が良くて,歴史ある町があったことを研究会参加者の多くは始めて知り,研究会自体のプログラムも活発に実施され,高い開催評価を得ることができたのです。

さて,万葉集で若狭を詠んだもう1首の短歌があります。
後に大伴家持の妻になる坂上大嬢が家持と恋の歌のやり取りを行ったなかの1首です。

かにかくに人は言ふとも若狭道の後瀬の山の後も逢はむ君(4-737 )
かにかくにひとはいふとも わかさぢののちせのやまののちもあはむきみ
<<とやかく他人は言うでしょうが、若狭道の後瀬山のように後にはお逢いしましょうね>>

後瀬山は小浜市内にある小高い山で,万葉時代からそこに行くと別れた後も逢瀬が可能という言い伝えがあった。この短歌で大嬢はそれを引合いに出したのでしょう。
家持も大嬢も小浜には行っていないと思います。ただ,二人はまさに後瀬山の言い伝えのように,いったん破局を迎えますが,結局は結婚することができたのです。
なお,若狭の後瀬山の伝説が奈良の都まで知られているということは,今の小浜の地に多くの人が住んでいたのでしょう。船を使った交易の港があり,鯖や海藻など海産物を陸揚げする立派な漁港もあり,都から若狭道を通って多くの商人がやってきては買付をする活気ある町だったに違いないと私は思います。当時,琵琶湖の海運も熊川宿もそういった行き来で栄えたのでしょう。
私の接した歌枕(7:京都伏見)に続く。