2011年3月26日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…たなびく(1)

今回から,「たなびく」を題材に万葉集での用例を見て行きます。
「たなびく」を「棚引く」とせず平仮名にしたのは,棚のように引くという意味ではなく,接頭の「たな」は「十分に」「一面に」「広く」といった意味もあるかからです。そうすると「たなびく」は「一面に引いて広がる」といった意味になる可能性があります。
また,接頭の「た」は語調を強めたり,文字数を調整したりする意味があります。そうすると「たなびく」は「靡く」を強調した「た靡く」というい解釈ができるかもしれないのです。
このシリーズで「靡く」の後に「たなびく」について触れたのも,両者に関係があるのかもしれないと考えたからです。

さて,「たなびく」対象として,万葉集でどんなものが出てくるのか調べてみると,ほぼ「雲」「煙(けむり)」「霧」「霞」の4種類です。
今回は,まず「たなびく雲」を見て行きましょう。

昨日こそ君はありしか思はぬに浜松の上に雲にたなびく(3-444)
きのふこそきみはありしか おもはぬにはままつのうへにくもにたなびく
<<昨日という日あなたは生きていた。それが今日は思いもかけず浜松の上に雲となってたなびいている>>

この短歌は,天平元<729>年,丈部龍麻呂(はせつかべたつまろ)が突然自殺してしまったことに対し,本人との関係は不明だが判官大伴三中(おおとものみなか)が弔いとして詠んだ長歌の反歌です。
長歌では龍麻呂には父母妻子がいたにも関わらず,突然自殺した原因は一体何なんだろうと詠んでいます。
そして,この反歌で,龍麻呂が今日は天に昇り(たなびく雲となり),今日はもうこの世にいないという突然の死に対する戸惑いを詠んでいるのです。
律令制度では,優秀であれば家系や生まれた場所に関わらず,官吏として昇進できる可能性があったようです。
しかし,チャンスがあるとはいっても周囲が期待するほど思うように昇進できる人はわずかで,例え昇進できても官僚組織内の力関係などで自らの能力を発揮できないことに悩む人多かったのかもしれません。
まさに,今の能力・効率主義万能の時代のようにです。

ここにありて筑紫やいづち白雲のたなびく山の方にしあるらし(4-574)
ここにありてつくしやいづち しらくものたなびくやまのかたにしあるらし
<<ここ奈良から見て筑紫はどっちの方だろうか。白雲がたなびく山の遥か彼方であるらしい>>

いっぽう,この短歌は奈良に帰任した大伴旅人が,大宰府長官時代筑紫で和歌を交わし合い,筑紫に残っている沙弥満誓から贈られてきた短歌の返信として詠んだものです。
旅人が大納言に昇任(天平2<730>年11月)し,筑紫から帰任(同年12月)した後,翌年7月に66歳で没するまでの間に詠んだものと考えられます。
沙弥満誓が贈った「筑紫に貴殿がいなくなって寂しい」という歌(4-572,573)に対し,旅人は「筑紫の思い出は忘れることはない。筑紫の方角がいつも気になる。たなびいた雲のはるか先には筑紫があるのだろう。」とこの短歌で返したのでしょう。
大宰府長官時代,筑紫で妻を亡くし(埋葬した墓は筑紫に?),余命いくばくもない衰えた身体で遠路都まで帰った旅人にとって,懐かしい人々と和歌を交わすぐらいしかできない状態だったに違いありません。
旅人は,自分が死んだら,きっと「たなびく雲」となって,懐かしい人々を上から眺めようという気持ちになっていたのかもしれません。

難波津を漕ぎ出て見れば神さぶる生駒高嶺に雲ぞたなびく(20-4380)
なにはとをこぎでてみれば かみさぶるいこまたかねにくもぞたなびく
<<難波津を漕ぎ出て後方を見れば,神々しくも生駒の高嶺に雲がたなびいている>>

この短歌は,下野国梁田(やなだ)郡(今の栃木県足利市の西部)出身の防人である大田部三成(おほたべのみなり)が難波の港から防人に旅立つ(出帆)時に詠んだものです。
後世に「難波津」と漢字を当てていますが,万葉仮名は「奈尓波刀」のなっているため,「なにはと」と発音し,「難波門」とする本もあるようです。
この防人は難波の波止場を出港して,遠ざかる難波の港を眺めるていると生駒山の雲が一面に広がっている姿を見て,神が宿る荘厳な山だと感じのかも知れません。
前の旅人の短歌は生駒山を奈良から(西に)見,この防人の歌は難波津から(東に)見ていたのだろうと私は感じます。

このように,万葉時代「たなびく雲」には厳か,遠い彼方,人間の死後をイメージする何かが詠み手のなかに存在していたようだと私は思います。
たなびく(2)に続く。

2011年3月21日月曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…靡く(3:まとめ)

前回紹介した「うち靡く」という枕詞に続くのは万葉集では「春」が圧倒的に多いのですが,「靡く」は秋風に関係して使われています。
秋風に靡くものは何か,いくつか見てみましょう。

秋の野に咲ける秋萩秋風に靡ける上に秋の露置けり(8-1597)
あきののにさけるあきはぎ あきかぜになびけるうへに あきのつゆおけり
<<秋の野に咲いた秋萩が秋風に靡いているその上に秋の露が乗っている>>

この短歌は,先月19日の当ブログで,大伴家持が25歳の時,恭仁京付近で秋を読んだ3首の最後1首を紹介しましたが,この短歌はその3首の内の最初の1首です。
「秋」という言葉が4回も出てくる短歌で,言葉遊びで家持が作ったのではないかという評価があるそうです。
靡いているのは秋の野に咲いた秋萩で,靡かせているのは秋風です。

真葛原靡く秋風吹くごとに阿太の大野の萩の花散る(10-2096)
まくずはらなびくあきかぜふくごとに あだのおほののはぎのはなちる
<<葛の原を靡かせる秋風が吹くたびに、阿太の大野に咲く萩の花が散ってしまう>>

詠み人知らずのこの短歌は,靡いているのは葛の原の葛で,靡かせているのは同じく秋風です。
夏に強烈に繁茂し,密集した葛の蔓(つる)が靡く位なので,阿太の大野に吹く秋風は萩の花も散るほどの強い風なのでしょうね。

秋の野の尾花が末の生ひ靡き心は妹に寄りにけるかも(10-2242)
あきのののをばながうれのおひなびき こころはいもによりにけるかも
<<秋の野の尾花の先が(秋風に)次々生えて靡くように、俺の気持ちはあの娘にだんだん魅かれているのかなあ>>

これも詠み人知らずの短歌です。靡いているのは尾花(ススキ)の先の穂であり,靡かせているのはやはり秋風となるでしょう。
しかし,この短歌が伝えたいことは,靡いているのは俺の心で,靡かせているのはあの娘となります。

秋風に靡く川辺のにこ草のにこよかにしも思ほゆるかも(20-4309)
あきかぜに なびくかはびのにこぐさの にこよかにしもおもほゆるかも
<<(天の川のほとりで)秋風に靡いているにこ草(柔らかい草)のように,わたしもにこやかな気持ちになるのね>>

この短歌は,家持36歳の天平勝宝6(754)年七夕に夜空に向かって独詠した七夕の歌8首の中の1首です。
この短歌は家持が織姫の立場で詠んだものだと言われています。
靡いているのはにこ草で,靡かせているのはここも秋風です。にこ草が靡くように一年に一度の七夕に貴方と逢えると思うとにこやかな気持ちになるという,そんなイメージであってほしいと家持は詠ったのかも知れません。

3回に渡り万葉集の「靡く」を見てきましたが,「靡く」は非常に良いイメージの言葉であって,そうあってほしいと期待する動きを示す言葉だったように私は感じます。
自然現象での「靡く」が枕詞や序詞となって,自分の想いを詠う技法が万葉時代ではよく使われたといえそうです。
たなびく(1)に続く。

2011年3月19日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…靡く(2)

今回は「靡く」の前に強調の「うち」を付けた「うち靡く」について,万葉集の用例を見てみます。
このシリーズでは万葉集で使われている動詞に着目していますが,「うち靡く」は動詞ではなく,主に枕詞として分類され,掛かる言葉は「春」「黒髪」「玉藻」「草」「心」があるようです。いくつか万葉集での用例を見て行きましょう。

ありつつも君をば待たむうち靡く我が黒髪に霜の置くまでに(2-87)
ありつつも きみをばまたむ うちなびく わがくろかみに しものおくまでに
<<生きながらえてあなたを待っていましょう。長く靡くこの黒髪に霜が置くように(白髪に)なるまででも>>

この短歌は磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)が作ったとされるもので,仁徳天皇の帰りを待つ相聞歌4首の内の1首です。
話は少し逸れますが,万葉集の巻1は「雑歌」に分類された和歌が収録されています。巻2は「相聞」に分類された和歌,続いて「挽歌」に分類された和歌で構成されています。
この短歌を含む磐姫皇后の4首は巻2の冒頭にあり,相聞歌という分類の冒頭を飾っていることになります。
相聞歌の最初に男性が詠んだ和歌ではなく,愛する夫の帰りをひたすら待つ女性の気持ちを詠った和歌が来ていることに,私は編集者が何らかの意図(例えば,まず女性が待つ気持ちを理解させようといった意図)を感じます。
当時,女性の武器は「うち靡く(長い)黒髪」だったのです。

葛飾の真間の入江にうち靡く玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ(3-433)
かつしかの ままのいりえに うちなびく たまもかりけむ てごなしおもほゆ
<<かつて葛飾の真間の入江で海草を刈っていたという真間の手児名のことが偲ばれる>>

この短歌は,山部赤人が東国(今の千葉県市川市付近)で真間の手児名の伝説(自分をめぐる男達の果てない争いを悲しみ真間の入江に入水自殺したとい逸話)をモチーフに詠ったといわれる長歌の反歌です。
玉藻(海藻)は波にゆらゆら靡いていることから「うち靡く」が「玉藻刈る(海産物を採取して暮らしている)」の枕詞にもなったのだろうと私は思います。

あしひきの 山にも野にも 霍公鳥 鳴きし響めば うち靡く 心もしのに そこをしも うら恋しみと ~(17-3993)
<~ あしひきの やまにものにも ほととぎす なきしとよめば うちなびく こころもしのに そこをしも うらごひしみと ~>
<<~山にも野にもホトトギスの鳴き声が鳴き響けば私の心がしみじみなり,その愛おしさで心の中で恋ひしいと思う~>>

これは,大伴家持とかなり親しい関係にあった大伴池主が,家持と越中にあった「布勢の海」という淡水湖(現在の富山県氷見市付近だが湖は消失)に船を浮かべて遊覧したとき,その自然の素晴らしさを詠んだ長歌の一部です。
「うち靡く」が枕詞となるのは,心というものが時の経過とともに揺れ動くことから来ているのではないでしょうか。
現代でいえば,まさにポリグラフ(呼吸・脈拍・血圧など複数の生理現象を、電気的または物理的なシグナルとして同時に計測・記録する装置)の波形などは,「うち靡く」心の揺れを表すのにぴったりかも知れませんね。

うち靡く春を近みかぬばたまの今夜の月夜霞みたるらむ(20-4489)
うちなびく はるをちかみか ぬばたまの こよひのつくよ かすみたるらむ
<<春が近づいて来たのか,今宵の月夜は霞んでいるようだ>>

この短歌は,天平宝字元(757)年12月,大監物三形王宅での宴で大蔵大輔の甘南備真人伊香(かんなびのまひといかご)が,家主である三形王や家持とともに詠ったものです。新春をもう少しで迎える時期であり,月が真冬のようにクリアではなく,少し霞んで見えるようになったという春の気配を感じつつ,心待ちにしている気持ちが伝わってきます。
万葉集では,枕詞「うち靡く」の後に春が続く形式がもっとも多く出てきます。「うち靡く」は,万葉時代は穏やかではあるが力強い躍動を秘めたイメージを連想させる言葉だったのではないかと私は考えます。
今,東北関東大震災で多くの方が避難生活や孤立状態にあると報道されています。
でも,春はすぐ近くまで来ています。希望を捨てず,厳しい状態でしょうが,何とか凌いで「うち靡く春」を迎えてほしいと心から願っています。
靡く(3:まとめ)に続く。

2011年3月12日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…靡く(1)

今回からの3回は,万葉集の「靡(なび)く」の用例について書きます。
万葉集で使われている「靡く」は,広辞苑によれば「風や水に押されて横に伏す」「他人の威力・意志などに従う」「魅力に魅かれて心を移す」などの意味で使われているとあります。
現在でも「彼女の黒髪が風に靡いていた」「旗が強風に靡く」「彼の考えに靡く」など「靡く」ほぼ同じ意味で使われています。
では,万葉集の用例をいくつか見てみましょう。

おほならば誰が見むとかもぬばたまの我が黒髪を靡けて居らむ(11-2532)
おほならば たがみむとかも ぬばたまの わがくろかみを なびけてをらむ
<<ふつうなら誰かに気づかれないかなあ。私の黒髪をあなたの意のままに靡かせているから>>

この詠み人知らずの短歌の作者は女性で,自分にとって自信のある黒髪を相手の男性の好む形でなびかせているので,誰か別の人に貴方との関係を気付かれないか気になることを詠んでいるように私には思えます。

娘子らが後の標と黄楊小櫛生ひ変り生ひて靡きけらしも(19-4212)
をとめらが のちのしるしと つげをぐし おひかはりおひて なびきけらしも
<<兎原娘子(うなひをとめ)の言い伝えのしるしとして黄楊の小櫛が木に生え変わって伸び栄え風に靡いているのだ>>

この短歌は大伴家持が越中で,自分を好きになった2人の男性が命がけで争いっていることを聞いて,それに耐えられなくなり自殺したという兎原娘子の伝説を題材に詠った長歌の反歌です。
具体的には,兎原娘子が使っていた黄楊(ツゲ)の小櫛を地に植えたところ,立派な黄楊が生まれ変わって生えてきたという逸話が今も絶えずに残っているので,黄楊の木が風に靡くほど立派に育っていることに想いを馳せているのです。

青海原風波靡き行くさ来さつつむことなく船は速けむ(20-4514)
あをうなはら かぜなみなびき ゆくさくさ つつむことなく ふねははやけむ
<<青海原では風や波が順調で,往きも還りも滞りなく船は速く進むことでしょう >>

この短歌も大伴家持作で,渤海へ使者として派遣される小野田守(をののたもり)の旅立ちに用意した歌です。
「風波が靡く」とは,こちらの思うようになるというような意味合いだと私は思います。
風であれば追い風,波であれば凪(なぎ)であることを示しているのだろうと思います。
船は,「風波が靡く」と本当に順調に航海ができます。しかし,逆に迎え風や時化(しけ)に遭遇すると人間がどんなに頑張っても思うように進めることができません。
<東日本大震災の襲来>
さて,昨日(3月11日)午後に発生したマグニチュード8.8の「2011年東北地方太平洋沖地震」の津波で甚大な被害が出ているというニュースが休みなく報道されています。
岩手県宮古市や宮城県気仙沼市などで津波により大きな船がいとも簡単に陸地に押し上げられているのを目の当りにすると波の力がどれほど大きいかを思い知らされます。
ちなみに,私が仕事をしている事業所のビルではかなり大きな揺れが長い時間続きました。超周波振動の波長が合い,いつまでも揺れ続けるのではと心配したほどです。
その後も余震を何回も感じました。
余震が収まってきたので,自宅まで徒歩で帰りました(首都圏の電車はまったく動く気配がありませんでしたから)。会社から自宅まで距離は24㎞。
4時間余り掛かりましたが,何とか夜9時半過ぎに無事帰宅することができました。
今回の東北地方,信越地方の地震で被災された皆さまには心からお見舞い申し上げます。
靡く(2)に続く。

2011年3月11日金曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…去る(3:まとめ)

ここまで万葉集における「去る」の「~になる」という意味の使い方をみてきましたが,現代でポピュラーな意味である「遠くに行ってしまう」に近い使い方も万葉集では出てきます。
次がその例です。

里遠み恋侘びにけりまそ鏡面影去らず夢に見えこそ(11-2634)
さとどほみこひわびにけり まそかがみおもかげさらずいめにみえこそ
<<ふる里から遠く離れ,恋しさと侘びしさが,鏡に映った姿にも離れず,ふる里のことが夢にまで出てくるよ>>

この詠み人知らずの短歌は,遠くのふる里を思う寂しさが鏡で見た自分の姿に色濃く残っていることを「去らず」を使って表現しています。
「面影去らず」の万葉仮名は「面影不去」であり,漢文風の訓読になるよう原文の万葉仮名が使われています。

夕さればみ山を去らぬ布雲のあぜか絶えむと言ひし子ろはも(14-3513)
ゆふされば みやまをさらぬ にのぐもの あぜかたえむと いひしころはも
<<夕方になれば山から離れずに布状に棚引く雲のように二人の仲は絶えることはないと言ったあの娘よ>>

この短歌は詠み人知らずの東歌です。前々回で取り上げた「~されば」の意味と今回取り上げている「離れてしまう」という意味の「去る」の両方が使われています。
この短歌は「夕されば」の原文における万葉仮名表現は「由布佐礼婆」です。また,「み山を去らぬ」の万葉仮名表現は「美夜麻乎左良奴」です。
東歌は東国方言で発音が奈良言葉と違うことがあるため,漢字の音を一音ずつ当てた万葉仮名表現になっているのではないかと私は思います。
<「去(さ)る」と「去(い)ぬ」の変遷>
その後,「離れる」という意味の「去(さ)る」は関東では多用され,関西では「去(い)ぬ」が多用されるようになったのでしょうか。
たとえば,明治後半,大正,昭和前半に東京で執筆活動した文豪泉鏡花作「逗子だより」の中で「去ぬる八日大雨の暗夜」という表現が出てきます。
しかし,これにはルビがふってあり,「去ぬる」は「いぬる」ではなく「さんぬる」という発音になっています。
国語辞典によると「去(さん)ぬる」は「去りぬる」の音便(発音上の便宜から元の音とは異なる音に変わる現象)だそうで,「去る」から来ています。
また,時代は鎌倉時代に大きく遡りますが,若き頃10年以上関西の諸寺で仏典等を研学したという日蓮が「種種御振舞御書」という信者に宛てた手紙では「去ぬる文永五年後の正月十八日・西戎・大蒙古国より日本国ををそうべきよし牒状をわたす、日蓮が去ぬる文応元年庚太申歳に勘えたりし立正安国論今すこしもたがわず符合しぬ~」とあり,「去ぬる」は「いぬる」と発音していたようです。
万葉時代から使われている「去る」と「去ぬ」,意味や表現の変化を遂げながら1300年後の今も日本語として息づいているのです。
靡く(1)に続く。

2011年3月6日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…去る(2)

前回は,「~去れば」「~去らば」という万葉集での「去る」の使い方を示しましたが,今回はその類似表現で「~去り来れば」を見てみたいと思います。
前回の意味は「~になったら」「~になると」という意味でした。
今回の「~去り来れば」は「~がやって来ると」という意味で,結果よりも近づきつつある過程を示していますが,全体の意味としては「~去れば」などとあまり変わらないように感じられるかも知れません。
しかし,万葉集の和歌の中での双方の使い方がはっきり異なります。
その違いは枕詞使用の有無です。「~去り来れば」の前には必ずと言ってよいほど「~」に掛かる枕詞が置かれます。「~されば」の場合は,枕詞を前に置くことはありません。
次の歌を見てください。

冬こもり 春去り来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず ~(1-16)
ふゆこもり はるさりくれば なかずありし とりもきなきぬ さかずありし はなもさけれど やまをしみ いりてもとらず くさふかみ とりてもみず ~>
<<春が近づいてくると今まで鳴いていなかった鳥も来て鳴く,今まで咲いていなかった花も咲くけれども,山が荒れ放題でで入って行って獲ることもできず,雑草が延び放題で採ってみることもできない ~>>

この額田王の長歌の冒頭の「冬こもり」が「春」に掛かる枕詞です。

ぬばたまの夜去り来れば巻向の川音高しもあらしかも疾き(7-1101)
ぬばたまの よるさりくれば まきむくの かはとたかしも あらしかもとき
<<夜になってくると巻向川の川音が高くなると聞いているが本当に激しいなあ>>

この詠み人知らずの短歌の冒頭の「ぬばたまの」は「夜」にかかる枕詞です。

うち靡く春去り来れば小竹の末に尾羽打ち触れて鴬鳴くも(10-1830)
うちなびく はるさりくれば しののうれに をはうちふれて うぐひすなくも
<<春がやってきて,篠の先を尾羽で強くゆすりながらウグイスが鳴いているよ>>

この冒頭の「うち靡く」は「春」に掛かる別の枕詞です。
「○○去り来れば」は7文字
前回の「~去れば」は~の部分が「春」「秋」「夕」などの2文字であれぱ5文字となります。いっぽう「~去り来れば」は~がそれらの2文字であれば7文字になります。
このように,5文字に使いたいときは「~されば」を使い,7文字のところに使いたいときは「~去り来れば」を使うという使い分けがなされているように見えます。
また,枕詞+「~去り来れば」は,単なる「~去れば」に比べて,形式ばった古い表現形式ともいえるのではないかと私は思います。
すなわち,宮中などのフォーマルな行事では,枕詞+「~去り来れば」と不特定多数の参加者に向け詠唱され,参加者はたとえば「ぬ~ば~た~ま~の~~」とゆっくり詠唱されるのを聞き取ると,次は「夜...」と来ることを予測しつつ,どんな和歌になるのかを楽しみに鑑賞していきます。
逆に,そういったフォーマルな場で不特定多数にではなく,特定の相手に贈った和歌では想いを単刀直入に伝える必要があります。
そのため「~去り来れば」を「~去れば」とし,枕詞も省略して使うようになったと私には感じられるのです。

さて,次回は「去る」のまとめとして,遠ざかる意味の「去る」について,万葉集でどのように使われているか見ることにします。
去る(3:まとめ)に続く。