2009年4月27日月曜日

白きを見れば夜ぞ更けにける

小倉百人一首に次の中納言家持の短歌が出てきます。

鵲のせる橋の置く霜の 白きを見れば夜ぞ更けにける
かささぎのわたせるはしのおくしもの しろきをみればよぞふけにける
<<七夕に牽牛と織女を逢わせるためにできる鵲の橋(逢瀬の橋)に冬霜が降って白く光っているのを見ると夜が更けてきたんだなあ>>

この短歌は,新古今和歌集巻6(620)冬歌中納言家持作として出ていて,それを小倉百人一首の選者藤原定家が選んだものです。
この短歌は万葉集には出てきません。家持が作った短歌ではないのではと疑問に思う人も多いようです。
いろんな解釈ができる短歌だと私は思います。
冬だからいくら待っても愛する人と逢うことが難しいことを詠っているようにも思えます。

さて,ここからは私の勝手な想像です。
家持が人麻呂赤人と並ぶ存在として選ばれた訳は,新古今和歌集の選者の一人でもある定家の時代(平安末期),歌人達の間で家持の存在感がかなり大きくなっていったと想像します。
平安初期は,まだ大伴氏は藤原氏にとっては政敵の一つであり,粛清の対象であった。また,和歌自体も漢詩に比べて不遇の時代だったようです。
たとえ当時の和歌詠み人にとって家持が尊敬できる存在だとしても,家持を讃えるようなことは忌み嫌われたに違いありません。
平安京ができて100年余りが経った頃に紀貫之が書いた古今和歌集仮名序で,万葉集の存在を認め,人麻呂,赤人は歌聖としてたたえていますが,家持の名は出てきません。
ちなみに,同仮名序に出てくる六歌仙の一人大伴(友)黒主は,大伴氏とは無関係の人物のようです。
それから平安中期になり,藤原公任のよる三十六歌仙にようやく家持が選ばれます。
黒主は,この時点で六歌仙でありながら,三十六歌仙から消え,小倉百人一首でも選ばれていないのです。
平安末期から鎌倉時代になって,さすがの栄華を極めた藤原氏も,武家に権力を奪われ,新古今和歌集では万葉集の和歌,そして家持をとりあげても大丈夫というようになってきたのではないでしょうか。
百人一首の選ばれた「鵲の」の短歌は,万葉集になく家持が作ったかどうかは別として,家持の無念さを後世の歌人がもっとも表す短歌として選んだのではないかというのが私の勝手な想像です。
すなわち,この短歌が「(大伴家の)冬の時代がますます深くなっていく」という家持の無念な気持ちを裏で表していると読めなくもないからです。

2009年4月18日土曜日

え~い,ままよ,どうにでもして!

お待たせしました。「まにまに」について。

百人一首(古今集)に,
このたびは幣もとりあへず手向山 もみぢの錦神のまにまに(菅原道真)
<<この度は幣を用意できませんでしたが、手向山の紅葉の錦を御心のままに幣としてください>>
という短歌があります。このように「まにまに」は,「ままに」と訳せば大体意味が通じそうです。

国語辞典を見ると,今も使われる「ままに」「ままよ」「そのまま」の「まま」は,「まにま」が後世転じて使われるようになったようです。

ところで,万葉集での「まにまに」の用例は「風のまにまに」「神のまにまに」「君がまにまに」「友のまにまに」「汝がまにまに」「成しのまにまに」「馴るるまにまに」「引きのまにまに」「欲しきまにまに」「任きのまにまに」「任けのまにまに」「向けのまにまに」「行きのまにまに」があります。
自然や神の意のままにする用例は,どちらかというと少なく,相手,主君,友,恋人など人の気持ちや考えの「ままに」という用例が多いようです。

後の古今和歌集での「まにまに」用例は,上の菅原道真の短歌「神のまにまに」をはじめ,「水のまにまに」「雪のまにまに」「花のまにまに」「風のまにまに」「山のまにまに」と人との係わりが少なくなり,自然や神が対象になっているようです。
古今集の和歌詠み達は,人間関係に疲れ,自然のままに浸ることや神に縋ることが一種のあこがれ,心の慰めになっていたのかも知れないですね。

万葉の時代は,まだまだ人を信頼・信用する気持が大きく,相手の気持ちを「まにまに」で受け入れるような大らかな和歌が詠めたのかもしれません。

たらちねの母に知らえず 我が持てる心はよしゑ 君がまにまに(11-2537)
たらちねのははにしらえず わがもてるこころはよしゑ きみがまにまに
<<お母さんは(私たちのこと)まだ知らないけど,私の気持ちはもうあなた次第なのよ>>

2009年4月16日木曜日

どんどん,さくさく仕事が進む?

状態を表す言葉に,「どんどん」「さくさく」「ざくざく」「てくてく」「はらはら」「くるりくるり」など,2音節か3音節の言葉が繰り返される単語があります。
これらは,状態を名詞の繰り返し,音,光,動きなどをイメージにして,表現しているものが多いようです。

実は,万葉集にも同様の単語がたくさん出できます。

あさなさな(あさなあさなの略で毎朝),いつもいつも(常に),うつらうつら(はっきり),うべなうべな(もっともなことであることよ),うらうら(日差しがやわらかでのどか),かつがつ(やっと),かもかも(ともかくも),きらきら(美しいさま),くれくれ(心細く頼りないさま),けふけふ(毎日),ことこと(同じこと),ことごと(すべて),ころごろ(日頃),さゐさゐ(動揺し騒ぐさま),さらさら(今更,新たに),しくしく(しきりに),しばしば(幾度も),たかたか(待ち望むさま),たづたづ(おぼつかないさま),たわたわ(たわわ),つぎつぎ(後から続くさま),つばらつばら(満遍なし),つらつら(滑らかなさま),なかなか(いっそのこと),ぬるぬる(ほどけるさま),はろはろ(遥か),びしびし(鼻水をすすりあげるさま),ほとほと(今少しで),ますます(前より一層),もろもろ(多くのもの),やくやく(次第,ようやく,除除),ゆくゆく(進むさま),ゆくらゆくら(心が動揺するさま)

私は,これらの繰り返し言葉が,本来の大和言葉として日本人の間で使われてきたのか,1世紀頃には日本に伝来したかもしれないという漢語の影響で使われるようになったのか,気になります。
今の中国語には,済済,黙黙,続続,段段,団団,除除,粛粛などの意味を持つ同様の繰り返し語(同じ漢字の繰り返し)があるようです。
ただ,英語でも「徐々に」を"bit by bit"や"little by little",「ますます」を"more and more",「日日」が"day by day"というように,似たような繰り返し表現があります。
本来の大和言葉として,このような繰り返し表現が元からあったとしても不思議ではないかも知れませんね。

さて,万葉集の和歌をたくさん御存知の方は「まにまに」が気になるかもしれません。「まにまに」は,万葉集の40首近くの和歌に出てきます。しかし,これは音節の繰り返しではなく,漢字交じりで書くと「随に」なるようです。「まにまに」については少し書きたいことがあります。それは次の投稿で。次のは「ほとほと」したら出るでしょう。

2009年4月11日土曜日

船(舟)に関係する語

前投稿で,万葉時代,物流,人の輸送,漁業に船(舟)が活発に利用されていただろうと書きました。それをさらに裏付けるように船(舟)が出てくる和歌は,万葉集に3百首弱はあると思われます。船に関係するたくさんの言葉が万葉集で次のように使われています。

<船の部分や船具に関連する語>
楫(かぢ),楫棹(かぢさを),棹(さを),楫柄(かぢから),艫(とも),舳(へ),櫂(かひ),帆(ほ),舟棚(ふなだな),碇(いかり)

<船着き場,船置場やその業務に関連する語>
港(湊,水門),津,浦,崎,浜,渚,江,堀江,渡し,船瀬,泊つ,津守,渡り守

<乗船,走行やその業務に関する語>
船待ち,船装ふ,船出,舟寄す,漕ぐ,行く,帰る,渡る(す),通ふ,浮ぶ,覆る,乗る,船競ふ(ふなぎほふ),潮待ち,風守り(かざまもり),朝凪ぎ,夕凪ぎ,水脈(みる),船方,舟人,水手(かこ),舟乗り,引舟

この他にもあると思いますが,これだけでも船に関する造船,航行,浚渫などの技術,乗組員,港湾スタッフなどの配置が,万葉時代にはある程度システム的に行われていたと私には想像できます。

2009年4月10日金曜日

~舟,~船について

今回は,万葉集に出てくる舟または船で終わる言葉をあげると次のようになります(類似用語は割愛しています)。

赤のそほ舟,足柄小舟,伊豆手の船,岩船,大船,大御船,小舟,潮舟,棚無し小舟,千舟(船)月の船,筑紫船,釣舟,ま熊野の船,松浦舟,御船,百石の船,百舟(船),四つの船,夜船,など

割とたくさん見つかりましたので,少し分類してみましょう。

<<船の色,大きさ,数を表すもの>>
赤のそほ舟(赤く塗った舟),岩船(岩のように頑丈な船),大船,小舟,棚無し小舟(船縁が一重しかない小舟),千舟,百舟,百石(ももさか)の船

<<用途や比喩を表すもの>>
大御船(天皇や皇后が乗る船),潮舟(潮路を渡る舟),月の船(大海を漕ぎゆく船を大空を移動する月にたとえた語),釣船,御船,四つの船(遣唐使一行が分乗した4艇の船),夜船(夜行の船)

<<製造地域を表すもの>>
足柄小舟,伊豆手の船,筑紫船,ま熊野の船,松浦舟

これをみると,船は万葉時代に交通手段として,われわれが想像する以上に凄いスピードで発達・進化していたと考えてもよいでしょうね。
各地に停泊のために港が次々作られ,太平洋側,日本海側,九州,東北に至るまで,日本のまわりには,さまざまな定期航路があったのかもしれません。
定期船には,百石の船が示すように,百石船と呼べるような大きな船がすでにあったのでしょう。各地を結ぶ物流網が拡大していった時代に見えます。
また,足柄(神奈川県),伊豆(静岡県),筑紫(福岡県),熊野(和歌山県),松浦(佐賀県)など,造船地が出てくることで,用途ごとに優れた船の地域ブランドもすでに認知されていたことを示してますね。
万葉集に出てくる船に関する言葉を分類すると万葉時代の物流や人の移動に関する活気が伝わってくるようです。

2009年4月5日日曜日

万葉集編纂は誰が思いついたか

前投稿で述べたように,大伴家持が奈良で急速に昇進していった50歳代から60歳代に万葉集を編纂したと仮定すると,家持にいったい誰が万葉集の編纂を命じたのか。
もちろん,家持自身の意思で編纂を思いついた可能性もありますが,私は何かしらのスポンサーがいたのだと考えてしまいます。
ここからは,私の勝手な想像です。歴史小説(フィクション)の世界といえるのかもしれませんね。
私が有力なスポンサーとして考えるのは,当時即位していた光仁天皇です。
光仁天皇は,歴代でもっとも高齢の何と62歳で770年(神護景雲4年)に即位したのです。
それも順当な皇位継承ではなく,閣議の合議で決定されたようですから,一種の中継ぎ天皇といってもいいのかも。
記録には天皇は結構改革も行ったように書かれています。でも,藤原氏が陰でいろいろ仕組み,天皇の権威を利用し,行ったとの説もあるようです。60歳代の天皇は,実態は隠居のような立場であった可能性があります。そこへ地方から帰ってきた50歳代(初老)で,極端に遅咲きの家持と話がよく合ったと想像できそうです。
二人は,頻繁に若いころの話やそれぞれの父親(志貴皇子,大伴旅人)等の話をしたでしょう。また,家持は,天皇に諸国赴任時の地方の話や交流のあった人の話をたくさんしたのではないかと想像できます。
光仁天皇は,権力抗争により次々と粛清される優秀な人材が後を絶たず,国全体や地方を含む一般庶民の幸せを顧みない権力者達を憂うようになったのかも知れません。
また,遣唐使などの海外留学者による闇雲な海外の文化の導入,日本的な調和を忘れた政治制度への転換と強制が急激に進んでいること。それによって,それまでの日本人が長年培ってきた文化,風習,慣習を新興世代が尊重せず,世代,親子,都と地方,官僚と庶民などとの間に大きなギャップが生まれてきたことを残念に思っていたのかもしれません。
光仁天皇と家持は,残された短い人生で一体何が残せるか考えたのではないでしょうか。
ただ,政争の具になるようなものでは,そのプロジェクト自体妨害を受ける。そこで,家持が集めていた和歌の記録,宮廷に残っている和歌の記録などを集め,大和言葉の用例として整理し,官僚の姉弟や渡来人の教育(国語,歴史,風習,地理・風土など)に役立てることを目的として万葉集編纂プロジェクトがロートル家持をマネージャとして開始されたと私は想像します。
できた万葉集が,権力者(主に藤原氏)の姉弟,影響力を増しつつある渡来人の教育に利用され,それを学んだ人たちが将来為政に関わるようになったとき,日本人の心と融合した政策をもっと考え,政策を実施してくれるのではないかと考えたのかもしれません。時は,平安京遷都まであと十数年にせまった頃です。
さて,万葉集は和歌集としてではなく,大和言葉の用例集としてならば,歌の順序の是非についてや作者に名もない庶民が含まれていたとしても,とやかく言われる筋合いはないずですよね。