2011年9月19日月曜日

対語シリーズ「朝と夕」(1)‥朝家を出で夕戻る。それは「いつも」のこと?

<朝,早や起きが得意>
私は若い時から朝起きは強い方です。前夜ほとんど寝ていないときは目覚まし時計を掛けますが,そのときでもアラームが鳴る前に起きてしまうことの方がはるかに多く,またアラームが鳴っても起きられなかったことは一度もありません。
今は平日も休日もいつも朝5時起きが自分のペースですが,目ざまし時計のアラームは掛けなくても目が覚めます。

天の川 「それって,たびとはんがせんど(いっぱい)年取ってきただけやとちゃうんか? それにしても,お彼岸ももうすぐやちゅうのにいつまでも暑いな~。」

やれやれ,ここしばらく夏バテで静かにしてくれて助かったのについに出てきたな。私とは逆で寝るのが趣味な天の川君にはもう少し夏バテ状態で居てもらいましょう。
私は朝という時間が1日の中で大きな割合を持ちます。5時に起きるということは年の半分は暗い内に起きることを意味します。
朝だんだん明るくなっていく時間が好きです。季節によって,夜明け前後で鳥,蝉,虫,猫の鳴き声の聞こえ方に変化が感じられます。そういった落ち着いた時間を過ごした後,朝風呂かシャワーを浴び,朝食を取り,平日はいつも6時半には自宅を出て会社に向かいます(会社に7時半に着き,仕事開始)。
いっぽう夕方ですが,ITの仕事は恒常的に忙しく定時で会社を退出することはまれで,残念ながら仕事をしている内に夕方を過ぎ,夜になってしまいます。ただ,職場は周りの建物よりも高い階にあり,季節によって夕陽が沈むときの明るさの変化を感じたり,綺麗な夕焼けが見えることもあります。
朝方と夕方は私にとって,1日の変わり目を強く意識させる時間帯ですが,私の知人にはまったく朝方と夕方の時間帯に興味をまったく持たない人も多くいます。
皆さんはいかがでしょうか。
<万葉時代の朝と夕>
さて,万葉時代は今のように昼間を思わせる照明などなく,暗くなってできる作業が今よりもはるかに少なかったため,朝と夕の時間帯を今よりさらに強く感じていいたのではないかと私は思います。
その証拠に「朝」を含む万葉集の和歌の数は何と200首以上あります。また,「夕」を含んだものは160首以上もあります。その中で1首中に「朝」「夕」を両方を詠み込んだ和歌は70首近くもあります。そして,その70首近くの内で「朝夕」という言葉を含む和歌は15首にのぼります。ただし,「あさゆう」という読みはされていなかったようで「あさよひ」または「あしたゆふへ」と詠っていたようです。
あまりにも数が多いので「朝と夕」は2回に分けてお送りします。まず,「朝夕」を詠んだ15首の中で1首を見て行きましょう。

魂は朝夕にたまふれど我が胸痛し恋の繁きに(15-3767)
たましひは あしたゆふへにたまふれど あがむねいたしこひのしげきに
<<あなたの魂はいつも送って頂いていますが,貴方自身ではないので私の胸は切なくて苦しく,恋しさが募るばかりです>>

この短歌は狭野茅上娘子(さののちがみのをとめ)が越前の国に配流されることになった夫である中臣宅守(なかとみのやかもり)に贈った短歌の1首です。
「朝夕(あしたゆうへ)」は「いつも」という意味です。朝から夕方までが当時は1日のほぼすべてだったので,こういう意味に使われていたのでしょう。
中臣宅守は配流後数年で赦免され京に戻ってきた可能性があるようですが,その後の二人の和歌は残されていません。やはり恋の歌は悲恋モノが人の心を打つのでしょうか。
次に「朝」と「夕」を両方詠んだ歌を見て行きましょう。

伊勢の海人の朝な夕なに潜くといふ鰒の貝の片思にして(11-2798)
いせのあまのあさなゆふなに かづくといふ あはびのかひの かたもひにして
<<伊勢の漁師が朝から夕方まで潜って取るというアワビの貝殻のように片思いをしています>>

私が小学生のときの修学旅行が京都から1泊2日の伊勢旅行でした。そのとき,伊勢の海女が白装束で潜って海中のものを取ってくる実演を見学したのを覚えています。
当時,万葉時代から伊勢ではアワビを獲ることが行われていたとのガイドの説明があったかどうかは,若い(といっても私より年上)海女の海水に濡れた姿に見とれていたせいか残念ながら記憶にありません。

天の川 「しかし,たびとはん。結構マセた子やったんやな~。」

天の川君! うるさいぞ!
今はこの詠み人しらずの短歌によって万葉時代では伊勢産アワビ(身の干したアワビや美しい貝殻の加工品)というプランドを多くの人が知っていたことが私には想像できます。
さて,次は植物を対象として「朝」と「夕」を詠んだ短歌を紹介しましょう。

朝顔は朝露負ひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ(10-2104)
あさがほは あさつゆおひてさくといへど ゆふかげにこそさきまさりけれ
<<世間では朝顔は朝露を付けて美しく咲くっていうが,夕方の光の陰影にもっと映えて咲くと私は思うんだ>>

この詠み人しらずの短歌から万葉集で詠まれているアサガオは現代おなじみのアサガオではなく(アサガオは夕方に萎む),別の花だという説が有力のようです。
ただ,この花は朝に朝露を付けた状態で咲いているのが非常に美しいと評判だったのでしょう。でも,この短歌の作者は朝露は消えているが夕方日光が低い位置から差す時の陰影を感じながら見るのもずっと良いよと訴えたかったのかもしれません。
このような歌を詠える作者は,朝と夕の雰囲気の違いをこまやかに意識することができる人だったと言えそうです。
次回は,「朝」のみ,「夕」のみを詠んだ和歌を見て行くことにしましょう。
対語シリーズ「朝と夕」(2)に続く。

2011年9月14日水曜日

対語シリーズ「夢と現(うつつ)」‥直(じか)に逢えないなら夢で逢いましょう

万葉集で,寝ている時に見る夢について,約100首詠われています。
その多くが恋人が夢に出てきたり,恋人に夢で逢えたりすることを詠っています。
本当は直に逢いたい。でも,それが叶わないから夢で逢えたらいいなあ。また,夢で逢えたけれど心は苦しいままだなどと辛い恋の歌が多いようです。
起きている(覚めている)時を万葉時代は「現(うつつ)」と呼んでいました。そして,寝ている時の「夢」と起きている時の「現」の対語をいっしょに詠んだ和歌が万葉集には17首も出てきます。

現には逢ふよしもなしぬばたまの夜の夢にを継ぎて見えこそ(5-807)
うつつには あふよしもなし ぬばたまの よるのいめにを つぎてみえこそ
<<現実には逢うのは無理だってわかってるの。だったらせめて私の夢に出てきてよお願いだから毎晩夢に出てきて>>

万葉時代は新しい階級制度,さまざまな格差,新しい文化の流行,都会的風習などが広がっていこうとした時代だったのではないかと私は想像します。
さまざまな出会い,ふれあう機会が増えてきたのかもしれません。そんな時代に男女は恋をし,その恋がさまざまな障害(噂,告げ口,妨害,非難。家柄など)によって思うようにならない苦しさを味わうようになったのかもしれません。
結果として,万葉集に現れる恋の歌の多くが恋の苦しさを表現するものになったのは,そのような時代背景があったためかと私は思うのです。
そして,「現(うつつ)」でうまくいかない苦しさを「夢」で癒そうとしたのが,まさにこの短歌だと私は感じます。
次は「現」が使われた成句を詠んだ詠み人しらずの短歌を紹介します。

玉の緒の現し心や八十楫懸け漕ぎ出む船に後れて居らむ(12-3211)
たまのをの うつしこころや やそかかけ こぎでむふねに おくれてをらむ
<<確かな覚めた心で数多くの楫(かじ)を装着して漕ぎ出ようとするあなたの船を残って見送る私です>>

「現し心」とは「夢見心」の反対で,しっかりと覚めた心でという意味です。
去っていく恋人を心の乱れを必死にコントロールしつつ,眺めている女性の心理がこの短歌から強く私には伝わってきます。
いっぽう,「夢」に対して強い願いを訴えたこれも詠み人しらずの短歌を紹介します。

ぬばたまの夜を長みかも我が背子が夢に夢にし見えかへるらむ(12-2890)
ぬばたまの よをながみかも わがせこが いめにいめにし みえかへるらむ
<<長い夜はねえ,僕の恋人は繰り返し繰り返し夢の中で逢いにくるのさ>>

この男性,強がっているようにも思えますが,夜一人になると彼女のことが頭から離れない様子が手に取るように分かりますね。
<小学校の頃の話>
ところで,私が小学生の頃NHKのテレビ番組「夢であいましょう」を家族と一緒に見ていました。夜遅い番組で,当時としては少し成人向けのウィットもあり,小学生の私には刺激が強かった部分もありました。
でも,梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」,ジェリー藤尾の「遠くに行きたい」,日本航空ジャンボジェット機墜落事故でその後亡くなった若き日の坂本九の「上を向いて歩こう」など,後のスタンダードナンバーになった歌。そして,黒柳徹子,永六輔,中村八大,三木のり平,谷幹一などの軽妙なおしゃべりやコントが心に残っています。
この番組が放送されると眠さも宿題も忘れて「現(うつつ)」で見ていた小学生の私がいたのです。番組で演奏される歌の歌詞の良さ,コントの巧さなどは,大人になってから日本語に対する興味を私に強く持たせる原動力になったのかも知れませんね。
対語シリーズ「朝と夕」に続く。

2011年9月7日水曜日

対語シリーズ「直と隈(曲)」‥自然と調和すると曲線になる?

<明日香村と関わり>
私は今年奈良県明日香村の「みかんの1本木オーナー」(http://yume9200.jp/ippongi.htm)になっています。
7月下旬,摘果(生育の悪い実や傷の付いた実を取る作業)のため,1泊2日をかけて契約農園を訪れました。お金の節約と学生時代に長距離の列車旅行を追体験したいとの気持ちで,何と埼玉県の自宅から奈良までの往復は「青春18きっぷ」を使い普通列車で移動しました。
写真はJR西日本「万葉まほろば線」香久山駅駅近くの踏切から線路を撮ったものです。真直ぐ延びる鉄道は,ローカル線といえども,やはり近代産業で形成された人工物の象徴のように感じてしまいます。
いっぽう,もう一つの写真はその日に撮った飛鳥寺近くの整備されていない道です。真直ぐではなく曲がっています。昔のこのあたりの道も真直ぐな道は少なく,曲がっていたのだろうと想像します。

古来日本では道を自然の地形,起伏に合わせたり,川や湖沼を避けたり,形の良い目印になる木を残すために迂回したりして作られるから曲がるのではないかと思います。何かを作るとき効率さを最大限求めた場合は,一般に直線や真円をベースに設計するのがベストでしょう。しかし,それは往々にして自然の形と相反することがあります。
その時,自然の形に刃向って(自然を変形させても)作るのか,自然と調和させて作るのか,それを利用する人達の考え方や暮らし方に依存するのだろうと私は考えます。
<万葉集の話>
さて,万葉集では「直」の漢字をあてる言葉として「直(ただ)」があります。「直(ただ)」は「真直ぐ」という意味のほか「直接(ちょくせつ)」という意味も万葉集では使われています。
対語が「曲」または「隈」という「まがる」という意味ですので,今回は「真直ぐ」という意味の「直」を見て行きます。

直越のこの道にしておしてるや難波の海と名付けけらしも(6-977)
ただこえのこのみちにして おしてるやなにはのうみとなづけけらしも
<<難波へまっすぐに越えたこの路から見て「おしてるや難波の海」と名づけられたのか>>

この短歌は神社老麻呂(かみこそのおゆまろ)が草香山(生駒山の西側)の峠を越えたときに詠んだとされる2首の内の1首です。この峠越えは大和盆地(奈良)から難波(大阪)に通じる一番短い(真直ぐな)道で,そのためこの峠を越えて双方の国に行くこと「直越(ただごえ)」と呼んでいたのでしょう。「おしてるや」は難波に掛かる枕詞(まくらことば)です。当時「おしてるや難波」は決まり文句だった私は想像しますが,作者は決まり文句になった理由がわからなかったのです。
しかし,実際に峠から難波の方面を見たところ,太陽に光って反射する海,潟,沼,田などがまさに「押し照る」(一面に照りつける)様子を見て,納得したとのでしょう。
なお,枕詞については,2009年5月24日から4回にわたって,私の考えを述べていますので,よかったら見てください。

さて,「真直ぐ」の対語は「曲がっている」です。万葉集では「曲(まがる・くま)」「隈(くま)」という漢字があてられています。
真直ぐなところは見通しが良いのですが,曲がっているところは見通しが悪く,物陰ができます。また,複雑に入り組んでいると方向が分からなくなるため,目印をつけることが必要になります。
次の成句からもその状況が読み取れます。
 川隈(かはくま)‥川の折れ曲がっている所
 隈処(くまと)‥物陰
 隈廻(くまみ)‥曲がり角
 隈も置かず‥曲がり角ごとに
 隈も落ちず‥曲がり角ごとに
 水隈(みぐま)‥水流が入りくんだところ
 道の隈‥道の曲がった角
 百隈(ももくま)‥多くの曲がり角
 八十隈(やそくま)‥多くの曲がり角
その中で,次の短歌を紹介します。

後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈廻に標結へ我が背(2-115)
おくれゐてこひつつあらずは おひしかむ みちのくまみにしめゆへわがせ
<<一人残されて遠く恋しく想っているよりは追いかけて参りますから,道の角ごとに標(しるし)をつけてください,私のあなたさま>>

この短歌の作者とされる但馬皇女(たぢまのひめみこ)は,父親が同じ天武天皇の異母きょうだいである穂積皇子(ほづみのみこ)との間で激しい恋に陥ります。母親が異なるとはいえ許される恋ではなかったのでしょう,二人は引き離される運命にあり,穂積皇子が近江の志賀の山寺に遣られたときに詠んだ短歌です。
許されない恋いだからこそ燃え,引き離されようとするほど恋しい想いは募る,その気持ちの揺れがまさに「隈」という表現にぴったりなのかも知れませんね。
さて,「直」と「隈」の対比を的確に伝えるにはもっと用例(万葉集の歌)をたくさん紹介した方が良いとは思いますが,長くなるので,まずはこのくらいにしましょう。
対語シリーズ「夢と現(うつつ)」に続く。

2011年8月28日日曜日

対語シリーズ「開と閉」 ‥心の扉はいつも開いていますか?

我が家のネコ達は部屋のドアや網戸を開けて出ていくことができますが,「閉める」ことはしてくれません。開けた後,丁寧に閉めてから行くことができたら,「礼儀正しいネコ」としてテレビに出られるかもしれませんね。

さて,今回は万葉集に出てくる「開」と「閉」について見て行きましょう。まず,「開」の漢字を当てる言葉として万葉集では「開(ひら)く」「開(あ)ける」の両方が出てきます。

言繁み君は来まさず霍公鳥汝れだに来鳴け朝戸開かむ(8-1499)
ことしげみきみはきまさず ほととぎすなれだにきなけ あさとひらかむ
<<噂が立ったので,愛する人は来てくれません。ホトトギスよ,おまえだけでも来て鳴いておくれ。朝の扉を開いておきましょう>>

「開(ひら)く」を使ったこの短歌は,大伴旅人と筑紫歌壇を形成した一人大伴四綱(よつな)が女性の立場で詠んだものです。本当は霍公鳥ではなく,「愛する君が来てくれるかも知れないから戸を開いておきたい」という本心を歌の中で見え隠れさせる高等な表現力の歌だと私は思います。

朝戸開けて物思ふ時に白露の置ける秋萩見えつつもとな(8-1579)
あさとあけてものもふときに しらつゆのおけるあきはぎ みえつつもとな
<<朝戸を開けて物思いにふけっている時に、白露の乗った秋萩が訳も無く目に入ってきます>>

「開(あ)く」を使ったこの短歌は,天平10年(738年)に橘諸兄宅で開かれた宴席で出席者のひとりである文忌寸馬養(ふみのいみきうまかひ)が詠ったとされているものです。秋の朝,家の戸を開けると少し冷っとした朝だったのでしょうか。作者は朝から何かを考えていたのですが,きらきらと光る朝露に彩られた秋萩がどうしても目に入り,その様子が作者の考え事に強く影響したという意味だと私は思います。宴席でこの歌を聞いた参加者は一往に「貴殿はどんな考え事をされていたのか?」という質問が出たのでしょう。
その答えは,この短歌の次に出てくる歌(8-1580)で分かります。歌の紹介はしませんが,当然,恋人のことです。
こう見てくると戸を「開(ひら)く」と「開(あ)く」のニュアンスの違いがわかるような気がします。「ひらく」は来てもらうのを待って広く戸を開けることを示し,「あく」は必要最小限のみ開けるという違いを感じます。

さて,「開」の対語「閉」の漢字を当てる言葉で万葉集に出てくるのは「閉(さ)す」だけです。

門立てて戸も閉したるをいづくゆか妹が入り来て夢に見えつる(12-3117)
かどたてて ともさしてあるをいづくゆか いもがいりき いめにみえつる
<<門を作り,その戸も鍵を掛け閉めておいたのにいったいどこからあなたは入ってきて私の夢に姿を見せたのですか>>

恋しい女性と逢いたい,逢いたい。その気持ち抑えようとする(戸をしっかり閉めるように)が,でもその女性が夢に出てくるのを防ぎようがない。そんな気持ちがこの短歌から私に強く伝わってきます。
万葉集に現れるこの「戸を閉(さ)す」から「戸閉(さ)す」,そして「閉(と)ざす」となったのでしょう。でも,心の扉は閉ざすことなく,常に開けておきたいものです。

対語シリーズ「直と曲(隈)」に続く。

2011年8月20日土曜日

対語シリーズ「強と弱」 ‥女性は弱し?

「音楽の強弱記号」「今年のパリーグは2強4弱だ」「自然界は弱肉強食」「強きを挫き弱きを助ける」など,「強い」「弱い」が対比されることがあります。
万葉集で「強」と「弱」の漢字を当てる言葉はどのように使われているか見てみましょう。
まず「強」ですが,万葉集では「強(つよ)い」の文語形の「強し」という言葉は出てきません。「強し」は平安時代以降使われだしたようです。「強」の漢字を当てる言葉としては「強制する」という言葉の文語形「強(し)ふ」が万葉集に出てきます。

橡の袷の衣裏にせば我れ強ひめやも君が来まさぬ(12-2965)
つるはみの あはせのころもうらにせば われしひめやもきみがきまさぬ
<<橡(クヌギ)染めの袷(あわせ)の衣(ころも)を裏にするようなことをされるなら,私はあなたに無理に来て逢ってくださいとは申しません>>

裏地を表に出すということは,自分への恋心は本心ではないという態度を指すのだろうと思います。それを露骨に見せられた作者(女性)は「逢いに来てほしい」と強く言う気持ちになれなくなったのでしょう。
でも,本当はもっと自分の方を向いてほしいという作者の強い気持ちの存在が,この短歌から私には伝わってきます。女性の心理は複雑ですね。
次に「弱」ですが,「弱い」の文語形の「弱し」を使った万葉集の和歌があります。たとえば次のものです。

玉の緒を片緒に縒りて緒を弱み乱るる時に恋ひずあらめやも(12-3081)
たまのををかたをによりてををよわみ みだるるときにこひずあらめやも
<<玉を貫く紐をより合わすとき,片糸だけなら弱い紐となるように,片思いのあなたを心乱れずに恋することができるでしょうか>>

これも詠み人しらずの短歌です。片思いの切ない気持(気弱な気持ち)が伝わってきます。
また,慣用的な使い方として「手弱し(たよわし)」という言葉を使った和歌の例もあります。

岩戸破る手力もがも手弱き女にしあればすべの知らなく(3-419)
いはとわるたぢからもがも たよわきをみなにしあれば すべのしらなく
<<岩戸を打ち破る手の力があればよいのに。私はか弱い女なのでどうしてよいか分からないのです>>

この短歌は平城京遷都より前の持統天皇の世,河内王(かふちのおほきみ)が九州北部(福岡県)の鏡の山に葬られたとき,手持女王(たもちのおほきみ)が詠んだ挽歌3首の1首です。
墓は岩戸で塞がれています。それをこじ開けて河内王の遺体を出して生き返らせる力が,か弱い女の私にはなく,どうしていいか分からないという葬送の短歌です。
ただ,「手弱し」の対語である「手強し」(現代では「手強い」という)は万葉集に出てきません。「強(ごは)し」の用例が平安時代にならないと出てこないようで「手強い」は後から出てきた言葉と想像できます。なぜ今後から出てきた「手強い」は残り,万葉時代からあった「手弱い」は使われなくなったのか興味があります。
最後に万葉集で9首ほどの和歌に出てくる「手弱女(たわやめ)」について書きます。
「手弱」という漢字は当て字という説もありますが,万葉仮名として「手弱女」と記されている歌もあります。いずれにしても「弱し」という意味は備わっているのでしょう。

~ 獣じもの 膝折り伏して 手弱女の 襲取り懸け かくだにも 我れは祈ひなむ 君に逢はじかも(3-379)
<~ ししじもの ひざをりふして たわやめの おすひとりかけ かくだにも あれはこひなむ きみにあはじかも
<<~ 鹿のように膝を曲げ,か弱い女の衣を羽織り,せめてこのように私はお祈りいたします。あなたに逢えるかも知れないから>>

この長歌は坂上郎女が神事で詠んだものとされています。この長歌の「手弱女」の万葉仮名も「手弱女」です。「か弱い」ことが神を加護を受ける助けになると考えているのかもしれません。
「手弱女」は万葉時代女性は強い手の力(腕力)を出せないという一般的な認識があったことを表している言葉だと私は考えます。
ただ,今は女性は必ずしも「手弱」ではないこともあるようです。先日,夕食の準備中に私がつまみ食いをしようとして伸ばした手に妻がピシャッとしたときの腫れがなかなか治りません。
対語シリーズ「開と閉」に続く。

2011年8月15日月曜日

対語シリーズ「東と西」 ‥東は角,西は金

<最近の出来事>
先日,気が置けない(気心が知れた)友人と東京現代美術館で「フレデリック.バック展」を見に行きました。フレデリック.バックはフランス生まれでカナダに移住し,モントリオールの放送局で活躍したイラストレータです。
展示のメインは1988年アカデミー賞短編アニメーション部門受賞作品「木を植えた男」の上映です。羊飼いの男がたった一人で荒れ果てた砂漠にドングリの実を植え続け,ついには素晴らしい潤いのある森にしていく。その地に住む砂漠のように荒れ果てていた人達の人心も潤いを取り戻すというストーリです。
途中途中の心理描写がアニメーションならではの強調性によって,私たち二人の心に強く入ってきました。
私はその作品で羊飼いの男が一粒ずつドングリを穴に埋めている姿を見て,大伴家持が和歌を1首ずつ万葉仮名でひたすら記録に残していく姿とオーパラップしてしまいました。
<大伴家持の功績‥それは「やまと言葉」を残す事>
奈良時代,和歌(ほとんどが口承)を記録に残すことに対して価値を感じる人は少なかったのではないかと私は考えます。
当時は日本の西方から中国文化が押し寄せ,漢文を読む,漢詩を詠むことが流行の最先端だったのです。したがって,和歌は古臭いもの,過去のもの,お年寄りのものという印象が持たれる中,大伴家持は誰に褒められることも無く,和歌を記録し続けたのでしょう。
父旅人や憶良の影響もあったかも知れませんが,家持はやまと言葉の美しさを残す必要性をひとり感じていたのだろうと私は想像します。
家持の地道な和歌の記録によって万葉集ができ,平安時代になって和歌の復興は叶いました。しかし,歌人家持の評価は家持没後100年以上後の古今和歌集では認められず,200年以上後の藤原公任(ふじわらのきんとう)による三十六歌仙に選ばれたあたりからとなります。
洋の東西を問わず,周りの評価に惑わされずに継続したたった一人の努力の結晶が後世になって評価されることが多いのも事実かも知れません。
「東」「西」
さて,万葉集では「東」を詠んだ和歌が26首ほど出てきますが,「西」を詠んだ和歌は4首だけです。
少ない「西」から見て行くと,「西の山辺」「西の市」「西の馬屋」として「西」が使われています。
「東」は「東の野」「東人(あづまと)」「東の滝」「東の御門」「東の市」「東の国」「東女(あづまをなみ)」「東風(こち・あゆ)」「東の坂」「東の馬屋」「東路(あづまぢ)」「東男(あづまをとこ)」などが詠まれています。

「西の市」と「東の市」の短歌をそれぞれ見て行きましょう。

西の市にただ独り出でて目並べず買ひてし絹の商じこりかも(7-1264)
にしのいちにただひとりいでて めならべずかひてしきぬの あきじこりかも
<<西の市にたった独りで出かけて、いろいろ見比べもせずに買ってしまった絹は買い損ないだな>>

東の市の植木の木垂るまで逢はず久しみうべ恋ひにけり(3-310)
ひむがしのいちのうゑきのこだるまで あはずひさしみうべこひにけり
<<東の市の並木の枝が成長して垂れ下がるまで、ずっとあなたに逢うことができずにいたのだから、恋しく思うのもあたりまえですよ>>

平城京の東西にそれぞれ市があり,各地の物産が集まり,買い物をする京人で賑わっていたそうです。
「西の市」の短歌は,衝動買いをして,質の良くない絹の布を買ってしまったというものです。一人で行くと店の勧めに乗ってしまい買ってしまう。連れだって行くのが賢明だと言いたいのでしょうか。
「東の市」の短歌は,門部王(かどべのおほきみ)という人が詠んだとされるものです。東の市の街路樹が芽吹き始めた頃一度逢ったけれど,なかなか逢えないでいるので恋しい気持ちはさらに強くなっていくという嘆きの歌でしょうか。
この2首だけの感想ですが,「東の市」は「西の市」に比べ,おしゃれで男女の出会いの場だったのかも知れませんね。
それに対して「西の市」はおしゃれさは劣るけれど,安い品物が豊富にあったようにも思います。

今度は同じ長歌の中に「西の馬屋」と「東の馬屋」が出てくる歌がありますので紹介します。

百小竹の三野の王 西の馬屋に立てて飼ふ駒 東の馬屋に立てて飼ふ駒 草こそば取りて飼ふと言へ 水こそば汲みて飼ふと言へ 何しかも葦毛の馬のいなき立てつる(13-3327)
ももしののみののおほきみ にしのうまやにたててかふこま ひむがしのうまやにたててかふこま くさこそばとりてかふといへ みづこそばくみてかふといへ なにしかもあしげのうまのいなきたてつる
<<美努王(みののおほきみ)が 西の厩に飼っている馬も 東の厩に飼っている馬も 草を取って飼うというのに 水を汲んで飼うというのに どうして芦毛の馬がいなないているのだろうか>>

この長歌は,美努王が亡くなったことを弔う挽歌ですが,「西の馬屋」の万葉仮名は「金厩」,「東の馬屋」の万葉仮名は「角厩」です。
「金」を「西」と読ませるのは五行(中国古来の自然哲学:木,火,土,金,水の5要素)において,「五方(五つの方角)」との対応付けでは「木」が「東」,「火」が「南」,「土」が「中央」,「金」が「西」,「水」が「北」を表すため,「金」は「西」を意味するからとのことです。
また,「角」を「東」と読ませるのは,同じく五行において,五音(五つの音階)との対応付けでは,「木」が「角(かく)」,「火」が「徴(ち)」,「土」が「宮(きゅう)」,「金」が「商(しょう)」,「水」が「羽(う)」を表すため,「角」は「木」となり,さらに五行と五方との対応で「木」は「東」を意味するからのことです。
まさに三段論法のような読ませ方ですね。「角」ならば「木」,「木」ならば「東」,よって「角」ならば「東」というように。
この和歌を万葉仮名で記録した人は自分が中国の自然哲学に如何に詳しいか(知識人であるか)を示したかったのかも知れませんね。
美努王が亡くなったのは,家持が生まれる数年も前のこと。万葉仮名で記録したのは家持自身ではなく,もっと以前の人だったと私は思います。
対語シリーズ「強と弱」に続く。

2011年8月13日土曜日

対語シリーズ「苦と楽」 ‥ 苦:楽=5:2

世の中,苦しいときもあれば楽しいときもあります。でも,楽しいときより苦しいときの方が多いと感ずるのは世の常でしょうか。
万葉集では「苦し」を詠んだ和歌が40首余り,「楽し」を詠んだ和歌が16首ほどで,5:2の割合で「苦し」の方が多いのです。
万葉人がどんなことで苦しいと感じたり,楽しいと感じたかを見てみることにしましょう。

まず,何と言っても戦地へ向かう旅路の苦しさは,当時と比べ物にならないくらい平和な現代人にとっても共感できる部分が多いと私は思います。

我が家ろに行かも人もが草枕旅は苦しと告げ遣らまくも(20-4406)
わがいはろにゆかもひともが くさまくらたびはくるしとつげやらまくも
<<私の家に行く人がいてくれたら,この旅は苦しいと告げに行ってもらうのに>>

これは大伴部櫛麻呂(おほともべのくしまろ)という上野(かみつけの:今の群馬県)出身の防人(さきもり)が詠んだ短歌です。
万葉集に選ばれた防人歌は,詠み手の素直な気持ちがしっかりと伝わってくるものを選んでいることが分かります。選者は防人たちの苦しさを何とかさまざまな人に伝え,防人政策にブレーキを掛けたいという意図を私は感じます。

また,昔も今も切ない恋も苦しく感じるもののようです。次は恋慕う苦しさと闘う自分を詠んだ短歌です。

常かくし恋ふれば苦ししましくも心休めむ事計りせよ(12-2908)
つねかくしこふればくるし しましくもこころやすめむ ことはかりせよ
<<いつもこのように恋は募るほど切なく苦しいの。しばらくの間でもその苦しさを忘れられる計らいをたてたいわ>>

この詠み人しらずのこの短歌は,家で悶々として,苦しそうにしている女性の姿が私には伝わってきます。

それから「孤独感」の苦しさを詠んだ和歌も私たちには理解ができそうです。

都なる荒れたる家にひとり寝ば旅にまさりて苦しかるべし(3-440)
みやこなるあれたるいへにひとりねば たびにまさりてくるしかるべし
<<都にある荒れ果てた我が家で一人寝をするなら、今の旅寝よりもっと苦しいだろう>>

これは大伴旅人が神龜5年(天平元年:724)64歳のときに大宰府で詠んだとされる短歌です。
ようやく,近々大宰府の長官の任を解かれ,京に戻ることが決まったのだが,2年前に大宰府で妻を亡くし,誰も待つ人の居ない,荒れ果てた家に一人で住む苦しさは老体には堪える筑紫から奈良に帰る旅路の苦しさの方がまだマシだと詠んでいるのです。

旅人の妻がまだ生きていたときと思われますが,逆に旅人は「楽し」を詠んだ歌をいくつも残しています。

生ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくをあらな(3-349)
いけるものつひにもしぬるものにあれば このよなるまはたのしくをあらな
<<生きているものは最後は死ぬのだから,生きている間は楽しまないとね>>

この短歌は旅人が詠んだ酒を誉むる歌13首のひとつです。解釈は酒を愛する人と飲まない人では異なるかもしれません。
私は天の川君ほどたくさん酒は飲みませんが,適量飲んだときのリラックス感からくる楽しさは肯定的に評価しています。

天の川 「たびとはん。ウワバミみたいに言わんといてんか。精々焼酎1本強空けるだけやんか。」

どう見てもウワバミだね。さて,この他,万葉集では春になったこと,梅の花が咲いた,舟遊びをしたことなどで「楽し」を詠った和歌が出てきます。

「楽し」と「苦し」の両方を詠った旅人は,妻の存在で「楽し」を詠えたのかも知れません。天平2年に京に一人で戻った旅人は大納言に昇進したのですが,翌天平3年66歳でこの世を去りました。
私も日頃「風呂,飯,寝る」くらいしか言っていない妻を少しは大切にしなければ。

天の川 「ほんまやな。それからな,僕ももうちょっと大切にしなアカンで!」

...。

対語シリーズ「東と西」に続く。