万葉集には大晦日を意識して詠んだ和歌はないようです。しかし,12月に年明けを期待して詠んだ和歌はあります。たとえば次の大伴家持の短歌です。
あらたまの年行き返り春立たばまづ我が宿に鴬は鳴け(20-4490)
<あらたまのとしゆきがへり はるたたばまづわがやどに うぐひすはなけ>
<<年が変わり立春を迎えたら,どこよりも先にこの屋敷で鴬よ鳴くのだ>>
この短歌天平宝字元年12月18日三形王(大伴家持の理解者のひとりか?)の邸宅で行われた宴で家持が詠んだものです。旧暦ですから,立春と正月はほぼ同じ時期でした。当時としてはウグイスも鳴き始めてる頃かもしれません。年が変わり春になることを期待している気持ちが良く伝わってきます。しかし,その年7月には橘奈良麻呂の乱があり,関係はなかったものの家持周辺の状況は厳しさが増していたようです。
そんな家持がその5日後に大原今城(家持と同ランクで気心も知れていた間柄か?)邸の宴席で次の短歌を詠んでいます。
月数めばいまだ冬なりしかすがに霞たなびく春立ちぬとか(20-4492)
<つきよめばいまだふゆなり しかすがにかすみたなびく はるたちぬとか>
<<月の数を数えれば,今はまだ冬である。とはいえ霞がたなびいている。立春を迎えたのか?>>
これは12月23日に家持が詠んだものです。後少ししたら年が変わる頃,かなり春めいて霞がたなびいている。天候は立春のようだという家持の気持ちを表していますように私は思います。
この年には今城は従五位下に昇進しています。先輩格(従五位上,少納言)の家持にとっては,嬉しいことだったに違いなく,年明けからの今城の活躍に対する期待が大きかったのかもしれません。
次は,大宰府の長官をしていた大伴旅人が天平2年12月6日京に帰任する宴で詠んだ短歌を紹介します。
かくのみや息づき居らむあらたまの来経行く年の限り知らずて(5-881)
<かくのみやいきづきをらむ あらたまのきへゆくとしの かぎりしらずて>
<<このように嘆息ばかりついているのでしょうか,往く年来る年の際限もわからずに>>
旅人との別れを悲しんで,年が明けても溜息ばかりをついていると詠っているように私は解釈します。
この後の短歌で,山上憶良はため息をつかずに済むように春になったら京に呼んでくださいと詠んでいます。
我が主の御霊賜ひて春さらば奈良の都に召上げたまはね(5-882)
<あがぬしのみたまたまひて はるさらばならのみやこに めさげたまはね>
<<旅人様のお心遣いを賜って,春になったら都に私を召し上げてくださいませ>>
悲しい別れの中でも救いを示す憶良の心遣いのうまさを私は感じます。
年末年始スペシャル「馬を詠んだ和歌(1)」に続く。
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