今回は四国特集の3回目の阿波(徳島)を特集します。
<泡の思い出>
私は徳島市に2005年11月所属するソフトウェア保守の研究会の大会で訪問をしました。行きは前日大阪出張があったので,大阪から高速バスで明石海峡,淡路島,鳴門海峡経由で徳島に入りました。残念ながら移動は夜でしたので,海はほとんど見えませんでした。
大会中の食事は地魚,ワカメ,地元の野菜,柑橘類(特にスダチ)を使ったり,調味した料理を堪能したことを覚えています。大会終了後は,阿波踊り会館で阿波踊りを教えてもらい踊りました。
また,鳴門金時という地元の砂地で栽培されているサツマイモを市場で一箱買って,自宅に送ったりしました。
<今回の本題>
実は,万葉集で阿波の国をテーマとした和歌は船王(ふねのおほきみ)が天平6(734)年3月,聖武天皇が難波の宮に行幸したときに詠んだとされる次の一首のみのようです。
眉のごと雲居に見ゆる阿波の山懸けて漕ぐ舟泊り知らずも(6-998)
<まよのごとくもゐにみゆる あはのやまかけてこぐふね とまりしらずも>
<<眉のように空に立って見える阿波の山を目掛けて漕ぐ舟は途中停泊することも知らずになあ>>
<「阿波」ってどこ?>
難波の宮(現在の大阪城外堀付近南側付近)から阿波の方向を見ても四国の山はおそらく見えません。途中には淡路島などの島があり,停泊する港はあります。難波の宮から海上の先に見えるのは精々淡路島の山くらいです。
なので,「阿波」は「淡路島」の「淡」のことで,実は淡路島の山ではないかと私は思ったのです。すなわち,「淡路」は「阿波路」のことであり,阿波へのみちにある島となれば,「阿波路の山」を略して「阿波の山」としたと言えるかもしれません。
ところが,「日本書紀」「古事記」では,淡路島は阿波の国より先に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)によってできたと記されているとのことで,当時の船王がそれを無視した「阿波の路」説は取りにくい。
ところで,「淡路」を「淡の地」であるとの説もあるようで,「淡の山」は「淡路島の山」と言えなくもありません。しかし,この説も苦しいのです。なぜなら「あわのやま」の原文(万葉仮名)は「阿波乃山」なのです。
当時,阿波という国は淡路島ではなく,四国にある国ということは周知されていたようで,やはり見えないけれど四国の山ととらえることになります。
結局,想像で阿波の山を詠んだのか,何かの喩えとして阿波の山,漕ぐ,舟,泊まるを詠んだのか謎は深まります。
<「阿波」は「粟」?>
私は,想像で四国の阿波にある山を詠んだとすると,船王の意図が想像できず後者を取りたいと思います。では,何の喩えか?
「阿波の山」は「粟の山」ではないか?
当時は「粟」のイメージは今よりずっと良く,「粟の山」と言えば「宝の山」に近かったのかもしれません。万葉時代より後年のことわざでも「濡れ手で粟」というのがあります。
それ(宝の山)を目指していくことはまさに聖武天皇の行政方針の喩えであり,休むことなく進んでおられる天皇を支えたいと考えているのはまさに船王の私です,といった意味のヨイショの短歌だったのかもしれません。
天の川君から「その解釈は無理筋とちゃうか?」と言われるのを覚悟で書いてみました。
投稿300回記念スペシャル(4:まとめ)‥四国特集(土佐)に続く。
0 件のコメント:
コメントを投稿