2011年4月30日土曜日

私の接した歌枕(5:宇治)

これからゴールデンウィークスペシャルとして万葉集に出てくる「私が接した歌枕」シリーズ第2段をお送りします。
前回年末年始のシリーズ第1弾では「逢坂の関」「鏡の山」「富士の高嶺」「伊香保」について書きました。
第2段の最初は「宇治」について書きます。
宇治は私が生まれた京都の伏見,育った山科にも近い場所にあります。
山科に住んでいた頃,小学校の遠足,団地の子供会のハイキングなどでいままで何度か訪れています。ただ,当時から世界的に有名な観光地だったせいか,売っているものの値段の高さには本当に驚きでした。
たとえばビン詰のコーラ1本の定価が当時35円だったのですか,何と土産物屋の店頭で100円で売られていた。
宇治は今も宇治茶の産地であることや,10円硬貨の裏面に描かれている平等院鳳凰堂のある場所ということで知らない人はいないほどです。
また,源氏物語の最後に現れる「宇治十帖」の舞台としてもその名を後世に残しています。
実は最近宇治を訪れ,源氏物語ミュージアムも見てきました。写真は,そのときの宇治川を撮ったものです。


万葉集にも宇治の地を詠った和歌が17首ほど出てきます。その中で万葉集巻一に3首詠まれていますので,宇治の地が相当昔から名の知れた場所だったのは間違いないようです。

秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の宮処の仮廬し思ほゆ(1-7)
あきののの みくさかりふきやどれりし うぢのみやこのかりいほしおもほゆ
<<秋の野に生える草を刈って、それで屋根を葺いてお泊りになった宇治の宮の場所にあった仮のお宿が偲ばれます>>

宇治の地は,奈良明日香から近江へ行く途中の場所であり,流れが急な宇治川を渡る必要があります。
当時橋がまだ掛かっておらず舟で渡る必要があったのでしょう。
しかし,水量が非常に多い場合は,渡るのは危険であり,水量が減り流れが穏やかになるまで仮に泊まる場所が必要になります。
そのため,宮の仮廬を作ったのかも知れません。
宇治川と周辺の山々とのコントラストの美しさや夏の涼しさ,また宇治川で獲れる川魚(次の短歌のような網代により獲ったもの)の新鮮さ,上流や下流から船で運ばれてくる物資の豊さで,昔から宮人達の高級別荘地だったのかも知れません。
なお,網代とは川の瀬に竹や木で編んだものを網の代わり利用して魚を捕る漁法です。

宇治川は淀瀬なからし網代人舟呼ばふ声をちこち聞こゆ(7-1135 )
うぢがははよどせなからし あじろひとふねよばふこゑをちこちきこゆ
<<宇治川には歩いて渡れるような流れが緩やかな浅瀬はない。網代を守る人々が舟を呼んでいる声があちこちで聞こえる>>

宇治川は水量も多く,流れが急なため,網代を立てるのも,網代に掛かった魚を取るのも容易ではなかったのではないでしょうか。
網代で急流につかりながら作業をしている網代人があちこちで舟に「早く来い!」と叫んでいる様子がよく分かりますね。

天の川 「うあ~。冷とうて,えろ~頭に沁みるわ~。」

なんだ? まだ4月だというのに天の川のやつ,カフェでかき氷の「宇治金時時雨(抹茶・小豆・ミルク掛け)」を食べているようです。
私の接した歌枕(6:若狭)に続く

2011年4月29日金曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…散る(3:まとめ)

「散る」の最終回として「花が散る」とともに万葉集で多く詠まれている「紅葉が散る」について見て行くことにしましょう。
なお,万葉集のテキストの多くでは「紅葉(もみじ)」を「黄葉(もみち,もみちば)」と書くようですので,ここでは「黄葉」と書くことにします。
花が散る場合,その花の多くは再び咲くのに翌年まで待つことになります。ただ,花の種類を問わなければ,たとえある花が散ったとしても別の花が続いて咲くこともあります。
また,散り方も桜の花のように,咲いたと思ったらすぐに散る花もあれば,紫陽花(アジサイ)の花(正確には萼)のように色を変えながら何日も楽しめる花もあります。
黄葉はというと木の葉の種類によって色は様々でも,ほぼどの木もいっせいに散ってしまい,散った後は寒々とした冬の風景になって,春になるまでそのままの状態が続いてしまいます。
そんな散る黄葉を万葉集ではどのように詠んでいるのかいくつか見てみましょう。

黄葉の散りゆくなへに玉梓の使を見れば逢ひし日思ほゆ(2-209)
もみちばのちりゆくなへに たまづさのつかひをみれば あひしひおもほゆ
<<黄葉が散ってゆくとともに、使いの人がやってくるのを見ると、妻に逢ったあの日のことが思い出される>>

この短歌は,柿本人麻呂が妻の死に慟哭して詠んだ長歌に併せ詠んだ短歌の1首です。
人麻呂にとって妻との思い出には,秋の黄葉のときに逢った日のことが鮮明に残っているのでしょう。
歌人である人麻呂は黄葉の季節について特別な思いを持っていたのかもしれません。
なぜなら,次の人麻呂の短歌は,因幡から人麻呂が京に帰任する際に,(上の死んだ妻とは別人と思われる)との別れを惜しみ詠んだ長歌に併せ詠んだ短歌の1首です。

秋山に落つる黄葉しましくはな散り乱ひそ妹があたり見む(2-137)
あきやまにおつるもみちば しましくはなちりまがひそ いもがあたりみむ
<<秋山に落ちる黄葉よ、しばらくはそんなに激しく散らないでほしい。妻が居る方をもう少し見ていたいから>>

本当は早く散ってしまった方が遠くに対する見通しが良くなるはずですが,あまりにも激しい落葉の舞いで遠くが見えないという表現を使っています。当然ですが,落葉がいくら激しくても視界の邪魔をすることはなく,(秋)山が視界の邪魔をしているのです。しかし,それを黄葉の落葉のせいにしている点が歌人である人麻呂たる所以ですね。
そういう意味では,花が散るのに比べて若干暗い場面での歌が万葉集に多いようですが,黄葉の美しさを詠んだものもあります。

黄葉の散らふ山辺ゆ漕ぐ船のにほひにめでて出でて来にけり(15-3704)
もみちばの ちらふやまへゆこぐふねの にほひにめでていでてきにけり
<<黄葉が散り流れる山辺に沿って漕ぐこの船は,山が黄葉で美しく染まるのをまるで皆さんと一緒に愛でるために出港して来たようです>>

この短歌は,天平8年遣新羅使の船が対馬竹敷(たかしき)の浜を出港した時に新羅に向かう人達が詠んだ短歌の1首です。作者は対馬から乗船した玉槻(たまつき)の娘子という遣新羅使の長旅をねぎらうことを任務に与えられた女性のようです。
遣新羅使達は,黄葉が本当に美しいと感じても,やはり外洋への船旅の不安,望郷の思い,孤独感などを絡めて詠んだ暗いものが多いため,玉槻の娘子は努めて「こんなに美しい黄葉を皆さんで船から見られるのは本当に珍しいことですよ」と黄葉の美しさで暗くなる彼らの気持ちをしばし忘れさせようとしているかのようです。
玉槻の娘子は今でいう優秀なツアーコンダクターのような人だったのかもしれませんね。

さて,次回からは,ゴールデンウィークスペシャルとして年末年始スペシャルで投稿した「私が接した歌枕」シリーズの第2段をお送りします。
私の接した歌枕(5:宇治)に続く。

2011年4月24日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…散る(2)


万葉集で「散る」を詠んだ花について,もう少しこだわってみましょう。
次は関東地方各地ではそろそろ見ごろとなる藤の花(写真は我が家の近所の庭に植えられている見事な藤です)が散る様子を詠んだ大伴家持の短歌です。



霍公鳥鳴く羽触れにも散りにけり盛り過ぐらし藤波の花(19-4193)
ほととぎす なくはぶれにも ちりにけり さかりすぐらし ふぢなみのはな
<<霍公鳥の羽が少し触れただけでも散ってしまった満開の盛りが過ぎた藤の花房よ>>

この短歌は天平勝宝2年4月9日(今の暦ではゴールデンウィークが過ぎた頃)に越中の高岡で家持(32歳の頃)が詠んだとこの短歌の左注に記されています。
私が先週高岡を訪問した時,もちろん藤はまだ咲いていませんでしたが,満開の桜以外にコブシ,モクレンなども綺麗に咲ている場所がありました。
藤の花の季節,今でも見事に咲く場所が高岡のあちこちにあるのでしょうね。いずれにしても,高岡は春になると次々と花が綺麗に咲く街のようです。

もうひとつ春というより初夏の代表的な花である卯の花(ウツギ)が散る姿を詠んだ短歌を紹介します。

皆人の待ちし卯の花散りぬとも鳴く霍公鳥我れ忘れめや(8-1482)
みなひとのまちしうのはなちりぬとも なくほととぎすわれわすれめや
<<みんなが待っていた卯の花が散ってしまっても鳴いているホトトキズのことを私は忘れたりしません>>

この短歌は,大伴清縄(おほとものきよなは)という伝未詳の人物が詠んだものです。
この作者は万葉集にこの1首でしか出てきませんが,大伴家持とは近い関係の人物だと思われます。
この短歌,卯の花が咲くと,みんなが待ちに待った夏がやってくる。卯の花が散っても鳴き声で私を元気にするホトトギスのことを忘れたりしないことを詠んでいるようです。
夏の雑歌に分類されていますが,ホトトキズが作者の彼女を表しているのかも知れませんね。

さて,暖かくなって,そろそろこのブログに割り込んでは,悪さをする天の川君がおとなしく何か一生懸命書きものをしています。
天の川君,何を書いているのかな。

天の川 「今晩からな,毎週日曜日の夜レギュラー番組になる『爆笑!大日本アカン警察』にたびとはんのアカンところを書いて送るつもりやねん。番組に採用されたら5万円,番組の最優秀アカン賞を出しら10万円も貰えるのやさかいな~」

天の川君!私のどこがアカンなのかな?

天の川 「わいをおいたままだまって富山に行くし,壱岐の麦焼酎『天の川』は一向に買うてきやへんし,最近わざと寒~いボケを書くし,このブログは誤字脱字が多いし,ほんまにアカンことだらけやで」

まあ,たまにしかやらなかったこの番組を,ずっと前から(昨年10月24日の投稿参照)いずれはレギュラー番組化することを見抜いていた天の川君の洞察力に免じてやらせておきましょう。このブログのことが番組に取り上げられたら(たぶん無いと思うけど),それも悪くないですからね。
散る(3;まとめ)に続く。

2011年4月17日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…散る(1)


東京周辺では足早に多くの桜(ソメイヨシノ)が散ってしまいました。私は,この土日で春を再び満喫したいと考え,万葉集ゆかりの地越中(富山県)を車で周遊しています。
本文も高岡市内のビジネスホテルから投稿しています。来る途中寄った山峡の白川郷は梅がようやく咲き始めたところで,五箇山はまだ雪の中といった感じでしたが(右上の写真),高岡市の古城公園はちょうど桜が見ごろです(右下の写真)。

2日目の今日は,砺波平野の散居村やチューリップ畑を見て,飛騨高山信州松本のさまざまな春を訪ねながら帰路の予定です。
さて,今回からゴールデンウィークスペシャルまでの3回は「散る」を万葉集で見て行くことにします。
万葉集では「散る」を詠んだ和歌が200首ほど出てきます。なかなかの数ですね。
その中でも今回は受験シーズンではなかなか書く勇気がでない「花が散る」について取り上げてみます。
万葉集ではさまざまな花(萩,梅,桜,卯の花,橘,馬酔木,藤,撫子,女郎花,山吹,楝<あふち>)が散る対象として詠まれています。
また,花が散る姿を万葉歌人は自分や知人,恋人の庭や園に植えてた花を対象として詠んだものも少なくありません。
まず,桜から。

やどにある桜の花は今もかも松風早み地に散るらむ(8-1458)
やどにあるさくらのはなは いまもかもまつかぜはやみつちにちるらむ
<<貴女のお庭の桜の花は今頃松風が強いので散っているでしょうね>>

これは,厚見王(あつみのおほきみ)が久米女郎(くめのいらつめ)に贈った短歌です。
貴女にはいろんな男性からのアプローチ(松風にたとえている)が多くあるから,私への気持ち(桜の花にたとえている)が薄くなっているのでは?という探りを入れているように私は思います。
それに対して,久米女郎は次のように返しています。

世間も常にしあらねばやどにある桜の花の散れるころかも(8-1459)
よのなかもつねにしあらねば やどにあるさくらのはなのちれるころかも
<<世の中は無常ですから,私の庭にある桜も散る頃かもしれませんわよ>>

「勝負あり。久米女郎の方の勝ち~。」といったところでしょうか。「このまま放っておくと我慢強い私も今にも心変りをしますわよ」と厚見王へのカウンターパンチです。
さて,万葉集では萩や梅が散る和歌ももちろんたくさんありますが,次は橘を見てみましょう。

我が宿の花橘はいたづらに散りか過ぐらむ見る人なしに(15-3779)
わがやどのはなたちばなは いたづらにちりかすぐらむ みるひとなしに
<<私の家の庭の花橘は、ただむなしく散ってしまったことでしょう。だれも見る人がいなくて>>

この短歌は中臣宅守(なかとみのやかもり)が越中国に流罪されるとき(天平12年<740>。大伴家持が越中に赴任する6年前),妻の狭野茅上娘子(さののちがみおとめ)との間で別れを悲しんで贈答し合った中で宅守が詠んだ1首です。
美しい橘の花をふたり一緒に見られず散ってしまうことがどんなに寂しいことか,また橘は実をつける花なのでふたりの間に子ができる機会がなくなることの悲しみがこの短歌から伺えます。
でも,万葉集では花が散ることをそんなにネガティブにとらえていないように私は感じます。
花が散るためには咲く花が必要です。散ることを意識させる花は,その花が美しく,爛漫だからです。花がしっかり咲かなければ散ることもできません。
見事な花が咲くからこそ,その花が散るときも美しく散ることができるのです。
花が散るのを見て「いつまでも咲いていてほしいなあ」という残念な思いはあるのだけれども「よく立派に咲いてくれた。来年も美しく咲いてくれよ」という花に対するねぎらいの気持ちも万葉集から感じるのです。
次回は,さらにその他の花が散る和歌を見て行くことにします。
散る(2)に続く。

2011年4月9日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…たなびく(3:まとめ)

ここ2回で「たなびく」対象の雲,霞を万葉集でどう詠ったかを見てきましたが,その他の対象(霧,煙)を見て行くことにします。
まず,霧ですが「霧がたなびく」といった場合,霧がはっきり棚を引くように広がることはあまり現象としては発生しないように私は思います。
霧は一面にたちこめるといった状態や,靄(もや)っとあたりを覆っている状態が適切でしょう。万葉集で使われている霧に対する「たなびく」はそのような意味で使われていると私は感じます。

我がゆゑに妹嘆くらし風早の浦の沖辺に霧たなびけり(15-3615)
わがゆゑに いもなげくらし かざはやの うらのおきへに きりたなびけり
<<私のために妻は歎いているようだ。風早の浦の沖辺に霧が覆ってしまったから>>

この短歌は,遣新羅使の船が瀬戸内海の風早の浦(広島辺り)に停泊したとき,遣新羅使の一人が詠んだものです。沖合に霧が出て視界が悪くなっている様子から,故郷に残してきた妻の涙が霧となって覆っているのかもしれないという表現により,別れの寂しさを切々と詠いあげていると私は感じます。

ところで,早朝に奈良盆地を周辺の山の上から見るとき,一面の霧が盆地の平らな所に水面のようにたちこめ,大和三山などの山が島のように浮いて見えるときがときどきあるようです。
この場合の「たなびく」霧は「た靡く(しっかりと上から平らになつた)」霧という情景を表しているのかもしれません。「靡く」が「風や水に押されて横に伏す」という意味もあるためです。
「秋津島」という「やまと」にかかる枕詞は,秋の朝のこの風景から発想されたのかもしれないと私は想像してしまいます。朝霧が「たなびく」とは春の情景ではなく秋の情景のシンボルであれば,「秋津島」が「やまと」の枕詞になったという説明はある意味の説得力をもちそうです。
実は「朝霧がたなびく」ことを詠った万葉集の和歌は秋をイメージしたものがほとんどなのです。

朝霧のたなびく田居に鳴く雁を留め得むかも我が宿の萩(19-4224)
あさぎりの たなびくたゐに なくかりを とどめえむかも わがやどのはぎ
<<朝霧がたちこめている田で鳴いている雁を引き留めることができるだろうか、我が庭の萩は>>

この短歌は「光明皇后が秋に吉野へ行幸した際作ったと伝えられるが行幸の年月は不明」とこの短歌の左注に書かれています。この短歌では稲刈りが終わった晩秋の風景が詠みこまれています。田で羽を休め鳴いている雁の姿がうっすらと見える程度に朝霧がたちこめています。その雁たちもやがて越冬地へ渡っていくのです。ところが,別荘の庭の萩は雁が旅たちを惜しがるのではないかと思いたくなるくらい見事に咲いている。
別荘の庭の萩の見事な花とその先に見える田で残った穀物をついばんでいる雁が,朝霧の中でうっすらと見える光景,まさに一幅の絵画のように浮かんでくる秀歌だと私には思えます。

そう一つの「たなびく」対象として「煙(けぶり)」はどうでしょうか。

縄の浦に塩焼く煙夕されば行き過ぎかねて山にたなびく(3-354)
なはのうらにしほやくけぶり ゆふさればゆきすぎかねてやまにたなびく
<<縄の浦で塩を焼く煙が、夕方になり、上方に昇り消え去ることが無くなり、山にたなびいている>>

この短歌は,縄の浦(現在の兵庫県相生市辺りの瀬戸内海に面した海岸)で,日置少老(へきのをおゆ:伝不詳)という人物が詠んだとこの短歌の題詞に書かれています。
製塩で塩を焼く煙が昼間は上にあがって空に消えているのに,夕方になると煙が上に登らず,たなびいている風景を思い浮かべることができる短歌です。
気象現象的に説明すると,夕方になると上空の空気の温度はまだ暖かい状態が残っていいるのですが,日が当らなくなった地上や海上の真上の気温は急激に冷え始めます(高度が高い層の方が高度が低い層より気温が高いという気温の逆転現象)。
そうすると,温められた煙は最初上空に昇りますが,冷たい空気に冷やされ,その上の暖かい空気の層まで到達すると,冷えた煙はその層より比重が重く,それ以上上に昇ることができなくなります。
このため,行き場を無くした煙は上空の暖かい空気の下を横に流れて行きます。この状態が,まさに「煙が棚引く」状態なのだろうと私は思います。

このように「たなびく」一つをとってみでも,日本語(やまと言葉)がさまざまな言葉と結びことでどのように表現が変化し,ニュアンスの種類を増やしてきたか,万葉集を用例として学んだり,想像できることがたくさんあります。
散る(1)に続く。

2011年4月3日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…たなびく(2)

「たなびく」の1回目は対象を雲としましたが,この2回目は対象を霞(かすみ)として万葉集ではどう詠われているか見てみましょう。
霞がたなびくという季節は,次の短歌のように万葉時代も今と変わらず春をイメージするもののようです。

冬過ぎて春来るらし朝日さす春日の山に霞たなびく(10-1844)
ふゆすぎてはるきたるらし あさひさすかすがのやまにかすみたなびく
<<冬が過ぎて春になったらしいなあ。朝日がさして来た春日の山に霞がたなびいているから>>

さて,どこかで似たような短歌を思い浮かべた方もいるでしょう。この短歌は次の有名な持統天皇の短歌のパロディと考えられるからです。

春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山(1-28)
はるすぎてなつきたるらし しろたへのころもほしたりあめのかぐやま
<<春が過ぎて夏になったらしいね。白い色の衣が天の香具山に干してあったから>>

日本人は,万葉時代から位の上下を問わず季節の移り変わりを何かの変化で感じることを常としてきたことが分かります。
さて,霞たなびくは春をイメージしますが,現代人が感じる明るい春のイメージかというと,万葉歌人たちどうもあまりそのように感じていないようです。特に大伴家持にとって,霞がたなびく春は心が沈みがちになる季節だったようです。

心ぐく思ほゆるかも春霞たなびく時に言の通へば(4-789)
こころぐくおもほゆるかも はるかすみたなびくときにことのかよへば
<<心が切なく苦しく思われるようです。春霞がたなびくこの時にお話しがありましたので>>

この家持の短歌は,藤原久須(訓儒)麻呂から「息子の嫁に家持さんの娘をください」という申し出の短歌に対して答えたもののようです。前後の短歌から,どうも家持の娘はまだ幼いという理由でこの申し出をうまく断れないかという意図が見受けられます。
それもそのはずです。藤原久須麻呂は当時政権を掌握し,一族(藤原南家)以外にとって大変な脅威となっていた藤原仲麻呂(恵美押勝)の息子なのです。藤原久須麻呂と縁を結ぶということは,それまで橘諸兄側にいたと思われる大伴氏が藤原仲麻呂側に付く(寝返る)ことを意味し,おいそれと同意できるはずがありません。
この短歌,作成年不詳ですが,家持と久須麻呂双方の年齢,居場所などから,もしかしたら家持が因幡で詠んだ万葉集最後の初春の短歌より後に行われた久須麻呂とのやり取りだった「可能性は否定できない(←最近の福島第一原子力発電所関連の記者会見で良く使われる用例です)」気がします。
いずれにしても,歌人(官僚ではない)家持として,次の有名な短歌のように,いろいろな異動(地方赴任も含む)や氏族間の調整事項が活発となる春は憂鬱な時期だったのかも知れませんね。

春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鴬鳴くも(19-4290)
はるののにかすみたなびき うらがなしこのゆふかげにうぐひすなくも
<<春の野に霞がたなびいている今,私は何となく悲しい気持ちである。夕方になって鶯が鳴いていても>>

霞がたなびくような穏やかな気候になり,仕事が終わった夕方になって盛んに鶯が鳴いて,春だなあと感じても,一日の仕事の疲れがどっと出て,家持は前向きな気持ちになれなかったのでしょうか。しかし,家持は和歌を詠うことによって,気持ちを切り替え,自分に課せられた難局打開へ立ち向かうモチベーションの低下を必死で防ごうとしていたと私は感じます。
たなびく(3:まとめ)に続く。