「惜しむ」の用例として,今でも「名残を惜しむ」という言葉が使われています。
「名残」は「余波」とも書き,ある動きが終わっても,かすかに元の動きの余韻が残っている状態を表す言葉だと思います。
例えば,美しい紅葉が終わって,大半が枯れ木のようになってしまっているが,まだ一部に散らずに残っている部分があり,さぞかし美しかったであろう紅葉の雰囲気が残っている。
それを見て「あ~,もう紅葉も終わったんだ」という思いを「名残を惜しむ」が端的に表現しているのではないでしょうか。
「惜しむ」を使った万葉集の和歌を詠むと「日本人は無常観を楽しむ民族だなあ」と私はつぐつぐ感じることがあります。
一般に無常観は仏教によってもたらされた考え方だと思われがちかもしれません。
しかし,私は仏教伝来以前から日本人は苦しい生活であっても豊かな季節の変化とともに暮らす中,無意識のうちに無常を前提とした価値観を持っていたのではないかと考えます。
そこへ飛鳥時代に仏教(主に大乗仏教)が急速に伝来し,その根底にある無常の思想が日本人の無意識の無常観とマッチし,違和感なく受け入れられたかもしれないと私は思うのです。
世の中に絶対変わらないものはない。今の状態(良い状態/悪い状態)はいずれ変化する。
良い状態が変化し,終わろうとする刹那に「惜しむ」という感情が出現する。
いっぽう,悪い状態が終わり,良い状態になるのを期待する心の動きを動詞シリーズの最初に取り上げた「待つ」があるのかも知れません。
万葉集に「惜しむ」と「待つ」の両方が詠み込まれた長歌の一つ(後半抜粋)を次に紹介します。
この長歌は,摂津国の班田史生丈部龍麻呂が自殺した際,判官であった大伴三中が詠んだとされる挽歌です。
~いかにあらむ 年月日にか つつじ花 にほへる君が にほ鳥の なづさひ来むと 立ちて居て 待ちけむ人は 大君の 命畏み おしてる 難波の国に あらたまの 年経るまでに 白栲の 衣も干さず 朝夕に ありつる君は いかさまに 思ひませか うつせみの 惜しきこの世を 露霜の 置きて去にけむ 時にあらずして(3-443)
<~いかにあらむ としつきひにか つつじはな にほへるきみが にほとりの なづさひこむと たちてゐて まちけむひとは おほきみの みことかしこみ おしてる なにはのくにに あらたまの としふるまでに しろたへの ころももほさず あさよひに >
<<~どのように暮らしているのかと,毎日毎日立派な君がいつもにこやかな顔で帰ってくるかと玄関で待っている家族は,難波の国で年を重ねている。衣も干さずに一日中居る君は何を思ったのか,大切なこの世から露霜のように去って消えてしまった。若くして。>>
年間自殺者が3万人を超える(交通事故で亡くなる人の4倍以上)である状態が続いている今,毎日どこかでこの長歌のような無念な想いをしている人がたくさんいると思うと心が暗くなります。
今の我々は,何としてももっと「命を惜しむ」という心を強くし,そしていろんな人と関わりをもって励まし合いながら生きていくことが大切だという気持ちをより強く持たなければならないと思うのは私だけでしょうか。
さて,このブログも次の次で100回を迎えます。
この後の2~3回は,動きの詞シリーズは少し休みにして,これまでこのブログに残してきた記事を少し振り返ってみたいと考えています。
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