側近くに寄る,夫婦として共に暮らすという意味の「添ふ」は,万葉集ではかなり定型的な表現で使われているようです。
その表現とは「身に添ふ」,またはその修飾表現です(例:「身に取り添ふ」「身に佩(は)き添ふ」)。また,次の東歌のように「剣大刀」という枕詞が前に付く定型表現もいくつか使われています。
剣大刀身に添ふ妹を取り見がね音をぞ泣きつる手児にあらなくに(14-3485)
<つるぎたち みにそふいもを とりみがね ねをぞなきつる てごにあらなくに>
<<いつも一緒だったおめえを俺のものにできなくてよ~,俺は大声を出して泣いちまったぜ。小っちぇ~餓鬼っちょでもないのによ~>>
ちょっと雰囲気を出しすぎて標準的な訳でなくなったかも知れませんが,東歌ということでご容赦ください。
天の川 「たびとはん。この短歌を次の訳にしたらどうやろ?」
<<いつも一緒やったあんたをわてのものにでけへんかったさかい大声できつ~泣けよった。小っこい坊主ちゃうのになあ~>>
天の川君,悪いけどこれでは完全に(関東の)東歌の雰囲気は壊れてしまうね。変な突っ込みは無視して話を続けます。
剣や大刀の本体(刃の部分)は「鞘(さや)」や「柄(つか)」に対して「身」と呼ぶことから「剣太刀」は「身」などに掛かる枕詞と考えられているようです。
また,剣や大刀は腰に直接着ける(差す)ため,「剣大刀」の枕詞が付いた「身に添ふ」は本当に近くに寄添う状況をイメージしているのだと私は想像します。
この東歌は「身に添ふ妹」と夫婦になれなかった悔しさを見事に表現していると私は捉えています。
<私の中国出張の経験>
ところで,私は先週5日間ほど会社の出張で中国遼寧省へ行ってきました。
中国のパートナー会社と新規IT関連プロジェクトの打合せのためです。
今まで過去4回ほどそれぞれのプロジェクト連携で訪問しているのですが,今回4年ぶりの訪問で以前一緒にプロジェクトをやった技術者との久しぶりの再会を喜びあうことができました。
再会した人たちは,前回訪問時以降一往に昇進し,中には前回以降結婚し子供ができた人もいました。もちろん初めて連携プロジェクト参加する数多くの初対面の技術者とも仲良くなれたことも収穫の一つです。
訪問時の挨拶では,私はいつも「1千数百年以上前から私たち日本人は中国からものすごくたくさんのことを教えて頂いてきた。今回のプロジェクトは困難なプロジェクトだけれども,お互いの強みや特徴ある知恵を出し合って見事乗り切ろう」との内容を入れることにしています。
<お互い寄り添って考える>
プロジェクトの重要成功要因は,メンバーが如何に近い(添う)気持ちで何でも言える関係になれるかが一つのポイントだと私は考えています。今回の訪問ではパートナー企業の担当者から新たな連携内容について質問が大小100以上出ることを目標にして,何でもフランクに話しができ,ディスカッションできるよう,いわゆるファシリテーションにも力を入れました。
さらに,彼等自身の課題について一緒に解決策を導き出すことにしました(現場が長かったので同じような経験を多数していましたから)。「そんな問題は君たちが考える話だ!」というような突き放した言い方は一切せずにです。
「そんなことをすると相手企業を甘やかすことになる」と私のやり方に異議を唱える日本の技術者がいることも知っています。
<補完関係で品質確保>
ただ,今回もプロジェクト全体遂行の難しさを具体的に伝え「私たちも難しい問題をいっぱい抱えている。こちらの問題解決にも一緒に協力してほしい」と伝えました。
結果,相手担当者は簡単な一部のみの対応を期待されているのではないことを感じ,さまざまな課題の対応策を必死で考え出そうとしてくれるようになった手応えを得たのです。
特に「品質保証に対する強い意識。品質確保には十分なコミュニケーションが必要。一方通行では品質は確保できない」という思いを共有できたことは大きな収穫でした。
お互いが「剣大刀身に添う」ように近い関係のパートナーとして互恵関係を築くことこそがグローバルな連携の柱だと私は改めて感じることができたのです。
それと同時に,このような密接な国際連携ができる今日の日中友好関係を先陣を切って築かれた先達の英知と努力に心より尊敬と感謝の念も重ねて強く感じられた今回の出張でした。
「添ふ(2)」に続く。
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