未曾有の出来事があった今年1年もあと数日で終わろうしています。多少騒がしくても,明るく活気あふれる辰年になればと願っています。
今回は「静」と「騒」の対語を万葉集で見て行きます。万葉集では「静」という漢字を当てる言葉は「静けし」という形容詞の使い方がほとんどです。そして,「静けし」が詠まれている万葉集の和歌は7首で,それほど多くはありません。
いっぽう「騒」の漢字を当てる言葉は「騒く」(動詞),「騒き」(名詞),「潮騒(しほさゐ)」(名詞・連語)などの多様な使い方が万葉集に出てきます。それに合わせ,「騒」の漢字を当てた万葉集の和歌は50首近くになります。
まず,「静」と「騒」の両方が出てくる短歌を紹介します。
沖つ波辺波静けみ漁りすと藤江の浦に舟ぞ騒ける(6-939)
<おきつなみへなみしづけみ いざりすとふぢえのうらにふねぞさわける>
<<沖の波も岸辺の波も静かなので,漁に出るため藤江の浦は漁をする舟が騒いでいた>>
この短歌は,山部赤人が旅先から京(みやこ)に戻る途中,播磨(はりま:今の兵庫県)の海岸沿いの街道を進んでいる時を思い出して詠んだ長歌と短歌3首の内の最初に出てくる短歌です。
「今日は凪(なぎ)なので漁にはもってこいだぞ,さあ急いで漁に出よう」と漁師が大きな声をあげて湊(みなと)を出ようとしている様子が鮮やかに見て取れるようです。波は静かだけれど,人間(漁師)の方が騒がしい(活気がある)湊の姿。さすが赤人の表現力は素晴らしいと私は思います。
次は「静」を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
静けくも岸には波は寄せけるかこれの屋通し聞きつつ居れば(7-1237)
<しづけくも きしにはなみはよせけるか これのやとほしききつつをれば>
<<静かに岸辺に波は寄せるものだ。この家の中から聞いていると>>
この作者は旅先で漁師の家に泊まったのかも知れませんね。漁師の家は大体入江の奥に作られます。その住まいは入江の奥の湊の近くですから波は静かなのでしょう。海の波は荒々しいと思っていた作者は,意外と心地よい静かな波音が聞ける海辺の家を好きになったようです。
<伊根の舟屋>
私が大学生の時,ゼミの先輩の実家が京都府伊根町の典型的な舟屋ということで,夏休みに丹後半島を一人旅したとき寄らせて頂いたのです。写真は今Wikipediaの「舟屋」に掲載されている伊根の舟屋の全景です。
お昼を頂戴し,午後はその実家に戻っている先輩と舟屋の2階の海に面した(というより突き出た)畳の間で過ごしました。朴訥(ぼくとつ)とした先輩から舟屋の暮らしをゆっくりお聞きしながら,階下の波音を何時間も聞いていたのを思い出します。
伊根湾の海面は,その日夏の午後の太陽が鏡のようにキラキラと私の顔に反射し,舟屋の2階の下(舟を入れる場所)に寄せる波は「チャポン,チャポン」といった程度の音の繰り返しで,本当に海の上なのかと思わせる静かさでした。残念ながら,いっせいに各舟屋から出漁する光景は見られませんでしたが,そのときは最初に示した赤人の短歌のような騒がしさがきっとあるのでしょうね。
<今静かだからといって万葉時代も静かとは限らない>
続いて滋賀県高島市から琵琶湖に注ぐ安曇(あど)川の川波が「騒く」を詠んだ詠み人知らず(旅人)の短歌を紹介します。
高島の阿渡川波は騒けども我れは家思ふ宿り悲しみ(9-1690)
<たかしまのあどかはなみはさわけども われはいへおもふやどりかなしみ>
<<高島の安曇川の川波は騒がしいが,私の心は家を想うのみで旅先での寂しい泊まりが悲しい>>
当時,恐らく安曇川は今の高島市朽木(くつき)地区(旧朽木村)周辺で伐採された木材や若狭湾でとれた海の幸を若狭街道から琵琶湖へ運ぶ,舟の交通の要所だったと私は思います。この短歌を詠んだ旅人は今でいう仕事での出張ようなものだったのだのでしょう。写真は今年2月に私が撮った安曇川河口です。
当時はもっと活気があり,旅人を泊める宿も多くあったと考えます。そのため,川波が騒がしいのは春の雪解け水で水流が多い時期だったのかも知れませんが,行き交う舟が立てる波が騒がしかった可能性も否定できません。
今の風景を見て,当時も寂しい場所だっと決めつけるのは良くないことだというのが私の基本的な考えです。
藤原京から奈良時代に掛けて,全国交通網と駅(うまや)が整備され,海や川を舟が物資を運べるよう湊がたくさん作られたのです。高島の安曇川河口や北国街道西近江路が渡る場所は,この短歌が詠まれた当時はかなり活気のある湊町だったと私は想像します。
ただ,後の時代になり,若狭街道の近江今津市保坂から琵琶湖畔の今津へ抜ける街道が整備され,今津港から大型船が発着できるようになると,やがて安曇川を上り下りする舟も減り,活気も薄れて行ったのでしょう。
万葉集は当時のさまざまな状況を後世の私たちにロマン豊かに教えてくれる素晴らしいエビデンス(物証)だと,私はつねづね思うのです。
次回からは年末年始スペシャル「私の接した歌枕」のシリーズ3回目(箱根)をお送りします。
2011年12月29日木曜日
2011年12月23日金曜日
対語シリーズ「着ると脱ぐ」‥♪「あ~,夢~一夜~。一夜限り..」
今回は,万葉集で衣(ころも,きぬ)を「着る」と「脱ぐ」がどのように詠われているかを見ていきます。
まず,万葉集で「着る」「脱ぐ」の対象の衣(ころも,きぬ)に関連する言葉をあげると次のような言葉が出てきます。
赤衣(赤色の衣),秋さり衣(秋になって着る着物),麻衣(麻衣で作った衣,喪中に着る麻布の着物),洗い衣(取替川に掛かる枕詞),あり衣の(三重などにかかる枕詞),薄染め衣(薄い色に染めた衣服),肩衣(袖の無い庶民服),形見<かたみ>の衣(その人を思い出させる衣),皮衣(毛皮で作った防寒用の衣),唐衣・韓衣<からころも>(中国風の衣),雲の衣(織姫が空で纏う衣),恋衣(恋を常に身を離れない衣に見立てた語。恋という着物),衣手(袖),下衣(下着),塩焼き衣(潮を焼く人が着る粗末な衣服),袖付け衣(袖のある衣服),旅衣(旅できる衣服),旅行き衣(旅衣と同意),玉衣(美しい衣),露分け衣(露の多い草葉などを分けて行くときに着る衣),解き洗い衣(解いて洗い張りする着物),解き衣の(乱るにかかる枕詞),慣れ衣(普段着),布肩衣(布で作った肩衣),布衣(布製の衣服),濡れ衣(濡れた着物),藤衣(藤つるの繊維で作ったも粗末な衣),古衣(着古した着物),木綿<ゆふ>肩衣(木綿で作った肩衣)
このようにたくさん衣に関する言葉が万葉集に出てくるのは,当時「衣」の生産が急速に発展し,生産技術向上で値段も下がり,さまざまな種類のモノが手に入るようになったためだろうと私は考えます。
では「着る」を読んだ詠み人知らずの短歌から紹介します。
衣しも多くあらなむ取り替へて着ればや君が面忘れたる(11-2829)
<ころもしもおほくあらなむ とりかへてきればやきみが おもわすれたる>
<<着る衣がたくさんあれぱなあ。衣をあれこれと取り替えて着ることができたら君の顔をきっと忘れることができるだろう(衣は君用の一つしかないから忘れられない)>>
この短歌は妻問をしても,なかなか逢ってくれない相手に対して贈った短歌ではないかと私は推理します。
当時は,妻問いするときに着て行く衣はお互いに決め,相互に相手の衣(下着)を贈り合って,それを下に着きるという風習があったのでしょうか。
財力や権力を多く持つ男には妻問いする相手が複数いたはずです。でも,この短歌の作者は「君用の衣しかない(君しかいない)」と「相手は君だけだ」と主張しています。
次は「脱ぐ」を詠んだ,これも詠み人知らずの短歌です。
夜も寝ず安くもあらず白栲の衣は脱かじ直に逢ふまでに(12-2846)
<よるもねずやすくもあらず しろたへのころもはぬかじ ただにあふまでに>
<<夜も寝られず,気が休まることもない。貴女が着ていた白妙の衣は脱がずにいよう。今度本当に逢うまでは>>
この他に「脱ぐ」が出てくる短歌がもう1首ありますが,そちらも「脱がない」という否定形で,結局は「着ている」という意味になってしまいます。
相手を意識させる衣は逢わないときはいつも「着ている」ようにし,逢った時だけ「脱いで」,お互いの衣や袖を交換するという逢瀬のイメージが万葉集から感じ取れそうです。
万葉時代相手に逢うときは,フォーク歌手南こうせつが歌った「夢一夜」に出てくる「♪着て行く服がまだ決ま~らない ..」というようなことはなく,いつも同じ衣を着ていたことになりそうですね。
逆に違う衣を着て行くと別に浮気相手がいて,そちら寄ってからハシゴでこちらに寄ったと受け取られかねない時代だったと想像できそうですね。
対語シリーズ「静と騒」に続く。
まず,万葉集で「着る」「脱ぐ」の対象の衣(ころも,きぬ)に関連する言葉をあげると次のような言葉が出てきます。
赤衣(赤色の衣),秋さり衣(秋になって着る着物),麻衣(麻衣で作った衣,喪中に着る麻布の着物),洗い衣(取替川に掛かる枕詞),あり衣の(三重などにかかる枕詞),薄染め衣(薄い色に染めた衣服),肩衣(袖の無い庶民服),形見<かたみ>の衣(その人を思い出させる衣),皮衣(毛皮で作った防寒用の衣),唐衣・韓衣<からころも>(中国風の衣),雲の衣(織姫が空で纏う衣),恋衣(恋を常に身を離れない衣に見立てた語。恋という着物),衣手(袖),下衣(下着),塩焼き衣(潮を焼く人が着る粗末な衣服),袖付け衣(袖のある衣服),旅衣(旅できる衣服),旅行き衣(旅衣と同意),玉衣(美しい衣),露分け衣(露の多い草葉などを分けて行くときに着る衣),解き洗い衣(解いて洗い張りする着物),解き衣の(乱るにかかる枕詞),慣れ衣(普段着),布肩衣(布で作った肩衣),布衣(布製の衣服),濡れ衣(濡れた着物),藤衣(藤つるの繊維で作ったも粗末な衣),古衣(着古した着物),木綿<ゆふ>肩衣(木綿で作った肩衣)
このようにたくさん衣に関する言葉が万葉集に出てくるのは,当時「衣」の生産が急速に発展し,生産技術向上で値段も下がり,さまざまな種類のモノが手に入るようになったためだろうと私は考えます。
では「着る」を読んだ詠み人知らずの短歌から紹介します。
衣しも多くあらなむ取り替へて着ればや君が面忘れたる(11-2829)
<ころもしもおほくあらなむ とりかへてきればやきみが おもわすれたる>
<<着る衣がたくさんあれぱなあ。衣をあれこれと取り替えて着ることができたら君の顔をきっと忘れることができるだろう(衣は君用の一つしかないから忘れられない)>>
この短歌は妻問をしても,なかなか逢ってくれない相手に対して贈った短歌ではないかと私は推理します。
当時は,妻問いするときに着て行く衣はお互いに決め,相互に相手の衣(下着)を贈り合って,それを下に着きるという風習があったのでしょうか。
財力や権力を多く持つ男には妻問いする相手が複数いたはずです。でも,この短歌の作者は「君用の衣しかない(君しかいない)」と「相手は君だけだ」と主張しています。
次は「脱ぐ」を詠んだ,これも詠み人知らずの短歌です。
夜も寝ず安くもあらず白栲の衣は脱かじ直に逢ふまでに(12-2846)
<よるもねずやすくもあらず しろたへのころもはぬかじ ただにあふまでに>
<<夜も寝られず,気が休まることもない。貴女が着ていた白妙の衣は脱がずにいよう。今度本当に逢うまでは>>
この他に「脱ぐ」が出てくる短歌がもう1首ありますが,そちらも「脱がない」という否定形で,結局は「着ている」という意味になってしまいます。
相手を意識させる衣は逢わないときはいつも「着ている」ようにし,逢った時だけ「脱いで」,お互いの衣や袖を交換するという逢瀬のイメージが万葉集から感じ取れそうです。
万葉時代相手に逢うときは,フォーク歌手南こうせつが歌った「夢一夜」に出てくる「♪着て行く服がまだ決ま~らない ..」というようなことはなく,いつも同じ衣を着ていたことになりそうですね。
逆に違う衣を着て行くと別に浮気相手がいて,そちら寄ってからハシゴでこちらに寄ったと受け取られかねない時代だったと想像できそうですね。
対語シリーズ「静と騒」に続く。
2011年12月18日日曜日
対語シリーズ「上と下」‥敬語は難解?
慶応大学の創立者で1万円札の肖像にもなっている福沢諭吉が「天は人の上に人を造らず,人の下に人を造らず」と書いたのは,それだけ日本人には人と人の上下関係の意識が強いが,新しい文明開化の世の中ではその意識を打ち破り,平等意識を持つ必要があると考えたからなのでしょう。
<日本語の敬語類は難しい>
日本語には敬語(尊敬語,謙譲語,丁寧語)という同じ意味ではあるが伝える相手によって表現を変える用法があります。
敬語がなぜできたか?それは相手と自分との上下関係を常に意識することが是とする国民性から来たものだと考えます。諭吉がいくら近代日本を大きく変えた人だといっても,敬語のほうは今もしっかり使われています。
ところが,上下関係を意識することが少ないリベラルな思想や個人主義が定着している国で育った人達が日本語を学ぶ場合,敬語を覚えるのに苦労するとよく聞きます。
覚える価値を感じにくい訳ですから,覚える気持ち(モチベーション)が削がれるのは致し方ないことですね。
今の日本人でも敬語が正しく使えない人は結構いるようで,それだけ敬語は難しく,上下関係の意識の変化も影響しているのかも知れませんね。
<敬語は地方によっても使い方が異なる?>
実は,敬語は地方(方言)によっても使い方が微妙に違います。
たとえば,関東地方の私鉄の車掌が乗客に「降りましたら,白線の内側をお歩きください」とアナウンスします。
関西出身の私には,やはり違和感を感じます。「お降りになりましたら,白線の~」でしょう?と感じるのです。
もっとひどい事例は,駅構内アナウンスで「遅延証明書が必要な方が居(お)りましたら駅事務室までお越しください」です。お客様に「居りましたら」はないでしょう?「いらっしゃいましたら」に決まっているでしょう?と思う訳です。
ただ,関西の方言での敬語の使い方にもちょっと違和感を感じる部分もあります。
<京都の人は殺人容疑者にも敬語を使う?>
京都で育った私は,京都に暮らしていた頃に放送されたテレビの地元ニュースで,ある地区の住人が殺人犯の容疑者として逮捕されたというニュースがありました。
そのニュースでは,テレビ記者のインタビューに応じた容疑者の近くに住む主婦が「あの人が人を殺しはるやてほんまにケッタイ(不思議)やわ」と答えていました。
当時の私は,殺人容疑者に対して「殺しはる」という尊敬語を使うのは同じ京都人としても変だな?と感じたのです。
京都がさまざまな為政者によって頻繁に政権がとって変わることを経験してきた庶民が,今まで悪者とされてきた人達が突然政権を執って偉い人になる可能性が否定できない以上,一応他人には「何々しやはる」という便利で中半端な敬語を使うようになったようだと納得したのは,もっと後になってからでした。
<大阪弁はせっかち?>
ところで,天の川君に「早くして欲しい」を大阪弁で上下関係をいろいろ意識した場合の表現でやってもらいましょう。
天の川 「よっしゃ。それくらい任せといてんか。
早よせんかい(上⇒下)。
頼むわ,早よ~して~な(同等)。
早よ~にお願いますわ(下⇒上中)。
早よお願いできまへんやろか(下⇒上上)。」
「上方(かみがた)」と長い間自分立ちの方が江戸より上だと自称してきた関西の言葉も人の上下関係にはかなり敏感なようですね。
<万葉集の上と下>
さて,話を本来の万葉集に移しましょう。
出てくるのは「上(かみ)つ瀬」と「下(しも)つ瀬」,「上辺(かみへ)」と「下辺(しもべ)」,「下着(したき)」と「上着(うはき」,「雲の上」と「葉の下」,「上り(のぼり)」と「下り(くだり)」,「上紐(うはひも)」と「下紐(したひも)」,「山下」と「山上」という地理的,物理的な「上」と「下」を詠んだものがほとんどに見えます。
いくつか紹介しましょう。
あしひきの山下日陰鬘着る上にや更に梅を偲はむ(19-4278)
<あしひきの やましたひかげ かづらける うへにやさらに うめをしのはむ>
<<山下に生える日影のかづらを髪の飾りに着けている今,なぜ山の上に咲く梅を殊更賞賛しようとしているのですか>>
この短歌は,昨年3月28日に当ブログにアップした記事でも紹介していますが,天平勝寶4年の新嘗祭の酒宴で藤原永手(ふじはらのながて)が空気を読まない歌を詠ったのに対して大伴家持が皮肉を混めて詠ったものです。
かづらの木は地味で,山の下の日陰で育ちます。梅は派手で,山の上のような日当たりのよいところで育ちます。
「あなたは出世が約束されている。でも今日は現場で苦労してつつお勤めをしている我々の日なのです」と家持は諭しているように私は感じます。
雲の上に鳴きつる雁の寒きなへ萩の下葉はもみちぬるかも(8-1575)
<くものうへに なきつるかりのさむきなへ はぎのしたばはもみちぬるかも>
<<雲の上で鳴いている雁が寒そうであるとともに萩の下の方の葉は色づいてきたのかな>>
この短歌は,天平10(738)年8月20日,その年の初めに官職ナンバー2の右大臣になったばかりの橘諸兄(たちばなのもろえ)宅で行われた宴(うたげ)の歌7首の中で,諸兄自身が詠んだ1首です。
そのままの解釈は秋が深まってきたという意味ですが,宴に参加した人達に対し「これからもっと大変になるけれど,俺の時代が来たのかもな」と伝えたかったのではと私は思います。
万葉集では,身分の上下関係を「上」「下」という言葉を使って直接詠んでいる和歌はないようですが,深読みするとこの短歌のように身分の上下を意識させているようにも解釈できそうだからです。
諸兄は天平15(743)年には官職ナンバー1の左大臣になり,さらに6年後の天平感宝元(749)年には、官位が正一位となり,これより上はない地位まで上り詰めるのです。
最後は,少し艶めかしい感じの女性(詠み人知らず)の短歌を紹介します。
人の見る上は結びて人の見ぬ下紐開けて恋ふる日ぞ多き(12-2851)
<ひとのみる うへはむすびて ひとのみぬ したひもあけて こふるひぞおほき>
<<人の目につく上着の紐は結んでおき、人から見えない下紐を結ばないようにして,お出でになるのを恋しく思う日が多いこの頃です>>
早く来てほしいと思っている私なのに貴方はなかなか来てくれない。何とか恋しい気持ちを分かってほしいけれど人目につくところでサインを出すのは恥ずかしい。
そんな外(上)には出せない内面(下)の女性心理が見え隠れするような気がします。
対語シリーズ「着ると脱ぐ」に続く。
<日本語の敬語類は難しい>
日本語には敬語(尊敬語,謙譲語,丁寧語)という同じ意味ではあるが伝える相手によって表現を変える用法があります。
敬語がなぜできたか?それは相手と自分との上下関係を常に意識することが是とする国民性から来たものだと考えます。諭吉がいくら近代日本を大きく変えた人だといっても,敬語のほうは今もしっかり使われています。
ところが,上下関係を意識することが少ないリベラルな思想や個人主義が定着している国で育った人達が日本語を学ぶ場合,敬語を覚えるのに苦労するとよく聞きます。
覚える価値を感じにくい訳ですから,覚える気持ち(モチベーション)が削がれるのは致し方ないことですね。
今の日本人でも敬語が正しく使えない人は結構いるようで,それだけ敬語は難しく,上下関係の意識の変化も影響しているのかも知れませんね。
<敬語は地方によっても使い方が異なる?>
実は,敬語は地方(方言)によっても使い方が微妙に違います。
たとえば,関東地方の私鉄の車掌が乗客に「降りましたら,白線の内側をお歩きください」とアナウンスします。
関西出身の私には,やはり違和感を感じます。「お降りになりましたら,白線の~」でしょう?と感じるのです。
もっとひどい事例は,駅構内アナウンスで「遅延証明書が必要な方が居(お)りましたら駅事務室までお越しください」です。お客様に「居りましたら」はないでしょう?「いらっしゃいましたら」に決まっているでしょう?と思う訳です。
ただ,関西の方言での敬語の使い方にもちょっと違和感を感じる部分もあります。
<京都の人は殺人容疑者にも敬語を使う?>
京都で育った私は,京都に暮らしていた頃に放送されたテレビの地元ニュースで,ある地区の住人が殺人犯の容疑者として逮捕されたというニュースがありました。
そのニュースでは,テレビ記者のインタビューに応じた容疑者の近くに住む主婦が「あの人が人を殺しはるやてほんまにケッタイ(不思議)やわ」と答えていました。
当時の私は,殺人容疑者に対して「殺しはる」という尊敬語を使うのは同じ京都人としても変だな?と感じたのです。
京都がさまざまな為政者によって頻繁に政権がとって変わることを経験してきた庶民が,今まで悪者とされてきた人達が突然政権を執って偉い人になる可能性が否定できない以上,一応他人には「何々しやはる」という便利で中半端な敬語を使うようになったようだと納得したのは,もっと後になってからでした。
<大阪弁はせっかち?>
ところで,天の川君に「早くして欲しい」を大阪弁で上下関係をいろいろ意識した場合の表現でやってもらいましょう。
天の川 「よっしゃ。それくらい任せといてんか。
早よせんかい(上⇒下)。
頼むわ,早よ~して~な(同等)。
早よ~にお願いますわ(下⇒上中)。
早よお願いできまへんやろか(下⇒上上)。」
「上方(かみがた)」と長い間自分立ちの方が江戸より上だと自称してきた関西の言葉も人の上下関係にはかなり敏感なようですね。
<万葉集の上と下>
さて,話を本来の万葉集に移しましょう。
出てくるのは「上(かみ)つ瀬」と「下(しも)つ瀬」,「上辺(かみへ)」と「下辺(しもべ)」,「下着(したき)」と「上着(うはき」,「雲の上」と「葉の下」,「上り(のぼり)」と「下り(くだり)」,「上紐(うはひも)」と「下紐(したひも)」,「山下」と「山上」という地理的,物理的な「上」と「下」を詠んだものがほとんどに見えます。
いくつか紹介しましょう。
あしひきの山下日陰鬘着る上にや更に梅を偲はむ(19-4278)
<あしひきの やましたひかげ かづらける うへにやさらに うめをしのはむ>
<<山下に生える日影のかづらを髪の飾りに着けている今,なぜ山の上に咲く梅を殊更賞賛しようとしているのですか>>
この短歌は,昨年3月28日に当ブログにアップした記事でも紹介していますが,天平勝寶4年の新嘗祭の酒宴で藤原永手(ふじはらのながて)が空気を読まない歌を詠ったのに対して大伴家持が皮肉を混めて詠ったものです。
かづらの木は地味で,山の下の日陰で育ちます。梅は派手で,山の上のような日当たりのよいところで育ちます。
「あなたは出世が約束されている。でも今日は現場で苦労してつつお勤めをしている我々の日なのです」と家持は諭しているように私は感じます。
雲の上に鳴きつる雁の寒きなへ萩の下葉はもみちぬるかも(8-1575)
<くものうへに なきつるかりのさむきなへ はぎのしたばはもみちぬるかも>
<<雲の上で鳴いている雁が寒そうであるとともに萩の下の方の葉は色づいてきたのかな>>
この短歌は,天平10(738)年8月20日,その年の初めに官職ナンバー2の右大臣になったばかりの橘諸兄(たちばなのもろえ)宅で行われた宴(うたげ)の歌7首の中で,諸兄自身が詠んだ1首です。
そのままの解釈は秋が深まってきたという意味ですが,宴に参加した人達に対し「これからもっと大変になるけれど,俺の時代が来たのかもな」と伝えたかったのではと私は思います。
万葉集では,身分の上下関係を「上」「下」という言葉を使って直接詠んでいる和歌はないようですが,深読みするとこの短歌のように身分の上下を意識させているようにも解釈できそうだからです。
諸兄は天平15(743)年には官職ナンバー1の左大臣になり,さらに6年後の天平感宝元(749)年には、官位が正一位となり,これより上はない地位まで上り詰めるのです。
最後は,少し艶めかしい感じの女性(詠み人知らず)の短歌を紹介します。
人の見る上は結びて人の見ぬ下紐開けて恋ふる日ぞ多き(12-2851)
<ひとのみる うへはむすびて ひとのみぬ したひもあけて こふるひぞおほき>
<<人の目につく上着の紐は結んでおき、人から見えない下紐を結ばないようにして,お出でになるのを恋しく思う日が多いこの頃です>>
早く来てほしいと思っている私なのに貴方はなかなか来てくれない。何とか恋しい気持ちを分かってほしいけれど人目につくところでサインを出すのは恥ずかしい。
そんな外(上)には出せない内面(下)の女性心理が見え隠れするような気がします。
対語シリーズ「着ると脱ぐ」に続く。
2011年12月10日土曜日
対語シリーズ「新と古」‥お願い,古着のように捨てないで!
今回は前置き無しに万葉集で「新」と「古」の両方を含んだ,非常に分かりやすい詠み人知らずの短歌から紹介しましょう。
冬過ぎて春し来れば年月は新たなれども人は古りゆく(10-1884)
<ふゆすぎてはるしきたれば としつきはあらたなれども ひとはふりゆく>
<<冬が過ぎて春が来れば,年月は新しくなるけれど人はその分年をとって行く>>
この短歌,特に解説はいらないと思いますが,一休(室町時代の臨済宗大徳寺派の僧:いわゆる「一休さん」のモデル)が詠んだと伝えられている次の短歌を思い出しますよね。
門松(かどまつ)は冥土(めいど)の旅の一里塚(いちりづか)めでたくもありめでたくもなし
次にこれも結構分かりやすい,同じく「新」と「古」の両方を含んだ詠み人知らず(東歌)を紹介します。
おもしろき野をばな焼きそ古草に新草交り生ひは生ふるがに(14-3452)
<おもしろきのをばなやきそ ふるくさににひくさまじり おひはおふるがに>
<<趣き深いこの野を野焼きしないで欲しい,古草の中から新草が入り交じって生えていて,これからさらに生えようとしているでしょうに>>
最後の「がに」は今でも金沢弁などで「いいがに」⇒「いいように」といった言い方で使われているようです。
奈良の若草山では,毎年1月下旬頃に山焼きが行われています。それによって堅く古い草を焼き,若草山に住んでいる鹿に春の若草を食べやすくしているのではないかと私は思います。
奈良時代には鹿を食用肉としてたべていたようで,野焼きは一種鹿の放牧の一環の作業だったのかも知れませんね。
さて,「新」を使った和歌をみていくと,「新草」の他に「新木(あらき):切り出した直後の木」「新夜(あらたよ):毎夜」「新代・新世(あらたよ):新しい御代」「新桑(にひくは):新しい桑の葉」「新防人(にひさきもり):新たに派遣された防人」「新手枕(にひたまくら):男女の初夜」「新肌(にひはだ):jまだ誰も触れていない肌」「新治(にひはり):開墾したての田など」「新室(にひむろ):新しい家や室」「新喪(にひも):新しい喪の期間」「新嘗(にふなみ):新穀を食すこと」が出てきます。
この中で,気になる「新手枕」を詠んだ詠み人知らずの短歌を紹介します。
若草の新手枕をまきそめて夜をや隔てむ憎くあらなくに(11-2542)
<わかくさのにひたまくらをまきそめて よをやへだてむにくくあらなくに>
<<妻と初めて床を伴にしてから一夜だって別々に寝るものか愛しくてしょうがないのに>>
この短歌から,妻問い婚ではなく,夫婦ともに暮らしている状態が想像されます。妻問いは,万葉時代の慣習だったと思われますが,庶民を中心に夫婦共同生活者もかなりいたのかと私は想像します。
今度は「古」を使った和歌を見て行くことにしましょう。
13-3452の短歌で使われている「古草」の他に「古へ(いにしへ):むかし」「古江(ふるえ):古びた入江」「古枝(ふるえ):年を経た木の枝」「古幹(ふるから):古く枯れた茎」「ふるころも(古衣):古着」「古人(ふるひと):昔の人」「古家(ふるへ):古い家,元の家」「古屋(ふるや):古い家」が出てきます。
この中で,「古衣」を題材に,自分を棄てた元恋人への恨みごとを詠んだ詠み人知らずの短歌を紹介します。
古衣打棄つる人は秋風の立ちくる時に物思ふものぞ(11-2626)
<ふるころもうつつるひとは あきかぜのたちくるときに ものもふものぞ>
<<古着を捨てるように私を棄てたあなたも,冷たい秋風吹きつける頃には物思いに沈むでしょう(わたしの温もりが無くなったことを知って)>>
この作者の本心は「小林よしのり」作マンガ「おぼっちゃまくん」のテレビ版エンディングテーマソングの一つ,Mi-Ke の「む~な気持ちおセンチ」の歌詞に出てくる「♪お願い,ティッシュのように捨てないで♪」ということに近いかもしれませんね。
ヒトは大切なものを失って見て,初めてそれが非常に大切だったことを気がつくことが多いのかもしれません。その気づきが人生を生きて行く過程で得るヒトの「学習」というものでしょう。
あるヒトの人生で今までいかに多くのことを失ってきて,そして失ったものの中で人生にとって何が大切なのかをよく知っている(気づいている),そんなヒトが話す言葉に重みを私は感じます。
反対に私が一番聞いて寂しいと感じるのは,多くのモノを失っていながら,その大切さに気がついていないヒトの話を聞くときです。そういうヒトの多くは,失った原因は自分にあるのではなく,原因は他人にあると決めつけてしまっていることが多いのです。
対語シリーズ「上と下」に続く。
冬過ぎて春し来れば年月は新たなれども人は古りゆく(10-1884)
<ふゆすぎてはるしきたれば としつきはあらたなれども ひとはふりゆく>
<<冬が過ぎて春が来れば,年月は新しくなるけれど人はその分年をとって行く>>
この短歌,特に解説はいらないと思いますが,一休(室町時代の臨済宗大徳寺派の僧:いわゆる「一休さん」のモデル)が詠んだと伝えられている次の短歌を思い出しますよね。
門松(かどまつ)は冥土(めいど)の旅の一里塚(いちりづか)めでたくもありめでたくもなし
次にこれも結構分かりやすい,同じく「新」と「古」の両方を含んだ詠み人知らず(東歌)を紹介します。
おもしろき野をばな焼きそ古草に新草交り生ひは生ふるがに(14-3452)
<おもしろきのをばなやきそ ふるくさににひくさまじり おひはおふるがに>
<<趣き深いこの野を野焼きしないで欲しい,古草の中から新草が入り交じって生えていて,これからさらに生えようとしているでしょうに>>
最後の「がに」は今でも金沢弁などで「いいがに」⇒「いいように」といった言い方で使われているようです。
奈良の若草山では,毎年1月下旬頃に山焼きが行われています。それによって堅く古い草を焼き,若草山に住んでいる鹿に春の若草を食べやすくしているのではないかと私は思います。
奈良時代には鹿を食用肉としてたべていたようで,野焼きは一種鹿の放牧の一環の作業だったのかも知れませんね。
さて,「新」を使った和歌をみていくと,「新草」の他に「新木(あらき):切り出した直後の木」「新夜(あらたよ):毎夜」「新代・新世(あらたよ):新しい御代」「新桑(にひくは):新しい桑の葉」「新防人(にひさきもり):新たに派遣された防人」「新手枕(にひたまくら):男女の初夜」「新肌(にひはだ):jまだ誰も触れていない肌」「新治(にひはり):開墾したての田など」「新室(にひむろ):新しい家や室」「新喪(にひも):新しい喪の期間」「新嘗(にふなみ):新穀を食すこと」が出てきます。
この中で,気になる「新手枕」を詠んだ詠み人知らずの短歌を紹介します。
若草の新手枕をまきそめて夜をや隔てむ憎くあらなくに(11-2542)
<わかくさのにひたまくらをまきそめて よをやへだてむにくくあらなくに>
<<妻と初めて床を伴にしてから一夜だって別々に寝るものか愛しくてしょうがないのに>>
この短歌から,妻問い婚ではなく,夫婦ともに暮らしている状態が想像されます。妻問いは,万葉時代の慣習だったと思われますが,庶民を中心に夫婦共同生活者もかなりいたのかと私は想像します。
今度は「古」を使った和歌を見て行くことにしましょう。
13-3452の短歌で使われている「古草」の他に「古へ(いにしへ):むかし」「古江(ふるえ):古びた入江」「古枝(ふるえ):年を経た木の枝」「古幹(ふるから):古く枯れた茎」「ふるころも(古衣):古着」「古人(ふるひと):昔の人」「古家(ふるへ):古い家,元の家」「古屋(ふるや):古い家」が出てきます。
この中で,「古衣」を題材に,自分を棄てた元恋人への恨みごとを詠んだ詠み人知らずの短歌を紹介します。
古衣打棄つる人は秋風の立ちくる時に物思ふものぞ(11-2626)
<ふるころもうつつるひとは あきかぜのたちくるときに ものもふものぞ>
<<古着を捨てるように私を棄てたあなたも,冷たい秋風吹きつける頃には物思いに沈むでしょう(わたしの温もりが無くなったことを知って)>>
この作者の本心は「小林よしのり」作マンガ「おぼっちゃまくん」のテレビ版エンディングテーマソングの一つ,Mi-Ke の「む~な気持ちおセンチ」の歌詞に出てくる「♪お願い,ティッシュのように捨てないで♪」ということに近いかもしれませんね。
ヒトは大切なものを失って見て,初めてそれが非常に大切だったことを気がつくことが多いのかもしれません。その気づきが人生を生きて行く過程で得るヒトの「学習」というものでしょう。
あるヒトの人生で今までいかに多くのことを失ってきて,そして失ったものの中で人生にとって何が大切なのかをよく知っている(気づいている),そんなヒトが話す言葉に重みを私は感じます。
反対に私が一番聞いて寂しいと感じるのは,多くのモノを失っていながら,その大切さに気がついていないヒトの話を聞くときです。そういうヒトの多くは,失った原因は自分にあるのではなく,原因は他人にあると決めつけてしまっていることが多いのです。
対語シリーズ「上と下」に続く。
2011年12月4日日曜日
対語シリーズ「浮と沈」‥心の浮き沈みが起きたとき,あなたならどうする?
万葉集には「浮く」と「沈(しづ)く」を詠んだ和歌が40首ほど出てきます。また,「浮く」の別の対語として現代用語「潜る」の意味を持つ「潜(かづ)く」を入れるとさらに25首ほど増えます。
まず「浮」ですが,「浮く」の対象としては,舟,水鳥,花びら,材木,筏(いかだ),木の葉,海藻,水草,自分の心,波など,さまざまなものが万葉集で詠われています。その中で「浮」の用法として「浮寝」という言葉を使った歌が7首ほど出てきます。たとえば,次の短歌です。
我妹子に恋ふれにかあらむ沖に棲む鴨の浮寝の安けくもなし(11-2806)
<わぎもこにこふれにかあらむ おきにすむかものうきねのやすけくもなし>
<<彼女への恋が募っているからか,沖にいる鴨が浮寝をしているように,ふらふらと落ち着かないのです>>
この短歌作者(不詳)は,鴨が水面で寝ている(浮寝している)姿を見て,波が来ると身体が揺れて落ち着いて眠れてはいないだろうと想像し,自分が恋に落ちて心がその状態に近いと言いたいのでしょう。同じく浮寝には次のような用例もあります。
敷栲の枕ゆくくる涙にぞ浮寝をしける恋の繁きに(4-507)
<しきたへのまくらゆくくる なみたにぞうきねをしける こひのしげきに>
<<私の枕の下を流れるほどの涙なのです。そんな涙の川に浮(憂き)寝をしているほど激しく恋しています>>
この短歌の作者は駿河采女と呼ばれる女官で,自分が流した涙で川ができ,そこで浮寝ができるほど多くの涙を流してしまう今の恋は,本当に切なく苦しいものと切々と訴えています。彼女にとって,この「浮寝」はまさに苦しい「憂き寝」なのですね。
さて,「沈む」の対象としては,玉,人の心,人(入水自殺)が出てきます。「潜く」の対象としては,水鳥,海人(漁師)が多く出てきます。「沈む」も恋をモチーフにした詠み人知らずの短歌を紹介します。
近江の海沈く白玉知らずして恋ひせしよりは今こそまされ(11-2445)
<あふみのうみ しづくしらたま しらずして こひせしよりは いまこそまされ>
<<近江の海に沈む白玉を知らずに恋をしていたときより(白玉を知った)今はもっと恋しさが強くなっています>>
この短歌の作者は,白玉を恋人の肌に譬え,始めての妻問いで,妻の肌の美しさ,柔らかさを知ってしまい,さらに想いが増した。そんな気持ちをこの短歌は表現していると私には思えます。
<琵琶湖のカラス貝>
私が小学生の頃,琵琶湖に生息し地元ではカラス貝と呼ぶ大きな二枚貝の貝殻を大津市石山に住んでいた親戚に見せてもらったことがあります。この貝は正式にはメンカラスガイと呼ぶそうですが,貝殻の内側はアコヤガイやアワビと同じで非常に上品で綺麗な輝きを持っています。万葉時代にはこの貝を食用に捕獲していたと思われますが,貝肉や貝柱を取り出すとき,まれに天然真珠が貝の中に入っていたのだと思います。
その天然真珠は白玉として京人(みやこびと)の憧れの宝飾品であり,高く取引されのでしょう。
そのため,白玉が入っているかもしれない貝を目当てに素潜りで漁をする海人(漁師)も職業として存在していたのでしょう。そんなことを彷彿とさせるのが次の短歌です。
底清み沈ける玉を見まく欲り千たびぞ告りし潜きする海人(7-1318)
<そこきよみしづけるたまをみまくほり ちたびぞのりしかづきするあま>
<<清い海底に沈む真珠が見たい。千回も言い続けて海に潜る海人よ>>
「こんどこそは獲ってくるぞ」といって海人は何度も海に潜るのだけれど,天然の白玉はそう簡単には獲れない。実はお目当ての女性を射止めようと何度もアプローチを試みるがうまくいかない自分をそんな海人に譬え嘆いている短歌と私は解釈します。
<精神安定は現実逃避では根本解決にならない?>
これらの歌を見て,「ヒト」は気持ちが大きく浮いたとき,沈んだとき,精神的に不安定になる傾向を昔から持っているのではないかと私は感じます。精神的な安定を維持していくには,浮いた気分や沈んだ気分の状態になったとき,自分をどうコントロールできるかが重要だということになりそうです。
ところが,そのようなコントロールには,精神統一訓練,自己暗示,他との接触を断って気持ちを集中させたり,ひとりで何も考えずに過ごす時間を作ることが一般的対策として考えられますが,私は他人のとの接触,交流,連携,協調,恋愛などを避けずに精神的安定を維持できる方法を見つけるほうが良いではないかと今は考えています。
<精神的に安定しているか自分だけでは分からない?>
自分が精神的に安定しているかは,自分だけでは実は分かりにくいのです。他人と接触する過程で,複数の他人の自分に対する反応から判断する方が正確だと思うからです。
もちろんこの考えに同意しない人は多いかもしれません。他人との接触で精神が不安定になっているのに,その状況を改善せず良くなるはずがないとの異論です。
確かに,精神的に自分を不安定にする他人との接触を断ち,精神的安定を取り戻す治療を施す方が早く安定を取り戻せるかもしれません。しかし,そういう方法で精神的安定を早く取り戻したけれど,復帰した後,またすぐに元の不安定状況に戻ってしまう人を私はたくさん見てきました。他人との接触,交流,連携,協調,恋愛などを行っているメリットをもっと冷静にとらえるようにすべきだと思います。
<女性は柔軟?>
その点,女性の方が対応が男性より上手なような気がします。女性週刊誌などのキャッチコピーや女性向けソングの歌詞では「恋をする女性は美しい」「超キツイ仕事だけれど彼女は輝いている」「貴女は涙の数だけ強くなれる」といったコピーを見ると,その状況から逃げずに前向きに対応できる心の持ち方ができるのは女性の方が上手なのではないかと私は思っています。また,広島出身の女性レゲエシンガーソングライターMetisが若者に対し,気持ちが沈んでいる時,浮かれすぎている時,自分,家族,友達,恋人など「ヒト」を大切に!というメッセージ性の高いソングスを次々とリリースしています。インターネットを見ている限り,やはり女性のほうが比較的素直に受け入れているように私は感じます。
対語シリーズ「新と古」に続く。
まず「浮」ですが,「浮く」の対象としては,舟,水鳥,花びら,材木,筏(いかだ),木の葉,海藻,水草,自分の心,波など,さまざまなものが万葉集で詠われています。その中で「浮」の用法として「浮寝」という言葉を使った歌が7首ほど出てきます。たとえば,次の短歌です。
我妹子に恋ふれにかあらむ沖に棲む鴨の浮寝の安けくもなし(11-2806)
<わぎもこにこふれにかあらむ おきにすむかものうきねのやすけくもなし>
<<彼女への恋が募っているからか,沖にいる鴨が浮寝をしているように,ふらふらと落ち着かないのです>>
この短歌作者(不詳)は,鴨が水面で寝ている(浮寝している)姿を見て,波が来ると身体が揺れて落ち着いて眠れてはいないだろうと想像し,自分が恋に落ちて心がその状態に近いと言いたいのでしょう。同じく浮寝には次のような用例もあります。
敷栲の枕ゆくくる涙にぞ浮寝をしける恋の繁きに(4-507)
<しきたへのまくらゆくくる なみたにぞうきねをしける こひのしげきに>
<<私の枕の下を流れるほどの涙なのです。そんな涙の川に浮(憂き)寝をしているほど激しく恋しています>>
この短歌の作者は駿河采女と呼ばれる女官で,自分が流した涙で川ができ,そこで浮寝ができるほど多くの涙を流してしまう今の恋は,本当に切なく苦しいものと切々と訴えています。彼女にとって,この「浮寝」はまさに苦しい「憂き寝」なのですね。
さて,「沈む」の対象としては,玉,人の心,人(入水自殺)が出てきます。「潜く」の対象としては,水鳥,海人(漁師)が多く出てきます。「沈む」も恋をモチーフにした詠み人知らずの短歌を紹介します。
近江の海沈く白玉知らずして恋ひせしよりは今こそまされ(11-2445)
<あふみのうみ しづくしらたま しらずして こひせしよりは いまこそまされ>
<<近江の海に沈む白玉を知らずに恋をしていたときより(白玉を知った)今はもっと恋しさが強くなっています>>
この短歌の作者は,白玉を恋人の肌に譬え,始めての妻問いで,妻の肌の美しさ,柔らかさを知ってしまい,さらに想いが増した。そんな気持ちをこの短歌は表現していると私には思えます。
<琵琶湖のカラス貝>
私が小学生の頃,琵琶湖に生息し地元ではカラス貝と呼ぶ大きな二枚貝の貝殻を大津市石山に住んでいた親戚に見せてもらったことがあります。この貝は正式にはメンカラスガイと呼ぶそうですが,貝殻の内側はアコヤガイやアワビと同じで非常に上品で綺麗な輝きを持っています。万葉時代にはこの貝を食用に捕獲していたと思われますが,貝肉や貝柱を取り出すとき,まれに天然真珠が貝の中に入っていたのだと思います。
その天然真珠は白玉として京人(みやこびと)の憧れの宝飾品であり,高く取引されのでしょう。
そのため,白玉が入っているかもしれない貝を目当てに素潜りで漁をする海人(漁師)も職業として存在していたのでしょう。そんなことを彷彿とさせるのが次の短歌です。
底清み沈ける玉を見まく欲り千たびぞ告りし潜きする海人(7-1318)
<そこきよみしづけるたまをみまくほり ちたびぞのりしかづきするあま>
<<清い海底に沈む真珠が見たい。千回も言い続けて海に潜る海人よ>>
「こんどこそは獲ってくるぞ」といって海人は何度も海に潜るのだけれど,天然の白玉はそう簡単には獲れない。実はお目当ての女性を射止めようと何度もアプローチを試みるがうまくいかない自分をそんな海人に譬え嘆いている短歌と私は解釈します。
<精神安定は現実逃避では根本解決にならない?>
これらの歌を見て,「ヒト」は気持ちが大きく浮いたとき,沈んだとき,精神的に不安定になる傾向を昔から持っているのではないかと私は感じます。精神的な安定を維持していくには,浮いた気分や沈んだ気分の状態になったとき,自分をどうコントロールできるかが重要だということになりそうです。
ところが,そのようなコントロールには,精神統一訓練,自己暗示,他との接触を断って気持ちを集中させたり,ひとりで何も考えずに過ごす時間を作ることが一般的対策として考えられますが,私は他人のとの接触,交流,連携,協調,恋愛などを避けずに精神的安定を維持できる方法を見つけるほうが良いではないかと今は考えています。
<精神的に安定しているか自分だけでは分からない?>
自分が精神的に安定しているかは,自分だけでは実は分かりにくいのです。他人と接触する過程で,複数の他人の自分に対する反応から判断する方が正確だと思うからです。
もちろんこの考えに同意しない人は多いかもしれません。他人との接触で精神が不安定になっているのに,その状況を改善せず良くなるはずがないとの異論です。
確かに,精神的に自分を不安定にする他人との接触を断ち,精神的安定を取り戻す治療を施す方が早く安定を取り戻せるかもしれません。しかし,そういう方法で精神的安定を早く取り戻したけれど,復帰した後,またすぐに元の不安定状況に戻ってしまう人を私はたくさん見てきました。他人との接触,交流,連携,協調,恋愛などを行っているメリットをもっと冷静にとらえるようにすべきだと思います。
<女性は柔軟?>
その点,女性の方が対応が男性より上手なような気がします。女性週刊誌などのキャッチコピーや女性向けソングの歌詞では「恋をする女性は美しい」「超キツイ仕事だけれど彼女は輝いている」「貴女は涙の数だけ強くなれる」といったコピーを見ると,その状況から逃げずに前向きに対応できる心の持ち方ができるのは女性の方が上手なのではないかと私は思っています。また,広島出身の女性レゲエシンガーソングライターMetisが若者に対し,気持ちが沈んでいる時,浮かれすぎている時,自分,家族,友達,恋人など「ヒト」を大切に!というメッセージ性の高いソングスを次々とリリースしています。インターネットを見ている限り,やはり女性のほうが比較的素直に受け入れているように私は感じます。
対語シリーズ「新と古」に続く。
2011年11月27日日曜日
対語シリーズ「太と細」‥「痩せたね」と言われて嬉しく思う時代は今だけか?
「太い」「細い」は,木の幹,シャープペンシルの芯,糸や繊維,ラーメンなどの麺といったモノに対して使われるだけでなく,人間の体つきや心の安定度など形容にも使われます。
人間の心については「あいつは図太いやっちゃ」「○○君は線が細いなあ」といった使い方を今もします。
万葉集でも,人間の心が「太い」ことを詠んだ短歌が出てきます。
真木柱太き心はありしかどこの我が心鎮めかねつも(2-190)
<まきばしら ふときこころはありしかど このあがこころしづめかねつも>
<<太く強い心を持っていたのに,この我が心を鎮めることができないでいます>>
この短歌は,草壁皇子(くさかべのみこ)が28歳で亡くなったことに対して,宮中に仕える舎人(とねり)等が詠んだとされるものです。
草壁皇子の父は天武天皇,母は(後の)持統天皇です。草壁皇子は天武天皇の皇太子でしたが,天皇の死後4年目に(即位することなく)28歳の命で他界しました。
そのとき,草壁皇子に仕えていた舎人達の哀しみは大変なものであったはずです。何せ,草壁皇子が即位すれば天皇の仕え人になれたわけですからね。
歴史に「たら」「れば」は無いのですが,もし大津皇子(おほつのこみ)が天武天皇の後継天皇となってい「たら」,歴史は大きく変わったでしょうね。
万葉集では,心が細いという用例はなく,人の身体に関するものが出てきます。
桃の花 紅色に にほひたる 面輪のうちに 青柳の 細き眉根を 笑み曲がり 朝影見つつ 娘子らが 手に取り持てる~ (19-4192)
<もものはなくれなゐいろに にほひたるおもわのうちに あをやぎのほそきまよねを ゑみまがりあさかげみつつ をとめらがてにとりもてる~>
<<桃の花のように紅く色づいた顔の輝きの中で,青柳のように細くしなやかな眉を曲げて微笑み,朝の面立ちを映して見ながら、少女たちが手に持っている~>>
この長歌は,大伴家持が越中で霍公鳥(ホトトギス)を詠んだものの前半部分です。霍公鳥がまったく出てきませんが,理由はこの後続く(手に持つ)鏡,鏡から霍公鳥がいる山の名前を引く序詞の部分だからです。
この歌から,当時は若い女性の眉毛は細い方が良い印象があったことが推測できます。
その若い女性が可愛く微笑むために真直ぐなその細い眉を曲げる練習をしていたのでしょうか(毎朝鏡を見ながら)。
これって,今の女性がしていることとあまり変わらないような気がしますが,どうでしょうか。
今の女性は眉毛ではなくまつ毛のお手入れ(マスカラ)であったり,鏡を見る場所は自宅ではなく通勤途中の電車の中の場合もあるようですが..。
この他に,紹介はしませんが,腰細が女性としては魅力的で美しいと詠まれている長歌があります(9-1738)。
天平時代の美女は脹(ふく)よかな女性のイメージがありましたが,腰はやはり細い方が良かったのかもしれませんね。
身体の全部または一部が痩せていることを「細い」と現代では言いますが,飽食の今痩せて細い体はどちらかというと健康的なイメージを思わせます。
しかし,戦後しばらくの日本でもそうでしたが,万葉時代はやはり身体が痩せていて細いことは,健康的ではなく,良くないイメージのようです。
もしかしたら,痩せていることを嬉しく思える国は限定されていて,またそう思える時代も長い歴史の中では,ごく僅かであるような気がします。
我ろ旅は旅と思ほど家にして子持ち痩すらむ我が妻愛しも(20-4343)
<わろたびはたびとおめほど いひにしてこめちやすらむ わがみかなしも>
<<私の旅は旅と思って割り切ってしまうことができるが、家で子どもを抱えて痩せてしまっているだろう妻が愛おしい>>
この短歌は,駿河(するが)の国出身の防人である玉作部廣目(たますりべのひろめ)が詠んだとされる歌です。悲しい歌です。
ちなみに,私のBMI(肥満度係数)は,この前の健康診断結果では22.0で「問題なし」でした。健康体に感謝。
対語シリーズ「浮と沈」に続く。
人間の心については「あいつは図太いやっちゃ」「○○君は線が細いなあ」といった使い方を今もします。
万葉集でも,人間の心が「太い」ことを詠んだ短歌が出てきます。
真木柱太き心はありしかどこの我が心鎮めかねつも(2-190)
<まきばしら ふときこころはありしかど このあがこころしづめかねつも>
<<太く強い心を持っていたのに,この我が心を鎮めることができないでいます>>
この短歌は,草壁皇子(くさかべのみこ)が28歳で亡くなったことに対して,宮中に仕える舎人(とねり)等が詠んだとされるものです。
草壁皇子の父は天武天皇,母は(後の)持統天皇です。草壁皇子は天武天皇の皇太子でしたが,天皇の死後4年目に(即位することなく)28歳の命で他界しました。
そのとき,草壁皇子に仕えていた舎人達の哀しみは大変なものであったはずです。何せ,草壁皇子が即位すれば天皇の仕え人になれたわけですからね。
歴史に「たら」「れば」は無いのですが,もし大津皇子(おほつのこみ)が天武天皇の後継天皇となってい「たら」,歴史は大きく変わったでしょうね。
万葉集では,心が細いという用例はなく,人の身体に関するものが出てきます。
桃の花 紅色に にほひたる 面輪のうちに 青柳の 細き眉根を 笑み曲がり 朝影見つつ 娘子らが 手に取り持てる~ (19-4192)
<もものはなくれなゐいろに にほひたるおもわのうちに あをやぎのほそきまよねを ゑみまがりあさかげみつつ をとめらがてにとりもてる~>
<<桃の花のように紅く色づいた顔の輝きの中で,青柳のように細くしなやかな眉を曲げて微笑み,朝の面立ちを映して見ながら、少女たちが手に持っている~>>
この長歌は,大伴家持が越中で霍公鳥(ホトトギス)を詠んだものの前半部分です。霍公鳥がまったく出てきませんが,理由はこの後続く(手に持つ)鏡,鏡から霍公鳥がいる山の名前を引く序詞の部分だからです。
この歌から,当時は若い女性の眉毛は細い方が良い印象があったことが推測できます。
その若い女性が可愛く微笑むために真直ぐなその細い眉を曲げる練習をしていたのでしょうか(毎朝鏡を見ながら)。
これって,今の女性がしていることとあまり変わらないような気がしますが,どうでしょうか。
今の女性は眉毛ではなくまつ毛のお手入れ(マスカラ)であったり,鏡を見る場所は自宅ではなく通勤途中の電車の中の場合もあるようですが..。
この他に,紹介はしませんが,腰細が女性としては魅力的で美しいと詠まれている長歌があります(9-1738)。
天平時代の美女は脹(ふく)よかな女性のイメージがありましたが,腰はやはり細い方が良かったのかもしれませんね。
身体の全部または一部が痩せていることを「細い」と現代では言いますが,飽食の今痩せて細い体はどちらかというと健康的なイメージを思わせます。
しかし,戦後しばらくの日本でもそうでしたが,万葉時代はやはり身体が痩せていて細いことは,健康的ではなく,良くないイメージのようです。
もしかしたら,痩せていることを嬉しく思える国は限定されていて,またそう思える時代も長い歴史の中では,ごく僅かであるような気がします。
我ろ旅は旅と思ほど家にして子持ち痩すらむ我が妻愛しも(20-4343)
<わろたびはたびとおめほど いひにしてこめちやすらむ わがみかなしも>
<<私の旅は旅と思って割り切ってしまうことができるが、家で子どもを抱えて痩せてしまっているだろう妻が愛おしい>>
この短歌は,駿河(するが)の国出身の防人である玉作部廣目(たますりべのひろめ)が詠んだとされる歌です。悲しい歌です。
ちなみに,私のBMI(肥満度係数)は,この前の健康診断結果では22.0で「問題なし」でした。健康体に感謝。
対語シリーズ「浮と沈」に続く。
2011年11月23日水曜日
対語シリーズ「遠と近」‥浜名湖と琵琶湖,どちらが航行しやすい?
万葉集では距離や時の流れに関して「遠」「近」を詠んだ和歌がたくさん出てきます。
交通機関が発達した現代でも「やはり駅の近くに住みたい」とか「わざわざ遠くまでご足労頂きまして,..」とか,結構距離を気にかけることがあります。また,「遠い昔」とか「近い将来」とかの時の流れのなかの「遠」「近」を言うことも多くあります。
万葉時代,距離の「遠」「近」は交通機関が現代に比べ物にならないほど未発達で,生活する上で現代よりもはるかに大きな意味を持っていたのだと私は思います。また,万葉集の和歌の題詞,左註に年月日が多数出てくるように,暦や年号が日常的に使われるようになってきた時代だと私は想像します。そのため,時の流れの「遠」「近」も日数などで比較できるようになり,定量的に意識されるようになっていたのかも知れませんね。
まず,距離の「遠」「近」を詠んだ短歌を紹介します。
遠くあらば侘びてもあらむを里近くありと聞きつつ見ぬがすべなさ(4-757)
<とほくあらばわびてもあらむを さとちかくありとききつつ みぬがすべなさ>
<<遠くに住んでいるならば寂しく思うだけですが、住む里が近くにあると聞いていてもあなたと会えないなんて芸の無いことですよね>>
この短歌は,今年の1月28日の「動きの詞シリーズ(侘ぶ)」でも紹介した,大伴田村大嬢(たむらのおほをとめ)が,後に大伴家持の正妻になる異母妹の大伴坂上大嬢(さかのうえのおほをとめ)に贈った短歌です。近くに住んでいるのだから,女同士で何とかしてもっと会いましょうという提案の歌ですね。
さて,今度は距離といっても「心の距離」の「遠」「近」を詠んだ短歌を紹介します。
近くあれば見ねどもあるをいや遠く君がいまさば有りかつましじ(4-610)
<ちかくあればみねどもあるを いやとほくきみがいまさば ありかつましじ>
<<あなた様の心が近くにあるときはお目に掛からなくても心安らかでした。でも,私に対する心が本当に遠くなってしまわれたあなた様がいらっしゃる今,私はあなた様とお逢いできないと生きていることができないかもしれません>>
この短歌は笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持に贈った歌の中の1首で,家持の気持ちが自分から遠のいてしまったことに対する落ち込んだ気持ちを表現しています。自分への気持ちが遠のいた相手へも歌を贈る笠女郎の作歌意欲に私は以前からあこがれています。
次は,時の流れの「遠」「近」を詠んだ大伴家持が越中の自宅で開かれた宴席で詠んだ1首を紹介します。
今朝の朝明秋風寒し遠つ人雁が来鳴かむ時近みかも(17-3947)
<けさのあさけあきかぜさむし とほつひとかりがきなかむ ときちかみかも>
<<今朝も明け方は秋風が寒いので,雁が来て鳴く時が近いからかもしれないよ>>
「遠つ人」は雁に掛かる枕詞と言われています。遠いところからやってくる擬人化した人という「雁」ということらしいのですが,私は「遠い」を場所ではなく,時間がずっと前という意味の方が良いのかなと思います。その理由は,雁が来て鳴くのを待ち遠しい気持ち(冬が終わり雁が去ってからから遠い昔だ)がこの歌から感じ取れるからです。
冬の越中は厳しいですが,雁,鴨,鷺,白鳥,鶴などが平野の稲田,湖沼,河原に多数飛来し,それらを狙う鷹狩りにもってこいの季節なのです。家持は鷹狩りが大好きで,万葉集に自分愛用の鷹を逃がしてしまった侍従に対する怒りを詠んだ長歌(17-4011)を残しているくらいなのです。
さて,万葉集で「遠」「近」を語るとき,是非入れたいのが「遠江(とほつあふみ)」と「近江(あふみ)」です。
どちらも海(大きな湖)を前提としており,その前提は「遠江」が「浜名湖」,「近江」が「琵琶湖」のことといわれています。京(奈良)から見て近いのは琵琶湖で,遠いのが浜名湖だからだそうです。
それぞれを詠んだ短歌を最後に紹介します。両方とも詠み人知らずの歌です。
遠江引佐細江のみをつくし我れを頼めてあさましものを(14-3429)
<とほつあふみ いなさほそえのみをつくし あれをたのめてあさましものを>
<<遠江の引佐細江(いなさほそえ)のみをつくし(澪標)のように私を頼らせておきながら,結局そちらは意外と軽い気持ちだったのですね>>
近江の海波畏みと風まもり年はや経なむ漕ぐとはなしに(7-1390)
<あふみのうみ なみかしこみとかぜまもりとしはやへなむ こぐとはなしに>
<<近江の海の波が恐ろしいと風向きをうかがうだけで年が過ぎ行きてしまいました。漕ぎ出すこともなく>>
「みをつくし」は座礁しないように船を安全な航路に導く標識です。遠江の浜名湖の奥は,海底の起伏が激しく「みをつくし」に頼って航海する必要があったのでしょう。
いっぽう,比較的深さが一定の近江の琵琶湖は湖とはいえ,風が吹くと波が激しくなり,舟の安全な航行には風のおさまるのを待つしかないこともしばしばあったのかもしれません。
この2首とも浜名湖も琵琶湖も当時航行の難しさを例にしていますが,結局は恋の行方の予測の難しさを詠っているのだと私は感じています。
対語シリーズ「太と細」に続く。
交通機関が発達した現代でも「やはり駅の近くに住みたい」とか「わざわざ遠くまでご足労頂きまして,..」とか,結構距離を気にかけることがあります。また,「遠い昔」とか「近い将来」とかの時の流れのなかの「遠」「近」を言うことも多くあります。
万葉時代,距離の「遠」「近」は交通機関が現代に比べ物にならないほど未発達で,生活する上で現代よりもはるかに大きな意味を持っていたのだと私は思います。また,万葉集の和歌の題詞,左註に年月日が多数出てくるように,暦や年号が日常的に使われるようになってきた時代だと私は想像します。そのため,時の流れの「遠」「近」も日数などで比較できるようになり,定量的に意識されるようになっていたのかも知れませんね。
まず,距離の「遠」「近」を詠んだ短歌を紹介します。
遠くあらば侘びてもあらむを里近くありと聞きつつ見ぬがすべなさ(4-757)
<とほくあらばわびてもあらむを さとちかくありとききつつ みぬがすべなさ>
<<遠くに住んでいるならば寂しく思うだけですが、住む里が近くにあると聞いていてもあなたと会えないなんて芸の無いことですよね>>
この短歌は,今年の1月28日の「動きの詞シリーズ(侘ぶ)」でも紹介した,大伴田村大嬢(たむらのおほをとめ)が,後に大伴家持の正妻になる異母妹の大伴坂上大嬢(さかのうえのおほをとめ)に贈った短歌です。近くに住んでいるのだから,女同士で何とかしてもっと会いましょうという提案の歌ですね。
さて,今度は距離といっても「心の距離」の「遠」「近」を詠んだ短歌を紹介します。
近くあれば見ねどもあるをいや遠く君がいまさば有りかつましじ(4-610)
<ちかくあればみねどもあるを いやとほくきみがいまさば ありかつましじ>
<<あなた様の心が近くにあるときはお目に掛からなくても心安らかでした。でも,私に対する心が本当に遠くなってしまわれたあなた様がいらっしゃる今,私はあなた様とお逢いできないと生きていることができないかもしれません>>
この短歌は笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持に贈った歌の中の1首で,家持の気持ちが自分から遠のいてしまったことに対する落ち込んだ気持ちを表現しています。自分への気持ちが遠のいた相手へも歌を贈る笠女郎の作歌意欲に私は以前からあこがれています。
次は,時の流れの「遠」「近」を詠んだ大伴家持が越中の自宅で開かれた宴席で詠んだ1首を紹介します。
今朝の朝明秋風寒し遠つ人雁が来鳴かむ時近みかも(17-3947)
<けさのあさけあきかぜさむし とほつひとかりがきなかむ ときちかみかも>
<<今朝も明け方は秋風が寒いので,雁が来て鳴く時が近いからかもしれないよ>>
「遠つ人」は雁に掛かる枕詞と言われています。遠いところからやってくる擬人化した人という「雁」ということらしいのですが,私は「遠い」を場所ではなく,時間がずっと前という意味の方が良いのかなと思います。その理由は,雁が来て鳴くのを待ち遠しい気持ち(冬が終わり雁が去ってからから遠い昔だ)がこの歌から感じ取れるからです。
冬の越中は厳しいですが,雁,鴨,鷺,白鳥,鶴などが平野の稲田,湖沼,河原に多数飛来し,それらを狙う鷹狩りにもってこいの季節なのです。家持は鷹狩りが大好きで,万葉集に自分愛用の鷹を逃がしてしまった侍従に対する怒りを詠んだ長歌(17-4011)を残しているくらいなのです。
さて,万葉集で「遠」「近」を語るとき,是非入れたいのが「遠江(とほつあふみ)」と「近江(あふみ)」です。
どちらも海(大きな湖)を前提としており,その前提は「遠江」が「浜名湖」,「近江」が「琵琶湖」のことといわれています。京(奈良)から見て近いのは琵琶湖で,遠いのが浜名湖だからだそうです。
それぞれを詠んだ短歌を最後に紹介します。両方とも詠み人知らずの歌です。
遠江引佐細江のみをつくし我れを頼めてあさましものを(14-3429)
<とほつあふみ いなさほそえのみをつくし あれをたのめてあさましものを>
<<遠江の引佐細江(いなさほそえ)のみをつくし(澪標)のように私を頼らせておきながら,結局そちらは意外と軽い気持ちだったのですね>>
近江の海波畏みと風まもり年はや経なむ漕ぐとはなしに(7-1390)
<あふみのうみ なみかしこみとかぜまもりとしはやへなむ こぐとはなしに>
<<近江の海の波が恐ろしいと風向きをうかがうだけで年が過ぎ行きてしまいました。漕ぎ出すこともなく>>
「みをつくし」は座礁しないように船を安全な航路に導く標識です。遠江の浜名湖の奥は,海底の起伏が激しく「みをつくし」に頼って航海する必要があったのでしょう。
いっぽう,比較的深さが一定の近江の琵琶湖は湖とはいえ,風が吹くと波が激しくなり,舟の安全な航行には風のおさまるのを待つしかないこともしばしばあったのかもしれません。
この2首とも浜名湖も琵琶湖も当時航行の難しさを例にしていますが,結局は恋の行方の予測の難しさを詠っているのだと私は感じています。
対語シリーズ「太と細」に続く。
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