2011年11月27日日曜日

対語シリーズ「太と細」‥「痩せたね」と言われて嬉しく思う時代は今だけか?

「太い」「細い」は,木の幹,シャープペンシルの芯,糸や繊維,ラーメンなどの麺といったモノに対して使われるだけでなく,人間の体つきや心の安定度など形容にも使われます。
人間の心については「あいつは図太いやっちゃ」「○○君は線が細いなあ」といった使い方を今もします。
万葉集でも,人間の心が「太い」ことを詠んだ短歌が出てきます。

真木柱太き心はありしかどこの我が心鎮めかねつも(2-190)
まきばしら ふときこころはありしかど このあがこころしづめかねつも
<<太く強い心を持っていたのに,この我が心を鎮めることができないでいます>>

この短歌は,草壁皇子(くさかべのみこ)が28歳で亡くなったことに対して,宮中に仕える舎人(とねり)等が詠んだとされるものです。
草壁皇子の父は天武天皇,母は(後の)持統天皇です。草壁皇子は天武天皇の皇太子でしたが,天皇の死後4年目に(即位することなく)28歳の命で他界しました。
そのとき,草壁皇子に仕えていた舎人達の哀しみは大変なものであったはずです。何せ,草壁皇子が即位すれば天皇の仕え人になれたわけですからね。
歴史に「たら」「れば」は無いのですが,もし大津皇子(おほつのこみ)が天武天皇の後継天皇となってい「たら」,歴史は大きく変わったでしょうね。

万葉集では,心が細いという用例はなく,人の身体に関するものが出てきます。

桃の花 紅色に にほひたる 面輪のうちに 青柳の 細き眉根を 笑み曲がり 朝影見つつ 娘子らが 手に取り持てる~ (19-4192)
もものはなくれなゐいろに にほひたるおもわのうちに あをやぎのほそきまよねを ゑみまがりあさかげみつつ をとめらがてにとりもてる~>
<<桃の花のように紅く色づいた顔の輝きの中で,青柳のように細くしなやかな眉を曲げて微笑み,朝の面立ちを映して見ながら、少女たちが手に持っている~>>

この長歌は,大伴家持越中霍公鳥(ホトトギス)を詠んだものの前半部分です。霍公鳥がまったく出てきませんが,理由はこの後続く(手に持つ)鏡,鏡から霍公鳥がいる山の名前を引く序詞の部分だからです。
この歌から,当時は若い女性の眉毛は細い方が良い印象があったことが推測できます。
その若い女性が可愛く微笑むために真直ぐなその細い眉を曲げる練習をしていたのでしょうか(毎朝鏡を見ながら)。
これって,今の女性がしていることとあまり変わらないような気がしますが,どうでしょうか。
今の女性は眉毛ではなくまつ毛のお手入れ(マスカラ)であったり,鏡を見る場所は自宅ではなく通勤途中の電車の中の場合もあるようですが..。
この他に,紹介はしませんが,腰細が女性としては魅力的で美しいと詠まれている長歌があります(9-1738)。
天平時代の美女は脹(ふく)よかな女性のイメージがありましたが,腰はやはり細い方が良かったのかもしれませんね。

身体の全部または一部が痩せていることを「細い」と現代では言いますが,飽食の今痩せて細い体はどちらかというと健康的なイメージを思わせます。
しかし,戦後しばらくの日本でもそうでしたが,万葉時代はやはり身体が痩せていて細いことは,健康的ではなく,良くないイメージのようです。
もしかしたら,痩せていることを嬉しく思える国は限定されていて,またそう思える時代も長い歴史の中では,ごく僅かであるような気がします。

我ろ旅は旅と思ほど家にして子持ち痩すらむ我が妻愛しも(20-4343)
わろたびはたびとおめほど いひにしてこめちやすらむ わがみかなしも
<<私の旅は旅と思って割り切ってしまうことができるが、家で子どもを抱えて痩せてしまっているだろう妻が愛おしい>>

この短歌は,駿河(するが)の国出身の防人である玉作部廣目(たますりべのひろめ)が詠んだとされる歌です。悲しい歌です。
ちなみに,私のBMI(肥満度係数)は,この前の健康診断結果では22.0で「問題なし」でした。健康体に感謝。
対語シリーズ「浮と沈」に続く。

2011年11月23日水曜日

対語シリーズ「遠と近」‥浜名湖と琵琶湖,どちらが航行しやすい?

万葉集では距離や時の流れに関して「遠」「近」を詠んだ和歌がたくさん出てきます。
交通機関が発達した現代でも「やはり駅の近くに住みたい」とか「わざわざ遠くまでご足労頂きまして,..」とか,結構距離を気にかけることがあります。また,「遠い昔」とか「近い将来」とかの時の流れのなかの「遠」「近」を言うことも多くあります。
万葉時代,距離の「遠」「近」は交通機関が現代に比べ物にならないほど未発達で,生活する上で現代よりもはるかに大きな意味を持っていたのだと私は思います。また,万葉集の和歌の題詞,左註に年月日が多数出てくるように,暦や年号が日常的に使われるようになってきた時代だと私は想像します。そのため,時の流れの「遠」「近」も日数などで比較できるようになり,定量的に意識されるようになっていたのかも知れませんね。
まず,距離の「遠」「近」を詠んだ短歌を紹介します。

遠くあらば侘びてもあらむを里近くありと聞きつつ見ぬがすべなさ(4-757)
とほくあらばわびてもあらむを さとちかくありとききつつ みぬがすべなさ
<<遠くに住んでいるならば寂しく思うだけですが、住む里が近くにあると聞いていてもあなたと会えないなんて芸の無いことですよね>>

この短歌は,今年の1月28日の「動きの詞シリーズ(侘ぶ)」でも紹介した,大伴田村大嬢(たむらのおほをとめ)が,後に大伴家持の正妻になる異母妹の大伴坂上大嬢(さかのうえのおほをとめ)に贈った短歌です。近くに住んでいるのだから,女同士で何とかしてもっと会いましょうという提案の歌ですね。
さて,今度は距離といっても「心の距離」の「遠」「近」を詠んだ短歌を紹介します。

近くあれば見ねどもあるをいや遠く君がいまさば有りかつましじ(4-610)
ちかくあればみねどもあるを いやとほくきみがいまさば ありかつましじ
<<あなた様の心が近くにあるときはお目に掛からなくても心安らかでした。でも,私に対する心が本当に遠くなってしまわれたあなた様がいらっしゃる今,私はあなた様とお逢いできないと生きていることができないかもしれません>>

この短歌は笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持に贈った歌の中の1首で,家持の気持ちが自分から遠のいてしまったことに対する落ち込んだ気持ちを表現しています。自分への気持ちが遠のいた相手へも歌を贈る笠女郎の作歌意欲に私は以前からあこがれています。
次は,時の流れの「遠」「近」を詠んだ大伴家持が越中の自宅で開かれた宴席で詠んだ1首を紹介します。

今朝の朝明秋風寒し遠つ人雁が来鳴かむ時近みかも(17-3947)
けさのあさけあきかぜさむし とほつひとかりがきなかむ ときちかみかも
<<今朝も明け方は秋風が寒いので,雁が来て鳴く時が近いからかもしれないよ>>

「遠つ人」は雁に掛かる枕詞と言われています。遠いところからやってくる擬人化した人という「雁」ということらしいのですが,私は「遠い」を場所ではなく,時間がずっと前という意味の方が良いのかなと思います。その理由は,雁が来て鳴くのを待ち遠しい気持ち(冬が終わり雁が去ってからから遠い昔だ)がこの歌から感じ取れるからです。
冬の越中は厳しいですが,雁,鴨,鷺,白鳥,鶴などが平野の稲田,湖沼,河原に多数飛来し,それらを狙う鷹狩りにもってこいの季節なのです。家持は鷹狩りが大好きで,万葉集に自分愛用の鷹を逃がしてしまった侍従に対する怒りを詠んだ長歌(17-4011)を残しているくらいなのです。

さて,万葉集で「遠」「近」を語るとき,是非入れたいのが「遠江(とほつあふみ)」と「近江(あふみ)」です。
どちらも海(大きな湖)を前提としており,その前提は「遠江」が「浜名湖」,「近江」が「琵琶湖」のことといわれています。京(奈良)から見て近いのは琵琶湖で,遠いのが浜名湖だからだそうです。
それぞれを詠んだ短歌を最後に紹介します。両方とも詠み人知らずの歌です。

遠江引佐細江のみをつくし我れを頼めてあさましものを(14-3429)
とほつあふみ いなさほそえのみをつくし あれをたのめてあさましものを
<<遠江の引佐細江(いなさほそえ)のみをつくし(澪標)のように私を頼らせておきながら,結局そちらは意外と軽い気持ちだったのですね>>

近江の海波畏みと風まもり年はや経なむ漕ぐとはなしに(7-1390)
あふみのうみ なみかしこみとかぜまもりとしはやへなむ こぐとはなしに
<<近江の海の波が恐ろしいと風向きをうかがうだけで年が過ぎ行きてしまいました。漕ぎ出すこともなく>>

みをつくし」は座礁しないように船を安全な航路に導く標識です。遠江の浜名湖の奥は,海底の起伏が激しく「みをつくし」に頼って航海する必要があったのでしょう。
いっぽう,比較的深さが一定の近江の琵琶湖は湖とはいえ,風が吹くと波が激しくなり,舟の安全な航行には風のおさまるのを待つしかないこともしばしばあったのかもしれません。
この2首とも浜名湖も琵琶湖も当時航行の難しさを例にしていますが,結局は恋の行方の予測の難しさを詠っているのだと私は感じています。
対語シリーズ「太と細」に続く。

2011年11月12日土曜日

対語シリーズ「貸と借」‥人の命は借りモノ?

<お金の貸し借り>
人は一時的に金品が不足した場合,友人等から不足した金品を貸してもらえないかとお願いすることがあります。
その依頼を受けた側(貸し手)は,依頼者が信頼のおける人(返してくれる人)であり,一時的に貸せる金品があれば貸し与えます。
貸し与えられた側(借り手)は,しばらくして金品の不足が無くなった(必要なくなった)とき,金品を貸し手に返却します。その時,おカネの場合利息にあたる何らかのお礼を追加することがあります。
<万葉時代では?>
万葉集の和歌が詠まれた時代は「和同開珎(わどうかいちん)」という通貨が大量に流通し始めた頃とされています。しかし,少なくとも万葉集では通貨を表す「銭(ぜに)」を詠んだものはありません。
万葉集を文学とみれば,貨幣が流通していてもそれほど貨幣のことが出てこないことに違和感を感じる人は少ないかもしれません。
ただ,万葉集を当時の時代を後世に残す記録として見ると「銭」が出てこないのは「和同開珎」などの通貨がそれほど流通しておらず,物々交換がまだ主流だったのではないと私は想像します。
そのため,万葉集に出てくる「貸」「借」は,金銭ではなく品物が主流となります。なお,すべて動詞「貸す」「借る」の活用形で出てきます。
万葉集に出てくる「貸す」「借る」の対象(品物)は「衣(ころも)」「舟」「宿(やど)」がほとんどですが,最後の例のように「命」というのがあります。
まず,宿を「貸す」「借る」の両方を詠んだ詠み人しらずの短歌を紹介します。

あしひきの山行き暮らし宿借らば妹立ち待ちてやど貸さむかも(7-1242)
あしひきの やまゆきぐらし やどからば いもたちまちて やどかさむかも
<<山路を旅行く途中で日が暮れて今宵の宿をどうしようかと考えてたいたら,かわいい女の子が門に立って待っていて宿を誘ってくれるかもしれない>>

この短歌は「古集に出ず」とある羈旅(きりょ)を詠んだ歌群の1首です。
この短歌が万葉時代でさえ「古集」にあるということは,奈良時代以前から街道の峠などには宿泊施設(宿場)が整備されていて,旅行く人に宿を提供していたことが想像できます。おそらく,街道が整備され,日本各地の産品が行き交うようになってきたころなのでしょう。
中には泊まった時に若い女の子が世話をしてくれるような宿もあったのかもしれません。
あの宿場にはかわいい子がいっぱいいるぞという噂が旅人の間に流れていて,旅人たちは期待をもちつつ宿場へ向かうこともあったのでしょう。
そんな旅人の気持ちを詠んだ歌なのかもしれませんが,期待は外れる(宿を貸す側が求める対価と借りる側が求めるサービスの差が大きい)ことも多かっただろうと私は想像します。
この短歌から結局「宿を貸す」とは,商売(宿賃は銀など?)として泊まる場所や宿泊者へのサービスを提供することを意味します。困った旅人に慈善で泊まらせてあげるのとは意味が違います。
次に商売で貸し借りをする例ではなく,「衣」を夫に妻が「貸す」短歌を紹介します。

宇治間山朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに(1-75)
うぢまやまあさかぜさむし たびにしてころもかすべき いももあらなくに
<<宇治間山の朝の風はことに冷たい。今は旅をしているので衣を貸してくれるはずの妻もいないから>>

この1首は長屋王(ながやのおほきみ)が奈良の吉野付近にあるとされる宇治間山麓を旅の途中に通過したとき詠んだとされている短歌です。
旅先ではいくら朝の風が冷たかろうと衣を貸してくれる妻はいない。妻が恋しいなあという気持ちが伝わってくる1首です。
万葉時代は今までこのブログで何度も述べていますが,結婚後の生活は妻問い婚なのです。夫は妻の家で一夜を過ごして朝妻の家を出ます。
その時,朝の寒さが強いと夫が寒がらないように妻は衣を夫に貸します。
妻は夫が衣を返しにまた来てくれるのを心待ちにします。夫も借りた衣を返すという名目で再びやってくる口実を作るという習慣があったのかもしれないと私は思います。
最後に「命を借りる」という少し哲学的な詠み人知らず短歌(作者は女性)を紹介します。

月草の借れる命にある人をいかに知りてか後も逢はむと言ふ(11-2756)
つきくさのかれるいのちにあるひとを いかにしりてかのちもあはむといふ
<<この世に生命を借りて生まれてきた人間です。その命はいつ終わるともしれないはかないものなのにどうして「後で逢おうね」と簡単におっしゃるのですか?>>

私はこの作者は仏教の知識があったのだろうと想像します。
日本に伝わる仏教のいくつかの経典には「自分の生命が人間として生まれること,そして,たとえ人間として生まれても正しい生き方を全うすることの困難さ」を説いているものがあります。
人は皆,本当に偶然に生命を借りて生まれてきたのだから,今の一瞬を大切にしたい,大切にして欲しい。そんな思いを相手(男性)に伝えたいのかも知れませんね。
モノでさえ,カネでさえ,命でさえ,借りたものは大切に扱うようにしたいものですね。
対語シリーズ「遠と近」に続く。

2011年11月6日日曜日

対語シリーズ「晴と雨」‥晴耕雨詠?

万葉集では「雨」を詠んだ和歌が120首以上出てきます。それに対して「晴」を詠んだものは3首しかありません。その3首も併せて「雨」の文字が入っているのです。
これでは対語関係として勝負にならないですから「晴れ」を間接的に表す「日がさす」「日が照る」を詠んだ歌(枕詞として使われているものは除く)も「晴れ」側の援軍として入れるとすると何とか40首程度にはなります。
まず,「晴」を詠んだ3首の中から詠み人知らずの1首を紹介します。

思はぬに時雨の雨は降りたれど天雲晴れて月夜さやけし(10-2227)
おもはぬに しぐれのあめはふりたれど あまくもはれてつくよさやけし
<<思いがけずしぐれが降ったけれど,空を覆っていた雲が晴れて月夜がさわやかだなあ>>

「晴れて」といっても夜の晴れです。雨が降った後の空気が澄んでいるので,作者には雲が取れて出てきた月がさわやかに感じられたのでしょう。
雨で清められた直後の晴れは一層さわやかさが増すように感じるのは,昔より空気がきれいだとは言えないところに住んでいる私にとって全面的に同感する感性ですね。
次に「日がさす」方の1首(東歌)を紹介しましょう。

上つ毛野まぐはし窓に朝日さしまきらはしもなありつつ見れば(14-3407)
かみつけの まぐはしまどにあさひさし まきらはしもなありつつみれば
<<この上野(今の群馬県)に住んでいる俺,窓に朝日がさす綺麗な光線のように眩(まばゆ)いなあ。寝床の隣のおまえを見ていると>>

私は以前にも書きましたが,18歳まで京都市内の実家にいました。京都の冬は,太陽が少し顔を出したかと思うとすぐに雲に隠れ,そして時雨(しぐれ)たと思えばまた太陽の薄日がさすような,変わりやすい天気です。
山に囲まれている盆地地形なので太陽の出る時間も平地より少なく,京都の冬は「底冷え」という言葉で表わされるように寒暖計が示す温度よりもずっと寒く感じられます。
その後,私は埼玉県南部にずっと住むようになったのですが,関東平野の冬は雲ひとつない晴れの日が多く,その晴れ方も太陽が地平線から出て沈むまで精いっぱい照ってくれることで,陽だまりでは寒暖計が示す温度に比べ,結構暖かく感じることも多くありました。
この東歌はそのような冬の晴れた朝日が窓から美しいビームのようにさしてきて,目が覚めたら隣で寝ていた妻が眩いことを素直に詠っているように私は感じます。私のように関東平野に住む人には同感しやすい歌ではないかと私は思います。
私は結婚してしばらく埼玉県南部のとある公団住宅の5階に住んでいたのですが,まさにそのような朝日がさしてきたとき,まだ寝ている妻を美しく感じたのは,ただはるか遠い昔のことですね。

天の川 「たびとはん。そんなアカンこと書いて大丈夫かいな?」

おっと,天の川君,お久しぶりだね。今はマンションの1階に住んでいるから大丈夫だよ。

天の川 「たびとはん。何を訳の分らんことを言うてんねん。住んでる階数は関係あらへんやろ。」

さっ,さて,今度は「雨」に移ります。
万葉集でたくさん詠まれている「雨」には,単に「雨」だけでなく,いろんな種類の「雨」が出てきます。
例えば,「時雨(しぐれ)」「小雨(こさめ)」「春雨(はるさめ)」「長雨」「村雨(むらさめ)」「雨霧(あまぎり)」「雨障(あまつつみ,あまさはり)」「雨間(あまま)」「雨夜(あまよ)」「夕立ち」などです。
その中から冒頭の1首とは別の時雨を詠んだ歌の中から次の1首を紹介します。

十月時雨の常か我が背子が宿の黄葉散りぬべく見ゆ(19-4259)
かむなづきしぐれのつねか わがせこがやどのもみちば ちりぬべくみゆ
<<10月のしぐれが降ると,いつものように貴殿のお家の色づいた梨の葉がもうすく散りゆくのでしょうね>>

この短歌は,天平勝宝3(751)年10月22日,越中赴任から戻った大伴家持が左大弁(さだいべん)紀飯麻呂(きのいひまろ)宅で行われた宴席で,庭に植えてあった梨の木を見て詠んだとされています。
旧暦の10月22日は現在の11月下旬ですから,一雨ごとに寒さが加わって行く季節です。
紅葉も雨で葉がどんどん落ち行きますが,それも季節の変化の一要素として日本人は受け入れているのかも知れません。
写真は何年か前の11月下旬に京都の銀閣寺を訪れたときに撮ったものです。散った紅葉も美しく見せるため苔を庭の地面に植え付ける庭師のテクニックだと私は思います。

この他に紹介したい万葉集の雨の歌はたくさんあるのですが,いずれ「万葉集の雨歌」特集を企画して,そこでたっぷり紹介することにします。
ところで,万葉集に雨の歌が多いのは,晴れたときは仕事が忙しいので歌を詠む暇がない。けれども雨の日はやることがないので和歌を詠む。当時まさに晴耕雨詠(私の造語)だったのでしょうか。
ただ,Uta-Net というサイト(http://www.uta-net.com/)で「雨」がタイトルの一部となっている歌(10万曲以上の中)を検索すると,なんと1,214曲もありました。一方「晴」をタイトルに含む曲(「素晴らしい」などの天気と無関係なものは除く)のほうは,わずか200曲ほどしかありませんでした。
雨の日が暇かどうかは別にして,日本人にとって「雨」は昔も今も詩歌の題材になりやすいのだなあとつくづく感じます。
対語シリーズ「貸と借」に続く。