「匂ふ」の最後は,「似合う」という意味になるものついて述べてみます。
次の万葉集に出てくる短歌は,花を原料とした衣服の色をテーマとした恋情歌です。
山吹の匂へる妹がはねず色の赤裳の姿夢に見えつつ (11-2786)
<やまぶきの にほへるいもが はねずいろの あかものすがた いめにみえつつ>
<<山吹色の似合う美しいあの娘の、はねず色の赤い裳(も)の姿を夢に見ています>>
はねず色はピンクに近い(少し濃い)色を指したようです。
山吹色の似合うあの子はきっとピンクの裳(万葉時代で腰から下に着けたスカートのような衣装)も似合うだろうなと感じている男性の短歌です。
作者の男性にとって,まぶしい存在の彼女に,ささげた短歌かも知れません。
<母校での講義>
さて,この前の土曜日,私が大学時代に参加していた万葉集研究サークルの顧問の先生から,大学の公開講座に参加してくれる人達が集まって開くファミリーなシンポジウムで話をしてほしいという依頼があり,そのシンポジウムに参加するため,母校に行ってきました。
日本文学科の大学院生2人が,順に事例を使った「万葉集が源氏物語に現れる短歌にどう影響したか」という主題テーマの発表後,私は「万葉集から今の私たちは何を学ぶべきか」というタイトルで話すことになっていました。
参加者は,首都圏周辺から来た少し年配の女性が大半でした。みなさん本当にお元気で,向学心溢れる姿で大学院生の発表や私の話を聞く姿は,まさにまぶしい存在そのものでした。
また,鮮やかな色の着物を着て来られた方や今風の服を上手に着こなしておられ,まさに「匂ふ」(似合う)方がたくさんいらっしゃったように感じました。
<質問の嵐>
私は40分ほどこのブログで書いている内容をベースに「万葉集から今の私たちは何を学ぶべきか」の話をしました。20分ほど質疑応答の時間を用意しましたが,質疑応答の時間が全然足りないほど質問が出ました。シンポジウム終了後の懇親会でも万葉集について活発な議論がされ,中には答えに窮する鋭い質問もあり,参加者の熱心さが伝わってきました。
議論のテーマとしては,「枕詞」「花(スミレ,タチバナ,ウメ,サクラ,ハギなど)について」「防人の歌」「東歌」「相聞」などでした。
特に,次の山部赤人の有名な短歌を題材に「万葉集の読み方」について議論が盛り上がりました。
春の野にすみれ摘みにと来し我れぞ野をなつかしみ一夜寝にける(8-1424)
<はるののに すみれつみにと こしわれぞ のをなつかしみ ひとよねにける>
<<春の野にスミレを摘みに来た私は,野が非常に綺麗だったので,一夜そこで寝てしまったよ>>
「いくらスミレが綺麗でもその場で野宿するとは考えられないよ」
「いや,万葉集は素直に言葉通り(野宿したと)読むべき」
「スミレは女性の例えで,スミレのような可愛い女性と夜を共にしたという解釈が妥当だろう。妻問いの風習の婉曲表現に違いない」
「いや,いや,赤人は自然派詩人であり,赤人の和歌は裏の意味(含意)を想像せず,やはり素直に受け取るべき」
「万葉集の和歌を,表面の言葉のみにとらわれず,含意をさぐるのもおもしろいのでは」
懇親会で参加者から「さて,たびとさんはどう思う?」と振られたのですが,かなり酔っぱらっていた私は「わっわっ私は~,まっまっまずは~,言葉通りに意味を考える方で~す~。ウィッ。」と答えてしまったと記憶しています。
翌日,酔いが醒めてこのブログを振り返ってみると,結構紹介した和歌の「含意」を勝手な感想として述べてきています。
天の川に『はびとはん。いつも言うてることと,やってることとちゃうやんか』と言われそうです。
<「べき」論で片付ける「べき」でない万葉集>
それでも,万葉集は「□□のように解釈すべきだ」とか「べき論」で意味を分析したり,鑑賞したりするのではなく,「素直に」感じたまま接するのが「似合う」和歌集だと今の私は心底思っています。
ちなみに,題詞,左注,時代背景,作者や登場人物の立場などは「素直に感じるための要因(パラメタ)のひとつ」であると考えているため,和歌の表現に無い「含意」めいた話を出してしまうことはあるのかもしれませんね。
さて,今年も後わずかです。少し「動きの詞シリーズ」はお休みします。年末年始スペシャルとして「私が接した歌枕」を何回かお送りします。
次回はその最初として歌枕「逢坂の関」を紹介します。お楽しみに。
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