私の生まれたところは京都市伏見(ふしみ)区の近鉄京都線桃山御陵前(ももやまごりょうまえ)駅の近くでした。その後4歳の時,親が山科(やましな)区(当時は東山区山科)栗栖野(くりすの)というところに引っ越し,そこで18歳まで過ごしました。
伯父が滋賀県大津市の京阪石山(いしやま)駅近くで鍼灸院を営んでいました。京阪山科駅から京阪電鉄京津(けいしん)線,石山坂本線経由で京阪石山駅まで電車に乗って,頻繁に伯父のところに遊びに行きました。
その途中,京阪山科,四宮(しのみや),追分(おいわけ)という駅を過ぎ,登り勾配を上っていき,次の大谷(おおたに)駅で最高地点に達します。そこからトンネルを抜けると一気に琵琶湖沿岸の浜大津まで電車は下ります。この大谷駅辺りが逢坂の関があったところだと,よく一緒に伯父のところに遊びに行った兄から何度か教えられたことがあます。
伯父の家では正月親戚が集まると決まって百人一首の歌留多取りが行われていました。
さすがに,小学校の低学年までは見ているだけで参加できませんでしたが,小学校高学年頃になると大人に枚数では勝てなくても,確実に何枚かは取れるようになりました。
特に,逢坂の関や逢坂山(関近くの山)を詠んだ短歌は次の3首は,どれも取るのが得意な(最初1~2文字を聞いただけで下の句の歌留多を取れる)短歌でした。
これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関(百人一首10:蝉丸)
<<これがあの有名な(京から)出て行く人も帰る人も皆ここで別れ、知り合いも知らない他人も、そしてここで出会うと言う逢坂の関なのだなあ>>
名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな(百人一首25:藤原定方)
<<恋しい人に逢える「逢坂山」、一緒にひと夜を過ごせる「小寝葛(さねかずら)」その名前にそむかないならば、逢坂山のさねかずらをたぐり寄せるように、誰にも知られずあなたを連れ出す方法があればいいのに>>
夜をこめて 鳥の空音は謀るとも よに逢坂の関は許さじ(百人一首62:清少納言)
<<夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き真似をして人をだまそうとしても、函谷関(かんこくかん)ならともかく、この逢坂の関は決して許しませんよ。(だまそうとしても、決して逢いませんよ)>>
やはり,近くに逢坂の関というなじみの地名があると覚えやすいのかも知れません。
逢(おふ)坂を逢(あ)う坂に掛けるという意味も生まれが関西の私にとって,理解はあまり苦にならなかったのです。
関西弁では,会うことを「おう」と発音する場合が普通にあるからです。
たとえば,関西のお父さんがかわいい一人娘と付き合っている男がまったく気に入らないとき,そのお父さんが言うセリフを天の川君にやってもらいましょう。
天の川 「あんな甲斐性無しのたびとみたいな男と金輪際会(お)うたらアカン。今度会(お)うたら,家から絶対出さへんさかいな!」
おいおい,天の川君「たびとみたいな」だけは余計だよ。でも,迫真の演技だったね。
天の川 「そらそうや。たびとはんの相手がそう言われたんやろ?」
さっ..,さて,万葉集の話題に移ります。万葉集では逢坂の関は出てきません(但し,関所は万葉時代にすでに開設されていたようです)。逢坂山は6首の長短歌に出てきます。
そのなかで,次の1首は私が少年時代に住んでいた近くの地名をたくさん詠んでいて,私を懐かしい気持ちにさせる長歌です。
そらみつ 大和の国 あをによし 奈良山越えて 山背の 管木の原 ちはやぶる 宇治の渡り 瀧つ屋の 阿後尼の原を 千年に 欠くることなく 万代に あり通はむと 山科の 石田の杜の すめ神に 幣取り向けて 我れは越え行く 逢坂山を (13-3236)
<そらみつ やまとのくに あをによし ならやまこえて やましろの つつきのはら ちはやぶる うぢのわたり たぎつやの あごねのはらを ちとせに かくることなく よろづよに ありがよはむと やましなの いはたのもりの すめかみに ぬさとりむけて われはこえゆく あふさかやまを>
<<奈良の都から平城(なら)山を越えて山城(今の京都府)の菅木(つつき)の原に入り,宇治川を渡り,阿後尼(あごね)の原に入り,これからもずっとこの道を通えるようにと山科の石田(いわた)の社(やしろ)の神に幣を手向け,私は越えて行きます逢坂山を>>
この長歌は男性が好きな女性の家に逢いに行くこと(妻問い)の大変さを逢坂山を例えにしている(実際には行ってはいない)和歌と読めるかもしれません。
それでも,素直に大和の都から近江の国までの紀行を詠んだ長歌と解釈すると,作者は石田の杜で旅の安全とまた何度もこの道を通れるように祈った後,おそらく私が住んでいた近くを南から北へ行き,やがて厳しい山道である逢坂山(関)を越えて近江を目指したのでしょう。
山科には,南北を貫く街道がいくつかあります。比較的歴史がある街道として,大津街道(京都府道35号線),醍醐街道(京都府道117号線),川田道,西野道などがあります。
この中には,万葉時代の後に造られた街道もあると思いますが,山科が奈良から近江や東国に行く交通の要所であり,逢坂山がまさに幾筋もの街道が集まってくる場所で,関所として好立地だったのもうなづけます。
ここで,厳しい検問を行うことで,都からの亡命者,逃亡者,東国からの工作員などがいないか,チェックしたのでしょう。
検問もさぞ厳しかった上に,通過する人が多く,通過するまでに時間(日数)が掛かったのかもしれません。
律令制という階級制度と複雑な人間関係の中で,恋に落ちた2人が逢うこともままならない状況と逢坂の関や逢坂山を越えることの厳しさを比喩する表現が万葉集の時代から定番だったような気がしています。
私が万葉集と接するとき,地の利がやはりあるのかも知れませんね。
私の接した歌枕(2:鏡の山)に続く
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