この地を知らしめたのは,万葉集巻2に出てくる額田王が詠んだ次の長歌です。
やすみしし 我ご大君の 畏きや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつありてや ももしきの 大宮人は 行き別れなむ(2-155)
<やすみしし わごおほきみの かしこきや みはかつかふる やましなの かがみのやまに よるはも よのことごと ひるはも ひのことごと ねのみを なきつつありてや ももしきの おほみやひとは ゆきわかれなむ>
<<亡き帝(みかど)が恐れ多くもお眠りなっている山科の鏡山で昼夜を分かたずずっと泣きくれていたが大宮人達ももう去ってしまうのだなあ>>
天智天皇の御陵の後ろに控える山が鏡の山です。地元では鏡山(かがみやま)と呼んでいます。
私の通っていた小学校(勧修小学校)とは違う学校ですが,鏡山小学校という名の小学校が天智天皇陵の近くにあります。
鏡山小学校のホームページを見ると生徒が鏡山に登るイベントがあり,頂上から山科盆地を見ながらお弁当を食べたというレポートが載っていました。
<琵琶湖疎水での水泳>
私が小学生のころは,明治中期に山科の北の山沿いを切り開いた琵琶湖疎水でまだ水泳ができました(今は遊泳禁止)。夏,ひと際暑い京都ですから,小学校の夏休みには疎水まで毎日のように自転車のペダルをこいで自宅から20分くらいかけて泳ぎに行きました。
疎水で泳げる場所(諸羽<もろは>ダムと呼ばれた水路を広げ,流れが緩やかな場所)から鏡山小学校は遠くありませんでした。
<怖い京都の地名>
一度友達とその水泳の帰りに鏡山小学校の前を通ったのです。ところが,その住所が山科血洗町となっているのをみて,「ケツ洗いやて,この学校けったいな地名に建ってるな~。」と友達と大笑いながら通り過ぎました。
家に帰って,夕食時に父にそんな話をしたら「あまえな~,笑ろてる場合やあらへんで。本当はえらい怖い地名なんや。洗ろたんは何の血やというたらな,..」と父の真夏の怪談が始まったのを覚えています。
京都には,こんな恐ろしい地名がほかにも残っていますが,京都人はそのまま残すのも伝統保存として気にしないし,逆にパワースポットとして観光客を呼び込むしたたかさを持ち合わせているのかもしれませんね。
<天智天皇の御陵駅>
天智天皇陵の近くの電車の駅名にまさに「御陵(みささぎ)」という名の駅があります。
私が山科に居た時は,京阪電鉄の京津線の駅でした。しかし,1997年に京都市営地下鉄東西線の開通により,御陵駅以西の京津線の駅が廃止され,今は東西線と相互乗り入れする地下駅となっています。
旧御陵駅は踏切を挟んで京都三条方面と浜大津方面でホームが別れていた珍しい駅でしたが,もう見られません。
さて,天智天皇陵古墳は,考古学的にも現在の場所(京都市山科区御陵)でほぼ間違いないといわれているようです。
天智天皇は大津に都を造るため,何度も明日香から山科の地を通過したのに違いありません。途中の休憩(宿泊)場所として,山科に大きな別荘を建てたのだろうと私は想像しています。
しかし,壬申の乱で大津の宮が都でなくなり,山科もしばらくは寂しい状況となり,山の麓にある天智天皇陵はひっそりと木に覆われて行ったのでしょうか。
では,私が大学に入る前まで過ごしていた山科の歌枕はこのくらいにします。次から山科以外で私の印象に残った歌枕を紹介していきます。
私の接した歌枕(3:富士の高嶺)に続く