2010年12月31日金曜日

私の接した歌枕(2:鏡の山)

私が4歳から18歳まで住んでいた京都市山科区には,万葉集の歌枕として天智天皇御陵(みささぎ)があります。
この地を知らしめたのは,万葉集巻2に出てくる額田王が詠んだ次の長歌です。

やすみしし 我ご大君の 畏きや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつありてや ももしきの 大宮人は 行き別れなむ(2-155)
やすみしし わごおほきみの かしこきや みはかつかふる やましなの かがみのやまに よるはも よのことごと ひるはも ひのことごと ねのみを なきつつありてや ももしきの おほみやひとは ゆきわかれなむ
<<亡き帝(みかど)が恐れ多くもお眠りなっている山科の鏡山で昼夜を分かたずずっと泣きくれていたが大宮人達ももう去ってしまうのだなあ>>

天智天皇の御陵の後ろに控える山が鏡の山です。地元では鏡山(かがみやま)と呼んでいます。
私の通っていた小学校(勧修小学校)とは違う学校ですが,鏡山小学校という名の小学校が天智天皇陵の近くにあります。
鏡山小学校のホームページを見ると生徒が鏡山に登るイベントがあり,頂上から山科盆地を見ながらお弁当を食べたというレポートが載っていました。
<琵琶湖疎水での水泳>
私が小学生のころは,明治中期に山科の北の山沿いを切り開いた琵琶湖疎水でまだ水泳ができました(今は遊泳禁止)。夏,ひと際暑い京都ですから,小学校の夏休みには疎水まで毎日のように自転車のペダルをこいで自宅から20分くらいかけて泳ぎに行きました。
疎水で泳げる場所(諸羽<もろは>ダムと呼ばれた水路を広げ,流れが緩やかな場所)から鏡山小学校は遠くありませんでした。
<怖い京都の地名>
一度友達とその水泳の帰りに鏡山小学校の前を通ったのです。ところが,その住所が山科血洗町となっているのをみて,「ケツ洗いやて,この学校けったいな地名に建ってるな~。」と友達と大笑いながら通り過ぎました。
家に帰って,夕食時に父にそんな話をしたら「あまえな~,笑ろてる場合やあらへんで。本当はえらい怖い地名なんや。洗ろたんは何の血やというたらな,..」と父の真夏の怪談が始まったのを覚えています。
京都には,こんな恐ろしい地名がほかにも残っていますが,京都人はそのまま残すのも伝統保存として気にしないし,逆にパワースポットとして観光客を呼び込むしたたかさを持ち合わせているのかもしれませんね。
<天智天皇の御陵駅>
天智天皇陵の近くの電車の駅名にまさに「御陵(みささぎ)」という名の駅があります。
私が山科に居た時は,京阪電鉄の京津線の駅でした。しかし,1997年に京都市営地下鉄東西線の開通により,御陵駅以西の京津線の駅が廃止され,今は東西線と相互乗り入れする地下駅となっています。
旧御陵駅は踏切を挟んで京都三条方面と浜大津方面でホームが別れていた珍しい駅でしたが,もう見られません。
さて,天智天皇陵古墳は,考古学的にも現在の場所(京都市山科区御陵)でほぼ間違いないといわれているようです。
天智天皇は大津に都を造るため,何度も明日香から山科の地を通過したのに違いありません。途中の休憩(宿泊)場所として,山科に大きな別荘を建てたのだろうと私は想像しています。
しかし,壬申の乱で大津の宮が都でなくなり,山科もしばらくは寂しい状況となり,山の麓にある天智天皇陵はひっそりと木に覆われて行ったのでしょうか。
では,私が大学に入る前まで過ごしていた山科の歌枕はこのくらいにします。次から山科以外で私の印象に残った歌枕を紹介していきます。
私の接した歌枕(3:富士の高嶺)に続く

2010年12月30日木曜日

私の接した歌枕(1:逢坂の関)

私の生まれたところは京都市伏見(ふしみ)区近鉄京都線桃山御陵前(ももやまごりょうまえ)駅の近くでした。その後4歳の時,親が山科(やましな)区(当時は東山区山科)栗栖野(くりすの)というところに引っ越し,そこで18歳まで過ごしました。
伯父が滋賀県大津市の京阪石山(いしやま)駅近くで鍼灸院を営んでいました。京阪山科駅から京阪電鉄京津(けいしん)線,石山坂本線経由で京阪石山駅まで電車に乗って,頻繁に伯父のところに遊びに行きました。
その途中,京阪山科四宮(しのみや)追分(おいわけ)という駅を過ぎ,登り勾配を上っていき,次の大谷(おおたに)駅で最高地点に達します。そこからトンネルを抜けると一気に琵琶湖沿岸の浜大津まで電車は下ります。この大谷駅辺りが逢坂の関があったところだと,よく一緒に伯父のところに遊びに行った兄から何度か教えられたことがあます。
伯父の家では正月親戚が集まると決まって百人一首の歌留多取りが行われていました。
さすがに,小学校の低学年までは見ているだけで参加できませんでしたが,小学校高学年頃になると大人に枚数では勝てなくても,確実に何枚かは取れるようになりました。
特に,逢坂の関や逢坂山(関近くの山)を詠んだ短歌は次の3首は,どれも取るのが得意な(最初1~2文字を聞いただけで下の句の歌留多を取れる)短歌でした。

これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関(百人一首10:蝉丸
<<これがあの有名な(京から)出て行く人も帰る人も皆ここで別れ、知り合いも知らない他人も、そしてここで出会うと言う逢坂の関なのだなあ>>

名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな(百人一首25:藤原定方
<<恋しい人に逢える「逢坂山」、一緒にひと夜を過ごせる「小寝葛(さねかずら)」その名前にそむかないならば、逢坂山のさねかずらをたぐり寄せるように、誰にも知られずあなたを連れ出す方法があればいいのに>>

夜をこめて 鳥の空音は謀るとも よに逢坂の関は許さじ(百人一首62:清少納言
<<夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き真似をして人をだまそうとしても、函谷関(かんこくかん)ならともかく、この逢坂の関は決して許しませんよ。(だまそうとしても、決して逢いませんよ)>>

やはり,近くに逢坂の関というなじみの地名があると覚えやすいのかも知れません。
逢(おふ)坂を逢(あ)う坂に掛けるという意味も生まれが関西の私にとって,理解はあまり苦にならなかったのです。
関西弁では,会うことを「おう」と発音する場合が普通にあるからです。
たとえば,関西のお父さんがかわいい一人娘と付き合っている男がまったく気に入らないとき,そのお父さんが言うセリフを天の川君にやってもらいましょう。

天の川 「あんな甲斐性無しのたびとみたいな男と金輪際会(お)うたらアカン。今度会(お)うたら,家から絶対出さへんさかいな!」

おいおい,天の川君「たびとみたいな」だけは余計だよ。でも,迫真の演技だったね。

天の川 「そらそうや。たびとはんの相手がそう言われたんやろ?」

さっ..,さて,万葉集の話題に移ります。万葉集では逢坂の関は出てきません(但し,関所は万葉時代にすでに開設されていたようです)。逢坂山は6首の長短歌に出てきます。
そのなかで,次の1首は私が少年時代に住んでいた近くの地名をたくさん詠んでいて,私を懐かしい気持ちにさせる長歌です。

そらみつ 大和の国 あをによし 奈良山越えて 山背の 管木の原 ちはやぶる 宇治の渡り 瀧つ屋の 阿後尼の原を 千年に 欠くることなく 万代に あり通はむと 山科の 石田の杜の すめ神に 幣取り向けて 我れは越え行く 逢坂山を (13-3236)
そらみつ やまとのくに あをによし ならやまこえて やましろの つつきのはら ちはやぶる うぢのわたり たぎつやの あごねのはらを ちとせに かくることなく よろづよに ありがよはむと やましなの いはたのもりの すめかみに ぬさとりむけて われはこえゆく あふさかやまを
<<奈良の都から平城(なら)山を越えて山城(今の京都府)の菅木(つつき)の原に入り,宇治川を渡り,阿後尼(あごね)の原に入り,これからもずっとこの道を通えるようにと山科の石田(いわた)の社(やしろ)の神に幣を手向け,私は越えて行きます逢坂山を>>

この長歌は男性が好きな女性の家に逢いに行くこと(妻問い)の大変さを逢坂山を例えにしている(実際には行ってはいない)和歌と読めるかもしれません。
それでも,素直に大和の都から近江の国までの紀行を詠んだ長歌と解釈すると,作者は石田の杜で旅の安全とまた何度もこの道を通れるように祈った後,おそらく私が住んでいた近くを南から北へ行き,やがて厳しい山道である逢坂山(関)を越えて近江を目指したのでしょう。
山科には,南北を貫く街道がいくつかあります。比較的歴史がある街道として,大津街道(京都府道35号線),醍醐街道(京都府道117号線),川田道西野道などがあります。
この中には,万葉時代の後に造られた街道もあると思いますが,山科が奈良から近江や東国に行く交通の要所であり,逢坂山がまさに幾筋もの街道が集まってくる場所で,関所として好立地だったのもうなづけます。
ここで,厳しい検問を行うことで,都からの亡命者,逃亡者,東国からの工作員などがいないか,チェックしたのでしょう。
検問もさぞ厳しかった上に,通過する人が多く,通過するまでに時間(日数)が掛かったのかもしれません。
律令制という階級制度と複雑な人間関係の中で,恋に落ちた2人が逢うこともままならない状況と逢坂の関や逢坂山を越えることの厳しさを比喩する表現が万葉集の時代から定番だったような気がしています。
私が万葉集と接するとき,地の利がやはりあるのかも知れませんね。
私の接した歌枕(2:鏡の山)に続く

2010年12月25日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…匂ふ(3:まとめ)

「匂ふ」の最後は,「似合う」という意味になるものついて述べてみます。
次の万葉集に出てくる短歌は,花を原料とした衣服の色をテーマとした恋情歌です。

山吹の匂へる妹がはねず色の赤裳の姿夢に見えつつ (11-2786)
やまぶきの にほへるいもが はねずいろの あかものすがた いめにみえつつ
<<山吹色の似合う美しいあの娘の、はねず色の赤い裳(も)の姿を夢に見ています>>

はねず色はピンクに近い(少し濃い)色を指したようです。
山吹色の似合うあの子はきっとピンクの裳(万葉時代で腰から下に着けたスカートのような衣装)も似合うだろうなと感じている男性の短歌です。
作者の男性にとって,まぶしい存在の彼女に,ささげた短歌かも知れません。
<母校での講義>
さて,この前の土曜日,私が大学時代に参加していた万葉集研究サークルの顧問の先生から,大学の公開講座に参加してくれる人達が集まって開くファミリーなシンポジウムで話をしてほしいという依頼があり,そのシンポジウムに参加するため,母校に行ってきました。
日本文学科の大学院生2人が,順に事例を使った「万葉集が源氏物語に現れる短歌にどう影響したか」という主題テーマの発表後,私は「万葉集から今の私たちは何を学ぶべきか」というタイトルで話すことになっていました。
参加者は,首都圏周辺から来た少し年配の女性が大半でした。みなさん本当にお元気で,向学心溢れる姿で大学院生の発表や私の話を聞く姿は,まさにまぶしい存在そのものでした。
また,鮮やかな色の着物を着て来られた方や今風の服を上手に着こなしておられ,まさに「匂ふ」(似合う)方がたくさんいらっしゃったように感じました。
<質問の嵐>
私は40分ほどこのブログで書いている内容をベースに「万葉集から今の私たちは何を学ぶべきか」の話をしました。20分ほど質疑応答の時間を用意しましたが,質疑応答の時間が全然足りないほど質問が出ました。シンポジウム終了後の懇親会でも万葉集について活発な議論がされ,中には答えに窮する鋭い質問もあり,参加者の熱心さが伝わってきました。
議論のテーマとしては,「枕詞」「花(スミレ,タチバナ,ウメ,サクラ,ハギなど)について」「防人の歌」「東歌」「相聞」などでした。
特に,次の山部赤人の有名な短歌を題材に「万葉集の読み方」について議論が盛り上がりました。

春の野にすみれ摘みにと来し我れぞ野をなつかしみ一夜寝にける(8-1424)
はるののに すみれつみにと こしわれぞ のをなつかしみ ひとよねにける
<<春の野にスミレを摘みに来た私は,野が非常に綺麗だったので,一夜そこで寝てしまったよ>>

「いくらスミレが綺麗でもその場で野宿するとは考えられないよ」
「いや,万葉集は素直に言葉通り(野宿したと)読むべき」
「スミレは女性の例えで,スミレのような可愛い女性と夜を共にしたという解釈が妥当だろう。妻問いの風習の婉曲表現に違いない」
「いや,いや,赤人は自然派詩人であり,赤人の和歌は裏の意味(含意)を想像せず,やはり素直に受け取るべき」
「万葉集の和歌を,表面の言葉のみにとらわれず,含意をさぐるのもおもしろいのでは」

懇親会で参加者から「さて,たびとさんはどう思う?」と振られたのですが,かなり酔っぱらっていた私は「わっわっ私は~,まっまっまずは~,言葉通りに意味を考える方で~す~。ウィッ。」と答えてしまったと記憶しています。
翌日,酔いが醒めてこのブログを振り返ってみると,結構紹介した和歌の「含意」を勝手な感想として述べてきています。
天の川に『はびとはん。いつも言うてることと,やってることとちゃうやんか』と言われそうです。
<「べき」論で片付ける「べき」でない万葉集>
それでも,万葉集は「□□のように解釈すべきだ」とか「べき論」で意味を分析したり,鑑賞したりするのではなく,「素直に」感じたまま接するのが「似合う」和歌集だと今の私は心底思っています。
ちなみに,題詞,左注,時代背景,作者や登場人物の立場などは「素直に感じるための要因(パラメタ)のひとつ」であると考えているため,和歌の表現に無い「含意」めいた話を出してしまうことはあるのかもしれませんね。

さて,今年も後わずかです。少し「動きの詞シリーズ」はお休みします。年末年始スペシャルとして「私が接した歌枕」を何回かお送りします。
次回はその最初として歌枕「逢坂の関」を紹介します。お楽しみに。

2010年12月19日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…匂ふ(2)

今回は,「匂ふ」が3回出てくる珍しい万葉集の短歌を紹介します。
この短歌では「匂ふ」を「染まる」と訳すと現代人にも分かりやすいかもしれません。

住吉の岸野の榛に匂ふれど匂はぬ我れや匂ひて居らむ(16-3801 )
すみのえの きしののはりに にほふれど にほはぬわれや にほひてをらむ
<<住吉の岸野の榛で衣を染め上げようと心を染めようとてしても染まないわたしだけれど,あなたの考えには染まりそうです>>

この短歌,竹取の翁が9人の若い娘たちに昔の経験を話したところ,9人の娘たちが感動し,返歌した9首のなかの1首です。
万葉集に出てくる竹取の翁は,あの竹取物語に出てくるストーリの翁とは異なります。
翁の元の長歌(一部)は,2009年7月14日の当ブログの投稿を参照ください。
この短歌の最後の「匂ふ」は,影響を受ける(influence)に近い意味でしょうか。
このブログで今年の6月下旬から3回,「染む」で布が徐々に染まっていくイメージが,人がある考えに少しずつ感化されることを示していると私は書きました。
「匂ふ」も最初は僅かな香りが徐々に強く感じていき,最後にはその香りで包まれてしまうイメージが,同じく人が感化されていく姿を示しているのかも知れません。
すなわち,あなたの匂い(考え)に包まれていくことを万葉時代には「匂ふ」を使ってうまく表現している例と考えられます。
<「」は漢字ではなく,国字>
ところで,「匂」という漢字は日本で発明された字(国字)です。
「ファミリーレストラン」「チャイナドレス」「ガッツポーズ」「スキンシップ」「プッシュフォン」「フリーダイアル」など,和製英語に分明される言葉がありますが,「匂」は和製漢字(国字)なのです。
和製漢字は日本で創られた漢字なので音読みが存在しません。「匂」のほか,「峠」「辻」「笹」「栃」「畑」「畠」「躾」「凧」「枠」などが和製漢字です。
さて,私のブログに失礼なコメントばかりする天の川に少し「躾」をしますか。
おい,天の川! 「加齢臭」とは何と失礼な!もう少し,..。 あれ? 天の川のヤツ,私の怒りの匂いを感じてどこかに隠れてしまったな。
匂ふ(3:まとめ)に続く。

2010年12月12日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…匂ふ(1)

前回までの「立つ」は多くの意味を持つ言葉でしたが,「匂(にほ)ふ」もなかなかいろいろな意味を持つ言葉です。
現在では,「臭う」のイメージがつきまとい,話し言葉ではあまり良いイメージの言葉になっていないのかも知れません。
しかし,万葉集から推測するに万葉時代では臭覚で感じる匂いだけでなく,もっと広い意味で使われているようです。
たとえば,ある色に染まることやその色に似合うことを「匂ふ」の表現を使って表したり,鮮やかな色が美しく映える状態を「匂ふ」と呼んだり,生き生きとした美しさなどが溢れる姿を「匂ふ」とも表現しました。
まず,今回は「匂ふ」を詠んだ,どれもあまりにも有名な短歌3首を紹介します。

紫の匂へる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも(1-21)
むらさきの にほへるいもを にくくあらば ひとづまゆゑに われこひめやも
<<紫色が美しくお似合いの貴女が憎らしいと思ったとしても,人妻であることが理由で私が貴女を嫌うことがあるでしょうか>>

あをによし奈良の都は咲く花の匂ふがごとく今盛りなり(3-328)
あをによし ならのみやこは さくはなの にほふがごとく いまさかりなり
<<奈良の都は満開の花のように美しく活気が溢れて,今は本当に栄えていますよ>>

春の園紅匂ふ桃の花下照る道に出で立つ娘子(19-4139)
はるのその くれなゐにほふ もものはな したでるみちに いでたつをとめ
<<春の庭園で桃の花が照らす下道に立っている紅色がよく似合う娘子たちよ>>

1首目は大海人皇子が蒲生野で額田王に向け詠んだ歌,2首目は小野老が筑紫で大伴旅人に向け詠んだ歌,3首目は大伴家持が越中で詠んだ歌です。
「匂ふ」がいかに良いイメージの言葉だったかをこれらの短歌を鑑賞して分かって頂けると思います。

私も落ち着いた色のジャケットが「匂ふ」(似合う)ようなセンスを持ちたいものです。

天の川 「たびとはん。その前にあんたの加齢臭何とかせ~へんとあかんのとちゃう?」

匂ふ(2)に続く。

2010年12月5日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…立つ(5:まとめ)

さまざまに意味を持つ「立つ」について,今回で一区切りをつけることにします。
「立つ」の連用形で次に動詞を修飾している言葉が次のように万葉集にたくさん出てきます。

立ち栄ゆ(たちさかゆ)…草木などが茂り栄える。時を得て繁栄する。
立ち候ふ(たちさもらふ)…立って警備に奉仕する。
立ち重く(たちしく)…重なり立つ。
立ち撓ふ(たちしなふ)…しなやかに立つ。
立ち立つ(たちたつ)…盛んに立ちのぼる。盛んに飛ぶ。
立ち動む(たちとよむ)…どよむ。さわぐ。
立ち嘆く(たちなげく)…立ってため息をつく。
立ち均す(たちならす)…地面を踏みつけて平らにする。その場に常に行き来する。しばしば訪れる。
立ち走る(たちはしる)…立って走る。走り回る。
立ち向かふ(たちむかふ)…立って向かう。対抗する。敵対する。
立ち徘徊る(たちもとほる)…歩き回る。行きつ戻りつする。
立ち行く(たちゆく)…立って行く。出発する。
立ち装ふ(たちよそふ)…装う。周りを飾る。
立ち別る(たちわかる)…別れていく。別れ去る。

このように,万葉集で「立つ」は多様な使われ方をしています。
「立つ」をテーマとした最後として柿本人麻呂作の有名な短歌を次に紹介します。

東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ(1-48)
ひむがしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ
<<東の方向の野に陽炎の出ているのが見えて,後ろを見たら月が西方に沈みかけている>>

軽皇子(後の文武天皇持統天皇の孫)が狩のため,阿騎の野に宿営したときに人麻呂が詠んだ長歌に続く短歌の1首です。
東の方が明るくなって,太陽が昇る前兆の陽炎が見えてきた。これは,これから軽皇子が時代が来るという明確な前兆を示す。
反対側では満月の月が西に沈みかけようとしている。これは,父君の草壁皇子が亡くなったことを示していると考えられます。
軽皇子は恐らく10歳過ぎの年齢であるが,将来の天皇家を担う皇子として,周りが次期天皇の第一候補として讃嘆している情景が浮かびます。
「立つ」の意味が広いため,「陽炎が立つ」が軽皇子の立太子を暗示していたのかも知れません。
この後,軽皇子は15歳で立太子,祖母の持統天皇から譲位され,文武天皇となります。
持統皇太后後見の下10年間在位したが,崩御し,母親の元明天皇(奈良時代最初の天皇)が後を継ぐことになります。
そして,元明天皇は娘に譲位し,2代続けて女性の天皇(元正天皇)が続くことになります。
ようやく文武天皇の第一皇子が育ち,再び男性天皇の聖武天皇が即位し,まさに天平時代を迎えるのです。
匂ふ(1)に続く。