2010年8月14日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…遊ぶ(3:まとめ)

大伴家持は越中の地(家持28~33歳)で「遊ぶ」という言葉を入れた和歌を多く詠んでいます。
以前にも何度か触れていますが,家持は越中で豊かな自然や暮らし,地元役人だけでなく,農業,漁業,商業に携わる人々と楽しく接することができ,平和な時間を過ごせたようです。
書持(ふみもち)という仲の良い弟を亡くした悲しみが越中赴任直後にありましたが,若いころから恋人同士だった坂上大嬢を妻に迎え,本当に幸せを感じた時期だったのかもしれません。
その結果,家持はこの越中で200首以上の和歌を詠み,いわゆる越中歌壇と呼ばれるジャンルを万葉集に残しました。
越中で最後に「遊ぶ」を入れた短歌は天平勝寶2年3月27日に酒宴で詠んだものです。

春のうちの楽しき終は梅の花手折り招きつつ遊ぶにあるべし(19-4174)
<はるのうちのたのしきをへは うめのはなたをりをきつつあそぶにあるべし>
<<春のなかでいちばんの楽しみは,梅の花を手折って客を迎え,楽しく遊ぶことに決まりだね>>

この短歌を詠んだ時期は梅はとっくに散っている季節です。
この短歌の題詞に,家持が筑紫の大宰府で父大伴旅人と一緒にいたとき,梅の花を愛でる宴を追想して詠んだとあります。
この宴は,越中赴任時代の20年ほど前の天平2年正月に催された宴を指すと思われます。
このとき,出席者が1首ずつ詠んだ32首が万葉集に残っていますので,その盛大さが想像できます。家持がその時に出席者によって詠まれた短歌の記録を所持していたのでしょう。
家持は筑紫でのその盛大な宴にいた可能性が高そうです。しかし,家持は12歳位だったのでさすがにそのときの家持の歌は残っていません。
越中の家持は筑紫の梅花の宴32首を前提にして19-4174の短歌を作ったと想像しますが,特にあるひとりの参加者(法麻呂という陰陽師)の次の歌を意識したのではないかと私は思います。

梅の花手折りかざして遊べども飽き足らぬ日は今日にしありけり(5-836)
<うめのはな たをりかざしてあそべども あきだらぬひはけふにしありけり>
<<梅の花を手折って頭に飾りいくら楽しく遊んでも少しも飽き足ることがない日はまさに今日の宴でしょう>>

家持は本当に楽しかった筑紫の宴を思い出して越中の出席者に梅見の遊びの楽しさがいちばんだと断言したかったのでしょう。

しかし,天平勝寶3年秋に越中守の任を終了し奈良の都に戻った家持に待っていたのは血で血を洗う権力闘争や庶民生活を脅かす重税でした。
聖武天皇は東大寺大仏建立のことばかり考え,光明皇后や藤原仲麻呂の意のままに政治が進み,家持の後見役的な左大臣橘諸兄は家持越中赴任前ほど力を持たなくなっていたのです。
家持は19-4174を詠んだ3年後の春(大仏開眼法要も無事終わった翌年,本当は楽しいはずの季節)に,次のような自分の暗い気持ちを詠んだ有名な短歌を残しています。

うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば(19-4292)
<うらうらに てれるはるひにひばりあがり こころかなしもひとりしおもへば>
<<日差しが柔らかに照っている春日に雲雀が飛び上がっているが,独りで思いにふけると心は悲しくなるなあ>>

惜しむ(1)に続く。

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