今回は,「笑む」と大伴家持との関係について述べてみたいと思います。
<(1) 家持は「笑」を好む?>
「笑む」またはその名詞形や熟語を使った和歌は万葉集に28首ほどありますが,その作者を調べてみると大伴家持との関係が少しあるように感じます。
実はこの和歌の数は28首のうち12首が家持作と言われています。
家持は万葉集全4516首中473首もの和歌の作者とされていますから,万葉集の和歌を分類した場合,分類分けした一つに含まれる家持作の和歌が他の詠み人の和歌より多く現れるのは自然です。
ただ,それでも万葉集全体に占める家持作の和歌数の割合は10%余りですが,「笑む」またはその名詞形や熟語を使った和歌28首のうち44%もが家持作なのです。
家持作以外で「笑」を詠んだ和歌は詠み人知らずの和歌が11首,聖武天皇,坂上郎女,山上憶良,山部赤人,河村王と伝えられている和歌が各1首ずつとなっています。
詠み人知らずの作者がひとりとは考えにくいため,ひとりで12首も「笑」の言葉を使った家持は,他の詠み人よりも「笑」という言葉を好んで使っていた可能性が十分伺えます。
~我が待つ君が 事終り 帰り罷りて 夏の野の さ百合の花の 花笑みに にふぶに笑みて あはしたる 今日を始めて 鏡なす かくし常見む 面変りせず (18-4116)
<~あがまつきみが ことをはり かへりまかりて なつののの さゆりのはなの はなゑみに にふぶにゑみて あはしたる けふをはじめて かがみなす かくしつねみむ おもがはりせず>
<<~私が待つ君が仕事を終えて帰って来られて 夏の野の小百合の花がほころんだように満面の笑みで再会して今日からずっと鏡と向き合うように毎日お目にかかりましょう,いつも同じように。>>
これは,749年越中の国守として赴任中の大伴家持31歳頃,補佐官・掾(じょう)の任にある久米広縄が前年から報告使(朝集使)として都に行き,越中に無事帰ってきたことの祝宴で,広縄との再会を慶んで詠んだ長歌の後半部分です。
小百合の花が咲いたときのように満面の明るい笑みで再会でき,そしてこれからもその笑みでお付き合いしましょうという意味が相手にイメージとして伝わる長歌だと私は思います。
<(2)越中の豊さと「笑」>
ちなみに,この長歌のように家持が「笑」の言葉を使って詠んだ和歌の3分の2は越中赴任中に詠んだ和歌です。
家持が元々「笑」の言葉が好きだった上に,当時の越中経済が豊かで,人々が明るく平和に暮らしていた影響された部分もあると私は感じます。
当時の越中は山海の幸が豊富に獲れ,砺波平野では農地の開発が進んでいたようです。
たとえば海の幸ですが,今頃富山湾では地元では「ホタルイカの身投げ」と呼ぶ現象が見られます。
それは,新月前後の夜,海辺に活きたホタルイカが光を放ちながら海岸に多数打ち寄せられて来て,今でも手づかみで獲れるそうです。富山湾はそんな豊かな海なのです。
また,産業面でも和紙の製造が盛んだったようで,正倉院文書に「越中国紙」として都に献上されたという記録があるとのことです。
また,全国の各港と船で結ぶ港があり,豊富な物資や産物と交換に全国のさまざまな物も入ってきたのだと思います。
なによりも都から離れていたということで,都の政争の影響が少なく,平和で豊かな暮らしが実現していたのだと私は想像します。
家持が上質な越中和紙を豊富に使い,自分や部下の詠んだたくさんの和歌を万葉仮名で記録させ,地酒と地産の肴を嗜みながら和歌を整理して「笑む」家持の顔が目に浮かぶようです。
(右は,WIKIMEDIA COMMONSにアップロードされたものを引用)
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