今回は,「偲ふ」の2回目として「見つつ偲ふ」という表現を中心に考えてみます。
万葉集には「見つつ偲ふ」という表現を使った和歌が26首ほど出てきます。
万葉集全20巻のうち,いくつかの巻を除き,この表現を使った和歌がどこかに出てきています。比較的偏りが少ないため,結局,この表現は万葉集の和歌の作成年代にかかわらず使われてきた慣用的なものではないかと私は思います。
「見つつ偲ふ」の意味は,「■■を見て(眺めて),(そこにない)○○を偲ぶ」ということになるでしょう。
万葉集のこの26首を見ると,偲ぶ対象である○○には次のもの(人)が出てきます。
巨勢の春野,遠妻,君,妹,家,我妹子,
我が背(子),遠き妹,国,益荒男
すなわち,遠く離れた恋人,妻,家族,家,故郷,懐かしの地,憧れの地を偲んでいるようなのです。
いっぽう,見る対象である■■には次のものが出てきます。
椿,雲,秋萩,撫子,清き川原,白波,
藻の花,小竹,月,淡雪,衣の縫目,
白栲の袖,布施の海,花,絵,足柄の八重山,
アジサイ,初雪
これらは,今はいない人の「形見」となっているものも多くあるように思います。
高円の野辺の秋萩な散りそね君が形見に見つつ偲はむ(2-233)
<たかまとの のへのあきはぎ なちりそね きみがかたみに みつつしぬはむ>
<<高円の野辺に咲く秋萩よ散らないでほしい。今君(志貴皇子)の形見として見て偲んでいるのだから>>
これは,志貴皇子が亡くなったことを詠んだ挽歌の中の一首です。
志貴皇子は,大伴家持による万葉集編集プロジェクトを強力にバックアップしたと(私が勝手に想像している)光仁天皇の父です。
光仁天皇が7歳になるかならないかで,父志貴皇子はすでに亡くなっていたようです。多分,父の記憶が少ない中,光仁天皇は父がどんな人だったか強く知りたいと思っていた可能性があります。
いっぽう,家持は13歳の時まで,父大伴旅人は生きていました。
家持は父旅人から,父に天智天皇を持つ志貴皇子は素晴らしい歌人で,人徳者であったことを聞かされていたのかもしれません。
そして,家持は光仁天皇に万葉集編纂の過程で父旅人から聞いたことを伝え,それを聞いた光仁天皇は亡き父を偲んだと考えられます。
壬申の乱以降,天武系の天皇が続いてきたが,天智天皇の孫である光仁天皇が即位したことは,歴史上結構大きなエポックだと私は思うのです。
光仁天皇は自らの天皇即位後,父志貴皇子を天皇と同等に尊敬するよう天皇の名前を付けたとのことです。父に対する思いは相当強いものがあったのでしょう。
編集中であろう万葉集に出てくる父志貴皇子の次の短歌を見て,光仁天皇は父のどういう姿を偲んだのでしょうか。
采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く(1-51)
<うねめの そでふきかへす あすかかぜ みやこをとほみ いたづらにふく>
<<采女の袖を吹き返す明日香に吹く風――都でなくなった今はむなしく吹くばかりだ>>
この短歌は,天武天皇と持統天皇が都を構えた飛鳥浄御原宮から持統天皇が藤原京に遷都(694年)した後の飛鳥浄御原宮の荒廃を見て詠んだもののようです。
天智天皇の子である志貴皇子が,天武系の治世に対する批判を自らの立場でギリギリ表現した短歌とも取れなくはありません。そんな父の,表には出さないが,天智系の存続に対する意志の強さを光仁天皇は偲んだのかもしれません。
私も,機会があれば是非この短歌の歌碑がある甘樫丘に改めて立ち,明日香の地を見つつ往時を偲んでみたいと思うこの頃なのです。
偲ふ(3):まとめに続く。
0 件のコメント:
コメントを投稿