2010年4月30日金曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…笑む(3:まとめ)

「笑む」またはその名詞形を示す万葉集の原文の文字(万葉仮名)が何かを調べてみました。
その結果,大伴家持山上憶良以外は作者(含む詠み人知らず)の和歌は,みな「笑」に関する部分の万葉仮名は「咲」という漢字を含む形のようです。
いっぽう,家持の和歌では「咲(笑み)」の万葉仮名も何首かありますが,「咲比(笑ひ)」「咲儛(笑まひ)」「咲容(笑まひ)」「恵麻比(笑まひ)」「恵麻波(笑まは)」「恵美(笑み)」「恵末須(笑まず)」「恵末比(笑まひ)」「恵良恵良(笑ら笑ら)」とさまざまな万葉仮名をあてています。
憶良の長歌では「恵麻比(笑まひ)」を使っています。
このことから,「笑む」またはその名詞形は花が咲くという意味を連想させ「咲」の字で「笑む」などと発音させるのが一般的だったけれども,家持や憶良はある意図を持って「恵麻比」のような音読みの万葉仮名を採用した可能性があります。

父母を 見れば貴く 妻子見れば かなしくめぐし うつせみの 世のことわりと かくさまに 言ひけるものを 世の人の 立つる言立て ちさの花 咲ける盛りに はしきよし その妻の子と 朝夕に 笑みみ笑まず もうち嘆き 語りけまくは ~(18-4106)
<~ちちははを みればたふとく めこみれば かなしくめぐし うつせみの よのことわりと かくさまに いひけるものを よのひとの たつることだて ちさのはな さけるさかりに はしきよし そのつまのこと あさよひに ゑみみゑまずも うちなげき かたりけまくは ~>
<<父母を見れば尊敬を感じ,妻子を見れば愛らしく可愛いと感じる。これが今の常識とこのように言われている。人の噂では,チサの花が咲く盛りにいとしく可愛い妻子と朝夕にほほ笑んだり,ときにはほほ笑まないで嘆き語ったかもしれない~>>

この大伴家持作の長歌(抜粋)では「咲ける」「笑み」「笑まず」が含まれていますが,この3単語ともに訓読みの万葉仮名ではどれも「咲」という文字を使うことになる可能性があります。
ところが,家持はこの長歌で「咲ける(佐家流)」「笑み(恵美)」「笑まず(恵末須)」という音読みの万葉仮名をあてています。
「咲」という万葉仮名は,訓読み(意味をやまと言葉で表す)のため,やまと言葉のあたる意味が複数あるといくつかの読み方が可能となってしまいます。そのため,家持は音読みの漢字を敢えて当てて,「咲」を使った場合の読みの混乱を防いだのではないかと私は思います。
<漢字の訓読みと音読み>
訓読みの万葉仮名は,漢文の「読み下し」が得意な人にとって理解が容易だったのだと思います。いっぽう音読み万葉仮名は,漢文を中国語発音で読むのが得意な人にとって理解しやすいと想像できます。
家持は遣唐使経験のある憶良と異なり唐には行った経験はないようですが,この万葉仮名使いから見ると漢文を中国語発音で音読できる程度の中国語の素養があったことが推察されます。
<「笑む」はうれしいときに出るもの>
さて,ここまで万葉集の「笑む」にこだわって書いてきましたが,本当の「笑む」はやはり人との係わりの中で生まれるものだと感じました。人は相手の「笑む」を見て,お互いの人間関係がうまくいっていることを確認し,安心感をもちます。
たとえ,一人でほくそ笑んだとしても,家族や恋人との楽しい思い出に浸ったり,上司や周りの人に評価されことを一人で歓びをかみしめたりと,何か人との関係がうまくいったときに出るものだと思います。

これからも「笑み」を忘れず過ごしたいものだね,天の川君?

天の川 「なるほどな。なるほどなるほどなるほどな。そやけど,FUJIWARAの原西みたいなどぎつい笑いもええなあ。へっ,へっ,屁が出る3秒前。3,2,(ピー)」

天の川君の音声は途中で消しました。「頼む(1)」に続く。

2010年4月25日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…笑む(2)

今回は,「笑む」と大伴家持との関係について述べてみたいと思います。
<(1) 家持は「笑」を好む?>
「笑む」またはその名詞形や熟語を使った和歌は万葉集に28首ほどありますが,その作者を調べてみると大伴家持との関係が少しあるように感じます。
実はこの和歌の数は28首のうち12首が家持作と言われています。
家持は万葉集全4516首中473首もの和歌の作者とされていますから,万葉集の和歌を分類した場合,分類分けした一つに含まれる家持作の和歌が他の詠み人の和歌より多く現れるのは自然です。
ただ,それでも万葉集全体に占める家持作の和歌数の割合は10%余りですが,「笑む」またはその名詞形や熟語を使った和歌28首のうち44%もが家持作なのです。
家持作以外で「笑」を詠んだ和歌は詠み人知らずの和歌が11首,聖武天皇坂上郎女山上憶良山部赤人河村王と伝えられている和歌が各1首ずつとなっています。
詠み人知らずの作者がひとりとは考えにくいため,ひとりで12首も「笑」の言葉を使った家持は,他の詠み人よりも「笑」という言葉を好んで使っていた可能性が十分伺えます。

我が待つ君が 事終り 帰り罷りて 夏の野の さ百合の花の 花笑みに にふぶに笑みて あはしたる 今日を始めて 鏡なす かくし常見む 面変りせず (18-4116)
<~あがまつきみが ことをはり かへりまかりて なつののの さゆりのはなの はなゑみに にふぶにゑみて あはしたる けふをはじめて かがみなす かくしつねみむ おもがはりせず
<<~私が待つ君が仕事を終えて帰って来られて 夏の野の小百合の花がほころんだように満面の笑みで再会して今日からずっと鏡と向き合うように毎日お目にかかりましょう,いつも同じように。>>

これは,749年越中の国守として赴任中の大伴家持31歳頃,補佐官・(じょう)の任にある久米広縄が前年から報告使(朝集使)として都に行き,越中に無事帰ってきたことの祝宴で,広縄との再会を慶んで詠んだ長歌の後半部分です。
小百合の花が咲いたときのように満面の明るい笑みで再会でき,そしてこれからもその笑みでお付き合いしましょうという意味が相手にイメージとして伝わる長歌だと私は思います。
<(2)越中の豊さと「笑」>
ちなみに,この長歌のように家持が「笑」の言葉を使って詠んだ和歌の3分の2は越中赴任中に詠んだ和歌です。
家持が元々「笑」の言葉が好きだった上に,当時の越中経済が豊かで,人々が明るく平和に暮らしていた影響された部分もあると私は感じます。
当時の越中は山海の幸が豊富に獲れ,砺波平野では農地の開発が進んでいたようです。
たとえば海の幸ですが,今頃富山湾では地元では「ホタルイカの身投げ」と呼ぶ現象が見られます。
それは,新月前後の夜,海辺に活きたホタルイカが光を放ちながら海岸に多数打ち寄せられて来て,今でも手づかみで獲れるそうです。富山湾はそんな豊かな海なのです。
また,産業面でも和紙の製造が盛んだったようで,正倉院文書に「越中国紙」として都に献上されたという記録があるとのことです。
また,全国の各港と船で結ぶ港があり,豊富な物資や産物と交換に全国のさまざまな物も入ってきたのだと思います。
なによりも都から離れていたということで,都の政争の影響が少なく,平和で豊かな暮らしが実現していたのだと私は想像します。

家持が上質な越中和紙を豊富に使い,自分や部下の詠んだたくさんの和歌を万葉仮名で記録させ,地酒と地産の肴を嗜みながら和歌を整理して「笑む」家持の顔が目に浮かぶようです。
(右は,WIKIMEDIA COMMONSにアップロードされたものを引用)

2010年4月18日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…笑む(1)

本シリーズの4番目として「笑(ゑ)む」を取り上げます。
「笑む」とは,万葉集では「にこにこする」,「ほほえむ」,「花が咲く」という良いイメージで使われているようです。
まさに弥勒菩薩半跏思惟像などのいわゆるアルカイックスマイルは,「笑む」のひとつの典型だったのかも知れません。
しかし,現在では「あざ笑う(嗤)」「失笑する(哂)」も「笑」という字を使って表現することも多く,ネガティブなイメージで「笑」を用いる場合があります。
万葉集の和歌には,「笑む」以外に「笑む」の熟語や名詞形として次のようなものが出てきます。

 下笑む(心の中で嬉しく思う。)
 花笑み(花が咲くこと。蕾がほころびること。)
 笑ます(「笑む」の尊敬語)
 笑まひ(にこにこ笑うこと。ほほえむこと。)
 笑まふ(「笑まひ」の動詞形)
 笑み(「笑む」の名詞形)
 笑み曲がる(笑って相好をくずす。)
 笑ら笑ら(楽しみ笑うさま。)

さて,次は「笑む」と「怒る(いかる)」の両方が出てくる万葉集の詠み人知らずの短歌です。

はね鬘今する妹がうら若み笑みみ怒りみ付けし紐解く (11-2627)
はねかづら いまするいもが うらわかみ ゑみみいかりみ つけしひもとく
<<髪飾りを今もしている新妻はまだうら若いので,ほほ笑んだり怒ったふりをしてみたりして妻の衣服の紐を少しずつ解いていく>>

この短歌が表現している状況はみなさんの想像にお任せします。1300年ほどの前の短歌です。
万葉集が勅撰和歌集だったらまず選ばれない短歌でしょうね。
万葉集の選者も,この短歌の作者が分かっていたとしても詠み人知らずの巻に入れておくのが良いと考えたのかもしれません。

また,源氏物語「葵」の巻で光源氏紫の上と新枕をともにする近辺の描写と類似性を私は感じました。(右は土佐光起筆。WIKIMEDIA COMMONSにアップロードされたものを引用)

天の川 「たびとはん。こんな経験羨ましいと思うてんのとちゃいまっか? でも,甲斐性ないさかい無理やろな。」

天の川君,「甲斐性がない」は余計なお世話だね!
だけど,この「紐解く」の短歌も男にとってある種の願望を表わすフィクションかも知れないなあ。
笑む(2)に続く。

2010年4月11日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…偲ふ(3:まとめ)


ここまで「偲ふ」の言葉自体の話よりも,万葉集でそれが使われた一つの和歌に関する歴史的背景に重きをおいて述べてきたのかも知れません。
「偲ふ」のまとめとなる今回も,また違った「偲ふ」による短歌を紹介し,その時代的意味について想像を巡らせてみたいと思います。

佐保川に鳴くなる千鳥何しかも川原を偲ひいや川上る(7-1251)
さほがはに なくなるちどり なにしかも かはらをしのひ いやかはのぼる
<<佐保川で鳴いている千鳥よ。どうして川原をいつも好んでそんなに川をさかのぼっていくのか>>

人こそばおほにも言はめ我がここだ偲ふ川原を標結ふなゆめ(7-1252)
ひとこそば おほにもいはめ わがここだ しのふかはらを しめゆふなゆめ
<<人間にとっては平凡な風景かも知れないが,おれたち千鳥にとってはここは本当に好きな川原だ。「ここは人間の場所だ」というような標識を立てたりするなよ>>

この2首は,1首目で人間がチドリに問いかけ,2首目でチドリがそれに答えている短歌です。
すなわち,佐保川を「偲ふ(好きである,愛している)」ことについて人間とチドリの問答歌なのです。
人間はチドリが他の川原と特に変わるところがないのにどうして佐保川に好き好んで多く集まってくるのか不思議でならないと問います。
チドリは人間に佐保川の良さを「偲ふ」気持ちを分かるはずがないと応酬します。そして,人間の横暴を許しません。
<自然との調和を考慮しない「環境に優しく」は自分勝手?
さて,今の世の中,ますます豊さを求めて自然を人間にとって便利なように変えていこうとしています。
「環境に優しく」ということが決まり文句のようになっていますが,あくまでも人間の目線や価値観による「偲ふ」で考えたエコでしかないように見えます。
人類という種が衰退する方向で環境優先を考えることは論外であり,所詮人類の拡大や繁栄をどこまで制限(我慢)できるかの発想でしかないように思えます。
この2首は,人間の欲望と自然との調和という永遠の課題を「偲ふ」といいう言葉をキーワードとして使い表現しているように私は感じます。
結局,万葉集の「偲ふ」を見ていくと,現在「偲ぶ」で使われる意味よりももっと広い意味だったのは間違いないようです。
ところで,最近私は「偲ふ」人と逢うことができた夢を見ました。
その女性は,逢っていても,離れていてもまさに「偲ふ」という言葉がやはりぴたりと当てはまる人なのです。
また,そんな夢がまた見られたらと思いつつ「偲ふ」の話題を終り,次は万葉集を通して「笑む」について考えたいと思います。

天の川 「ね~,たびとは~ん。僕のことも偲んでいやはるんやろ?」

お~!気持ち悪。 笑む(1)に続く。

2010年4月4日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…偲ふ(2)

今回は,「偲ふ」の2回目として「見つつ偲ふ」という表現を中心に考えてみます。
万葉集には「見つつ偲ふ」という表現を使った和歌が26首ほど出てきます。
万葉集全20巻のうち,いくつかの巻を除き,この表現を使った和歌がどこかに出てきています。比較的偏りが少ないため,結局,この表現は万葉集の和歌の作成年代にかかわらず使われてきた慣用的なものではないかと私は思います。
「見つつ偲ふ」の意味は,「■■を見て(眺めて),(そこにない)○○を偲ぶ」ということになるでしょう。
万葉集のこの26首を見ると,偲ぶ対象である○○には次のもの(人)が出てきます。
 巨勢の春野,遠妻,君,妹,家,我妹子,
 我が背(子),遠き妹,国,益荒男
すなわち,遠く離れた恋人,妻,家族,家,故郷,懐かしの地,憧れの地を偲んでいるようなのです。
いっぽう,見る対象である■■には次のものが出てきます。
 椿,雲,秋萩,撫子,清き川原,白波,
 藻の花,小竹,月,淡雪,衣の縫目,
 白栲の袖,布施の海,花,絵,足柄の八重山,
 アジサイ,初雪
これらは,今はいない人の「形見」となっているものも多くあるように思います。

高円の野辺の秋萩な散りそね君が形見に見つつ偲はむ(2-233)
たかまとの のへのあきはぎ なちりそね きみがかたみに みつつしぬはむ
<<高円の野辺に咲く秋萩よ散らないでほしい。今君(志貴皇子)の形見として見て偲んでいるのだから>>

これは,志貴皇子が亡くなったことを詠んだ挽歌の中の一首です。
志貴皇子は,大伴家持による万葉集編集プロジェクトを強力にバックアップしたと(私が勝手に想像している)光仁天皇の父です。
光仁天皇が7歳になるかならないかで,父志貴皇子はすでに亡くなっていたようです。多分,父の記憶が少ない中,光仁天皇は父がどんな人だったか強く知りたいと思っていた可能性があります。
いっぽう,家持は13歳の時まで,父大伴旅人は生きていました。
家持は父旅人から,父に天智天皇を持つ志貴皇子は素晴らしい歌人で,人徳者であったことを聞かされていたのかもしれません。
そして,家持は光仁天皇に万葉集編纂の過程で父旅人から聞いたことを伝え,それを聞いた光仁天皇は亡き父を偲んだと考えられます。
壬申の乱以降,天武系の天皇が続いてきたが,天智天皇の孫である光仁天皇が即位したことは,歴史上結構大きなエポックだと私は思うのです。
光仁天皇は自らの天皇即位後,父志貴皇子を天皇と同等に尊敬するよう天皇の名前を付けたとのことです。父に対する思いは相当強いものがあったのでしょう。
編集中であろう万葉集に出てくる父志貴皇子の次の短歌を見て,光仁天皇は父のどういう姿を偲んだのでしょうか。

采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く(1-51)
うねめの そでふきかへす あすかかぜ みやこをとほみ いたづらにふく
<<采女の袖を吹き返す明日香に吹く風――都でなくなった今はむなしく吹くばかりだ>>

この短歌は,天武天皇持統天皇が都を構えた飛鳥浄御原宮から持統天皇が藤原京に遷都(694年)した後の飛鳥浄御原宮の荒廃を見て詠んだもののようです。
天智天皇の子である志貴皇子が,天武系の治世に対する批判を自らの立場でギリギリ表現した短歌とも取れなくはありません。そんな父の,表には出さないが,天智系の存続に対する意志の強さを光仁天皇は偲んだのかもしれません。
私も,機会があれば是非この短歌の歌碑がある甘樫丘に改めて立ち,明日香の地を見つつ往時を偲んでみたいと思うこの頃なのです。
偲ふ(3):まとめに続く。