皆さん,お久しぶりです。
4月1日に「平成」に代わって新元号が「令和」と決まりました。
今までの元号は,中国の古典を参考に決められてきたことが多かったようです。今回は日本の古典「日本書紀」「古事記」「万葉集」などを参考にされる可能性があると3月下旬の朝のNHKニュースで見たとき,万葉集からの可能性が一番高いと私は心の中で予想していました。
結果的に予想は当たり(「後付け言っているだけだろ?」と言われれば,そうでない証明はできませんが),大伴旅人が筑紫の大宰府長官であったとき,自宅で梅見の宴を主催(旅人は主人)で集まった人々が詠んだ32首の題詞(序)に次の漢文があります。
(梅花歌卅二首[并序] / 天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也 于時初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 <中略> 宜賦園梅聊成短詠)
この中の「 于時初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉(「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(かぜやわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」)」の部分にある「令」「和」が採用されたとのことです。
万葉集を見ている私(ペンネーム:たびと)としてはうれしいかぎりです。ただ,残念ながら,万葉集の歌そのものからではなく,漢字の音読み言葉からも脱することはできなかったようです。文字数の制約もあると思いますが,万葉集を引用するなら日本語本来の言葉である訓読み言葉も今後は検討して欲しいですね。
さて,この序文の「令月」と「風和」にもっともふさわしいと感じる対象の32首の短歌から紹介します。
まず,「令月」についてですが,旧暦の正月(13日)に開かれた宴で,めでたい月であることを詠んだ32首冒頭の1首です。
作者は紀男人(きのをひと)です。主人に歌を詠むように促され,最初に手を挙げた人でしょうか。
正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しき終へめ(5-815)
<むつきたち はるのきたらば かくしこそ うめををきつつ たのしきをへめ>
<<正月(令月)になって,春が来たら,このように梅の花を愛でて楽しさが尽きないですね>>
次は「風和」にふさわしいと私が思う1首目です。作者は小野田守(をののたもり)です。
霞立つ長き春日をかざせれどいやなつかしき梅の花かも(5-846)
<かすみたつながきはるひをかざせれどいやなつかしきうめのはなかも>
<<霞が立つような長くなった春の日が差してきたが,何と愛おしいと感じさせる梅の花だあ>>
冬の冷たい風が強く吹いているとすっきり晴れ渡るのですが,霞が立つということはその風が和らいだ証拠でしょうね。
次は「風和」にふさわしいと私が思う2首目です。作者は史大原(ふひとのおほはら)です。
うち靡く春の柳と我がやどの梅の花とをいかにか分かむ(5-826)
<うちなびくはるのやなぎとわがやどのうめのはなとをいかにかわかむ>
<<風に吹かれてさらさらと靡く春の柳と我々がいるお宅の庭に植えられている梅の花と,どちらが優れているか判断が難しいです>>
冬には葉が無い柳の枝の葉が緑色に伸びてきて,風に吹かれて細い枝が揺らぐ姿から,吹く風は暖かい風を連想させてくれます。
春を感じさせる柳の葉や梅の花,一度にやってきて何を一番と考えるのに悩むのは,季節に敏感であり,それぞれの植物の良さを良く知っている日本人の独特の感性なのかもしれませんね。
(特別号終わり)
2019年4月3日水曜日
2019年1月2日水曜日
続難読漢字シリーズ(35)…懇(ねもころ)
新年明けましておめでとうございます。
また,大変長い間アップが途絶えてしまいました。
正月で少し時間ができたので,このシリーズのアップを続けます。
今回は以前このブログ開始当初(2009年11月2日)に紹介した難読漢字「懇(ねもころ)」について,もう少し詳しく万葉集をみていきます。
現代ではあまり使われなくなった「真心を込めてするさま」という意味の「懇(ねんごろ」という言葉の万葉時代での発音(読み)です。
まず最初の1首から見ていきましょう。
思ふらむ人にあらなくに懇に心尽して恋ふる我れかも(4-682)
<おもふらむひとにあらなくに ねもころにこころつくして こふるあれかも>
<<思ってくれる人でもないのに真心を尽くして恋い慕う私がいますよね>>
大伴家持が友人との別れに贈った1首です。
それほど付き合いが深くなかった相手に対し,失礼が無いように「私のことはお忘れかもしれませんが,私はあなたの熱烈なファンだったんですよ」とのメッセージと捉えるのが良いと私は思います。
2首目は,吉野の宮があった吉野川の美しさを讃えた短歌です。
かわづ鳴く六田の川の川柳の懇見れど飽かぬ川かも(9-1723)
<かはづなくむつたのかはの かはやぎのねもころみれど あかぬかはかも>
<<カエルが鳴く六田付近の吉野川の岸に生えている綺麗な川柳,しみじみといつまでも見ていたい川だなあ>>
川岸に柳が生えている川は,水がきれいな川に見えるようです。よりきれいな川に見せるため,万葉時代から川岸を整備し,柳を植栽し,剪定などの手入れが行われていたのかも知れません。
現代では,柳川市の柳川城堀,京都市の高瀬川,倉敷市のくらしき川,香取市佐原の小野川,栃木市の巴波(うずま)川などには,両岸や片岸に柳の木が植えられて,風情がある風景を醸し出し,人気の観光スポットになっているようです。
さて,最後に紹介するのは,片思いの気持ちを詠んだ短歌です。
懇に片思ひすれかこのころの我が心どの生けるともなき(11-2525)
<ねもころにかたもひすれか このころのあがこころどの いけるともなき>
<<心底片思いしてしまったのか,この頃の我が心ときたら死んだみたいだ>>
恋愛をしているときに,好きな人のことが気になりすぎて,心が弱り病気のような状態になるという,まさに「恋煩い」の状態だと自分で感じて詠んだ短歌でしょうか。
ただ,この短歌を詠んだ作者は,自分を客観視できている人なのかもしれません。
自分を客観視可能な状態は,まだメンタル(精神)面の疲れや傷を冷静に修復できる力が自身に残っている証拠です。
自分の状況を第三者の目で評価し,和歌に詠むことは精神の健康上良い効果も期待できるかもしれませんね。
さて,突然ですが,話を私の本職であるITの話をします。
今ITエンジニアの不足が非常に深刻です。もちろん,他の業界でも人手不足は深刻なのですが,IT業界は空前の仕事量が発生しているのに対して全然ITエンジニアが足りません。例えば,新元号対応,消費税率変更対応,その他今国会で成立した法律改正対応,犯罪・事故・災害を防ぐシステムの対応強化,スマホアプリの新サービス(さまざまなネット通販,ゲームソフトの新製品や人気製品の更新版,店舗クーポン情報,その他の情報提供など)の拡大対応,自動車などの自動運転・AIによるさまざまな作業省力化・ロボットによる自動化(オートメーション)・家電などのIoT(何でもインターネットに接続して利用)の拡大対応などです。
これらに対応できるITエンジニアの育成が全く追いついていないのです。
さらに,これらの対応作業は一から開発する作業より,すでに動いているシステムのソフトウェアを改修・改善する作業のほうが実際ははるかに多いのです。そうすると,単にプログラムを言われた通りに作る能力だけでなく,出来上がって動いているシステムの作りを理解して改修を行う能力が必要となります。
そういったことができるITエンジニアの育成は時間がかかりますが,さらにそれを体系的に育成する仕組みは今はありません。外国のITエンジニアに来てもらうにしても,日本語で書かれた膨大な,そして更新されていない設計文書や要件を読み込み,最新の状態が何かを理解するのは容易ではありません。
そして,稼働中システムの中には初期開発されて稼働を始めて20年以上経つシステムも非常に多くあります。それら古いシステム(遺産システムという意味でレガシーシステムと呼ぶことがあります)への対応は,そのシステムの中身や当時採用された古い技術を知って,対応できるエンジニアが必要です。しかし,その人たちはどんどん年齢を重ねて減っていき,結局中身を知らない慣れない技術者が対応せざるを得ず,時間と費用が余計に掛かかり,ITエンジニア不足の深刻さに拍車を掛けているという状況が指摘されています。
たとえば,経済産業省が設置したIT有識者と呼ばれる人たちが集まってできた研究会は,昨年9月,早急に古いシステムを刷新し,新しいシステムに変えないと大変なことになるという報告(通称「DX報告」)を出ています。この報告では,2025年には,ほとんどの古いシステムで内容を分かって対応できる人はいなくなり,システムはブラックボックス化し,社会の変化に対し迅速に対応できなくなるとの警告を出しています。
しかし,私はいまさらそんな警告を出しても完全に遅きに失し,現実を見ていない乱暴な報告だと評価してしまいます。
なぜなら,今すぐに慌ててシステムを刷新することは,そうでなくてもITエンジニア不足状況なのに,システムの刷新を別に行うのですから,ITエンジニアの不足をその間さらに深刻化させてしまいます。
システムの刷新と言っても,一般的に企画段階から本稼働まで数年(5年以上もざらに)かかります。そして,その間,最初から最後までずっと対応しなければならないITエンジニアは経験豊富で高度な対応力をもった人たちです。
今本当に不足しているITエンジニアは,そういった経験豊富で高度な対応能力をもった人たちです。もし刷新を一斉にやるとそういった人たちの奪い合いが始まり,そして,結局経験の少ない人が刷新プロジェクト運営を担当して,途中で破たんするプロジェクトが多発する恐れがあります。
私は,この手遅れ状態の解消には,古いシステム(レガシーシステム)をしっかり対応できる人材をまず総合的に育てる必要があると考えます。システムのオーナーはレガシーシステム対応技術者の処遇を改善し,研究機関はレガシーシステムの効率的改修技術の高度化研究に力を注ぎ,ITの教育機関はレガシーシステムの改修技術をしっかり教えるのです。
そして,その人たちがレガシーシステムの中身を多くのITエンジニアが理解できる形式知化(ホワイトボックス化)した後,十分な検討の上に構築された刷新体制と計画で刷新プロジェクトを実施していくしかないと考えます。
私の意見は一見ものものずこく遠回りのように見えるかもしれません。
しかし,たとえばできちゃった子供が大人になり,それなりに働いてはくれてはいるが,何を考えているか理解できない,言うことをまったく聞かないと嘆く初老の親たちに「その子を無視・放置・虐待しても良いから,まだ間に合うので次の子を早急に産み,そちらに期待しましょうよ」と指導する国の政策は,過去の自国がやってきた政策の間違いを反省だにしない発展途上国のレベルにも達しないような国のものなのかもしれません。
少なくとも,先進国でそんな政策をとったら,「人権後進国だ!」と国連などで強く糾弾されてしまいます。
稼働中のITシステムは国民(人)ではないので,人権はありません。しかし,ある一つのシステムが稼働してから役目を終えるまでに掛かるITエンジニアの手間は,ある人が生まれてから一生において必要な本人以外(親,医療機関・教育機関・行政機関・就職先企業・介護機関などの人たち)から受ける手間のモデル(既に国際規格になっているシステムやソフトウェアのライフサイクルモデル)とよく似ているというのが,私の40数年に渡るIT業務の経験からの結論です。
結論として,闇雲にシステムの刷新を急がせるだけの施策は,そのモデルを無視した(人であれば人権を無視した)薄っぺらなものでしかないと私は感じてしまうのです。
このブログの趣旨とは乖離しましたが,年頭の投稿としてお許しください。
(続難読漢字シリーズ(36)につづく)
また,大変長い間アップが途絶えてしまいました。
正月で少し時間ができたので,このシリーズのアップを続けます。
今回は以前このブログ開始当初(2009年11月2日)に紹介した難読漢字「懇(ねもころ)」について,もう少し詳しく万葉集をみていきます。
現代ではあまり使われなくなった「真心を込めてするさま」という意味の「懇(ねんごろ」という言葉の万葉時代での発音(読み)です。
まず最初の1首から見ていきましょう。
思ふらむ人にあらなくに懇に心尽して恋ふる我れかも(4-682)
<おもふらむひとにあらなくに ねもころにこころつくして こふるあれかも>
<<思ってくれる人でもないのに真心を尽くして恋い慕う私がいますよね>>
大伴家持が友人との別れに贈った1首です。
それほど付き合いが深くなかった相手に対し,失礼が無いように「私のことはお忘れかもしれませんが,私はあなたの熱烈なファンだったんですよ」とのメッセージと捉えるのが良いと私は思います。
2首目は,吉野の宮があった吉野川の美しさを讃えた短歌です。
かわづ鳴く六田の川の川柳の懇見れど飽かぬ川かも(9-1723)
<かはづなくむつたのかはの かはやぎのねもころみれど あかぬかはかも>
<<カエルが鳴く六田付近の吉野川の岸に生えている綺麗な川柳,しみじみといつまでも見ていたい川だなあ>>
川岸に柳が生えている川は,水がきれいな川に見えるようです。よりきれいな川に見せるため,万葉時代から川岸を整備し,柳を植栽し,剪定などの手入れが行われていたのかも知れません。
現代では,柳川市の柳川城堀,京都市の高瀬川,倉敷市のくらしき川,香取市佐原の小野川,栃木市の巴波(うずま)川などには,両岸や片岸に柳の木が植えられて,風情がある風景を醸し出し,人気の観光スポットになっているようです。
さて,最後に紹介するのは,片思いの気持ちを詠んだ短歌です。
懇に片思ひすれかこのころの我が心どの生けるともなき(11-2525)
<ねもころにかたもひすれか このころのあがこころどの いけるともなき>
<<心底片思いしてしまったのか,この頃の我が心ときたら死んだみたいだ>>
恋愛をしているときに,好きな人のことが気になりすぎて,心が弱り病気のような状態になるという,まさに「恋煩い」の状態だと自分で感じて詠んだ短歌でしょうか。
ただ,この短歌を詠んだ作者は,自分を客観視できている人なのかもしれません。
自分を客観視可能な状態は,まだメンタル(精神)面の疲れや傷を冷静に修復できる力が自身に残っている証拠です。
自分の状況を第三者の目で評価し,和歌に詠むことは精神の健康上良い効果も期待できるかもしれませんね。
さて,突然ですが,話を私の本職であるITの話をします。
今ITエンジニアの不足が非常に深刻です。もちろん,他の業界でも人手不足は深刻なのですが,IT業界は空前の仕事量が発生しているのに対して全然ITエンジニアが足りません。例えば,新元号対応,消費税率変更対応,その他今国会で成立した法律改正対応,犯罪・事故・災害を防ぐシステムの対応強化,スマホアプリの新サービス(さまざまなネット通販,ゲームソフトの新製品や人気製品の更新版,店舗クーポン情報,その他の情報提供など)の拡大対応,自動車などの自動運転・AIによるさまざまな作業省力化・ロボットによる自動化(オートメーション)・家電などのIoT(何でもインターネットに接続して利用)の拡大対応などです。
これらに対応できるITエンジニアの育成が全く追いついていないのです。
さらに,これらの対応作業は一から開発する作業より,すでに動いているシステムのソフトウェアを改修・改善する作業のほうが実際ははるかに多いのです。そうすると,単にプログラムを言われた通りに作る能力だけでなく,出来上がって動いているシステムの作りを理解して改修を行う能力が必要となります。
そういったことができるITエンジニアの育成は時間がかかりますが,さらにそれを体系的に育成する仕組みは今はありません。外国のITエンジニアに来てもらうにしても,日本語で書かれた膨大な,そして更新されていない設計文書や要件を読み込み,最新の状態が何かを理解するのは容易ではありません。
そして,稼働中システムの中には初期開発されて稼働を始めて20年以上経つシステムも非常に多くあります。それら古いシステム(遺産システムという意味でレガシーシステムと呼ぶことがあります)への対応は,そのシステムの中身や当時採用された古い技術を知って,対応できるエンジニアが必要です。しかし,その人たちはどんどん年齢を重ねて減っていき,結局中身を知らない慣れない技術者が対応せざるを得ず,時間と費用が余計に掛かかり,ITエンジニア不足の深刻さに拍車を掛けているという状況が指摘されています。
たとえば,経済産業省が設置したIT有識者と呼ばれる人たちが集まってできた研究会は,昨年9月,早急に古いシステムを刷新し,新しいシステムに変えないと大変なことになるという報告(通称「DX報告」)を出ています。この報告では,2025年には,ほとんどの古いシステムで内容を分かって対応できる人はいなくなり,システムはブラックボックス化し,社会の変化に対し迅速に対応できなくなるとの警告を出しています。
しかし,私はいまさらそんな警告を出しても完全に遅きに失し,現実を見ていない乱暴な報告だと評価してしまいます。
なぜなら,今すぐに慌ててシステムを刷新することは,そうでなくてもITエンジニア不足状況なのに,システムの刷新を別に行うのですから,ITエンジニアの不足をその間さらに深刻化させてしまいます。
システムの刷新と言っても,一般的に企画段階から本稼働まで数年(5年以上もざらに)かかります。そして,その間,最初から最後までずっと対応しなければならないITエンジニアは経験豊富で高度な対応力をもった人たちです。
今本当に不足しているITエンジニアは,そういった経験豊富で高度な対応能力をもった人たちです。もし刷新を一斉にやるとそういった人たちの奪い合いが始まり,そして,結局経験の少ない人が刷新プロジェクト運営を担当して,途中で破たんするプロジェクトが多発する恐れがあります。
私は,この手遅れ状態の解消には,古いシステム(レガシーシステム)をしっかり対応できる人材をまず総合的に育てる必要があると考えます。システムのオーナーはレガシーシステム対応技術者の処遇を改善し,研究機関はレガシーシステムの効率的改修技術の高度化研究に力を注ぎ,ITの教育機関はレガシーシステムの改修技術をしっかり教えるのです。
そして,その人たちがレガシーシステムの中身を多くのITエンジニアが理解できる形式知化(ホワイトボックス化)した後,十分な検討の上に構築された刷新体制と計画で刷新プロジェクトを実施していくしかないと考えます。
私の意見は一見ものものずこく遠回りのように見えるかもしれません。
しかし,たとえばできちゃった子供が大人になり,それなりに働いてはくれてはいるが,何を考えているか理解できない,言うことをまったく聞かないと嘆く初老の親たちに「その子を無視・放置・虐待しても良いから,まだ間に合うので次の子を早急に産み,そちらに期待しましょうよ」と指導する国の政策は,過去の自国がやってきた政策の間違いを反省だにしない発展途上国のレベルにも達しないような国のものなのかもしれません。
少なくとも,先進国でそんな政策をとったら,「人権後進国だ!」と国連などで強く糾弾されてしまいます。
稼働中のITシステムは国民(人)ではないので,人権はありません。しかし,ある一つのシステムが稼働してから役目を終えるまでに掛かるITエンジニアの手間は,ある人が生まれてから一生において必要な本人以外(親,医療機関・教育機関・行政機関・就職先企業・介護機関などの人たち)から受ける手間のモデル(既に国際規格になっているシステムやソフトウェアのライフサイクルモデル)とよく似ているというのが,私の40数年に渡るIT業務の経験からの結論です。
結論として,闇雲にシステムの刷新を急がせるだけの施策は,そのモデルを無視した(人であれば人権を無視した)薄っぺらなものでしかないと私は感じてしまうのです。
このブログの趣旨とは乖離しましたが,年頭の投稿としてお許しください。
(続難読漢字シリーズ(36)につづく)
2018年9月21日金曜日
続難読漢字シリーズ(34)…乍(なが)ら
しばらくアップが途絶えてしまいました。
8月7日,6カ月超の病気休職から職場復帰を果たしたのですが,やはりIT業務における約半年のブランクを埋めるのは結構大変でした。ようやく職場復帰も軌道に乗ってきたのでアップする時間が何とか作れました。
プロスポーツ選手や音楽のプロ演奏家が6カ月まったくその仕事や練習に関わらなかったら,すぐ元に戻らないのと同じかも知れません。
特に,既存システムのソフトウェア保守をやっていると,半年の間にシステムの稼働環境やアプリの更新が結構進んでいて,多数の更新の内容,理由,運用への影響,各種文書の更新状況も把握する必要があり,時間がとられたこともあります。何せ,40数年間ITの仕事をしてきて,仕事を離れたのは結婚のときに約2週間休んだのが最長で,6カ月間以上まったくITの仕事を休むなんてことは初めてだったこともありました。
アップできなかった言い訳はこのくらいにして,今回は「乍(なが)ら」について万葉集をみていきます。
「音楽を聞き乍ら,仕事をする」といった使い方をする「ながら」です。「ながら族」という言葉が流行った時代もありましたが,若い人は知らないかも知れません。
最初は,もっとも多く万葉集に出てくる「神乍(かむなが)ら」という言葉が使われている,持統天皇が吉野に何度目かはわかりませんが行幸(みゆき)したとき柿本人麻呂が詠んだとされる長歌の反歌を紹介します。
山川も依りて仕ふる神乍らたぎつ河内に舟出せすかも(1-39)
<やまかはもよりてつかふる かむながらたぎつかふちにふなでせすかも>
<<山川の神も同様に服従する大君は,激流の川を抱えた宮地より舟出なさる>>
「神乍(かむなが)ら」とは,神と同じという意味ととらえられます。これは「天皇は神と同じ」という讃嘆の意味で宮廷歌人たちが儀礼的に使用する言葉だったのでしょう。
次に紹介するのは,仏教の無常観を色濃く詠んだと思われる短い長歌風の和歌です。
高山と海とこそば 山乍らかくもうつしく 海乍らしかまことならめ 人は花ものぞ うつせみ世人(13-3332)
<たかやまとうみとこそば やまながらかくもうつしく うみながらしかまことならめ ひとははなものぞ うつせみよひと>
<<高山と海はまさに,山は山として存在し,海は海としてあるがままに存在する。
ところが,人は花がすぐ散るように,はかなくこの世に生きているのである>>
人があっけなく死んでしまうことが多かった万葉時代ですから,こんな和歌を詠ませたのかも知れません。ただ,作者は人の命の「はかなさ」を花にたとえているのですから,また咲いてくれることを想定していると私は感じます。そのことを意識して詠んだとすれば,作者は「生命は死んだら終わり」という考えを持っていない可能性があります。
仏教には「生命は永遠である」と教える経典もあります。前世,現世,来世(三世)というように,生命はずっと続くというのです。
作者が知っていたかどうかは定かではないですが,前世が終わって,現世に生まれてくることは非常に稀有なことだから,現世での命を大切にし,世のために尽くして,充実した人生を歩むことが,来世も幸福な生命として産まれてくるために大切と説く仏教の経典もあります。
さて,次に紹介するのは,越後で詠まれたという仏足石歌体(五・七・五・七・七・七)という珍しい歌体の和歌です。万葉集では,この歌体とされるのは,この1首のみです。
弥彦の神の麓に今日らもか鹿の伏すらむ皮衣着て角つき乍ら(16-3884)
<いやひこの かみのふもとに けふらもか しかのふすらむ かはころもきて つのつきながら>
<<弥彦の神山の麓に今日もまた鹿がひれ伏しているのか,皮衣を着て角をつけたまま >>
この和歌は「神の使いである鹿が,霊験あらたかな弥彦山の神に山麓でひれ伏しいる。まさにそれは鹿で,皮の色も鹿の模様で角もちゃんとあったよ」といったくらいの軽い意味にとらえておけばよいと私は考えます。
作者が今の新潟県にある弥彦山に旅で寄った時,麓で休んでいる鹿を見て感じたことを(最後の七文字)も付け加えたくて作ったのでしょう。「そういえば鹿だから角もあったことも入れないとね」といった具合に。
最後に紹介するのは,大伴池主が越中で,大伴家持から贈り物としてもらった針袋に対して返答した短歌の1首です。
針袋帯び続け乍ら里ごとに照らさひ歩けど人も咎めず(18-4130)
<はりぶくろおびつつけながら さとごとにてらさひあるけど ひともとがめず>
<<針袋を腰につけたままいろいろ里を歩いてみましたが,誰も取り立てて話しかけてくれませんでしたよ>>
この短歌は,非常に難解だと私は感じます。
大伴池主と家持との間柄は,通常の親戚との付き合いではなく,特殊な関係があったかもしれないと感じるからです。
池主が家持からもらった針袋(旅のときに携帯するためのものの一つ)について,返答の歌を贈っていであることは分かりますが,それにしては,あまり有難さを伝えようとした感じがありません。
「私は越中にいるが家持殿と違い現地の人からまだ受け入れられず,旅の途中の人とみられているから,旅の用具を身につけても何も里人から変に思われない」ということか?
将又(はたまた)「家持殿からこれを贈られたのは,『早く旅立って京に帰れ』という指示で,里人もそのことを知っており,私が旅の携帯品の針袋を持って歩いていても,何も言わない」ということか?
いずれにしても,この二人の関係は儀礼的な感謝の気持ちを返すだけの関係でなかったことだけは確かでしょう。
(続難読漢字シリーズ(35)につづく)
8月7日,6カ月超の病気休職から職場復帰を果たしたのですが,やはりIT業務における約半年のブランクを埋めるのは結構大変でした。ようやく職場復帰も軌道に乗ってきたのでアップする時間が何とか作れました。
プロスポーツ選手や音楽のプロ演奏家が6カ月まったくその仕事や練習に関わらなかったら,すぐ元に戻らないのと同じかも知れません。
特に,既存システムのソフトウェア保守をやっていると,半年の間にシステムの稼働環境やアプリの更新が結構進んでいて,多数の更新の内容,理由,運用への影響,各種文書の更新状況も把握する必要があり,時間がとられたこともあります。何せ,40数年間ITの仕事をしてきて,仕事を離れたのは結婚のときに約2週間休んだのが最長で,6カ月間以上まったくITの仕事を休むなんてことは初めてだったこともありました。
アップできなかった言い訳はこのくらいにして,今回は「乍(なが)ら」について万葉集をみていきます。
「音楽を聞き乍ら,仕事をする」といった使い方をする「ながら」です。「ながら族」という言葉が流行った時代もありましたが,若い人は知らないかも知れません。
最初は,もっとも多く万葉集に出てくる「神乍(かむなが)ら」という言葉が使われている,持統天皇が吉野に何度目かはわかりませんが行幸(みゆき)したとき柿本人麻呂が詠んだとされる長歌の反歌を紹介します。
山川も依りて仕ふる神乍らたぎつ河内に舟出せすかも(1-39)
<やまかはもよりてつかふる かむながらたぎつかふちにふなでせすかも>
<<山川の神も同様に服従する大君は,激流の川を抱えた宮地より舟出なさる>>
「神乍(かむなが)ら」とは,神と同じという意味ととらえられます。これは「天皇は神と同じ」という讃嘆の意味で宮廷歌人たちが儀礼的に使用する言葉だったのでしょう。
次に紹介するのは,仏教の無常観を色濃く詠んだと思われる短い長歌風の和歌です。
高山と海とこそば 山乍らかくもうつしく 海乍らしかまことならめ 人は花ものぞ うつせみ世人(13-3332)
<たかやまとうみとこそば やまながらかくもうつしく うみながらしかまことならめ ひとははなものぞ うつせみよひと>
<<高山と海はまさに,山は山として存在し,海は海としてあるがままに存在する。
ところが,人は花がすぐ散るように,はかなくこの世に生きているのである>>
人があっけなく死んでしまうことが多かった万葉時代ですから,こんな和歌を詠ませたのかも知れません。ただ,作者は人の命の「はかなさ」を花にたとえているのですから,また咲いてくれることを想定していると私は感じます。そのことを意識して詠んだとすれば,作者は「生命は死んだら終わり」という考えを持っていない可能性があります。
仏教には「生命は永遠である」と教える経典もあります。前世,現世,来世(三世)というように,生命はずっと続くというのです。
作者が知っていたかどうかは定かではないですが,前世が終わって,現世に生まれてくることは非常に稀有なことだから,現世での命を大切にし,世のために尽くして,充実した人生を歩むことが,来世も幸福な生命として産まれてくるために大切と説く仏教の経典もあります。
さて,次に紹介するのは,越後で詠まれたという仏足石歌体(五・七・五・七・七・七)という珍しい歌体の和歌です。万葉集では,この歌体とされるのは,この1首のみです。
弥彦の神の麓に今日らもか鹿の伏すらむ皮衣着て角つき乍ら(16-3884)
<いやひこの かみのふもとに けふらもか しかのふすらむ かはころもきて つのつきながら>
<<弥彦の神山の麓に今日もまた鹿がひれ伏しているのか,皮衣を着て角をつけたまま >>
この和歌は「神の使いである鹿が,霊験あらたかな弥彦山の神に山麓でひれ伏しいる。まさにそれは鹿で,皮の色も鹿の模様で角もちゃんとあったよ」といったくらいの軽い意味にとらえておけばよいと私は考えます。
作者が今の新潟県にある弥彦山に旅で寄った時,麓で休んでいる鹿を見て感じたことを(最後の七文字)も付け加えたくて作ったのでしょう。「そういえば鹿だから角もあったことも入れないとね」といった具合に。
最後に紹介するのは,大伴池主が越中で,大伴家持から贈り物としてもらった針袋に対して返答した短歌の1首です。
針袋帯び続け乍ら里ごとに照らさひ歩けど人も咎めず(18-4130)
<はりぶくろおびつつけながら さとごとにてらさひあるけど ひともとがめず>
<<針袋を腰につけたままいろいろ里を歩いてみましたが,誰も取り立てて話しかけてくれませんでしたよ>>
この短歌は,非常に難解だと私は感じます。
大伴池主と家持との間柄は,通常の親戚との付き合いではなく,特殊な関係があったかもしれないと感じるからです。
池主が家持からもらった針袋(旅のときに携帯するためのものの一つ)について,返答の歌を贈っていであることは分かりますが,それにしては,あまり有難さを伝えようとした感じがありません。
「私は越中にいるが家持殿と違い現地の人からまだ受け入れられず,旅の途中の人とみられているから,旅の用具を身につけても何も里人から変に思われない」ということか?
将又(はたまた)「家持殿からこれを贈られたのは,『早く旅立って京に帰れ』という指示で,里人もそのことを知っており,私が旅の携帯品の針袋を持って歩いていても,何も言わない」ということか?
いずれにしても,この二人の関係は儀礼的な感謝の気持ちを返すだけの関係でなかったことだけは確かでしょう。
(続難読漢字シリーズ(35)につづく)
2018年8月4日土曜日
続難読漢字シリーズ(33)…響む(とよむ)
今回は「響(とよ)む」について万葉集をみていきます。大きな音を発して,うるさい状況を表す意味です。現在では「ひびく」と読みますが,万葉時代は「とよむ」という言葉が多く使われていたようです。。
「とよむ」はその後「どよめく」という言葉に変化していったのかもと私は想像します。
万葉集で「響む」の代表格は「霍公鳥(ほととぎす)」がうるさく鳴く表現が12首ほどに出てきます。今回は「霍公鳥」の鳴き声の「響む」は取り上げず,その他の音に関する「響む」について詠まれているものを取り上げます。
最初は,大きな音ではないのに「響む」を使った女性作の短歌です。
敷栲の枕響みて寐ねらえず物思ふ今夜早も明けぬかも(11-2593)
<しきたへのまくらとよみて いねらえず ものもふこよひはやもあけぬかも>
<<あなたの枕が大きな音を立て寝られない。物思いにふけった今夜も もうじき朝になるのね>>
「枕が大きな音を立てる」というのはどう解釈すればよいのでしょうか。
私の勝手な解釈ですが,夫の妻問いを待つため,夫用の枕を自分の枕の横に用意しているけれど,一向に夫は来ない。
使われていない夫用の枕(当時は木製?)を,うつらうつらしている間に誤って触って倒すと大きな音がする。その音に目が覚め,その後は「なぜ夫は来ないのか」と物思いにふけっていると,夜が明けてしまいそうだという情景です。
さて,次に紹介するのは,波の潮騒が響くことを詠んだ,これも女性作の短歌とされるものです。
牛窓の波の潮騒島響み寄そりし君は逢はずかもあらむ(11-2731)
<うしまどのなみのしほさゐ しまとよみよそりしきみは あはずかもあらむ>
<<牛窓の波の潮騒が島全体に響くように周囲が騒がしいようです。寄りそうあなた様としばらく逢えないかもしれません>>
牛窓は,瀬戸内海に面した今の岡山県牛窓町付近とされているようです。
牛窓には前島などいくつかの島がすぐ前にあり,島間の海流が激しく,潮騒の音が大きく響くことで京にも知られた場所だったのかもしれません。
この短歌の作者がここを訪れたわけではなく,牛窓の瀬の地域情報を序詞に引用して作歌したと私は思います。それにしても,どれだけ二人は関係は騒がれたのでしょうか。
最後に紹介するのは,東歌です。
植ゑ竹の本さへ響み出でて去なばいづし向きてか妹が嘆かむ(14-3474)
<うゑだけのもとさへとよみ いでていなばいづしむきてか いもがなげかむ>
<<竹林の根元まで響くように大騒ぎして私が旅立った後,どこを居ても妻は嘆くことだろう>>
おそらくですが,作者(夫)が徴兵か徴用で遠くへ旅立つ際の見送りのとき,近所の人たちが集まり,みんなで旅の無事や引き立てられた仕事の活躍と幸運を祈り,チャンスが来たことを祝い,盛大に見送ったのでしょう。
見送る側は,作者の名前を連呼し,飛び上がってバンザイのようなことをしたのかも知れません。その見送り時の人が飛び跳ねる音は,竹林も揺るがすような大きな音だったと作者は感じたのです。
しかし,妻だけは,そんな大騒ぎの陰で自分が居なくなったことに悲しみ暮れるだろうと思われることがツライ。そんな気持ちが伝わってきます。
日本人は「響む」ような大きい音に対して,その反対の静けさをも大切にする割と少数の民族かもしれないと私は感じます。場所にもよりますが,お隣の韓国や中国の人々は大声で話をするほうがポジティブに感じるようです。しかし,日本人は周りに気を遣い,空気を読んで静かに話すほうがポジティブに感じる人が多いのではないでしょうか。
日本人が静けさを大切にするのは,実はさまざまな小さな「音」(例:笹の葉が微風に揺らされ擦れ合う音,池に小さなカエルが跳び込む音,小川のせせらぎの音など)に対して,繊細で敏感な感性を持っているからかも知れません。そのヒントが万葉集を分析すれば分かるかもしれませんが,今後の課題ですね。
(続難読漢字シリーズ(34)につづく)
「とよむ」はその後「どよめく」という言葉に変化していったのかもと私は想像します。
万葉集で「響む」の代表格は「霍公鳥(ほととぎす)」がうるさく鳴く表現が12首ほどに出てきます。今回は「霍公鳥」の鳴き声の「響む」は取り上げず,その他の音に関する「響む」について詠まれているものを取り上げます。
最初は,大きな音ではないのに「響む」を使った女性作の短歌です。
敷栲の枕響みて寐ねらえず物思ふ今夜早も明けぬかも(11-2593)
<しきたへのまくらとよみて いねらえず ものもふこよひはやもあけぬかも>
<<あなたの枕が大きな音を立て寝られない。物思いにふけった今夜も もうじき朝になるのね>>
「枕が大きな音を立てる」というのはどう解釈すればよいのでしょうか。
私の勝手な解釈ですが,夫の妻問いを待つため,夫用の枕を自分の枕の横に用意しているけれど,一向に夫は来ない。
使われていない夫用の枕(当時は木製?)を,うつらうつらしている間に誤って触って倒すと大きな音がする。その音に目が覚め,その後は「なぜ夫は来ないのか」と物思いにふけっていると,夜が明けてしまいそうだという情景です。
さて,次に紹介するのは,波の潮騒が響くことを詠んだ,これも女性作の短歌とされるものです。
牛窓の波の潮騒島響み寄そりし君は逢はずかもあらむ(11-2731)
<うしまどのなみのしほさゐ しまとよみよそりしきみは あはずかもあらむ>
<<牛窓の波の潮騒が島全体に響くように周囲が騒がしいようです。寄りそうあなた様としばらく逢えないかもしれません>>
牛窓は,瀬戸内海に面した今の岡山県牛窓町付近とされているようです。
牛窓には前島などいくつかの島がすぐ前にあり,島間の海流が激しく,潮騒の音が大きく響くことで京にも知られた場所だったのかもしれません。
この短歌の作者がここを訪れたわけではなく,牛窓の瀬の地域情報を序詞に引用して作歌したと私は思います。それにしても,どれだけ二人は関係は騒がれたのでしょうか。
最後に紹介するのは,東歌です。
植ゑ竹の本さへ響み出でて去なばいづし向きてか妹が嘆かむ(14-3474)
<うゑだけのもとさへとよみ いでていなばいづしむきてか いもがなげかむ>
<<竹林の根元まで響くように大騒ぎして私が旅立った後,どこを居ても妻は嘆くことだろう>>
おそらくですが,作者(夫)が徴兵か徴用で遠くへ旅立つ際の見送りのとき,近所の人たちが集まり,みんなで旅の無事や引き立てられた仕事の活躍と幸運を祈り,チャンスが来たことを祝い,盛大に見送ったのでしょう。
見送る側は,作者の名前を連呼し,飛び上がってバンザイのようなことをしたのかも知れません。その見送り時の人が飛び跳ねる音は,竹林も揺るがすような大きな音だったと作者は感じたのです。
しかし,妻だけは,そんな大騒ぎの陰で自分が居なくなったことに悲しみ暮れるだろうと思われることがツライ。そんな気持ちが伝わってきます。
日本人は「響む」ような大きい音に対して,その反対の静けさをも大切にする割と少数の民族かもしれないと私は感じます。場所にもよりますが,お隣の韓国や中国の人々は大声で話をするほうがポジティブに感じるようです。しかし,日本人は周りに気を遣い,空気を読んで静かに話すほうがポジティブに感じる人が多いのではないでしょうか。
日本人が静けさを大切にするのは,実はさまざまな小さな「音」(例:笹の葉が微風に揺らされ擦れ合う音,池に小さなカエルが跳び込む音,小川のせせらぎの音など)に対して,繊細で敏感な感性を持っているからかも知れません。そのヒントが万葉集を分析すれば分かるかもしれませんが,今後の課題ですね。
(続難読漢字シリーズ(34)につづく)
2018年7月17日火曜日
続難読漢字シリーズ(32)…艫(とも)
今回は「艫(とも)」について万葉集をみていきます。船の後方,船尾の意味です。船の前方である船首は舳先(または単に舳)といいます。舳先(へさき)は,今でもよく使いますので,読める人は多いかもしれませんが,艫はさすがに難読でしょうね。
最初に紹介するのは,船の前後にどんな波が寄せてくることを序詞に詠んだ詠み人しらずの短歌です。
大船の艫にも舳にも寄する波寄すとも我れは君がまにまに(11-2740)
<おほぶねのともにもへにも よするなみよすともわれは きみがまにまに>
<<大船の船首や船尾にも波は打ち寄せる波のように嫌な噂が大きく立っていますが,私はあなたの想いのままに従います>>
万葉時代大きい船といっても,今の外洋船に比べたら,ごく小さな船だったでしょうね。
転覆しないように,船は波の線の垂直方向に向かって進まないと,横波を受けて簡単に沈没する恐れが高くなります。
波に垂直に向かって進むことが安全とはいえ,波が大きいと船の先端や後尾は大きく上下に揺れます。この短歌の作者は,そんな荒れた海で船旅をしたことがあるのでしょうか。
さて,次に紹介するのは,最初に紹介した短歌とよく似ているように見えますが,東歌です。
大船を舳ゆも艫ゆも堅めてし許曽の里人あらはさめかも(14-3559)
<おほぶねを へゆもともゆもかためてし こそのさとびとあらはさめかも>
<<大船を船首や船尾も綱で固く結んであるように,地元の里人も見ない振りをしてくれるだろうよ>>
恋の歌を示すものはどこにも出てこないのですが,この短歌は一つ前の女性作と思われる短歌への返歌と考えられます。二人の仲がしっかり結ばれていることを相手に伝えたい思いからの作でしょうね。
逢はずして行かば惜しけむ麻久良我の許我漕ぐ船に君も逢はぬかも(14-3558)
<あはずしてゆかばをしけむ まくらがのこがこぐふねに きみもあはぬかも>
<<遭わないで都に行ってしまわれるのは残念です。まだ,枕香が残る古河を行く船でお逢いできないものでしょうか>>
最後に紹介するのは,天平5年に遣唐使が航路の安全を難波の住吉の神に祈願したと伝承された長歌の一部です。
~ 住吉の我が大御神 船の舳に領きいまし 船艫にみ立たしまして さし寄らむ礒の崎々 漕ぎ泊てむ泊り泊りに 荒き風波にあはせず 平けく率て帰りませ もとの朝廷に(19-4245)
<~ すみのえのわがおほみかみ ふなのへにうしはきいまし ふなともにみたたしまして さしよらむいそのさきざき こぎはてむとまりとまりに あらきかぜなみにあはせず たひらけくゐてかへりませ もとのみかどに>
<<~ 住吉の我らの大御神様,船の舳先をなすがままにされるべく艫に立たれ,立ち寄る磯の崎々へすべて無事に着き,停泊ができますように。停泊する崎々で暴風や荒波に遇うことなく,どうか平穏に帰れますように,もとの朝廷に>>
遣唐使は大阪の南にある住吉津(すみのえのつ)にあった港から出港し,出港の前には奈良の京から大勢の人が大和川を下って見送りに来て,航海の安全を祈願するために建てられたであろう住吉神社(現:住吉大社)に,皆で海路の安全を祈願に詣で,旅立つ人を盛大に見送ったのだろうと想像できます。
住吉津は,古墳時代から国内外の多くの人や荷物を扱う港として大いに繁栄したと考えられます。その豊かさで,百舌鳥(もづ)古墳群や黒姫山古墳のような古墳群を作る財力と,人力が集まったのだと私は思います。
後の堺(さかい)という都市の大きな発展は,こういった地の利の良さも大きな要因だと私は考えてしまいます。
(続難読漢字シリーズ(33)につづく)
最初に紹介するのは,船の前後にどんな波が寄せてくることを序詞に詠んだ詠み人しらずの短歌です。
大船の艫にも舳にも寄する波寄すとも我れは君がまにまに(11-2740)
<おほぶねのともにもへにも よするなみよすともわれは きみがまにまに>
<<大船の船首や船尾にも波は打ち寄せる波のように嫌な噂が大きく立っていますが,私はあなたの想いのままに従います>>
万葉時代大きい船といっても,今の外洋船に比べたら,ごく小さな船だったでしょうね。
転覆しないように,船は波の線の垂直方向に向かって進まないと,横波を受けて簡単に沈没する恐れが高くなります。
波に垂直に向かって進むことが安全とはいえ,波が大きいと船の先端や後尾は大きく上下に揺れます。この短歌の作者は,そんな荒れた海で船旅をしたことがあるのでしょうか。
さて,次に紹介するのは,最初に紹介した短歌とよく似ているように見えますが,東歌です。
大船を舳ゆも艫ゆも堅めてし許曽の里人あらはさめかも(14-3559)
<おほぶねを へゆもともゆもかためてし こそのさとびとあらはさめかも>
<<大船を船首や船尾も綱で固く結んであるように,地元の里人も見ない振りをしてくれるだろうよ>>
恋の歌を示すものはどこにも出てこないのですが,この短歌は一つ前の女性作と思われる短歌への返歌と考えられます。二人の仲がしっかり結ばれていることを相手に伝えたい思いからの作でしょうね。
逢はずして行かば惜しけむ麻久良我の許我漕ぐ船に君も逢はぬかも(14-3558)
<あはずしてゆかばをしけむ まくらがのこがこぐふねに きみもあはぬかも>
<<遭わないで都に行ってしまわれるのは残念です。まだ,枕香が残る古河を行く船でお逢いできないものでしょうか>>
最後に紹介するのは,天平5年に遣唐使が航路の安全を難波の住吉の神に祈願したと伝承された長歌の一部です。
~ 住吉の我が大御神 船の舳に領きいまし 船艫にみ立たしまして さし寄らむ礒の崎々 漕ぎ泊てむ泊り泊りに 荒き風波にあはせず 平けく率て帰りませ もとの朝廷に(19-4245)
<~ すみのえのわがおほみかみ ふなのへにうしはきいまし ふなともにみたたしまして さしよらむいそのさきざき こぎはてむとまりとまりに あらきかぜなみにあはせず たひらけくゐてかへりませ もとのみかどに>
<<~ 住吉の我らの大御神様,船の舳先をなすがままにされるべく艫に立たれ,立ち寄る磯の崎々へすべて無事に着き,停泊ができますように。停泊する崎々で暴風や荒波に遇うことなく,どうか平穏に帰れますように,もとの朝廷に>>
遣唐使は大阪の南にある住吉津(すみのえのつ)にあった港から出港し,出港の前には奈良の京から大勢の人が大和川を下って見送りに来て,航海の安全を祈願するために建てられたであろう住吉神社(現:住吉大社)に,皆で海路の安全を祈願に詣で,旅立つ人を盛大に見送ったのだろうと想像できます。
住吉津は,古墳時代から国内外の多くの人や荷物を扱う港として大いに繁栄したと考えられます。その豊かさで,百舌鳥(もづ)古墳群や黒姫山古墳のような古墳群を作る財力と,人力が集まったのだと私は思います。
後の堺(さかい)という都市の大きな発展は,こういった地の利の良さも大きな要因だと私は考えてしまいます。
(続難読漢字シリーズ(33)につづく)
2018年7月3日火曜日
続難読漢字シリーズ(31)…常滑(とこなめ)
今回は「常滑(とこなめ)」について万葉集をみていきます。常滑焼という陶器を知っている人や愛知県常滑市をご存知の方にはすぐ読める漢字でしょうね。
早速,最初に紹介するのは,柿本人麻呂が,何度か行われた持統天皇の吉野行幸のうちで詠んだといわれる有名な短歌(長歌の反歌)です。
見れど飽かぬ吉野の川の常滑の絶ゆることなくまたかへり見む(1-37)
<みれどあかぬよしののかはの とこなめのたゆることなく またかへりみむ>
<<見飽きることのない吉野の川底が常に滑らかであるように、絶えることなくまた見ましょう>>
奈良盆地の川は,吉野の川に比べて,川床に泥が堆積し,草木も生えて「常滑」とはいえなかったのでしょう。
その点,天武天皇ゆかりの地で,避暑地で別荘地の吉野の川は,激しい水流に洗われた川床や岩は「常滑」にふさわしいものだったとこの短歌からは読み取れます。
さて,次に紹介するのは,柿本人麻呂歌集から転載されたという短歌です。
妹が門入り泉川の常滑にみ雪残れりいまだ冬かも(9-1695)
<いもがかど いりいづみがはのとこなめに みゆきのこれりいまだふゆかも>
<<妻の家の門を入って出る(いず)という泉川の常滑の石の上には,雪が解けずに残っているので,このあたりの季節はまだ私の心のように寒い冬なんだなあ>>
作者は,奈良の京から旅に出て,木津川あたりでこの短歌を詠んだとされています。
木津川あたりにまで来ると,これから人家の少ない心細い道を行くことになるため,少しのことで寒さを感じたのでしょうか。
最後も,二番目に紹介した短歌とは別の巻に出てきますが,柿本人麻呂歌集から転載されたという短歌です。
こもりくの豊泊瀬道は常滑のかしこき道ぞ恋ふらくはゆめ(11-2511)
<こもりくのとよはつせぢは とこなめのかしこきみちぞ こふらくはゆめ>
<<山に囲まれたが立派な泊瀬街道は,初瀬川を渡る箇所が多くあり,水の上に出た岩の上は滑りやすいので,渡るときは注意が必要な道です。恋の道も渡る時も(滑りやすいので)油断しないことが肝要>>
なかなか教訓的な短歌ですね。「万葉集教訓歌」という本を出すと選ばれそうな気がします。
私が初瀬街道を歩いた経験と写真を2015年7月28日投稿しています。この短歌も載せていますが,その時感じた新鮮さで訳しています。今回はその奥にある教訓めいた部分を強調するために,背景的な訳も入れて訳してみました。
以上3首のように,万葉時代「常滑」の状態というのは,いつも清水に洗われているツルツルした岩をイメージしていたのでしょう。
また,そんないつもきれいに磨き上げられた表面に万葉人は憧れていたと私は想像します。常滑の岩以外にも,磨き上げられた手鏡や仏像,大黒柱や床柱,琴の板や太鼓の胴,磁器やガラス器,漆塗りの箱や厨子,宝石でできた玉や瓶など,表面が「常滑」に感じられるものの価値は高かったのかも知れません。
(続難読漢字シリーズ(32)につづく)
早速,最初に紹介するのは,柿本人麻呂が,何度か行われた持統天皇の吉野行幸のうちで詠んだといわれる有名な短歌(長歌の反歌)です。
見れど飽かぬ吉野の川の常滑の絶ゆることなくまたかへり見む(1-37)
<みれどあかぬよしののかはの とこなめのたゆることなく またかへりみむ>
<<見飽きることのない吉野の川底が常に滑らかであるように、絶えることなくまた見ましょう>>
奈良盆地の川は,吉野の川に比べて,川床に泥が堆積し,草木も生えて「常滑」とはいえなかったのでしょう。
その点,天武天皇ゆかりの地で,避暑地で別荘地の吉野の川は,激しい水流に洗われた川床や岩は「常滑」にふさわしいものだったとこの短歌からは読み取れます。
さて,次に紹介するのは,柿本人麻呂歌集から転載されたという短歌です。
妹が門入り泉川の常滑にみ雪残れりいまだ冬かも(9-1695)
<いもがかど いりいづみがはのとこなめに みゆきのこれりいまだふゆかも>
<<妻の家の門を入って出る(いず)という泉川の常滑の石の上には,雪が解けずに残っているので,このあたりの季節はまだ私の心のように寒い冬なんだなあ>>
作者は,奈良の京から旅に出て,木津川あたりでこの短歌を詠んだとされています。
木津川あたりにまで来ると,これから人家の少ない心細い道を行くことになるため,少しのことで寒さを感じたのでしょうか。
最後も,二番目に紹介した短歌とは別の巻に出てきますが,柿本人麻呂歌集から転載されたという短歌です。
こもりくの豊泊瀬道は常滑のかしこき道ぞ恋ふらくはゆめ(11-2511)
<こもりくのとよはつせぢは とこなめのかしこきみちぞ こふらくはゆめ>
<<山に囲まれたが立派な泊瀬街道は,初瀬川を渡る箇所が多くあり,水の上に出た岩の上は滑りやすいので,渡るときは注意が必要な道です。恋の道も渡る時も(滑りやすいので)油断しないことが肝要>>
なかなか教訓的な短歌ですね。「万葉集教訓歌」という本を出すと選ばれそうな気がします。
私が初瀬街道を歩いた経験と写真を2015年7月28日投稿しています。この短歌も載せていますが,その時感じた新鮮さで訳しています。今回はその奥にある教訓めいた部分を強調するために,背景的な訳も入れて訳してみました。
以上3首のように,万葉時代「常滑」の状態というのは,いつも清水に洗われているツルツルした岩をイメージしていたのでしょう。
また,そんないつもきれいに磨き上げられた表面に万葉人は憧れていたと私は想像します。常滑の岩以外にも,磨き上げられた手鏡や仏像,大黒柱や床柱,琴の板や太鼓の胴,磁器やガラス器,漆塗りの箱や厨子,宝石でできた玉や瓶など,表面が「常滑」に感じられるものの価値は高かったのかも知れません。
(続難読漢字シリーズ(32)につづく)
2018年6月24日日曜日
続難読漢字シリーズ(30)…常磐(ときは)
今回は「常磐(ときは)」について万葉集をみていきます。現代では,常磐は「ときわ」または音読みで単に「じょうばん」と読み,意味として,常陸の国と磐城の国の併称,福島県いわき市,その地域の施設(常磐公園=偕楽園)や史跡(常磐神社=偕楽園内にある水戸光圀を祀る神社)を指す言葉として使われているようです。
しかし,万葉集では別のいくつかの意味で詠まれています。
最初に紹介するのは,山上憶良が世の無常を神亀5(728)年7月21日に太宰府で詠んだとされる短歌です。
常磐なすかくしもがもと思へども世の事なれば留みかねつも(5-805)
<ときはなすかくしもがもと おもへども よのことなればとどみかねつも>
<<大きな岩のようにいつまでも変わらずにいて欲しいと思いたいが,世の中のことはひと時も変わらないことがない>>
憶良は仏教の無常観から「無常」の反対語として「常磐」という言葉を使い,この短歌を詠んだのだろうと私は思います。
人間は「常磐」のように絶対的に変化しない状態(真実は一つ)がいつまでも続いてほしいと願うものである。その絶対的なものにすがることが安心・安寧な幸せな人生だと考える人が多いが,世の中は「生老病死」という苦悩が常にいろいろな形で予断無くやってきて,それを許してくれないと。
ところで,万葉時代は「生老病死」の苦悩の中でも「老病死」の比率が高かったと想像できます。ただ,今の時代では「生きる」の苦悩の比率が高いのかも知れません。
人間関係の悪化,他人との比較での落胆,人生の目的や夢の喪失,仕事のスキルアンマッチなどにより,社会の中で「生きる」こと自体が苦しいと感じ,場合によっては精神疾患になる人が少なくない現代社会になっているような気がします。
「これだけをやっておけば大丈夫」というもの(宣伝文句によく使われる?)を求め,面倒なことを避けたり,今やるべきことを先送りしていた結果,あるとき「こんなはずではなかった」と気が付いてしまうのです。その失敗を繰り返し,(悪いのは他人だと思いつつも)失敗の後悔が重なることで「生きる」苦悩が強くなり,「生きている今の自分」を「その自分」が責め,苦しめることになってしまうのです。そして,自殺を選んだ人の中にはそんな「生きている自分」に対し,自分自身が作る苦悩に耐えられなくなった人も多いのでしょうか。
私は,世の中は無常(常に変化するもの)が前提と考え,常に状況の変化を注視し,先の変化を的確に予測できる能力を磨いていく努力が,「生きる」苦悩を乗り越え,「生きる」楽しさを得る有効な道の一つだと考えています。
さて,次に紹介するのは,常緑樹の橘の葉を形容として「常磐」を使い,大伴家持が高岡で元正(げんしやう)上皇崩御を悼み,その後見役の橘諸兄(たちばなのもろえ)に期待する短歌です。
大君は常磐にまさむ橘の殿の橘ひた照りにして(18-4064)
<おほきみはときはにまさむ たちばなのとののたちばな ひたてりにして>
<<太上天皇は常磐の橘の葉ようにそのお力は不変です。橘様の橘もいつも照り輝き続けています>>
京では藤原仲麻呂(ふぢはらのなかまろ)の力が増大し,強引なやり方をセーブする役割として諸兄にいつまでも(常磐に)期待している家持の気持ちが表れた短歌だと私は感じます。
最後に紹介するのは,同じく家持が天平宝字2(758)年2月に式部大輔(しきぷのたいふ)中臣清麻呂朝臣(なかとみのきよまろあそみ)宅の宴で,変わらぬ結束の誓いを詠んだ短歌です。
八千種の花は移ろふ常盤なる松のさ枝を我れは結ばな(20-4501)
<やちくさのはなはうつろふ ときはなるまつのさえだを われはむすばな>
<<いろんな花がありますが,みないずれ色あせてしまいますが,いつまでも変わらぬ色の葉を持つ松の枝のように私たちは友情を結び合いましょう>>
家持より10歳以上年上だが将来は大臣になると目される清麻呂との関係を強く持ちたいという家持の思いがこの短歌から読み取れます。この10年余り後,家持が光仁朝になって昇進を速めるのですが,その当時清麻呂は右大臣に昇進していたのです。家持の期待通り,清麻呂と家持の関係は比較的良かったのではないかと私は思います。
ところで,広辞苑で「常磐」を引いてみると,この3首が3つの意味の違いの用例として出ているのです。約1300年前に「ときは」という言葉が,どのような異なる意味で使われていたかを万葉集はそれぞれ別用例で示してくれているのです。
万葉集は,五十音順などの並び順でないことを気にしなければ,まるで当時の日本語(ヤマト言葉)の辞書か文法書のような目的で編纂されたのではないかと感じてしまう私がいます。
(続難読漢字シリーズ(31)につづく)
しかし,万葉集では別のいくつかの意味で詠まれています。
最初に紹介するのは,山上憶良が世の無常を神亀5(728)年7月21日に太宰府で詠んだとされる短歌です。
常磐なすかくしもがもと思へども世の事なれば留みかねつも(5-805)
<ときはなすかくしもがもと おもへども よのことなればとどみかねつも>
<<大きな岩のようにいつまでも変わらずにいて欲しいと思いたいが,世の中のことはひと時も変わらないことがない>>
憶良は仏教の無常観から「無常」の反対語として「常磐」という言葉を使い,この短歌を詠んだのだろうと私は思います。
人間は「常磐」のように絶対的に変化しない状態(真実は一つ)がいつまでも続いてほしいと願うものである。その絶対的なものにすがることが安心・安寧な幸せな人生だと考える人が多いが,世の中は「生老病死」という苦悩が常にいろいろな形で予断無くやってきて,それを許してくれないと。
ところで,万葉時代は「生老病死」の苦悩の中でも「老病死」の比率が高かったと想像できます。ただ,今の時代では「生きる」の苦悩の比率が高いのかも知れません。
人間関係の悪化,他人との比較での落胆,人生の目的や夢の喪失,仕事のスキルアンマッチなどにより,社会の中で「生きる」こと自体が苦しいと感じ,場合によっては精神疾患になる人が少なくない現代社会になっているような気がします。
「これだけをやっておけば大丈夫」というもの(宣伝文句によく使われる?)を求め,面倒なことを避けたり,今やるべきことを先送りしていた結果,あるとき「こんなはずではなかった」と気が付いてしまうのです。その失敗を繰り返し,(悪いのは他人だと思いつつも)失敗の後悔が重なることで「生きる」苦悩が強くなり,「生きている今の自分」を「その自分」が責め,苦しめることになってしまうのです。そして,自殺を選んだ人の中にはそんな「生きている自分」に対し,自分自身が作る苦悩に耐えられなくなった人も多いのでしょうか。
私は,世の中は無常(常に変化するもの)が前提と考え,常に状況の変化を注視し,先の変化を的確に予測できる能力を磨いていく努力が,「生きる」苦悩を乗り越え,「生きる」楽しさを得る有効な道の一つだと考えています。
さて,次に紹介するのは,常緑樹の橘の葉を形容として「常磐」を使い,大伴家持が高岡で元正(げんしやう)上皇崩御を悼み,その後見役の橘諸兄(たちばなのもろえ)に期待する短歌です。
大君は常磐にまさむ橘の殿の橘ひた照りにして(18-4064)
<おほきみはときはにまさむ たちばなのとののたちばな ひたてりにして>
<<太上天皇は常磐の橘の葉ようにそのお力は不変です。橘様の橘もいつも照り輝き続けています>>
京では藤原仲麻呂(ふぢはらのなかまろ)の力が増大し,強引なやり方をセーブする役割として諸兄にいつまでも(常磐に)期待している家持の気持ちが表れた短歌だと私は感じます。
最後に紹介するのは,同じく家持が天平宝字2(758)年2月に式部大輔(しきぷのたいふ)中臣清麻呂朝臣(なかとみのきよまろあそみ)宅の宴で,変わらぬ結束の誓いを詠んだ短歌です。
八千種の花は移ろふ常盤なる松のさ枝を我れは結ばな(20-4501)
<やちくさのはなはうつろふ ときはなるまつのさえだを われはむすばな>
<<いろんな花がありますが,みないずれ色あせてしまいますが,いつまでも変わらぬ色の葉を持つ松の枝のように私たちは友情を結び合いましょう>>
家持より10歳以上年上だが将来は大臣になると目される清麻呂との関係を強く持ちたいという家持の思いがこの短歌から読み取れます。この10年余り後,家持が光仁朝になって昇進を速めるのですが,その当時清麻呂は右大臣に昇進していたのです。家持の期待通り,清麻呂と家持の関係は比較的良かったのではないかと私は思います。
ところで,広辞苑で「常磐」を引いてみると,この3首が3つの意味の違いの用例として出ているのです。約1300年前に「ときは」という言葉が,どのような異なる意味で使われていたかを万葉集はそれぞれ別用例で示してくれているのです。
万葉集は,五十音順などの並び順でないことを気にしなければ,まるで当時の日本語(ヤマト言葉)の辞書か文法書のような目的で編纂されたのではないかと感じてしまう私がいます。
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