2017年8月27日日曜日

序詞再発見シリーズ(26) … 「雲」は空や遠くにあるものを隠す厄介な存在?

今回は,その他のを序詞に詠んだ万葉集の短歌を紹介します。
最初は,雲と月の関係を詠んだ短歌です。

雲間よりさ渡る月のおほほしく相見し子らを見むよしもがも(11-2450)
くもまよりさわたるつきの おほほしくあひみしこらを みむよしもがも
<<雲間を通る月が時より顔を少し見せるように,やっと互いに出会った乙女よ,もう見ることはできないのだろうか >>

美しい月を見たいと思って夜空を見上げても,雲が邪魔をして見られない。雲の切れ間からようやく少し見えることがあったとしても,すぐに次の雲に隠されてしまい,次にいつ見られるのか予想もつかない。
そんなイライラした状況を,好きな彼女の姿を見るチャンスがなかなか来ない苛立ちら例えているのでしょうか。逆に,なかなか見ることができないからこそ,名月も彼女の姿もより見たいという気持ちになるのだと私は思います。
次も雲と月(三日月)の関係を詠んだ短歌です。

三日月のさやにも見えず雲隠り見まくぞ欲しきうたてこのころ(11-2464)
みかづきのさやにもみえず くもがくりみまくぞほしき うたてこのころ
<<三日月のようにはっきりと見えないうえに雲にまで隠れてしまう。そのように,なかなか発見できないお姿を見たいという思いが いっそうつのるこの頃なのです>>

この短歌は,最初の短歌よりも,なかなか姿が見られず,見たい気持ちが募る思いをストレートに詠んでいます。満月だと薄い雲に覆われても何とか見ることはできますが,三日月だと薄い雲でも隠されてしまう確率が高くなってしまいます。
万葉時代,月の満ち欠けが恋の成就の確率に関する縁起モノ(満月に近づくと逢える可能性が高いなど)として見られていたのかも知れませんね。
最後は,雲が発生するはるか遠くをイメージした短歌です。

波の間ゆ雲居に見ゆる粟島の逢はぬものゆゑ我に寄そる子ら(12-3167)
なみのまゆ くもゐにみゆるあはしまの あはぬものゆゑわによそるこら
<<波の間から雲が出る場所のように遠い場所に見える粟島のように,彼女とは逢わずにいるのに,私には彼女と出来ているという根も葉もない噂が聞こえる>>

雲居」という言葉は,この場合「遠く」という意味で使われていると解釈しました。
粟島は「淡路島」のことなのか,それとも別の島なのか気になりますが,島の名称がポイントのため。ここはスルーします。
いずれにしても「雲」というものは,万葉人にとってコントロールできないものの代名詞の一つだった可能性を私は感じますね。
(序詞再発見シリーズ(27)に続く)

2017年8月6日日曜日

序詞再発見シリーズ(25) … 「くも」だけでは他の同音異義語と混同する?

今回は,「雲」を序詞に詠んだ万葉集の短歌のうち,「天雲」という言葉になっているものを見ていきます。
最初は,が出てくる短歌です。

天雲に翼打ちつけて飛ぶ鶴のたづたづしかも君しまさねば(11-2490)
あまくもにはねうちつけて とぶたづのたづたづしかもきみしまさねば
<<天雲に翼を打ちつけて飛ぶ鶴の「たづ」のように,私の心もたづたづし(たどたどしい気持ち)です。あなたがいないので>>

この短歌は,鶴が「天雲に翼を打ちつけて飛ぶ」の様子をどう解釈するがポイントだと私は思います。天雲は空に浮かぶ雲と考えますと,空に浮かぶ雲に,大きな翼を叩きつけるように上昇していく鶴を見ている情景だと私はイメージします。
鶴は身体が大きく,上昇して気流に乗るまでは,全力で翼を上下させないと上空までいけません。それは,優雅に上空で舞っている鶴の姿とは違い,鶴が飛び立つときは空に浮かぶ雲でさえ手掛かりにしたい気持ちで全力を出しているように見えたのでしょうか。
鶴の飛びたつ苦しそうな姿を自分が恋しい人を思う気持ちの強さ,そしてより相手と近づきたいとあえいでいる自分を重ね合わせて作者はこの短歌を詠んだのかも知れません。
次は,雷鳴を詠んだ短歌です。

天雲の八重雲隠り鳴る神の音のみにやも聞きわたりなむ(11-2658)
あまくものやへくもがくり なるかみのおとのみにやも ききわたりなむ
<<幾重も重なる天雲に隠れて雷の音だけが聞こえてくるように頻繁に伝わって来るのは他人の噂だけだ>>

稲妻は見えないけれど,遠くで雷鳴が聞こえ,空は分厚い雲で覆われている気象状況が良く伝わってきます。
私が埼玉県の吉川市(当時は吉川町)に住んでいたとき,梅雨の末期になるとこんな気象状況がよくありました。近くの河川敷ゴルフ場でゴルフをしているときなどは,カミナリが近づいてくるのか,遠ざかっていくのか,稲妻の方向が定かでないときは非常に気になったものです。カミナリ雲が接近したため,ゴルフを中断したり,結局途中で中止したことが何度かありました。
この短歌の作者は,誰が自分たちのことの噂を広めているのか,気になり,これを詠んだのかも知れません。というのは尾ひれがついて伝わることが多く,音だけの雷鳴のように二人の関係にとって迷惑に感じるものだったのでしょうね。
最後は,雲に隠れてわからないという気持ちを詠んだ短歌です。

思ひ出でてすべなき時は天雲の奥処も知らず恋ひつつぞ居る(12-3030)
おもひいでてすべなきときは あまくものおくかもしらず こひつつぞをる>
<<思い出してどうしようもなくなった時には,天雲のその先がどうなっているか分からないくらいに恋焦がれているのです>>

この短歌の作者は,実際に空に浮かぶ雲を見て詠んだわけではなく,自宅で恋しい人と逢ったときのことを思い出して,今逢えないことの苦しさでどうしょうもなくなったのでしょうか。
先が見えない相手との恋路を空に浮かぶ分厚い雲の向こうが全く見えないことに例えていると私は見ます。やはり,雲一つない晴天のように遠くの先が見えるような明るい恋がしたいという気持ちが伝わってきます。
<同音異義語>
さて,雲を敢て天雲と読むのはなぜか考えてみました。「くも」と発音するものに「クモ(蜘蛛)」があります。万葉集では,山上憶良が詠んだ有名な貧窮問答歌に「蜘蛛の巣」という言葉が出てきます。
和歌を文字として記録することは一般的ではなく,口承でお互い記憶していた万葉時代は,同音意義の言葉は何らかの修飾語を付けて聞き分けていたのかもしれないと私は想像します。
「雲」は「蜘蛛」と区別するために「天雲」と表現することが多かったという論理です。真偽のほどは如何?です。
(序詞再発見シリーズ(26)に続く)