年末年始スペシャル「私が接した歌枕」シリーズ第3弾をお送りします。
毎年1月2日,3日には箱根大学駅伝(正式名称:東京箱根間往復大学駅伝競走)が開催されます。箱根駅伝の圧巻は,なんといっても1日目(往路)5区箱根の山登りと2日目(復路)6区山下りではないでしょうか。参加各大学の走者の実力差が大きく出て,順位変動が激しく入れ替わることが箱根駅伝を見る人にはたまらないのかも知れませんね。
<箱根越えのつらい記憶>
さて,私が最初に箱根の山を越えたのは,東京都小平市にある私立高校(創立初の入学試験で合格すれば1期生)の受験のため,高校3年の2月中旬,京都から小平まで父の運転(車はマツダファミリアバン)で行った時です。
「高速道路代えろうもったいないさかいな」という父は夜中の国道1号線を東京に向けてひた走りました。
三島から箱根に入る頃には夜が明けて,前方からの朝日がまぶしかったのを覚えています。父の運転する車は箱根峠を越えて,芦ノ湖畔から箱根駅伝のコース(当時は箱根駅伝のことは何も知りませんでした)と同じ山下りをしました。そのまま国道1号線で藤沢まで行き,藤沢から藤沢街道(国道467号),厚木街道(国道246号),府中街道経由で,昼過ぎに小平近辺に到着しました。
<激しい雪に見舞われる>
その日は近辺で宿泊し,翌日の入試当日は父の車で受験校まで送ってもらい,入学試験の筆記試験,面接試験を受験しました。しかし,その日は試験時間が終盤に差し掛かったころから激しい雪が降り始めたのです。すべての試験が終わって校舎の3階廊下から見た周辺の武蔵野の畑はあっという間に真っ白になっていました。
父は学校の近くまで車を持ってきて待ってくれたので,学校を出て間もなく車に乗れ,京都へ向かう帰路につこうとしたのです。しかし,雪はますます激しく降ってきています。
学校から数キロ行ったところのガソリンスタンドで給油とタイヤチェーンを購入し,早速タイヤに巻きました。そこから,府中街道を南下して,とにかく国道1号線に入ろう。そうすれば大きなトラックも走っているので雪は気にならないと思ったのですが,積雪のため車は走っては止まり,走っては止まりの連続で,なかなか進みません。
<完全にストップ>
まだ国道1号線まで10キロ以上ある地点でついに前の車はほとんど動かなくなりました。時間はすでに夜中を過ぎていましたが雪は一向に止みません。運転をする父には寝てもらい,私は前の車が少し動いたら父に起こして,前の車に追いつくようにしました。結局,朝まで数回,それぞれ数十メートル前方に進んだだけでした。
夜が明けてさすがの雪もすっかり止み,一面の銀世界を照らすように朝日が射してきました。何台か前の大型トラックが脇道に入ったので,その後に付くことができ,しばらくして国道1号線入れました。そこからは昨夜のことが嘘のように順調に進むことができました。朝のラジオのニュースでは,今回の雪は東京都心で40センチの積雪という記録的なものだとアナウンサーが言っていました。
<箱根の山越えの道は通行止め>
ただ,これでこの話は終わりません。小田原から箱根の山登りを始めて箱根湯本温泉の手前あたりで箱根は積雪で通行止めのため,これ以上進めないことがわかりました。そこで待つこと5時間以上,夕方近くになってようやく除雪が終了。チェーン装着車のみ通行可能となり,ノロノロ運転ですが山登りを開始できました。
箱根の山道,除雪後の道脇には人の背丈をはるかに超える雪が積み上げられていました。箱根越えが本当に厳しいものだということを別の形で知らされたのです。
三島に着いたのが夜の7時を過ぎていました。その後は,ひたすら国道1号線を西進し,未明にようやく京都山科の自宅にたどり着きました。運転好きの父もさすがに堪えたようで「合格したらな,その時は母さんと電車で行って~な」と言って,仮眠した後昼前には仕事に行きました。
私は残念ながら合格は叶わず,次に箱根の山を越えたのは同系列の大学の2期生として入学できたときでした。
<万葉時代の東国行き>
ところで,万葉時代の東海道は箱根の急峻を避け,関西からは御殿場⇒足柄(あしがら)峠を越えて相模(さがみ)の国に入ったのだろうと思われます。したがって,箱根に関するあくまで伝聞と思われるテーマを詠んだ東歌が万葉集に出てきます。
あしがりの箱根の嶺ろのにこ草の花つ妻なれや紐解かず寝む(14-3370)
<あしがりのはこねのねろのにこぐさの はなつつまなれやひもとかずねむ>
<<箱根の山に咲くにこ草の花と同じような(可憐な)妻だったら紐を解かずに寝るのだけれど,そうじゃないからなあ>>
この短歌を作者の妻が聞いたらとんでもないことになりますよね。紐を解いて寝るとは女性と寝ることを意味しますから,浮気を身勝手に正当化したいという気持ちを詠んだ短歌です。
私が万葉集勅撰説に靡かない理由は,こんな短歌が(例え東歌と言えども)勅撰和歌集に選ばれるはずがないと思うからです。
次は,同じ東歌ですが,もう少し際どさが少ない短歌です。
足柄の箱根の山に粟蒔きて実とはなれるをあは無くもあやし(14-3364)
<あしがらのはこねのやまに あはまきてみとはなれるを あはなくもあやし>
<<足柄の箱根の山に粟を蒔いて実らせたように私の恋も実ったはずなのに,どうして逢えないのかなあ>>
この短歌の「あは無く」は「粟無く」と「逢は無く」を掛けています。万葉時代,箱根の山は開拓が少しずつ進んでいたのでしょう。箱根は温泉があちこちから湧き出て,森林が豊富で,芦ノ湖では魚が豊富に獲れたいたのだと私は想像します。但し,農業は険しい勾配地が多く,粟といった米よりも気候の変化に強い作物がようやく実を結ぶようになったようですね。
箱根の山中で粟を育てる苦労以上に苦労している私の恋は実を結んでもよいのに,なかなか逢うこともかなわない。
この短歌はそんな気持ちのいら立ちを箱根の開墾の苦労題材に(序詞,掛詞を使い)上手に表現していると私は思います。
私の接した歌枕(12:須磨)に続く。
2011年12月29日木曜日
対語シリーズ「静と騒」‥活気のある喧騒,心を癒す静寂。私は好きです。
未曾有の出来事があった今年1年もあと数日で終わろうしています。多少騒がしくても,明るく活気あふれる辰年になればと願っています。
今回は「静」と「騒」の対語を万葉集で見て行きます。万葉集では「静」という漢字を当てる言葉は「静けし」という形容詞の使い方がほとんどです。そして,「静けし」が詠まれている万葉集の和歌は7首で,それほど多くはありません。
いっぽう「騒」の漢字を当てる言葉は「騒く」(動詞),「騒き」(名詞),「潮騒(しほさゐ)」(名詞・連語)などの多様な使い方が万葉集に出てきます。それに合わせ,「騒」の漢字を当てた万葉集の和歌は50首近くになります。
まず,「静」と「騒」の両方が出てくる短歌を紹介します。
沖つ波辺波静けみ漁りすと藤江の浦に舟ぞ騒ける(6-939)
<おきつなみへなみしづけみ いざりすとふぢえのうらにふねぞさわける>
<<沖の波も岸辺の波も静かなので,漁に出るため藤江の浦は漁をする舟が騒いでいた>>
この短歌は,山部赤人が旅先から京(みやこ)に戻る途中,播磨(はりま:今の兵庫県)の海岸沿いの街道を進んでいる時を思い出して詠んだ長歌と短歌3首の内の最初に出てくる短歌です。
「今日は凪(なぎ)なので漁にはもってこいだぞ,さあ急いで漁に出よう」と漁師が大きな声をあげて湊(みなと)を出ようとしている様子が鮮やかに見て取れるようです。波は静かだけれど,人間(漁師)の方が騒がしい(活気がある)湊の姿。さすが赤人の表現力は素晴らしいと私は思います。
次は「静」を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
静けくも岸には波は寄せけるかこれの屋通し聞きつつ居れば(7-1237)
<しづけくも きしにはなみはよせけるか これのやとほしききつつをれば>
<<静かに岸辺に波は寄せるものだ。この家の中から聞いていると>>
この作者は旅先で漁師の家に泊まったのかも知れませんね。漁師の家は大体入江の奥に作られます。その住まいは入江の奥の湊の近くですから波は静かなのでしょう。海の波は荒々しいと思っていた作者は,意外と心地よい静かな波音が聞ける海辺の家を好きになったようです。
<伊根の舟屋>
私が大学生の時,ゼミの先輩の実家が京都府伊根町の典型的な舟屋ということで,夏休みに丹後半島を一人旅したとき寄らせて頂いたのです。写真は今Wikipediaの「舟屋」に掲載されている伊根の舟屋の全景です。
お昼を頂戴し,午後はその実家に戻っている先輩と舟屋の2階の海に面した(というより突き出た)畳の間で過ごしました。朴訥(ぼくとつ)とした先輩から舟屋の暮らしをゆっくりお聞きしながら,階下の波音を何時間も聞いていたのを思い出します。
伊根湾の海面は,その日夏の午後の太陽が鏡のようにキラキラと私の顔に反射し,舟屋の2階の下(舟を入れる場所)に寄せる波は「チャポン,チャポン」といった程度の音の繰り返しで,本当に海の上なのかと思わせる静かさでした。残念ながら,いっせいに各舟屋から出漁する光景は見られませんでしたが,そのときは最初に示した赤人の短歌のような騒がしさがきっとあるのでしょうね。
<今静かだからといって万葉時代も静かとは限らない>
続いて滋賀県高島市から琵琶湖に注ぐ安曇(あど)川の川波が「騒く」を詠んだ詠み人知らず(旅人)の短歌を紹介します。
高島の阿渡川波は騒けども我れは家思ふ宿り悲しみ(9-1690)
<たかしまのあどかはなみはさわけども われはいへおもふやどりかなしみ>
<<高島の安曇川の川波は騒がしいが,私の心は家を想うのみで旅先での寂しい泊まりが悲しい>>
当時,恐らく安曇川は今の高島市朽木(くつき)地区(旧朽木村)周辺で伐採された木材や若狭湾でとれた海の幸を若狭街道から琵琶湖へ運ぶ,舟の交通の要所だったと私は思います。この短歌を詠んだ旅人は今でいう仕事での出張ようなものだったのだのでしょう。写真は今年2月に私が撮った安曇川河口です。
当時はもっと活気があり,旅人を泊める宿も多くあったと考えます。そのため,川波が騒がしいのは春の雪解け水で水流が多い時期だったのかも知れませんが,行き交う舟が立てる波が騒がしかった可能性も否定できません。
今の風景を見て,当時も寂しい場所だっと決めつけるのは良くないことだというのが私の基本的な考えです。
藤原京から奈良時代に掛けて,全国交通網と駅(うまや)が整備され,海や川を舟が物資を運べるよう湊がたくさん作られたのです。高島の安曇川河口や北国街道西近江路が渡る場所は,この短歌が詠まれた当時はかなり活気のある湊町だったと私は想像します。
ただ,後の時代になり,若狭街道の近江今津市保坂から琵琶湖畔の今津へ抜ける街道が整備され,今津港から大型船が発着できるようになると,やがて安曇川を上り下りする舟も減り,活気も薄れて行ったのでしょう。
万葉集は当時のさまざまな状況を後世の私たちにロマン豊かに教えてくれる素晴らしいエビデンス(物証)だと,私はつねづね思うのです。
次回からは年末年始スペシャル「私の接した歌枕」のシリーズ3回目(箱根)をお送りします。
今回は「静」と「騒」の対語を万葉集で見て行きます。万葉集では「静」という漢字を当てる言葉は「静けし」という形容詞の使い方がほとんどです。そして,「静けし」が詠まれている万葉集の和歌は7首で,それほど多くはありません。
いっぽう「騒」の漢字を当てる言葉は「騒く」(動詞),「騒き」(名詞),「潮騒(しほさゐ)」(名詞・連語)などの多様な使い方が万葉集に出てきます。それに合わせ,「騒」の漢字を当てた万葉集の和歌は50首近くになります。
まず,「静」と「騒」の両方が出てくる短歌を紹介します。
沖つ波辺波静けみ漁りすと藤江の浦に舟ぞ騒ける(6-939)
<おきつなみへなみしづけみ いざりすとふぢえのうらにふねぞさわける>
<<沖の波も岸辺の波も静かなので,漁に出るため藤江の浦は漁をする舟が騒いでいた>>
この短歌は,山部赤人が旅先から京(みやこ)に戻る途中,播磨(はりま:今の兵庫県)の海岸沿いの街道を進んでいる時を思い出して詠んだ長歌と短歌3首の内の最初に出てくる短歌です。
「今日は凪(なぎ)なので漁にはもってこいだぞ,さあ急いで漁に出よう」と漁師が大きな声をあげて湊(みなと)を出ようとしている様子が鮮やかに見て取れるようです。波は静かだけれど,人間(漁師)の方が騒がしい(活気がある)湊の姿。さすが赤人の表現力は素晴らしいと私は思います。
次は「静」を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
静けくも岸には波は寄せけるかこれの屋通し聞きつつ居れば(7-1237)
<しづけくも きしにはなみはよせけるか これのやとほしききつつをれば>
<<静かに岸辺に波は寄せるものだ。この家の中から聞いていると>>
この作者は旅先で漁師の家に泊まったのかも知れませんね。漁師の家は大体入江の奥に作られます。その住まいは入江の奥の湊の近くですから波は静かなのでしょう。海の波は荒々しいと思っていた作者は,意外と心地よい静かな波音が聞ける海辺の家を好きになったようです。
<伊根の舟屋>
私が大学生の時,ゼミの先輩の実家が京都府伊根町の典型的な舟屋ということで,夏休みに丹後半島を一人旅したとき寄らせて頂いたのです。写真は今Wikipediaの「舟屋」に掲載されている伊根の舟屋の全景です。
お昼を頂戴し,午後はその実家に戻っている先輩と舟屋の2階の海に面した(というより突き出た)畳の間で過ごしました。朴訥(ぼくとつ)とした先輩から舟屋の暮らしをゆっくりお聞きしながら,階下の波音を何時間も聞いていたのを思い出します。
伊根湾の海面は,その日夏の午後の太陽が鏡のようにキラキラと私の顔に反射し,舟屋の2階の下(舟を入れる場所)に寄せる波は「チャポン,チャポン」といった程度の音の繰り返しで,本当に海の上なのかと思わせる静かさでした。残念ながら,いっせいに各舟屋から出漁する光景は見られませんでしたが,そのときは最初に示した赤人の短歌のような騒がしさがきっとあるのでしょうね。
<今静かだからといって万葉時代も静かとは限らない>
続いて滋賀県高島市から琵琶湖に注ぐ安曇(あど)川の川波が「騒く」を詠んだ詠み人知らず(旅人)の短歌を紹介します。
高島の阿渡川波は騒けども我れは家思ふ宿り悲しみ(9-1690)
<たかしまのあどかはなみはさわけども われはいへおもふやどりかなしみ>
<<高島の安曇川の川波は騒がしいが,私の心は家を想うのみで旅先での寂しい泊まりが悲しい>>
当時,恐らく安曇川は今の高島市朽木(くつき)地区(旧朽木村)周辺で伐採された木材や若狭湾でとれた海の幸を若狭街道から琵琶湖へ運ぶ,舟の交通の要所だったと私は思います。この短歌を詠んだ旅人は今でいう仕事での出張ようなものだったのだのでしょう。写真は今年2月に私が撮った安曇川河口です。
当時はもっと活気があり,旅人を泊める宿も多くあったと考えます。そのため,川波が騒がしいのは春の雪解け水で水流が多い時期だったのかも知れませんが,行き交う舟が立てる波が騒がしかった可能性も否定できません。
今の風景を見て,当時も寂しい場所だっと決めつけるのは良くないことだというのが私の基本的な考えです。
藤原京から奈良時代に掛けて,全国交通網と駅(うまや)が整備され,海や川を舟が物資を運べるよう湊がたくさん作られたのです。高島の安曇川河口や北国街道西近江路が渡る場所は,この短歌が詠まれた当時はかなり活気のある湊町だったと私は想像します。
ただ,後の時代になり,若狭街道の近江今津市保坂から琵琶湖畔の今津へ抜ける街道が整備され,今津港から大型船が発着できるようになると,やがて安曇川を上り下りする舟も減り,活気も薄れて行ったのでしょう。
万葉集は当時のさまざまな状況を後世の私たちにロマン豊かに教えてくれる素晴らしいエビデンス(物証)だと,私はつねづね思うのです。
次回からは年末年始スペシャル「私の接した歌枕」のシリーズ3回目(箱根)をお送りします。
2011年12月23日金曜日
対語シリーズ「着ると脱ぐ」‥♪「あ~,夢~一夜~。一夜限り..」
今回は,万葉集で衣(ころも,きぬ)を「着る」と「脱ぐ」がどのように詠われているかを見ていきます。
まず,万葉集で「着る」「脱ぐ」の対象の衣(ころも,きぬ)に関連する言葉をあげると次のような言葉が出てきます。
赤衣(赤色の衣),秋さり衣(秋になって着る着物),麻衣(麻衣で作った衣,喪中に着る麻布の着物),洗い衣(取替川に掛かる枕詞),あり衣の(三重などにかかる枕詞),薄染め衣(薄い色に染めた衣服),肩衣(袖の無い庶民服),形見<かたみ>の衣(その人を思い出させる衣),皮衣(毛皮で作った防寒用の衣),唐衣・韓衣<からころも>(中国風の衣),雲の衣(織姫が空で纏う衣),恋衣(恋を常に身を離れない衣に見立てた語。恋という着物),衣手(袖),下衣(下着),塩焼き衣(潮を焼く人が着る粗末な衣服),袖付け衣(袖のある衣服),旅衣(旅できる衣服),旅行き衣(旅衣と同意),玉衣(美しい衣),露分け衣(露の多い草葉などを分けて行くときに着る衣),解き洗い衣(解いて洗い張りする着物),解き衣の(乱るにかかる枕詞),慣れ衣(普段着),布肩衣(布で作った肩衣),布衣(布製の衣服),濡れ衣(濡れた着物),藤衣(藤つるの繊維で作ったも粗末な衣),古衣(着古した着物),木綿<ゆふ>肩衣(木綿で作った肩衣)
このようにたくさん衣に関する言葉が万葉集に出てくるのは,当時「衣」の生産が急速に発展し,生産技術向上で値段も下がり,さまざまな種類のモノが手に入るようになったためだろうと私は考えます。
では「着る」を読んだ詠み人知らずの短歌から紹介します。
衣しも多くあらなむ取り替へて着ればや君が面忘れたる(11-2829)
<ころもしもおほくあらなむ とりかへてきればやきみが おもわすれたる>
<<着る衣がたくさんあれぱなあ。衣をあれこれと取り替えて着ることができたら君の顔をきっと忘れることができるだろう(衣は君用の一つしかないから忘れられない)>>
この短歌は妻問をしても,なかなか逢ってくれない相手に対して贈った短歌ではないかと私は推理します。
当時は,妻問いするときに着て行く衣はお互いに決め,相互に相手の衣(下着)を贈り合って,それを下に着きるという風習があったのでしょうか。
財力や権力を多く持つ男には妻問いする相手が複数いたはずです。でも,この短歌の作者は「君用の衣しかない(君しかいない)」と「相手は君だけだ」と主張しています。
次は「脱ぐ」を詠んだ,これも詠み人知らずの短歌です。
夜も寝ず安くもあらず白栲の衣は脱かじ直に逢ふまでに(12-2846)
<よるもねずやすくもあらず しろたへのころもはぬかじ ただにあふまでに>
<<夜も寝られず,気が休まることもない。貴女が着ていた白妙の衣は脱がずにいよう。今度本当に逢うまでは>>
この他に「脱ぐ」が出てくる短歌がもう1首ありますが,そちらも「脱がない」という否定形で,結局は「着ている」という意味になってしまいます。
相手を意識させる衣は逢わないときはいつも「着ている」ようにし,逢った時だけ「脱いで」,お互いの衣や袖を交換するという逢瀬のイメージが万葉集から感じ取れそうです。
万葉時代相手に逢うときは,フォーク歌手南こうせつが歌った「夢一夜」に出てくる「♪着て行く服がまだ決ま~らない ..」というようなことはなく,いつも同じ衣を着ていたことになりそうですね。
逆に違う衣を着て行くと別に浮気相手がいて,そちら寄ってからハシゴでこちらに寄ったと受け取られかねない時代だったと想像できそうですね。
対語シリーズ「静と騒」に続く。
まず,万葉集で「着る」「脱ぐ」の対象の衣(ころも,きぬ)に関連する言葉をあげると次のような言葉が出てきます。
赤衣(赤色の衣),秋さり衣(秋になって着る着物),麻衣(麻衣で作った衣,喪中に着る麻布の着物),洗い衣(取替川に掛かる枕詞),あり衣の(三重などにかかる枕詞),薄染め衣(薄い色に染めた衣服),肩衣(袖の無い庶民服),形見<かたみ>の衣(その人を思い出させる衣),皮衣(毛皮で作った防寒用の衣),唐衣・韓衣<からころも>(中国風の衣),雲の衣(織姫が空で纏う衣),恋衣(恋を常に身を離れない衣に見立てた語。恋という着物),衣手(袖),下衣(下着),塩焼き衣(潮を焼く人が着る粗末な衣服),袖付け衣(袖のある衣服),旅衣(旅できる衣服),旅行き衣(旅衣と同意),玉衣(美しい衣),露分け衣(露の多い草葉などを分けて行くときに着る衣),解き洗い衣(解いて洗い張りする着物),解き衣の(乱るにかかる枕詞),慣れ衣(普段着),布肩衣(布で作った肩衣),布衣(布製の衣服),濡れ衣(濡れた着物),藤衣(藤つるの繊維で作ったも粗末な衣),古衣(着古した着物),木綿<ゆふ>肩衣(木綿で作った肩衣)
このようにたくさん衣に関する言葉が万葉集に出てくるのは,当時「衣」の生産が急速に発展し,生産技術向上で値段も下がり,さまざまな種類のモノが手に入るようになったためだろうと私は考えます。
では「着る」を読んだ詠み人知らずの短歌から紹介します。
衣しも多くあらなむ取り替へて着ればや君が面忘れたる(11-2829)
<ころもしもおほくあらなむ とりかへてきればやきみが おもわすれたる>
<<着る衣がたくさんあれぱなあ。衣をあれこれと取り替えて着ることができたら君の顔をきっと忘れることができるだろう(衣は君用の一つしかないから忘れられない)>>
この短歌は妻問をしても,なかなか逢ってくれない相手に対して贈った短歌ではないかと私は推理します。
当時は,妻問いするときに着て行く衣はお互いに決め,相互に相手の衣(下着)を贈り合って,それを下に着きるという風習があったのでしょうか。
財力や権力を多く持つ男には妻問いする相手が複数いたはずです。でも,この短歌の作者は「君用の衣しかない(君しかいない)」と「相手は君だけだ」と主張しています。
次は「脱ぐ」を詠んだ,これも詠み人知らずの短歌です。
夜も寝ず安くもあらず白栲の衣は脱かじ直に逢ふまでに(12-2846)
<よるもねずやすくもあらず しろたへのころもはぬかじ ただにあふまでに>
<<夜も寝られず,気が休まることもない。貴女が着ていた白妙の衣は脱がずにいよう。今度本当に逢うまでは>>
この他に「脱ぐ」が出てくる短歌がもう1首ありますが,そちらも「脱がない」という否定形で,結局は「着ている」という意味になってしまいます。
相手を意識させる衣は逢わないときはいつも「着ている」ようにし,逢った時だけ「脱いで」,お互いの衣や袖を交換するという逢瀬のイメージが万葉集から感じ取れそうです。
万葉時代相手に逢うときは,フォーク歌手南こうせつが歌った「夢一夜」に出てくる「♪着て行く服がまだ決ま~らない ..」というようなことはなく,いつも同じ衣を着ていたことになりそうですね。
逆に違う衣を着て行くと別に浮気相手がいて,そちら寄ってからハシゴでこちらに寄ったと受け取られかねない時代だったと想像できそうですね。
対語シリーズ「静と騒」に続く。
2011年12月18日日曜日
対語シリーズ「上と下」‥敬語は難解?
慶応大学の創立者で1万円札の肖像にもなっている福沢諭吉が「天は人の上に人を造らず,人の下に人を造らず」と書いたのは,それだけ日本人には人と人の上下関係の意識が強いが,新しい文明開化の世の中ではその意識を打ち破り,平等意識を持つ必要があると考えたからなのでしょう。
<日本語の敬語類は難しい>
日本語には敬語(尊敬語,謙譲語,丁寧語)という同じ意味ではあるが伝える相手によって表現を変える用法があります。
敬語がなぜできたか?それは相手と自分との上下関係を常に意識することが是とする国民性から来たものだと考えます。諭吉がいくら近代日本を大きく変えた人だといっても,敬語のほうは今もしっかり使われています。
ところが,上下関係を意識することが少ないリベラルな思想や個人主義が定着している国で育った人達が日本語を学ぶ場合,敬語を覚えるのに苦労するとよく聞きます。
覚える価値を感じにくい訳ですから,覚える気持ち(モチベーション)が削がれるのは致し方ないことですね。
今の日本人でも敬語が正しく使えない人は結構いるようで,それだけ敬語は難しく,上下関係の意識の変化も影響しているのかも知れませんね。
<敬語は地方によっても使い方が異なる?>
実は,敬語は地方(方言)によっても使い方が微妙に違います。
たとえば,関東地方の私鉄の車掌が乗客に「降りましたら,白線の内側をお歩きください」とアナウンスします。
関西出身の私には,やはり違和感を感じます。「お降りになりましたら,白線の~」でしょう?と感じるのです。
もっとひどい事例は,駅構内アナウンスで「遅延証明書が必要な方が居(お)りましたら駅事務室までお越しください」です。お客様に「居りましたら」はないでしょう?「いらっしゃいましたら」に決まっているでしょう?と思う訳です。
ただ,関西の方言での敬語の使い方にもちょっと違和感を感じる部分もあります。
<京都の人は殺人容疑者にも敬語を使う?>
京都で育った私は,京都に暮らしていた頃に放送されたテレビの地元ニュースで,ある地区の住人が殺人犯の容疑者として逮捕されたというニュースがありました。
そのニュースでは,テレビ記者のインタビューに応じた容疑者の近くに住む主婦が「あの人が人を殺しはるやてほんまにケッタイ(不思議)やわ」と答えていました。
当時の私は,殺人容疑者に対して「殺しはる」という尊敬語を使うのは同じ京都人としても変だな?と感じたのです。
京都がさまざまな為政者によって頻繁に政権がとって変わることを経験してきた庶民が,今まで悪者とされてきた人達が突然政権を執って偉い人になる可能性が否定できない以上,一応他人には「何々しやはる」という便利で中半端な敬語を使うようになったようだと納得したのは,もっと後になってからでした。
<大阪弁はせっかち?>
ところで,天の川君に「早くして欲しい」を大阪弁で上下関係をいろいろ意識した場合の表現でやってもらいましょう。
天の川 「よっしゃ。それくらい任せといてんか。
早よせんかい(上⇒下)。
頼むわ,早よ~して~な(同等)。
早よ~にお願いますわ(下⇒上中)。
早よお願いできまへんやろか(下⇒上上)。」
「上方(かみがた)」と長い間自分立ちの方が江戸より上だと自称してきた関西の言葉も人の上下関係にはかなり敏感なようですね。
<万葉集の上と下>
さて,話を本来の万葉集に移しましょう。
出てくるのは「上(かみ)つ瀬」と「下(しも)つ瀬」,「上辺(かみへ)」と「下辺(しもべ)」,「下着(したき)」と「上着(うはき」,「雲の上」と「葉の下」,「上り(のぼり)」と「下り(くだり)」,「上紐(うはひも)」と「下紐(したひも)」,「山下」と「山上」という地理的,物理的な「上」と「下」を詠んだものがほとんどに見えます。
いくつか紹介しましょう。
あしひきの山下日陰鬘着る上にや更に梅を偲はむ(19-4278)
<あしひきの やましたひかげ かづらける うへにやさらに うめをしのはむ>
<<山下に生える日影のかづらを髪の飾りに着けている今,なぜ山の上に咲く梅を殊更賞賛しようとしているのですか>>
この短歌は,昨年3月28日に当ブログにアップした記事でも紹介していますが,天平勝寶4年の新嘗祭の酒宴で藤原永手(ふじはらのながて)が空気を読まない歌を詠ったのに対して大伴家持が皮肉を混めて詠ったものです。
かづらの木は地味で,山の下の日陰で育ちます。梅は派手で,山の上のような日当たりのよいところで育ちます。
「あなたは出世が約束されている。でも今日は現場で苦労してつつお勤めをしている我々の日なのです」と家持は諭しているように私は感じます。
雲の上に鳴きつる雁の寒きなへ萩の下葉はもみちぬるかも(8-1575)
<くものうへに なきつるかりのさむきなへ はぎのしたばはもみちぬるかも>
<<雲の上で鳴いている雁が寒そうであるとともに萩の下の方の葉は色づいてきたのかな>>
この短歌は,天平10(738)年8月20日,その年の初めに官職ナンバー2の右大臣になったばかりの橘諸兄(たちばなのもろえ)宅で行われた宴(うたげ)の歌7首の中で,諸兄自身が詠んだ1首です。
そのままの解釈は秋が深まってきたという意味ですが,宴に参加した人達に対し「これからもっと大変になるけれど,俺の時代が来たのかもな」と伝えたかったのではと私は思います。
万葉集では,身分の上下関係を「上」「下」という言葉を使って直接詠んでいる和歌はないようですが,深読みするとこの短歌のように身分の上下を意識させているようにも解釈できそうだからです。
諸兄は天平15(743)年には官職ナンバー1の左大臣になり,さらに6年後の天平感宝元(749)年には、官位が正一位となり,これより上はない地位まで上り詰めるのです。
最後は,少し艶めかしい感じの女性(詠み人知らず)の短歌を紹介します。
人の見る上は結びて人の見ぬ下紐開けて恋ふる日ぞ多き(12-2851)
<ひとのみる うへはむすびて ひとのみぬ したひもあけて こふるひぞおほき>
<<人の目につく上着の紐は結んでおき、人から見えない下紐を結ばないようにして,お出でになるのを恋しく思う日が多いこの頃です>>
早く来てほしいと思っている私なのに貴方はなかなか来てくれない。何とか恋しい気持ちを分かってほしいけれど人目につくところでサインを出すのは恥ずかしい。
そんな外(上)には出せない内面(下)の女性心理が見え隠れするような気がします。
対語シリーズ「着ると脱ぐ」に続く。
<日本語の敬語類は難しい>
日本語には敬語(尊敬語,謙譲語,丁寧語)という同じ意味ではあるが伝える相手によって表現を変える用法があります。
敬語がなぜできたか?それは相手と自分との上下関係を常に意識することが是とする国民性から来たものだと考えます。諭吉がいくら近代日本を大きく変えた人だといっても,敬語のほうは今もしっかり使われています。
ところが,上下関係を意識することが少ないリベラルな思想や個人主義が定着している国で育った人達が日本語を学ぶ場合,敬語を覚えるのに苦労するとよく聞きます。
覚える価値を感じにくい訳ですから,覚える気持ち(モチベーション)が削がれるのは致し方ないことですね。
今の日本人でも敬語が正しく使えない人は結構いるようで,それだけ敬語は難しく,上下関係の意識の変化も影響しているのかも知れませんね。
<敬語は地方によっても使い方が異なる?>
実は,敬語は地方(方言)によっても使い方が微妙に違います。
たとえば,関東地方の私鉄の車掌が乗客に「降りましたら,白線の内側をお歩きください」とアナウンスします。
関西出身の私には,やはり違和感を感じます。「お降りになりましたら,白線の~」でしょう?と感じるのです。
もっとひどい事例は,駅構内アナウンスで「遅延証明書が必要な方が居(お)りましたら駅事務室までお越しください」です。お客様に「居りましたら」はないでしょう?「いらっしゃいましたら」に決まっているでしょう?と思う訳です。
ただ,関西の方言での敬語の使い方にもちょっと違和感を感じる部分もあります。
<京都の人は殺人容疑者にも敬語を使う?>
京都で育った私は,京都に暮らしていた頃に放送されたテレビの地元ニュースで,ある地区の住人が殺人犯の容疑者として逮捕されたというニュースがありました。
そのニュースでは,テレビ記者のインタビューに応じた容疑者の近くに住む主婦が「あの人が人を殺しはるやてほんまにケッタイ(不思議)やわ」と答えていました。
当時の私は,殺人容疑者に対して「殺しはる」という尊敬語を使うのは同じ京都人としても変だな?と感じたのです。
京都がさまざまな為政者によって頻繁に政権がとって変わることを経験してきた庶民が,今まで悪者とされてきた人達が突然政権を執って偉い人になる可能性が否定できない以上,一応他人には「何々しやはる」という便利で中半端な敬語を使うようになったようだと納得したのは,もっと後になってからでした。
<大阪弁はせっかち?>
ところで,天の川君に「早くして欲しい」を大阪弁で上下関係をいろいろ意識した場合の表現でやってもらいましょう。
天の川 「よっしゃ。それくらい任せといてんか。
早よせんかい(上⇒下)。
頼むわ,早よ~して~な(同等)。
早よ~にお願いますわ(下⇒上中)。
早よお願いできまへんやろか(下⇒上上)。」
「上方(かみがた)」と長い間自分立ちの方が江戸より上だと自称してきた関西の言葉も人の上下関係にはかなり敏感なようですね。
<万葉集の上と下>
さて,話を本来の万葉集に移しましょう。
出てくるのは「上(かみ)つ瀬」と「下(しも)つ瀬」,「上辺(かみへ)」と「下辺(しもべ)」,「下着(したき)」と「上着(うはき」,「雲の上」と「葉の下」,「上り(のぼり)」と「下り(くだり)」,「上紐(うはひも)」と「下紐(したひも)」,「山下」と「山上」という地理的,物理的な「上」と「下」を詠んだものがほとんどに見えます。
いくつか紹介しましょう。
あしひきの山下日陰鬘着る上にや更に梅を偲はむ(19-4278)
<あしひきの やましたひかげ かづらける うへにやさらに うめをしのはむ>
<<山下に生える日影のかづらを髪の飾りに着けている今,なぜ山の上に咲く梅を殊更賞賛しようとしているのですか>>
この短歌は,昨年3月28日に当ブログにアップした記事でも紹介していますが,天平勝寶4年の新嘗祭の酒宴で藤原永手(ふじはらのながて)が空気を読まない歌を詠ったのに対して大伴家持が皮肉を混めて詠ったものです。
かづらの木は地味で,山の下の日陰で育ちます。梅は派手で,山の上のような日当たりのよいところで育ちます。
「あなたは出世が約束されている。でも今日は現場で苦労してつつお勤めをしている我々の日なのです」と家持は諭しているように私は感じます。
雲の上に鳴きつる雁の寒きなへ萩の下葉はもみちぬるかも(8-1575)
<くものうへに なきつるかりのさむきなへ はぎのしたばはもみちぬるかも>
<<雲の上で鳴いている雁が寒そうであるとともに萩の下の方の葉は色づいてきたのかな>>
この短歌は,天平10(738)年8月20日,その年の初めに官職ナンバー2の右大臣になったばかりの橘諸兄(たちばなのもろえ)宅で行われた宴(うたげ)の歌7首の中で,諸兄自身が詠んだ1首です。
そのままの解釈は秋が深まってきたという意味ですが,宴に参加した人達に対し「これからもっと大変になるけれど,俺の時代が来たのかもな」と伝えたかったのではと私は思います。
万葉集では,身分の上下関係を「上」「下」という言葉を使って直接詠んでいる和歌はないようですが,深読みするとこの短歌のように身分の上下を意識させているようにも解釈できそうだからです。
諸兄は天平15(743)年には官職ナンバー1の左大臣になり,さらに6年後の天平感宝元(749)年には、官位が正一位となり,これより上はない地位まで上り詰めるのです。
最後は,少し艶めかしい感じの女性(詠み人知らず)の短歌を紹介します。
人の見る上は結びて人の見ぬ下紐開けて恋ふる日ぞ多き(12-2851)
<ひとのみる うへはむすびて ひとのみぬ したひもあけて こふるひぞおほき>
<<人の目につく上着の紐は結んでおき、人から見えない下紐を結ばないようにして,お出でになるのを恋しく思う日が多いこの頃です>>
早く来てほしいと思っている私なのに貴方はなかなか来てくれない。何とか恋しい気持ちを分かってほしいけれど人目につくところでサインを出すのは恥ずかしい。
そんな外(上)には出せない内面(下)の女性心理が見え隠れするような気がします。
対語シリーズ「着ると脱ぐ」に続く。
2011年12月10日土曜日
対語シリーズ「新と古」‥お願い,古着のように捨てないで!
今回は前置き無しに万葉集で「新」と「古」の両方を含んだ,非常に分かりやすい詠み人知らずの短歌から紹介しましょう。
冬過ぎて春し来れば年月は新たなれども人は古りゆく(10-1884)
<ふゆすぎてはるしきたれば としつきはあらたなれども ひとはふりゆく>
<<冬が過ぎて春が来れば,年月は新しくなるけれど人はその分年をとって行く>>
この短歌,特に解説はいらないと思いますが,一休(室町時代の臨済宗大徳寺派の僧:いわゆる「一休さん」のモデル)が詠んだと伝えられている次の短歌を思い出しますよね。
門松(かどまつ)は冥土(めいど)の旅の一里塚(いちりづか)めでたくもありめでたくもなし
次にこれも結構分かりやすい,同じく「新」と「古」の両方を含んだ詠み人知らず(東歌)を紹介します。
おもしろき野をばな焼きそ古草に新草交り生ひは生ふるがに(14-3452)
<おもしろきのをばなやきそ ふるくさににひくさまじり おひはおふるがに>
<<趣き深いこの野を野焼きしないで欲しい,古草の中から新草が入り交じって生えていて,これからさらに生えようとしているでしょうに>>
最後の「がに」は今でも金沢弁などで「いいがに」⇒「いいように」といった言い方で使われているようです。
奈良の若草山では,毎年1月下旬頃に山焼きが行われています。それによって堅く古い草を焼き,若草山に住んでいる鹿に春の若草を食べやすくしているのではないかと私は思います。
奈良時代には鹿を食用肉としてたべていたようで,野焼きは一種鹿の放牧の一環の作業だったのかも知れませんね。
さて,「新」を使った和歌をみていくと,「新草」の他に「新木(あらき):切り出した直後の木」「新夜(あらたよ):毎夜」「新代・新世(あらたよ):新しい御代」「新桑(にひくは):新しい桑の葉」「新防人(にひさきもり):新たに派遣された防人」「新手枕(にひたまくら):男女の初夜」「新肌(にひはだ):jまだ誰も触れていない肌」「新治(にひはり):開墾したての田など」「新室(にひむろ):新しい家や室」「新喪(にひも):新しい喪の期間」「新嘗(にふなみ):新穀を食すこと」が出てきます。
この中で,気になる「新手枕」を詠んだ詠み人知らずの短歌を紹介します。
若草の新手枕をまきそめて夜をや隔てむ憎くあらなくに(11-2542)
<わかくさのにひたまくらをまきそめて よをやへだてむにくくあらなくに>
<<妻と初めて床を伴にしてから一夜だって別々に寝るものか愛しくてしょうがないのに>>
この短歌から,妻問い婚ではなく,夫婦ともに暮らしている状態が想像されます。妻問いは,万葉時代の慣習だったと思われますが,庶民を中心に夫婦共同生活者もかなりいたのかと私は想像します。
今度は「古」を使った和歌を見て行くことにしましょう。
13-3452の短歌で使われている「古草」の他に「古へ(いにしへ):むかし」「古江(ふるえ):古びた入江」「古枝(ふるえ):年を経た木の枝」「古幹(ふるから):古く枯れた茎」「ふるころも(古衣):古着」「古人(ふるひと):昔の人」「古家(ふるへ):古い家,元の家」「古屋(ふるや):古い家」が出てきます。
この中で,「古衣」を題材に,自分を棄てた元恋人への恨みごとを詠んだ詠み人知らずの短歌を紹介します。
古衣打棄つる人は秋風の立ちくる時に物思ふものぞ(11-2626)
<ふるころもうつつるひとは あきかぜのたちくるときに ものもふものぞ>
<<古着を捨てるように私を棄てたあなたも,冷たい秋風吹きつける頃には物思いに沈むでしょう(わたしの温もりが無くなったことを知って)>>
この作者の本心は「小林よしのり」作マンガ「おぼっちゃまくん」のテレビ版エンディングテーマソングの一つ,Mi-Ke の「む~な気持ちおセンチ」の歌詞に出てくる「♪お願い,ティッシュのように捨てないで♪」ということに近いかもしれませんね。
ヒトは大切なものを失って見て,初めてそれが非常に大切だったことを気がつくことが多いのかもしれません。その気づきが人生を生きて行く過程で得るヒトの「学習」というものでしょう。
あるヒトの人生で今までいかに多くのことを失ってきて,そして失ったものの中で人生にとって何が大切なのかをよく知っている(気づいている),そんなヒトが話す言葉に重みを私は感じます。
反対に私が一番聞いて寂しいと感じるのは,多くのモノを失っていながら,その大切さに気がついていないヒトの話を聞くときです。そういうヒトの多くは,失った原因は自分にあるのではなく,原因は他人にあると決めつけてしまっていることが多いのです。
対語シリーズ「上と下」に続く。
冬過ぎて春し来れば年月は新たなれども人は古りゆく(10-1884)
<ふゆすぎてはるしきたれば としつきはあらたなれども ひとはふりゆく>
<<冬が過ぎて春が来れば,年月は新しくなるけれど人はその分年をとって行く>>
この短歌,特に解説はいらないと思いますが,一休(室町時代の臨済宗大徳寺派の僧:いわゆる「一休さん」のモデル)が詠んだと伝えられている次の短歌を思い出しますよね。
門松(かどまつ)は冥土(めいど)の旅の一里塚(いちりづか)めでたくもありめでたくもなし
次にこれも結構分かりやすい,同じく「新」と「古」の両方を含んだ詠み人知らず(東歌)を紹介します。
おもしろき野をばな焼きそ古草に新草交り生ひは生ふるがに(14-3452)
<おもしろきのをばなやきそ ふるくさににひくさまじり おひはおふるがに>
<<趣き深いこの野を野焼きしないで欲しい,古草の中から新草が入り交じって生えていて,これからさらに生えようとしているでしょうに>>
最後の「がに」は今でも金沢弁などで「いいがに」⇒「いいように」といった言い方で使われているようです。
奈良の若草山では,毎年1月下旬頃に山焼きが行われています。それによって堅く古い草を焼き,若草山に住んでいる鹿に春の若草を食べやすくしているのではないかと私は思います。
奈良時代には鹿を食用肉としてたべていたようで,野焼きは一種鹿の放牧の一環の作業だったのかも知れませんね。
さて,「新」を使った和歌をみていくと,「新草」の他に「新木(あらき):切り出した直後の木」「新夜(あらたよ):毎夜」「新代・新世(あらたよ):新しい御代」「新桑(にひくは):新しい桑の葉」「新防人(にひさきもり):新たに派遣された防人」「新手枕(にひたまくら):男女の初夜」「新肌(にひはだ):jまだ誰も触れていない肌」「新治(にひはり):開墾したての田など」「新室(にひむろ):新しい家や室」「新喪(にひも):新しい喪の期間」「新嘗(にふなみ):新穀を食すこと」が出てきます。
この中で,気になる「新手枕」を詠んだ詠み人知らずの短歌を紹介します。
若草の新手枕をまきそめて夜をや隔てむ憎くあらなくに(11-2542)
<わかくさのにひたまくらをまきそめて よをやへだてむにくくあらなくに>
<<妻と初めて床を伴にしてから一夜だって別々に寝るものか愛しくてしょうがないのに>>
この短歌から,妻問い婚ではなく,夫婦ともに暮らしている状態が想像されます。妻問いは,万葉時代の慣習だったと思われますが,庶民を中心に夫婦共同生活者もかなりいたのかと私は想像します。
今度は「古」を使った和歌を見て行くことにしましょう。
13-3452の短歌で使われている「古草」の他に「古へ(いにしへ):むかし」「古江(ふるえ):古びた入江」「古枝(ふるえ):年を経た木の枝」「古幹(ふるから):古く枯れた茎」「ふるころも(古衣):古着」「古人(ふるひと):昔の人」「古家(ふるへ):古い家,元の家」「古屋(ふるや):古い家」が出てきます。
この中で,「古衣」を題材に,自分を棄てた元恋人への恨みごとを詠んだ詠み人知らずの短歌を紹介します。
古衣打棄つる人は秋風の立ちくる時に物思ふものぞ(11-2626)
<ふるころもうつつるひとは あきかぜのたちくるときに ものもふものぞ>
<<古着を捨てるように私を棄てたあなたも,冷たい秋風吹きつける頃には物思いに沈むでしょう(わたしの温もりが無くなったことを知って)>>
この作者の本心は「小林よしのり」作マンガ「おぼっちゃまくん」のテレビ版エンディングテーマソングの一つ,Mi-Ke の「む~な気持ちおセンチ」の歌詞に出てくる「♪お願い,ティッシュのように捨てないで♪」ということに近いかもしれませんね。
ヒトは大切なものを失って見て,初めてそれが非常に大切だったことを気がつくことが多いのかもしれません。その気づきが人生を生きて行く過程で得るヒトの「学習」というものでしょう。
あるヒトの人生で今までいかに多くのことを失ってきて,そして失ったものの中で人生にとって何が大切なのかをよく知っている(気づいている),そんなヒトが話す言葉に重みを私は感じます。
反対に私が一番聞いて寂しいと感じるのは,多くのモノを失っていながら,その大切さに気がついていないヒトの話を聞くときです。そういうヒトの多くは,失った原因は自分にあるのではなく,原因は他人にあると決めつけてしまっていることが多いのです。
対語シリーズ「上と下」に続く。
2011年12月4日日曜日
対語シリーズ「浮と沈」‥心の浮き沈みが起きたとき,あなたならどうする?
万葉集には「浮く」と「沈(しづ)く」を詠んだ和歌が40首ほど出てきます。また,「浮く」の別の対語として現代用語「潜る」の意味を持つ「潜(かづ)く」を入れるとさらに25首ほど増えます。
まず「浮」ですが,「浮く」の対象としては,舟,水鳥,花びら,材木,筏(いかだ),木の葉,海藻,水草,自分の心,波など,さまざまなものが万葉集で詠われています。その中で「浮」の用法として「浮寝」という言葉を使った歌が7首ほど出てきます。たとえば,次の短歌です。
我妹子に恋ふれにかあらむ沖に棲む鴨の浮寝の安けくもなし(11-2806)
<わぎもこにこふれにかあらむ おきにすむかものうきねのやすけくもなし>
<<彼女への恋が募っているからか,沖にいる鴨が浮寝をしているように,ふらふらと落ち着かないのです>>
この短歌作者(不詳)は,鴨が水面で寝ている(浮寝している)姿を見て,波が来ると身体が揺れて落ち着いて眠れてはいないだろうと想像し,自分が恋に落ちて心がその状態に近いと言いたいのでしょう。同じく浮寝には次のような用例もあります。
敷栲の枕ゆくくる涙にぞ浮寝をしける恋の繁きに(4-507)
<しきたへのまくらゆくくる なみたにぞうきねをしける こひのしげきに>
<<私の枕の下を流れるほどの涙なのです。そんな涙の川に浮(憂き)寝をしているほど激しく恋しています>>
この短歌の作者は駿河采女と呼ばれる女官で,自分が流した涙で川ができ,そこで浮寝ができるほど多くの涙を流してしまう今の恋は,本当に切なく苦しいものと切々と訴えています。彼女にとって,この「浮寝」はまさに苦しい「憂き寝」なのですね。
さて,「沈む」の対象としては,玉,人の心,人(入水自殺)が出てきます。「潜く」の対象としては,水鳥,海人(漁師)が多く出てきます。「沈む」も恋をモチーフにした詠み人知らずの短歌を紹介します。
近江の海沈く白玉知らずして恋ひせしよりは今こそまされ(11-2445)
<あふみのうみ しづくしらたま しらずして こひせしよりは いまこそまされ>
<<近江の海に沈む白玉を知らずに恋をしていたときより(白玉を知った)今はもっと恋しさが強くなっています>>
この短歌の作者は,白玉を恋人の肌に譬え,始めての妻問いで,妻の肌の美しさ,柔らかさを知ってしまい,さらに想いが増した。そんな気持ちをこの短歌は表現していると私には思えます。
<琵琶湖のカラス貝>
私が小学生の頃,琵琶湖に生息し地元ではカラス貝と呼ぶ大きな二枚貝の貝殻を大津市石山に住んでいた親戚に見せてもらったことがあります。この貝は正式にはメンカラスガイと呼ぶそうですが,貝殻の内側はアコヤガイやアワビと同じで非常に上品で綺麗な輝きを持っています。万葉時代にはこの貝を食用に捕獲していたと思われますが,貝肉や貝柱を取り出すとき,まれに天然真珠が貝の中に入っていたのだと思います。
その天然真珠は白玉として京人(みやこびと)の憧れの宝飾品であり,高く取引されのでしょう。
そのため,白玉が入っているかもしれない貝を目当てに素潜りで漁をする海人(漁師)も職業として存在していたのでしょう。そんなことを彷彿とさせるのが次の短歌です。
底清み沈ける玉を見まく欲り千たびぞ告りし潜きする海人(7-1318)
<そこきよみしづけるたまをみまくほり ちたびぞのりしかづきするあま>
<<清い海底に沈む真珠が見たい。千回も言い続けて海に潜る海人よ>>
「こんどこそは獲ってくるぞ」といって海人は何度も海に潜るのだけれど,天然の白玉はそう簡単には獲れない。実はお目当ての女性を射止めようと何度もアプローチを試みるがうまくいかない自分をそんな海人に譬え嘆いている短歌と私は解釈します。
<精神安定は現実逃避では根本解決にならない?>
これらの歌を見て,「ヒト」は気持ちが大きく浮いたとき,沈んだとき,精神的に不安定になる傾向を昔から持っているのではないかと私は感じます。精神的な安定を維持していくには,浮いた気分や沈んだ気分の状態になったとき,自分をどうコントロールできるかが重要だということになりそうです。
ところが,そのようなコントロールには,精神統一訓練,自己暗示,他との接触を断って気持ちを集中させたり,ひとりで何も考えずに過ごす時間を作ることが一般的対策として考えられますが,私は他人のとの接触,交流,連携,協調,恋愛などを避けずに精神的安定を維持できる方法を見つけるほうが良いではないかと今は考えています。
<精神的に安定しているか自分だけでは分からない?>
自分が精神的に安定しているかは,自分だけでは実は分かりにくいのです。他人と接触する過程で,複数の他人の自分に対する反応から判断する方が正確だと思うからです。
もちろんこの考えに同意しない人は多いかもしれません。他人との接触で精神が不安定になっているのに,その状況を改善せず良くなるはずがないとの異論です。
確かに,精神的に自分を不安定にする他人との接触を断ち,精神的安定を取り戻す治療を施す方が早く安定を取り戻せるかもしれません。しかし,そういう方法で精神的安定を早く取り戻したけれど,復帰した後,またすぐに元の不安定状況に戻ってしまう人を私はたくさん見てきました。他人との接触,交流,連携,協調,恋愛などを行っているメリットをもっと冷静にとらえるようにすべきだと思います。
<女性は柔軟?>
その点,女性の方が対応が男性より上手なような気がします。女性週刊誌などのキャッチコピーや女性向けソングの歌詞では「恋をする女性は美しい」「超キツイ仕事だけれど彼女は輝いている」「貴女は涙の数だけ強くなれる」といったコピーを見ると,その状況から逃げずに前向きに対応できる心の持ち方ができるのは女性の方が上手なのではないかと私は思っています。また,広島出身の女性レゲエシンガーソングライターMetisが若者に対し,気持ちが沈んでいる時,浮かれすぎている時,自分,家族,友達,恋人など「ヒト」を大切に!というメッセージ性の高いソングスを次々とリリースしています。インターネットを見ている限り,やはり女性のほうが比較的素直に受け入れているように私は感じます。
対語シリーズ「新と古」に続く。
まず「浮」ですが,「浮く」の対象としては,舟,水鳥,花びら,材木,筏(いかだ),木の葉,海藻,水草,自分の心,波など,さまざまなものが万葉集で詠われています。その中で「浮」の用法として「浮寝」という言葉を使った歌が7首ほど出てきます。たとえば,次の短歌です。
我妹子に恋ふれにかあらむ沖に棲む鴨の浮寝の安けくもなし(11-2806)
<わぎもこにこふれにかあらむ おきにすむかものうきねのやすけくもなし>
<<彼女への恋が募っているからか,沖にいる鴨が浮寝をしているように,ふらふらと落ち着かないのです>>
この短歌作者(不詳)は,鴨が水面で寝ている(浮寝している)姿を見て,波が来ると身体が揺れて落ち着いて眠れてはいないだろうと想像し,自分が恋に落ちて心がその状態に近いと言いたいのでしょう。同じく浮寝には次のような用例もあります。
敷栲の枕ゆくくる涙にぞ浮寝をしける恋の繁きに(4-507)
<しきたへのまくらゆくくる なみたにぞうきねをしける こひのしげきに>
<<私の枕の下を流れるほどの涙なのです。そんな涙の川に浮(憂き)寝をしているほど激しく恋しています>>
この短歌の作者は駿河采女と呼ばれる女官で,自分が流した涙で川ができ,そこで浮寝ができるほど多くの涙を流してしまう今の恋は,本当に切なく苦しいものと切々と訴えています。彼女にとって,この「浮寝」はまさに苦しい「憂き寝」なのですね。
さて,「沈む」の対象としては,玉,人の心,人(入水自殺)が出てきます。「潜く」の対象としては,水鳥,海人(漁師)が多く出てきます。「沈む」も恋をモチーフにした詠み人知らずの短歌を紹介します。
近江の海沈く白玉知らずして恋ひせしよりは今こそまされ(11-2445)
<あふみのうみ しづくしらたま しらずして こひせしよりは いまこそまされ>
<<近江の海に沈む白玉を知らずに恋をしていたときより(白玉を知った)今はもっと恋しさが強くなっています>>
この短歌の作者は,白玉を恋人の肌に譬え,始めての妻問いで,妻の肌の美しさ,柔らかさを知ってしまい,さらに想いが増した。そんな気持ちをこの短歌は表現していると私には思えます。
<琵琶湖のカラス貝>
私が小学生の頃,琵琶湖に生息し地元ではカラス貝と呼ぶ大きな二枚貝の貝殻を大津市石山に住んでいた親戚に見せてもらったことがあります。この貝は正式にはメンカラスガイと呼ぶそうですが,貝殻の内側はアコヤガイやアワビと同じで非常に上品で綺麗な輝きを持っています。万葉時代にはこの貝を食用に捕獲していたと思われますが,貝肉や貝柱を取り出すとき,まれに天然真珠が貝の中に入っていたのだと思います。
その天然真珠は白玉として京人(みやこびと)の憧れの宝飾品であり,高く取引されのでしょう。
そのため,白玉が入っているかもしれない貝を目当てに素潜りで漁をする海人(漁師)も職業として存在していたのでしょう。そんなことを彷彿とさせるのが次の短歌です。
底清み沈ける玉を見まく欲り千たびぞ告りし潜きする海人(7-1318)
<そこきよみしづけるたまをみまくほり ちたびぞのりしかづきするあま>
<<清い海底に沈む真珠が見たい。千回も言い続けて海に潜る海人よ>>
「こんどこそは獲ってくるぞ」といって海人は何度も海に潜るのだけれど,天然の白玉はそう簡単には獲れない。実はお目当ての女性を射止めようと何度もアプローチを試みるがうまくいかない自分をそんな海人に譬え嘆いている短歌と私は解釈します。
<精神安定は現実逃避では根本解決にならない?>
これらの歌を見て,「ヒト」は気持ちが大きく浮いたとき,沈んだとき,精神的に不安定になる傾向を昔から持っているのではないかと私は感じます。精神的な安定を維持していくには,浮いた気分や沈んだ気分の状態になったとき,自分をどうコントロールできるかが重要だということになりそうです。
ところが,そのようなコントロールには,精神統一訓練,自己暗示,他との接触を断って気持ちを集中させたり,ひとりで何も考えずに過ごす時間を作ることが一般的対策として考えられますが,私は他人のとの接触,交流,連携,協調,恋愛などを避けずに精神的安定を維持できる方法を見つけるほうが良いではないかと今は考えています。
<精神的に安定しているか自分だけでは分からない?>
自分が精神的に安定しているかは,自分だけでは実は分かりにくいのです。他人と接触する過程で,複数の他人の自分に対する反応から判断する方が正確だと思うからです。
もちろんこの考えに同意しない人は多いかもしれません。他人との接触で精神が不安定になっているのに,その状況を改善せず良くなるはずがないとの異論です。
確かに,精神的に自分を不安定にする他人との接触を断ち,精神的安定を取り戻す治療を施す方が早く安定を取り戻せるかもしれません。しかし,そういう方法で精神的安定を早く取り戻したけれど,復帰した後,またすぐに元の不安定状況に戻ってしまう人を私はたくさん見てきました。他人との接触,交流,連携,協調,恋愛などを行っているメリットをもっと冷静にとらえるようにすべきだと思います。
<女性は柔軟?>
その点,女性の方が対応が男性より上手なような気がします。女性週刊誌などのキャッチコピーや女性向けソングの歌詞では「恋をする女性は美しい」「超キツイ仕事だけれど彼女は輝いている」「貴女は涙の数だけ強くなれる」といったコピーを見ると,その状況から逃げずに前向きに対応できる心の持ち方ができるのは女性の方が上手なのではないかと私は思っています。また,広島出身の女性レゲエシンガーソングライターMetisが若者に対し,気持ちが沈んでいる時,浮かれすぎている時,自分,家族,友達,恋人など「ヒト」を大切に!というメッセージ性の高いソングスを次々とリリースしています。インターネットを見ている限り,やはり女性のほうが比較的素直に受け入れているように私は感じます。
対語シリーズ「新と古」に続く。
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