我が家のネコ達は部屋のドアや網戸を開けて出ていくことができますが,「閉める」ことはしてくれません。開けた後,丁寧に閉めてから行くことができたら,「礼儀正しいネコ」としてテレビに出られるかもしれませんね。
さて,今回は万葉集に出てくる「開」と「閉」について見て行きましょう。まず,「開」の漢字を当てる言葉として万葉集では「開(ひら)く」「開(あ)ける」の両方が出てきます。
言繁み君は来まさず霍公鳥汝れだに来鳴け朝戸開かむ(8-1499)
<ことしげみきみはきまさず ほととぎすなれだにきなけ あさとひらかむ>
<<噂が立ったので,愛する人は来てくれません。ホトトギスよ,おまえだけでも来て鳴いておくれ。朝の扉を開いておきましょう>>
「開(ひら)く」を使ったこの短歌は,大伴旅人と筑紫歌壇を形成した一人大伴四綱(よつな)が女性の立場で詠んだものです。本当は霍公鳥ではなく,「愛する君が来てくれるかも知れないから戸を開いておきたい」という本心を歌の中で見え隠れさせる高等な表現力の歌だと私は思います。
朝戸開けて物思ふ時に白露の置ける秋萩見えつつもとな(8-1579)
<あさとあけてものもふときに しらつゆのおけるあきはぎ みえつつもとな>
<<朝戸を開けて物思いにふけっている時に、白露の乗った秋萩が訳も無く目に入ってきます>>
「開(あ)く」を使ったこの短歌は,天平10年(738年)に橘諸兄宅で開かれた宴席で出席者のひとりである文忌寸馬養(ふみのいみきうまかひ)が詠ったとされているものです。秋の朝,家の戸を開けると少し冷っとした朝だったのでしょうか。作者は朝から何かを考えていたのですが,きらきらと光る朝露に彩られた秋萩がどうしても目に入り,その様子が作者の考え事に強く影響したという意味だと私は思います。宴席でこの歌を聞いた参加者は一往に「貴殿はどんな考え事をされていたのか?」という質問が出たのでしょう。
その答えは,この短歌の次に出てくる歌(8-1580)で分かります。歌の紹介はしませんが,当然,恋人のことです。
こう見てくると戸を「開(ひら)く」と「開(あ)く」のニュアンスの違いがわかるような気がします。「ひらく」は来てもらうのを待って広く戸を開けることを示し,「あく」は必要最小限のみ開けるという違いを感じます。
さて,「開」の対語「閉」の漢字を当てる言葉で万葉集に出てくるのは「閉(さ)す」だけです。
門立てて戸も閉したるをいづくゆか妹が入り来て夢に見えつる(12-3117)
<かどたてて ともさしてあるをいづくゆか いもがいりき いめにみえつる>
<<門を作り,その戸も鍵を掛け閉めておいたのにいったいどこからあなたは入ってきて私の夢に姿を見せたのですか>>
恋しい女性と逢いたい,逢いたい。その気持ち抑えようとする(戸をしっかり閉めるように)が,でもその女性が夢に出てくるのを防ぎようがない。そんな気持ちがこの短歌から私に強く伝わってきます。
万葉集に現れるこの「戸を閉(さ)す」から「戸閉(さ)す」,そして「閉(と)ざす」となったのでしょう。でも,心の扉は閉ざすことなく,常に開けておきたいものです。
対語シリーズ「直と曲(隈)」に続く。
2011年8月28日日曜日
2011年8月20日土曜日
対語シリーズ「強と弱」 ‥女性は弱し?
「音楽の強弱記号」「今年のパリーグは2強4弱だ」「自然界は弱肉強食」「強きを挫き弱きを助ける」など,「強い」「弱い」が対比されることがあります。
万葉集で「強」と「弱」の漢字を当てる言葉はどのように使われているか見てみましょう。
まず「強」ですが,万葉集では「強(つよ)い」の文語形の「強し」という言葉は出てきません。「強し」は平安時代以降使われだしたようです。「強」の漢字を当てる言葉としては「強制する」という言葉の文語形「強(し)ふ」が万葉集に出てきます。
橡の袷の衣裏にせば我れ強ひめやも君が来まさぬ(12-2965)
<つるはみの あはせのころもうらにせば われしひめやもきみがきまさぬ>
<<橡(クヌギ)染めの袷(あわせ)の衣(ころも)を裏にするようなことをされるなら,私はあなたに無理に来て逢ってくださいとは申しません>>
裏地を表に出すということは,自分への恋心は本心ではないという態度を指すのだろうと思います。それを露骨に見せられた作者(女性)は「逢いに来てほしい」と強く言う気持ちになれなくなったのでしょう。
でも,本当はもっと自分の方を向いてほしいという作者の強い気持ちの存在が,この短歌から私には伝わってきます。女性の心理は複雑ですね。
次に「弱」ですが,「弱い」の文語形の「弱し」を使った万葉集の和歌があります。たとえば次のものです。
玉の緒を片緒に縒りて緒を弱み乱るる時に恋ひずあらめやも(12-3081)
<たまのををかたをによりてををよわみ みだるるときにこひずあらめやも>
<<玉を貫く紐をより合わすとき,片糸だけなら弱い紐となるように,片思いのあなたを心乱れずに恋することができるでしょうか>>
これも詠み人しらずの短歌です。片思いの切ない気持(気弱な気持ち)が伝わってきます。
また,慣用的な使い方として「手弱し(たよわし)」という言葉を使った和歌の例もあります。
岩戸破る手力もがも手弱き女にしあればすべの知らなく(3-419)
<いはとわるたぢからもがも たよわきをみなにしあれば すべのしらなく>
<<岩戸を打ち破る手の力があればよいのに。私はか弱い女なのでどうしてよいか分からないのです>>
この短歌は平城京遷都より前の持統天皇の世,河内王(かふちのおほきみ)が九州北部(福岡県)の鏡の山に葬られたとき,手持女王(たもちのおほきみ)が詠んだ挽歌3首の1首です。
墓は岩戸で塞がれています。それをこじ開けて河内王の遺体を出して生き返らせる力が,か弱い女の私にはなく,どうしていいか分からないという葬送の短歌です。
ただ,「手弱し」の対語である「手強し」(現代では「手強い」という)は万葉集に出てきません。「強(ごは)し」の用例が平安時代にならないと出てこないようで「手強い」は後から出てきた言葉と想像できます。なぜ今後から出てきた「手強い」は残り,万葉時代からあった「手弱い」は使われなくなったのか興味があります。
最後に万葉集で9首ほどの和歌に出てくる「手弱女(たわやめ)」について書きます。
「手弱」という漢字は当て字という説もありますが,万葉仮名として「手弱女」と記されている歌もあります。いずれにしても「弱し」という意味は備わっているのでしょう。
~ 獣じもの 膝折り伏して 手弱女の 襲取り懸け かくだにも 我れは祈ひなむ 君に逢はじかも(3-379)
<~ ししじもの ひざをりふして たわやめの おすひとりかけ かくだにも あれはこひなむ きみにあはじかも>
<<~ 鹿のように膝を曲げ,か弱い女の衣を羽織り,せめてこのように私はお祈りいたします。あなたに逢えるかも知れないから>>
この長歌は坂上郎女が神事で詠んだものとされています。この長歌の「手弱女」の万葉仮名も「手弱女」です。「か弱い」ことが神を加護を受ける助けになると考えているのかもしれません。
「手弱女」は万葉時代女性は強い手の力(腕力)を出せないという一般的な認識があったことを表している言葉だと私は考えます。
ただ,今は女性は必ずしも「手弱」ではないこともあるようです。先日,夕食の準備中に私がつまみ食いをしようとして伸ばした手に妻がピシャッとしたときの腫れがなかなか治りません。
対語シリーズ「開と閉」に続く。
万葉集で「強」と「弱」の漢字を当てる言葉はどのように使われているか見てみましょう。
まず「強」ですが,万葉集では「強(つよ)い」の文語形の「強し」という言葉は出てきません。「強し」は平安時代以降使われだしたようです。「強」の漢字を当てる言葉としては「強制する」という言葉の文語形「強(し)ふ」が万葉集に出てきます。
橡の袷の衣裏にせば我れ強ひめやも君が来まさぬ(12-2965)
<つるはみの あはせのころもうらにせば われしひめやもきみがきまさぬ>
<<橡(クヌギ)染めの袷(あわせ)の衣(ころも)を裏にするようなことをされるなら,私はあなたに無理に来て逢ってくださいとは申しません>>
裏地を表に出すということは,自分への恋心は本心ではないという態度を指すのだろうと思います。それを露骨に見せられた作者(女性)は「逢いに来てほしい」と強く言う気持ちになれなくなったのでしょう。
でも,本当はもっと自分の方を向いてほしいという作者の強い気持ちの存在が,この短歌から私には伝わってきます。女性の心理は複雑ですね。
次に「弱」ですが,「弱い」の文語形の「弱し」を使った万葉集の和歌があります。たとえば次のものです。
玉の緒を片緒に縒りて緒を弱み乱るる時に恋ひずあらめやも(12-3081)
<たまのををかたをによりてををよわみ みだるるときにこひずあらめやも>
<<玉を貫く紐をより合わすとき,片糸だけなら弱い紐となるように,片思いのあなたを心乱れずに恋することができるでしょうか>>
これも詠み人しらずの短歌です。片思いの切ない気持(気弱な気持ち)が伝わってきます。
また,慣用的な使い方として「手弱し(たよわし)」という言葉を使った和歌の例もあります。
岩戸破る手力もがも手弱き女にしあればすべの知らなく(3-419)
<いはとわるたぢからもがも たよわきをみなにしあれば すべのしらなく>
<<岩戸を打ち破る手の力があればよいのに。私はか弱い女なのでどうしてよいか分からないのです>>
この短歌は平城京遷都より前の持統天皇の世,河内王(かふちのおほきみ)が九州北部(福岡県)の鏡の山に葬られたとき,手持女王(たもちのおほきみ)が詠んだ挽歌3首の1首です。
墓は岩戸で塞がれています。それをこじ開けて河内王の遺体を出して生き返らせる力が,か弱い女の私にはなく,どうしていいか分からないという葬送の短歌です。
ただ,「手弱し」の対語である「手強し」(現代では「手強い」という)は万葉集に出てきません。「強(ごは)し」の用例が平安時代にならないと出てこないようで「手強い」は後から出てきた言葉と想像できます。なぜ今後から出てきた「手強い」は残り,万葉時代からあった「手弱い」は使われなくなったのか興味があります。
最後に万葉集で9首ほどの和歌に出てくる「手弱女(たわやめ)」について書きます。
「手弱」という漢字は当て字という説もありますが,万葉仮名として「手弱女」と記されている歌もあります。いずれにしても「弱し」という意味は備わっているのでしょう。
~ 獣じもの 膝折り伏して 手弱女の 襲取り懸け かくだにも 我れは祈ひなむ 君に逢はじかも(3-379)
<~ ししじもの ひざをりふして たわやめの おすひとりかけ かくだにも あれはこひなむ きみにあはじかも>
<<~ 鹿のように膝を曲げ,か弱い女の衣を羽織り,せめてこのように私はお祈りいたします。あなたに逢えるかも知れないから>>
この長歌は坂上郎女が神事で詠んだものとされています。この長歌の「手弱女」の万葉仮名も「手弱女」です。「か弱い」ことが神を加護を受ける助けになると考えているのかもしれません。
「手弱女」は万葉時代女性は強い手の力(腕力)を出せないという一般的な認識があったことを表している言葉だと私は考えます。
ただ,今は女性は必ずしも「手弱」ではないこともあるようです。先日,夕食の準備中に私がつまみ食いをしようとして伸ばした手に妻がピシャッとしたときの腫れがなかなか治りません。
対語シリーズ「開と閉」に続く。
2011年8月15日月曜日
対語シリーズ「東と西」 ‥東は角,西は金
<最近の出来事>
先日,気が置けない(気心が知れた)友人と東京現代美術館で「フレデリック.バック展」を見に行きました。フレデリック.バックはフランス生まれでカナダに移住し,モントリオールの放送局で活躍したイラストレータです。
展示のメインは1988年アカデミー賞短編アニメーション部門受賞作品「木を植えた男」の上映です。羊飼いの男がたった一人で荒れ果てた砂漠にドングリの実を植え続け,ついには素晴らしい潤いのある森にしていく。その地に住む砂漠のように荒れ果てていた人達の人心も潤いを取り戻すというストーリです。
途中途中の心理描写がアニメーションならではの強調性によって,私たち二人の心に強く入ってきました。
私はその作品で羊飼いの男が一粒ずつドングリを穴に埋めている姿を見て,大伴家持が和歌を1首ずつ万葉仮名でひたすら記録に残していく姿とオーパラップしてしまいました。
<大伴家持の功績‥それは「やまと言葉」を残す事>
奈良時代,和歌(ほとんどが口承)を記録に残すことに対して価値を感じる人は少なかったのではないかと私は考えます。
当時は日本の西方から中国文化が押し寄せ,漢文を読む,漢詩を詠むことが流行の最先端だったのです。したがって,和歌は古臭いもの,過去のもの,お年寄りのものという印象が持たれる中,大伴家持は誰に褒められることも無く,和歌を記録し続けたのでしょう。
父旅人や憶良の影響もあったかも知れませんが,家持はやまと言葉の美しさを残す必要性をひとり感じていたのだろうと私は想像します。
家持の地道な和歌の記録によって万葉集ができ,平安時代になって和歌の復興は叶いました。しかし,歌人家持の評価は家持没後100年以上後の古今和歌集では認められず,200年以上後の藤原公任(ふじわらのきんとう)による三十六歌仙に選ばれたあたりからとなります。
洋の東西を問わず,周りの評価に惑わされずに継続したたった一人の努力の結晶が後世になって評価されることが多いのも事実かも知れません。
<「東」と「西」>
さて,万葉集では「東」を詠んだ和歌が26首ほど出てきますが,「西」を詠んだ和歌は4首だけです。
少ない「西」から見て行くと,「西の山辺」「西の市」「西の馬屋」として「西」が使われています。
「東」は「東の野」「東人(あづまと)」「東の滝」「東の御門」「東の市」「東の国」「東女(あづまをなみ)」「東風(こち・あゆ)」「東の坂」「東の馬屋」「東路(あづまぢ)」「東男(あづまをとこ)」などが詠まれています。
「西の市」と「東の市」の短歌をそれぞれ見て行きましょう。
西の市にただ独り出でて目並べず買ひてし絹の商じこりかも(7-1264)
<にしのいちにただひとりいでて めならべずかひてしきぬの あきじこりかも>
<<西の市にたった独りで出かけて、いろいろ見比べもせずに買ってしまった絹は買い損ないだな>>
東の市の植木の木垂るまで逢はず久しみうべ恋ひにけり(3-310)
<ひむがしのいちのうゑきのこだるまで あはずひさしみうべこひにけり>
<<東の市の並木の枝が成長して垂れ下がるまで、ずっとあなたに逢うことができずにいたのだから、恋しく思うのもあたりまえですよ>>
平城京の東西にそれぞれ市があり,各地の物産が集まり,買い物をする京人で賑わっていたそうです。
「西の市」の短歌は,衝動買いをして,質の良くない絹の布を買ってしまったというものです。一人で行くと店の勧めに乗ってしまい買ってしまう。連れだって行くのが賢明だと言いたいのでしょうか。
「東の市」の短歌は,門部王(かどべのおほきみ)という人が詠んだとされるものです。東の市の街路樹が芽吹き始めた頃一度逢ったけれど,なかなか逢えないでいるので恋しい気持ちはさらに強くなっていくという嘆きの歌でしょうか。
この2首だけの感想ですが,「東の市」は「西の市」に比べ,おしゃれで男女の出会いの場だったのかも知れませんね。
それに対して「西の市」はおしゃれさは劣るけれど,安い品物が豊富にあったようにも思います。
今度は同じ長歌の中に「西の馬屋」と「東の馬屋」が出てくる歌がありますので紹介します。
百小竹の三野の王 西の馬屋に立てて飼ふ駒 東の馬屋に立てて飼ふ駒 草こそば取りて飼ふと言へ 水こそば汲みて飼ふと言へ 何しかも葦毛の馬のいなき立てつる(13-3327)
<ももしののみののおほきみ にしのうまやにたててかふこま ひむがしのうまやにたててかふこま くさこそばとりてかふといへ みづこそばくみてかふといへ なにしかもあしげのうまのいなきたてつる>
<<美努王(みののおほきみ)が 西の厩に飼っている馬も 東の厩に飼っている馬も 草を取って飼うというのに 水を汲んで飼うというのに どうして芦毛の馬がいなないているのだろうか>>
この長歌は,美努王が亡くなったことを弔う挽歌ですが,「西の馬屋」の万葉仮名は「金厩」,「東の馬屋」の万葉仮名は「角厩」です。
「金」を「西」と読ませるのは五行(中国古来の自然哲学:木,火,土,金,水の5要素)において,「五方(五つの方角)」との対応付けでは「木」が「東」,「火」が「南」,「土」が「中央」,「金」が「西」,「水」が「北」を表すため,「金」は「西」を意味するからとのことです。
また,「角」を「東」と読ませるのは,同じく五行において,五音(五つの音階)との対応付けでは,「木」が「角(かく)」,「火」が「徴(ち)」,「土」が「宮(きゅう)」,「金」が「商(しょう)」,「水」が「羽(う)」を表すため,「角」は「木」となり,さらに五行と五方との対応で「木」は「東」を意味するからのことです。
まさに三段論法のような読ませ方ですね。「角」ならば「木」,「木」ならば「東」,よって「角」ならば「東」というように。
この和歌を万葉仮名で記録した人は自分が中国の自然哲学に如何に詳しいか(知識人であるか)を示したかったのかも知れませんね。
美努王が亡くなったのは,家持が生まれる数年も前のこと。万葉仮名で記録したのは家持自身ではなく,もっと以前の人だったと私は思います。
対語シリーズ「強と弱」に続く。
先日,気が置けない(気心が知れた)友人と東京現代美術館で「フレデリック.バック展」を見に行きました。フレデリック.バックはフランス生まれでカナダに移住し,モントリオールの放送局で活躍したイラストレータです。
展示のメインは1988年アカデミー賞短編アニメーション部門受賞作品「木を植えた男」の上映です。羊飼いの男がたった一人で荒れ果てた砂漠にドングリの実を植え続け,ついには素晴らしい潤いのある森にしていく。その地に住む砂漠のように荒れ果てていた人達の人心も潤いを取り戻すというストーリです。
途中途中の心理描写がアニメーションならではの強調性によって,私たち二人の心に強く入ってきました。
私はその作品で羊飼いの男が一粒ずつドングリを穴に埋めている姿を見て,大伴家持が和歌を1首ずつ万葉仮名でひたすら記録に残していく姿とオーパラップしてしまいました。
<大伴家持の功績‥それは「やまと言葉」を残す事>
奈良時代,和歌(ほとんどが口承)を記録に残すことに対して価値を感じる人は少なかったのではないかと私は考えます。
当時は日本の西方から中国文化が押し寄せ,漢文を読む,漢詩を詠むことが流行の最先端だったのです。したがって,和歌は古臭いもの,過去のもの,お年寄りのものという印象が持たれる中,大伴家持は誰に褒められることも無く,和歌を記録し続けたのでしょう。
父旅人や憶良の影響もあったかも知れませんが,家持はやまと言葉の美しさを残す必要性をひとり感じていたのだろうと私は想像します。
家持の地道な和歌の記録によって万葉集ができ,平安時代になって和歌の復興は叶いました。しかし,歌人家持の評価は家持没後100年以上後の古今和歌集では認められず,200年以上後の藤原公任(ふじわらのきんとう)による三十六歌仙に選ばれたあたりからとなります。
洋の東西を問わず,周りの評価に惑わされずに継続したたった一人の努力の結晶が後世になって評価されることが多いのも事実かも知れません。
<「東」と「西」>
さて,万葉集では「東」を詠んだ和歌が26首ほど出てきますが,「西」を詠んだ和歌は4首だけです。
少ない「西」から見て行くと,「西の山辺」「西の市」「西の馬屋」として「西」が使われています。
「東」は「東の野」「東人(あづまと)」「東の滝」「東の御門」「東の市」「東の国」「東女(あづまをなみ)」「東風(こち・あゆ)」「東の坂」「東の馬屋」「東路(あづまぢ)」「東男(あづまをとこ)」などが詠まれています。
「西の市」と「東の市」の短歌をそれぞれ見て行きましょう。
西の市にただ独り出でて目並べず買ひてし絹の商じこりかも(7-1264)
<にしのいちにただひとりいでて めならべずかひてしきぬの あきじこりかも>
<<西の市にたった独りで出かけて、いろいろ見比べもせずに買ってしまった絹は買い損ないだな>>
東の市の植木の木垂るまで逢はず久しみうべ恋ひにけり(3-310)
<ひむがしのいちのうゑきのこだるまで あはずひさしみうべこひにけり>
<<東の市の並木の枝が成長して垂れ下がるまで、ずっとあなたに逢うことができずにいたのだから、恋しく思うのもあたりまえですよ>>
平城京の東西にそれぞれ市があり,各地の物産が集まり,買い物をする京人で賑わっていたそうです。
「西の市」の短歌は,衝動買いをして,質の良くない絹の布を買ってしまったというものです。一人で行くと店の勧めに乗ってしまい買ってしまう。連れだって行くのが賢明だと言いたいのでしょうか。
「東の市」の短歌は,門部王(かどべのおほきみ)という人が詠んだとされるものです。東の市の街路樹が芽吹き始めた頃一度逢ったけれど,なかなか逢えないでいるので恋しい気持ちはさらに強くなっていくという嘆きの歌でしょうか。
この2首だけの感想ですが,「東の市」は「西の市」に比べ,おしゃれで男女の出会いの場だったのかも知れませんね。
それに対して「西の市」はおしゃれさは劣るけれど,安い品物が豊富にあったようにも思います。
今度は同じ長歌の中に「西の馬屋」と「東の馬屋」が出てくる歌がありますので紹介します。
百小竹の三野の王 西の馬屋に立てて飼ふ駒 東の馬屋に立てて飼ふ駒 草こそば取りて飼ふと言へ 水こそば汲みて飼ふと言へ 何しかも葦毛の馬のいなき立てつる(13-3327)
<ももしののみののおほきみ にしのうまやにたててかふこま ひむがしのうまやにたててかふこま くさこそばとりてかふといへ みづこそばくみてかふといへ なにしかもあしげのうまのいなきたてつる>
<<美努王(みののおほきみ)が 西の厩に飼っている馬も 東の厩に飼っている馬も 草を取って飼うというのに 水を汲んで飼うというのに どうして芦毛の馬がいなないているのだろうか>>
この長歌は,美努王が亡くなったことを弔う挽歌ですが,「西の馬屋」の万葉仮名は「金厩」,「東の馬屋」の万葉仮名は「角厩」です。
「金」を「西」と読ませるのは五行(中国古来の自然哲学:木,火,土,金,水の5要素)において,「五方(五つの方角)」との対応付けでは「木」が「東」,「火」が「南」,「土」が「中央」,「金」が「西」,「水」が「北」を表すため,「金」は「西」を意味するからとのことです。
また,「角」を「東」と読ませるのは,同じく五行において,五音(五つの音階)との対応付けでは,「木」が「角(かく)」,「火」が「徴(ち)」,「土」が「宮(きゅう)」,「金」が「商(しょう)」,「水」が「羽(う)」を表すため,「角」は「木」となり,さらに五行と五方との対応で「木」は「東」を意味するからのことです。
まさに三段論法のような読ませ方ですね。「角」ならば「木」,「木」ならば「東」,よって「角」ならば「東」というように。
この和歌を万葉仮名で記録した人は自分が中国の自然哲学に如何に詳しいか(知識人であるか)を示したかったのかも知れませんね。
美努王が亡くなったのは,家持が生まれる数年も前のこと。万葉仮名で記録したのは家持自身ではなく,もっと以前の人だったと私は思います。
対語シリーズ「強と弱」に続く。
2011年8月13日土曜日
対語シリーズ「苦と楽」 ‥ 苦:楽=5:2
世の中,苦しいときもあれば楽しいときもあります。でも,楽しいときより苦しいときの方が多いと感ずるのは世の常でしょうか。
万葉集では「苦し」を詠んだ和歌が40首余り,「楽し」を詠んだ和歌が16首ほどで,5:2の割合で「苦し」の方が多いのです。
万葉人がどんなことで苦しいと感じたり,楽しいと感じたかを見てみることにしましょう。
まず,何と言っても戦地へ向かう旅路の苦しさは,当時と比べ物にならないくらい平和な現代人にとっても共感できる部分が多いと私は思います。
我が家ろに行かも人もが草枕旅は苦しと告げ遣らまくも(20-4406)
<わがいはろにゆかもひともが くさまくらたびはくるしとつげやらまくも>
<<私の家に行く人がいてくれたら,この旅は苦しいと告げに行ってもらうのに>>
これは大伴部櫛麻呂(おほともべのくしまろ)という上野(かみつけの:今の群馬県)出身の防人(さきもり)が詠んだ短歌です。
万葉集に選ばれた防人歌は,詠み手の素直な気持ちがしっかりと伝わってくるものを選んでいることが分かります。選者は防人たちの苦しさを何とかさまざまな人に伝え,防人政策にブレーキを掛けたいという意図を私は感じます。
また,昔も今も切ない恋も苦しく感じるもののようです。次は恋慕う苦しさと闘う自分を詠んだ短歌です。
常かくし恋ふれば苦ししましくも心休めむ事計りせよ(12-2908)
<つねかくしこふればくるし しましくもこころやすめむ ことはかりせよ>
<<いつもこのように恋は募るほど切なく苦しいの。しばらくの間でもその苦しさを忘れられる計らいをたてたいわ>>
この詠み人しらずのこの短歌は,家で悶々として,苦しそうにしている女性の姿が私には伝わってきます。
それから「孤独感」の苦しさを詠んだ和歌も私たちには理解ができそうです。
都なる荒れたる家にひとり寝ば旅にまさりて苦しかるべし(3-440)
<みやこなるあれたるいへにひとりねば たびにまさりてくるしかるべし>
<<都にある荒れ果てた我が家で一人寝をするなら、今の旅寝よりもっと苦しいだろう>>
これは大伴旅人が神龜5年(天平元年:724)64歳のときに大宰府で詠んだとされる短歌です。
ようやく,近々大宰府の長官の任を解かれ,京に戻ることが決まったのだが,2年前に大宰府で妻を亡くし,誰も待つ人の居ない,荒れ果てた家に一人で住む苦しさは老体には堪える筑紫から奈良に帰る旅路の苦しさの方がまだマシだと詠んでいるのです。
旅人の妻がまだ生きていたときと思われますが,逆に旅人は「楽し」を詠んだ歌をいくつも残しています。
生ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくをあらな(3-349)
<いけるものつひにもしぬるものにあれば このよなるまはたのしくをあらな>
<<生きているものは最後は死ぬのだから,生きている間は楽しまないとね>>
この短歌は旅人が詠んだ酒を誉むる歌13首のひとつです。解釈は酒を愛する人と飲まない人では異なるかもしれません。
私は天の川君ほどたくさん酒は飲みませんが,適量飲んだときのリラックス感からくる楽しさは肯定的に評価しています。
天の川 「たびとはん。ウワバミみたいに言わんといてんか。精々焼酎1本強空けるだけやんか。」
どう見てもウワバミだね。さて,この他,万葉集では春になったこと,梅の花が咲いた,舟遊びをしたことなどで「楽し」を詠った和歌が出てきます。
「楽し」と「苦し」の両方を詠った旅人は,妻の存在で「楽し」を詠えたのかも知れません。天平2年に京に一人で戻った旅人は大納言に昇進したのですが,翌天平3年66歳でこの世を去りました。
私も日頃「風呂,飯,寝る」くらいしか言っていない妻を少しは大切にしなければ。
天の川 「ほんまやな。それからな,僕ももうちょっと大切にしなアカンで!」
...。
対語シリーズ「東と西」に続く。
万葉集では「苦し」を詠んだ和歌が40首余り,「楽し」を詠んだ和歌が16首ほどで,5:2の割合で「苦し」の方が多いのです。
万葉人がどんなことで苦しいと感じたり,楽しいと感じたかを見てみることにしましょう。
まず,何と言っても戦地へ向かう旅路の苦しさは,当時と比べ物にならないくらい平和な現代人にとっても共感できる部分が多いと私は思います。
我が家ろに行かも人もが草枕旅は苦しと告げ遣らまくも(20-4406)
<わがいはろにゆかもひともが くさまくらたびはくるしとつげやらまくも>
<<私の家に行く人がいてくれたら,この旅は苦しいと告げに行ってもらうのに>>
これは大伴部櫛麻呂(おほともべのくしまろ)という上野(かみつけの:今の群馬県)出身の防人(さきもり)が詠んだ短歌です。
万葉集に選ばれた防人歌は,詠み手の素直な気持ちがしっかりと伝わってくるものを選んでいることが分かります。選者は防人たちの苦しさを何とかさまざまな人に伝え,防人政策にブレーキを掛けたいという意図を私は感じます。
また,昔も今も切ない恋も苦しく感じるもののようです。次は恋慕う苦しさと闘う自分を詠んだ短歌です。
常かくし恋ふれば苦ししましくも心休めむ事計りせよ(12-2908)
<つねかくしこふればくるし しましくもこころやすめむ ことはかりせよ>
<<いつもこのように恋は募るほど切なく苦しいの。しばらくの間でもその苦しさを忘れられる計らいをたてたいわ>>
この詠み人しらずのこの短歌は,家で悶々として,苦しそうにしている女性の姿が私には伝わってきます。
それから「孤独感」の苦しさを詠んだ和歌も私たちには理解ができそうです。
都なる荒れたる家にひとり寝ば旅にまさりて苦しかるべし(3-440)
<みやこなるあれたるいへにひとりねば たびにまさりてくるしかるべし>
<<都にある荒れ果てた我が家で一人寝をするなら、今の旅寝よりもっと苦しいだろう>>
これは大伴旅人が神龜5年(天平元年:724)64歳のときに大宰府で詠んだとされる短歌です。
ようやく,近々大宰府の長官の任を解かれ,京に戻ることが決まったのだが,2年前に大宰府で妻を亡くし,誰も待つ人の居ない,荒れ果てた家に一人で住む苦しさは老体には堪える筑紫から奈良に帰る旅路の苦しさの方がまだマシだと詠んでいるのです。
旅人の妻がまだ生きていたときと思われますが,逆に旅人は「楽し」を詠んだ歌をいくつも残しています。
生ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくをあらな(3-349)
<いけるものつひにもしぬるものにあれば このよなるまはたのしくをあらな>
<<生きているものは最後は死ぬのだから,生きている間は楽しまないとね>>
この短歌は旅人が詠んだ酒を誉むる歌13首のひとつです。解釈は酒を愛する人と飲まない人では異なるかもしれません。
私は天の川君ほどたくさん酒は飲みませんが,適量飲んだときのリラックス感からくる楽しさは肯定的に評価しています。
天の川 「たびとはん。ウワバミみたいに言わんといてんか。精々焼酎1本強空けるだけやんか。」
どう見てもウワバミだね。さて,この他,万葉集では春になったこと,梅の花が咲いた,舟遊びをしたことなどで「楽し」を詠った和歌が出てきます。
「楽し」と「苦し」の両方を詠った旅人は,妻の存在で「楽し」を詠えたのかも知れません。天平2年に京に一人で戻った旅人は大納言に昇進したのですが,翌天平3年66歳でこの世を去りました。
私も日頃「風呂,飯,寝る」くらいしか言っていない妻を少しは大切にしなければ。
天の川 「ほんまやな。それからな,僕ももうちょっと大切にしなアカンで!」
...。
対語シリーズ「東と西」に続く。
2011年8月6日土曜日
対語シリーズ「紅と白」 ‥万葉時代から美しい色の代表格
これからしばらく万葉集に出てくる言葉で反対語の例を示し,万葉集での言葉の使い方や万葉人の感じ方を見て行く「対語シリーズ」をお送りします。
なぜ「対語」をとりあげるのか?
人間はいつも望むべき状態とその反対(望まない状態)を常に意識している生き物だと考えています。望むべき状態が続いていてほしいが大概はそれが続かず,望まない状態になってしまうことも少なくない。
いっぽう,望まない状態が続いていると,反対の望むべき状態になることをひたすら願い,そのための努力をする。でも,それはなかなか思うようには行かない。その辛さを表現する手段のひとつとして万葉時代の日本人は和歌を利用したと私は考えます。
また,見た感じが正反対で,特徴が違っていても,両方とも望むべき状態である場合もあります。そのときは,両方を出して望むべき状態を強調することもあります。
本シリーズの最初に取りあげる対語は,現代の言葉として「紅白試合」「紅白まんじゅう」「紅白もち」「紅白幕」「紅白帽」などに出てくる「紅(くれなゐ)」と「白(しろ)」です。
「紅」と「白」は共に比較的良いイメージのことばです。
まず「紅」からですが,万葉集では「紅色」を「くれなゐいろ」という言葉で示し,「べにいろ」という音はなかったようです。
今(8月5日~7日)開催中の山形花笠まつりの花笠は「ベニバナ」をあしらったものと言われていますが,万葉時代は「末摘花(すゑつむはな)」または「くれなゐ」と呼んでいたようです。
外のみに見つつ恋ひなむ紅の末摘花の色に出でずとも(10-1993)
<よそのみにみつつこひなむ くれなゐのすゑつむはなのいろにいでずとも>
<<(逢うこともせず)外からお姿を拝見しながら恋しているだけにしましょう。ベニバナの色ようには顔色に出さないようにして>>
この詠み人知らずの短歌は,まさに自分の「偲ふ恋」の心を素直に表現している良い歌だと私は思います。
なお,「偲ふ」については2010年3月28日から3回に渡ってこのブログに書いていますので,よかったら見てください。
相手にも,周囲にも気付かれないよう恋したうという決意と,しかし相手を見ていると偲ぶ想いと裏腹に顔が赤くなるのを止められないかもしれない。そんな葛藤(偲ふ恋の苦しさ)が私にはストレートに伝わってきます。
さて,反対の「白(しら,しろ)」を見て行くことしましょう。
「白」は単独で使われるよりも次のような修飾語として使われることが万葉集では多いです。
白髪(しらか,しろかみ),白香(しらか),白橿(しらかし),白雲(しらくも),白鷺(しらさぎ),白菅(しらすげ),白玉(しらたま),白躑躅(しらつつじ),白鳥(しらとり),白塗(しらぬり),白浜(しらはま),白髭(しらひげ),白紐(しらひも),白斑(しらふ),白砂(しらまなご),白山(しらやま),白雪(しらゆき),白酒(しろき),白栲(しろたへ)
ただ,「白」単独で使われる場合も少ないですが,あります。
矢形尾の真白の鷹を宿に据ゑ掻き撫で見つつ飼はくしよしも(19-4155)
<やかたをのましろのたかをやどにすゑ かきなでみつつかはくしよしも>
<<矢形の尾の真白な鷹を家に置いて,撫でては眺めつつ飼うことの気分は最高だ>>
この短歌は大伴家持が越中赴任中に鷹狩りの鷹をペットとして自宅で飼って,心癒される気持ちを詠ったものです。
矢の形をした尾が真っ白な珍しい鷹を手に入れ飼い始めたら,本当に可愛くて仕方がない。目を細めて,なでたり,眺めて声をかけたりしている家持の姿が目に浮かびます。
最後に,「紅」と「白」が両方出てくる長歌の一部を紹介します。
~ 春の野に すみれを摘むと 白栲の 袖折り返し 紅の 赤裳裾引き 娘子らは 思ひ乱れて 君待つと うら恋すなり 心ぐし いざ見に行かな ことはたなゆひ(17-3973)
<~ はるののにすみれをつむと しろたへのそでをりかへし くれなゐのあかもすそびき をとめらはおもひみだれて きみまつとうらごひすなり こころぐしいざみにゆかなことはたなゆひ>
<<~ 春の野でスミレを摘もうと白い袖を折り返し,赤い裾を引上げた娘子たちは,心を乱して君(家持君)を待っています。心の中で恋する切ない思いで。さあ,見に行きましょう。そんな気持ちを察して>>
この長歌は,大伴池主が越中で家持に贈ったと伝えられています。
この長歌から,野で花を摘む娘子たちの姿はトップスは「白」で,ボトムズは「紅」だったようですね。まさに神社の巫女さんの装束そのものです。
「紅」と「白」のコントラストが,まさに「日の丸」に代表される日本にとって昔から美しいとされる色彩のひとつだったことは間違いありませんね。
対語シリーズ「苦と楽」に続く。
なぜ「対語」をとりあげるのか?
人間はいつも望むべき状態とその反対(望まない状態)を常に意識している生き物だと考えています。望むべき状態が続いていてほしいが大概はそれが続かず,望まない状態になってしまうことも少なくない。
いっぽう,望まない状態が続いていると,反対の望むべき状態になることをひたすら願い,そのための努力をする。でも,それはなかなか思うようには行かない。その辛さを表現する手段のひとつとして万葉時代の日本人は和歌を利用したと私は考えます。
また,見た感じが正反対で,特徴が違っていても,両方とも望むべき状態である場合もあります。そのときは,両方を出して望むべき状態を強調することもあります。
本シリーズの最初に取りあげる対語は,現代の言葉として「紅白試合」「紅白まんじゅう」「紅白もち」「紅白幕」「紅白帽」などに出てくる「紅(くれなゐ)」と「白(しろ)」です。
「紅」と「白」は共に比較的良いイメージのことばです。
まず「紅」からですが,万葉集では「紅色」を「くれなゐいろ」という言葉で示し,「べにいろ」という音はなかったようです。
今(8月5日~7日)開催中の山形花笠まつりの花笠は「ベニバナ」をあしらったものと言われていますが,万葉時代は「末摘花(すゑつむはな)」または「くれなゐ」と呼んでいたようです。
外のみに見つつ恋ひなむ紅の末摘花の色に出でずとも(10-1993)
<よそのみにみつつこひなむ くれなゐのすゑつむはなのいろにいでずとも>
<<(逢うこともせず)外からお姿を拝見しながら恋しているだけにしましょう。ベニバナの色ようには顔色に出さないようにして>>
この詠み人知らずの短歌は,まさに自分の「偲ふ恋」の心を素直に表現している良い歌だと私は思います。
なお,「偲ふ」については2010年3月28日から3回に渡ってこのブログに書いていますので,よかったら見てください。
相手にも,周囲にも気付かれないよう恋したうという決意と,しかし相手を見ていると偲ぶ想いと裏腹に顔が赤くなるのを止められないかもしれない。そんな葛藤(偲ふ恋の苦しさ)が私にはストレートに伝わってきます。
さて,反対の「白(しら,しろ)」を見て行くことしましょう。
「白」は単独で使われるよりも次のような修飾語として使われることが万葉集では多いです。
白髪(しらか,しろかみ),白香(しらか),白橿(しらかし),白雲(しらくも),白鷺(しらさぎ),白菅(しらすげ),白玉(しらたま),白躑躅(しらつつじ),白鳥(しらとり),白塗(しらぬり),白浜(しらはま),白髭(しらひげ),白紐(しらひも),白斑(しらふ),白砂(しらまなご),白山(しらやま),白雪(しらゆき),白酒(しろき),白栲(しろたへ)
ただ,「白」単独で使われる場合も少ないですが,あります。
矢形尾の真白の鷹を宿に据ゑ掻き撫で見つつ飼はくしよしも(19-4155)
<やかたをのましろのたかをやどにすゑ かきなでみつつかはくしよしも>
<<矢形の尾の真白な鷹を家に置いて,撫でては眺めつつ飼うことの気分は最高だ>>
この短歌は大伴家持が越中赴任中に鷹狩りの鷹をペットとして自宅で飼って,心癒される気持ちを詠ったものです。
矢の形をした尾が真っ白な珍しい鷹を手に入れ飼い始めたら,本当に可愛くて仕方がない。目を細めて,なでたり,眺めて声をかけたりしている家持の姿が目に浮かびます。
最後に,「紅」と「白」が両方出てくる長歌の一部を紹介します。
~ 春の野に すみれを摘むと 白栲の 袖折り返し 紅の 赤裳裾引き 娘子らは 思ひ乱れて 君待つと うら恋すなり 心ぐし いざ見に行かな ことはたなゆひ(17-3973)
<~ はるののにすみれをつむと しろたへのそでをりかへし くれなゐのあかもすそびき をとめらはおもひみだれて きみまつとうらごひすなり こころぐしいざみにゆかなことはたなゆひ>
<<~ 春の野でスミレを摘もうと白い袖を折り返し,赤い裾を引上げた娘子たちは,心を乱して君(家持君)を待っています。心の中で恋する切ない思いで。さあ,見に行きましょう。そんな気持ちを察して>>
この長歌は,大伴池主が越中で家持に贈ったと伝えられています。
この長歌から,野で花を摘む娘子たちの姿はトップスは「白」で,ボトムズは「紅」だったようですね。まさに神社の巫女さんの装束そのものです。
「紅」と「白」のコントラストが,まさに「日の丸」に代表される日本にとって昔から美しいとされる色彩のひとつだったことは間違いありませんね。
対語シリーズ「苦と楽」に続く。
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