万葉集には「遊ぶ」を使った和歌が40首近くもあります。
意味は現代の「遊ぶ」とあまり変わらないように感じます。
庭の梅の花を愛でて,屋外(園遊会)や歓送会や友達が集まる宴席で楽しく過ごす。
山に登ったり,川(渓谷)や海に船を浮かべたり,岸を歩いたりして風景・花・動物・紅葉などを眺めて楽しむ。
自分や相手が楽しんでいる状況やもっと楽しんで(遊んで)ほしい希望を詠んだりしています。
今の世の中はもっといろんな遊びがありますが,今でもこのように楽しんで「遊ぶ」ことに特に違和感はないと私は思います。
山川の清き川瀬に遊べども奈良の都は忘れかねつも(15-3618) 詠み人知らず
<やまがはの きよきかはせに あそべども ならのみやこは わすれかねつも>
<<安芸の国の美しい川瀬で風景を楽しんでも,奈良の都のことを忘れることはできない>>
しなざかる越の君らとかくしこそ柳かづらき楽しく遊ばめ (18-4071) 大伴家持
<しなざかる こしのきみらと かくしこそ やなぎかづらき たのしくあそばめ>
<<越中の人達とこのようにヤナギの枝を頭に着けたらきっと楽しく過ごせるでしょう>>
また,鳥や子どもが遊んでいる姿を詠んでいる和歌もあります。
鴨鳥の遊ぶこの池に木の葉落ちて浮きたる心我が思はなくに (4-711) 丹波大女娘子
<かもどりの あそぶこのいけに このはおちて うきたるこころ わがおもはなくに>
<<鴨が遊んでいるこの池に木の葉が落ちて浮いているような浮ついた気持ちなど私にはありませんよ>>
ただ,万葉集で「遊ぶ」という言葉を使った和歌の作者は,ほとんどが高級官僚,貴族,またはその家族や恋人のようです。
<庶民たちは?>
東歌や防人の歌に出てくるような下級武士,農業,漁業,林業,小規模な商業でくらしている一般の人々には「遊ぶ」という生活の余裕すらなかった可能性があります。
当時は中国の都をまねた立派な京を造営することが天皇や律令制のトップである右大臣,左大臣が自分力を誇示する上で是非とも目指したいところであったと考えられます。
他国から見て国の成長が遅れていて,貧弱な田舎国家には見られ,大陸から攻めて来られるのを防ぐ意味もあったのかもしれません。
結局その附けは,一般の人々に重税を課したり,過重労働の提供を強要することで実現せざるを得なかったのでしょう。
<高級官僚たちは?>
いっぽうの高級官僚や貴族は,経済的に豊かでも心に余裕のある暮らしであるとは言えなかったのだろうと私は思います。
彼等は権力闘争に明け暮れ,密告や策略の罠に引っ掛からないように常に緊張し続けなければならない時代のだろうと私は想像するのです。
そんな中で,ひと時の宴席,花見,旅行の「遊び」は心をいやす良い機会となったのかも知れません。
また,鳥が花の中を優雅に飛びまわったり,水面にゆったり浮いている姿を羨ましく思い,人間の「遊ぶ」に当てはめたのかもしれません。
日ごろの緊張を忘れ「遊ぶ」ことに対して強い思い入れがあったのでしょう。
「遊ぶ」を使った自作の和歌を9首万葉集に載せている大伴家持は特に心を癒すための「遊ぶ」に対するこだわりがかなり強かったのではないかと私は感じるのです。
遊ぶ(2)に続く。
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