万葉集で「待つ」が詠まれている和歌は,恋人との逢瀬や家族の無事な帰りを待つなど,待つ対象が人であることが大半を占めています。
ただ,花,月,秋風,霍公鳥,時,秋萩,岩躑躅(いはつつじ),卯の花,春雨,鳥,紅葉,潮,風,獅子,鷹,夕潮,秋,五月,鶯,雨,夕月など自然の変化を待つ和歌も多くあります。
万葉人が自然の変化を待つ和歌を詠む理由は,待つ対象がやってくることで,楽しみ,良いこと,願いが叶うこなどとが起こる・増える,そして季節の移り変わりを感じたりするからなのでしょう。
時ならず玉をぞ貫ける卯の花の五月を待たば久しくあるべみ(10-1975)
<ときならず たまをぞぬける うのはなの さつきをまたば ひさしくあるべみ>
<<まだその時(五月)ではないけれど薬玉(くすだま)を通す卯の花が咲く五月を待っていれば待ち遠しく感じるなあ>>
万葉時代,五月の節句には橘(たちばな)の実を薬玉として木の枝に刺したり,すでに玄関の飾にしたりして邪気を払う風習(行事)があったのかも知れません。そして,節句のような行事があるとそこに男女の出会いが生まれます。本格的な夏を迎え,綺麗な花もいっぱい咲き,恋の季節が始まります。
この短歌は,きっとそんな季節や行事が待ち遠しくて詠んだ歌だろうと私は思います。
また,自然のものを擬人化して待つ(結局擬人化した元の人を待つ)手法も万葉集では使われています。たとえば,
風をだに恋ふるは羨し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ(4-489,8-1607)
<かぜをだに こふるはともし かぜをだに こむとしまたば なにかなげかむ>
<<あなた(額田王)は風でさえ恋する人が来たと思えるのは羨ましい。風でさえ恋する人が来たかしらと待てるあなたは何を嘆くことがあるのでしょう>>
これは,額田王(ぬかだのおほきみ)の姉であろうという鏡王女(かがみのおほきみ)が詠んだ短歌です。このひとつ前の短歌で額田王が恋する天智天皇がなかなか訪ねて来ず,自家の御簾を動かすのは風ばかりであるという嘆きを次のように詠んでいるのです。
君待つと我が恋ひをれば我が宿の簾動かし秋の風吹く(4-488,8-1606)
それを受けて鏡王女が「風をだに~」の短歌で慰めているのです。風は当然恋する人のことをイメージしています。
すなわち,「風がいつも吹くように(当たり前のように)恋する人がいること自体が羨ましい。私の恋する人(藤原鎌足らしい。669年没)はもういない。当たり前のように恋する人を待つあなたは何をそんなに嘆くことがあるのでしょうか?」と。
<待つ人は持つものが来る前兆に敏感になる?>
何か(誰か)をひたすら待つ人は,額田王のように期待の前兆(例:御簾が動く)を示すちょっとした変化にも敏感になります。待つ人がやってくる前兆として,たとえば「花が咲く」「鳥が鳴く」「風が吹く」「月が出る」などの自然の変化と区別する感性の鋭敏さを呼び起こします。
その結果,花鳥風月を代表する自然の変化を待つ日本の和歌が多く詠まれることになったのではないかと私は思います。
<日本の四季は待つ人を裏切らない?>
日本は四季の移り変わりを始め,自然の変化は非常に多彩です。そのような自然の変化を楽しむことができる日本人の豊かな感性は,すでに万葉集の和歌の随所に表れていると私は感じます。
春霞が棚引く,春風が吹く,土筆(ツクシ)や蓬(ヨモギ)や早蕨(サワラビ)が出てくる,鶯(ウグイス)や雲雀(ヒバリ)が鳴く,桜の蕾(つぼみ)がふくらむなどを感じて春が間近いことを感じつつ,多くの人々は今暖かい春の訪れを待っているのかもしれません。今の私のように。
さて,天の川君も春が待ち遠しいんだよね。
天の川 「ZZZ..」
待つ(4:まとめ)に続く。
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