2010年2月24日水曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…待つ(3) 「人は自然の変化を待つ」

今回は,自然の変化を待つ万葉集の和歌についてです。
万葉集で「待つ」が詠まれている和歌は,恋人との逢瀬や家族の無事な帰りを待つなど,待つ対象が人であることが大半を占めています。
ただ,花,月,秋風,霍公鳥,時,秋萩,岩躑躅(いはつつじ),卯の花,春雨,鳥,紅葉,潮,風,獅子,鷹,夕潮,秋,五月,鶯,雨,夕月など自然の変化を待つ和歌も多くあります。
万葉人が自然の変化を待つ和歌を詠む理由は,待つ対象がやってくることで,楽しみ,良いこと,願いが叶うこなどとが起こる・増える,そして季節の移り変わりを感じたりするからなのでしょう。

時ならず玉をぞ貫ける卯の花の五月を待たば久しくあるべみ(10-1975)
ときならず たまをぞぬける うのはなの さつきをまたば ひさしくあるべみ
<<まだその時(五月)ではないけれど薬玉(くすだま)を通す卯の花が咲く五月を待っていれば待ち遠しく感じるなあ>>

万葉時代,五月の節句には(たちばな)の実を薬玉として木の枝に刺したり,すでに玄関の飾にしたりして邪気を払う風習(行事)があったのかも知れません。そして,節句のような行事があるとそこに男女の出会いが生まれます。本格的な夏を迎え,綺麗な花もいっぱい咲き,恋の季節が始まります。
この短歌は,きっとそんな季節や行事が待ち遠しくて詠んだ歌だろうと私は思います。

また,自然のものを擬人化して待つ(結局擬人化した元の人を待つ)手法も万葉集では使われています。たとえば,

風をだに恋ふるは羨し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ(4-489,8-1607)
かぜをだに こふるはともし かぜをだに こむとしまたば なにかなげかむ
<<あなた(額田王)は風でさえ恋する人が来たと思えるのは羨ましい。風でさえ恋する人が来たかしらと待てるあなたは何を嘆くことがあるのでしょう>>

これは,額田王(ぬかだのおほきみ)の姉であろうという鏡王女(かがみのおほきみ)が詠んだ短歌です。このひとつ前の短歌で額田王が恋する天智天皇がなかなか訪ねて来ず,自家の御簾を動かすのは風ばかりであるという嘆きを次のように詠んでいるのです。

君待つと我が恋ひをれば我が宿の簾動かし秋の風吹く(4-488,8-1606)

それを受けて鏡王女が「風をだに~」の短歌で慰めているのです。風は当然恋する人のことをイメージしています。
すなわち,「風がいつも吹くように(当たり前のように)恋する人がいること自体が羨ましい。私の恋する人(藤原鎌足らしい。669年没)はもういない。当たり前のように恋する人を待つあなたは何をそんなに嘆くことがあるのでしょうか?」と。
<待つ人は持つものが来る前兆に敏感になる?>
何か(誰か)をひたすら待つ人は,額田王のように期待の前兆(例:御簾が動く)を示すちょっとした変化にも敏感になります。待つ人がやってくる前兆として,たとえば「花が咲く」「鳥が鳴く」「風が吹く」「月が出る」などの自然の変化と区別する感性の鋭敏さを呼び起こします。
その結果,花鳥風月を代表する自然の変化を待つ日本の和歌が多く詠まれることになったのではないかと私は思います。
<日本の四季は待つ人を裏切らない?>
日本は四季の移り変わりを始め,自然の変化は非常に多彩です。そのような自然の変化を楽しむことができる日本人の豊かな感性は,すでに万葉集の和歌の随所に表れていると私は感じます。
春霞が棚引く,春風が吹く,土筆(ツクシ)や蓬(ヨモギ)や早蕨(サワラビ)が出てくる,鶯(ウグイス)や雲雀(ヒバリ)が鳴く,桜の蕾(つぼみ)がふくらむなどを感じて春が間近いことを感じつつ,多くの人々は今暖かい春の訪れを待っているのかもしれません。今の私のように。
さて,天の川君も春が待ち遠しいんだよね。

天の川 「ZZZ..」

待つ(4:まとめ)に続く。

2010年2月15日月曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…待つ(2) 「待つと松」

今回は,「待つ」と「松」のかかわりについて少し触れてみたいと思います。
最愛の恋人との逢瀬,家族や友人の帰りを待つ行為など,その前段階では何らかの別れがあることが多いのではないでしょうか。
たとえば,恋人とのデートが終り別れた後次のデートまで待つ,遠くへ旅立った(旅立ちの別れをした)家族,友人,恩人の帰りを待つ,朝出勤の別れをした夫の帰りを待つ(※)などです。
     ※これは新婚のあいだだけかも?

万葉集でも上官の旅立ちに贈った次のような短歌があります。

立ち別れ君がいまさば磯城島の人は我れじく斎ひて待たむ(19-4280)
たちわかれきみがいまさば しきしまのひとはわれじく いはひてまたむ
<<別れてお行きになる貴方様が出発された後,大和の人はみな私のように貴方様のご無事を祈ってお帰りをお待ちしているでしょう>>

いっぽうの松ですが,松の生えている場所は人を待つ場所,別れを惜しむ場所として万葉時代から定番になっていたようです。
さしずめ,万葉時代に別れと出逢い(待ち合わせ)のあるトレンディドラマの撮影をしたとすると,海岸や湖岸などに生えている松林がロケ地に多く選ばれたかも知れません。
<松浦佐用姫の伝説>
「待つと松」の関係ですが,万葉集で枕詞「松が根の」は「待つ」に掛る用例(13-3258)があます。
同巻5では当時も松林が美しいかったと思われる佐賀県松浦海岸を舞台とした松浦作用姫の悲恋物語(逸話)を題材に,何首かの短歌が収録されています。
ちなみに,作用姫逸話のあらすじは次のようなものです。

6世紀,朝廷の令で百済救済を派遣された青年武将大伴狭手彦(おおとものさでひこ)は途中停泊地の松浦に寄港。
松浦に住む長者の娘、佐用姫(さよひめ)と深い恋に落ちた(松浦海岸の松林でデートを重ねたのでしょう)。
やがて,突然の出航を知らされた作用姫は鏡山(佐賀県唐津市)に登り軍船に向かって一生懸命領巾(ひれ)を振り続けた。
それでも名残りは尽きず,玄界灘そして遠く壱岐島が見える加部島(佐賀県唐津市)まで追いかけた。
しかし,すでに船の姿は無く,作用姫は悲しみの余り七日七晩泣き続け,ついに石と化して,狭手彦の帰りを待ち続けた。

次は「待つと松」を意識した万葉集作用姫題材の短歌です。

音に聞き目にはいまだ見ず佐用姫が領巾振りきとふ君松浦山(5-883)
おとにききめにはいまだみず さよひめがひれふりきとふ きみまつらやま
<<人伝には聞きましたがまだ見たことはありません、佐用姫が領巾を振ったという君を待つ松浦の山は>>

<松と待つは現代までも
ところで年代がそれなりの方は,昭和40年代「松の木ばかりがまつじゃない。(中略)あなた待つのもまつのう~ち。」とヒットした「松の木小唄」も「待つと松」を掛け合わせた歌詞だということをご存知ですよね。
こうみると「待つ」と「松」のペアは,時代を超え強い関係を維持しているように私には思えます。

ちなみに「『松の木小唄』は知っているけどそれなりの年代と違います」という読者のみなさん,お父さんから聞いたことにしておいても構いませんよ。待つ(3)に続く。

2010年2月11日木曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…待つ(1)

たびとです。1ヵ月間諸事情があり,当ブログへの投稿が滞っていましたが,何とか再開にこぎつけることができました。
奇しくも,今月末で当ブログを始めて1年になろうとしています。
お約束していた新たなシリーズをこの節目に開始することにします。
<新しいシリーズ>
さて,新しいシリーズは,万葉集に現れる動詞に着目します。
今まで何度かこのブログでも述べていますが,万葉集の和歌が創られた時代は中国,朝鮮などの外国から外来文化が怒涛の如く流入していた時代です。
辺境の島国日本が一種のグローバル化に対応しようとしていた時代といえると私は思います。
奈良時代より後の時代で私が考えるグローバル化の時代は,「龍馬伝」,「坂の上の雲」などの舞台になっている明治維新明治時代の日本。そしてまさにインターネットを中心とするIT化が急速に時代を変革している今の日本です。
こういった時代では,多くの外来の言葉が使われるようになります。
ちなみに,万葉時代では漢語梵語が漢字の形で外来語としてたくさん入ってきたのです。
当然発音は当時の外国語(中国語等)の発音に近い形で使われました。いわゆる音読み漢字です。
当時流入し,多用された外来語はほとんど名詞や形容詞だと私は思います。
話を分かりやすくするため,今の外来語(多くが英語由来)に当てはめてみましょう。
デパート,カレンダー,バレンタインデー,デート,ドア,キッチン,エレベーター,レシート,ポイント,サービス,ランチ,チケット,イベント,ブログ,インターネット,スクールカラー,メールなどすべて名詞です。
また,ポジティブ,アクティブ,クール,ウェット,ドライ,ホット,スーパー,ナイス,グッド,ベスト(best),ビッグ,ミドル,ラージ,ショート,ロング,アメリカン,パワフル(powerful),シャイなどが形容詞の外来語です。
いっぽう,動詞の外来語は日常的には使われるようになるには時間を要するような気がします。
アップ,ダウン,キャッチ,キック,ドイマイ(don't mind),ファイト,プッシュ,リサーチ,サーベイ(survey),ドライブ,キープなどが動詞系の外来語としてありますが,名詞や形容詞の外来語に比べたらある種の専門家間でのみ使う傾向が多いのかもしれません。
<日本人が英会話を苦手とする理由>
余談ですが日本人が英会話を苦手とするのは,知っている語彙を増やすことが語学上達だと思いこみ,動詞と絡めて覚えないことが原因の一つかも知れませんね。
今も本来動詞である外来語を「テークアウトする(持ち帰る)」「テークオフする(離陸する)」という言い方で動詞を名詞のようにしてやまと言葉の動詞「~する」を付けてしまう傾向があります。
そういう意味で,母国語の動詞は外来語の影響を受けにくいという性格があると私は推察するのです。
万葉時代もおそらく名詞類の外来語は比較的浸透が進んでいたかも知れませんが,動詞は大和ことばのまま使われていたと考えられます。
私が万葉集の動詞に着目する理由は,外来語の影響を受けにくく,大和ことば本来(日本人本来)の用法による感情表現がより特徴的に見えてくると思うからです。
<動詞の「待つ」を最初に選んだ理由>
さて,このシリーズで最初に取り上げる動詞は「待つ」です。
人はいつも常に何かを待っている動物なのかも知れません。
たとえば,狩猟で獲物が油断するのを待つ,農作物が収穫できるまで待つ,自分や大切な人の病気が治るのを待つ,合格・決定・承諾などの知らせを待つ,乗り物の到着や出発の時を待つ,春や秋など次の季節を待つ,恋人の到着待つ,戦地や遠方に赴任した家族の帰りを待つなどです。
今のように景気が良くない世相だと,景気の回復を待つ,吉事や運気の好転を待つ人も多いのかもしれません。
<万葉集で「待つ」を詠んだ主な和歌>
万葉集に目を向けると「待つ」という動詞が出てくる和歌が300首近くもあります。
次の短歌はその中で私が比較的有名かなと思うものです。

 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな (1-8:額田王
 楽浪の志賀の辛崎幸くあれど大宮人の舟待ちかねつ (1-30:柿本人麻呂
 君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ (2-35:磐姫皇后
 あしひきの山のしづくに妹待つと我れ立ち濡れぬ山のしづくに (2-107:大津皇子
 我を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを (2-108:石川女郎
 君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く (4-488:額田王
 来むと言ふも来ぬ時あるを来じと言ふを来むとは待たじ来じと言ふものを (4-527:坂上郎女
 あしひきの山より出づる月待つと人には言ひて妹待つ我れを (12-3002:作者未詳)

万葉集で「待つ」が使われている和歌はすべての巻に存在し,巻11が最も多く40首余りの和歌で使われています。
ちなみにもっとも少ない巻は巻1で3首です。
今回は概要のみでしたが,次回より何回かは万葉集に現れる「待つ」についていくつかの角度から感じたところを述べていきます。

 天の川 「ところでたびとはんは今は何を待ってはるんや?」

そうだね~。今は週末を楽しみにして待ったり,春の到来を心待ちにしながらITの仕事に取り組んでいるね。ところで,天の川君はいつも何を待っているのかな?

 天の川 「飯(めし)!」

待つ(2)に続く。