2009年6月24日水曜日

技術屋から見た万葉集

先日,奥高尾で再会した旧友から,私のことについて「IT(理系)の技術者のたびとさんが,なぜ万葉集に興味をもち,今ももっているのか? 自分の知っている理系の技術者にはそんな人は見かけない」という質問を受けました。
私はそのとき「万葉集に興味をもっている人には女性がいっぱいいるから」というウケ狙いの回答しかできませんでしたが,改めてその理由を,少し詳しく書くことにします。
<ITエンジニア(私)が万葉集に興味を持つ理由>
私が専門としているコンピュータソフトウェアの仕事は,ソフトウェアを新らたに仕様決定・設計・プログラム作成する場合,また既に完成して動いているソフトウェアの再設計,プログラム修正(保守開発)する場合,いずれの場合でも「論理的」にあいまいな部分を残したままではコンピュータに「正しい結果」を出させることはできません。
この仕事では「論理的」に数学の証明レベルの厳密さが要求されるのです。
ただし,ここでいう「正しい結果」とは何か?実はそれが大きな問題なのです。
<コンピュータの出す正しい結果は机上のもの>
コンピュータが出す「正しい結果」とは,「ある種のモデルを満たす結果」という意味がほとんどです。
そのモデルとは,モデル(標準的な手本)という名称でも示すように,ある前提条件において正しいといえるだけなのです。
実際には,そのモデルを誰か(発注者,プロジェクト責任者等)が前提条件とともに承認して,そのモデルに対して「論理的」に厳密に実現できる処理を考えるのです。
このような承認後の厳密なモデル実現作業が,いわゆる「理系の技術屋」の仕事の世界だといえます。
<コンピュータの出す結果に対象外が出てしまう>
その「モデル」の前提条件に合わない対象は,技術屋の対象外(責任の範囲外)になり,いわゆる理系の発想では「正しい結果」を得られなくても良いのです。もちろん,システムとしては前提条件に合わない対象は対象外としてエラー通知をする必要があります。
コンピュータシステムの開発では,多くが開発費用と開発期間を抑制するため,(極力最小限にすることを目指すにせよ)ある前提条件をもつモデル実現に向けたソフトウェアの設計をします。
<対象外とされた人が猛クレームを出す?>
しかし,システムが稼働し始めると「正しい結果」の前提条件に合わない人たちから新しいコンピュータシステムの恩恵に預かることができないだけでなく,「前より悪くなった」とクレームが出る場合があります。また,「前提条件」自体が変化し,以前の「前提条件」の基に作られたソフトウェアがそのままでは「正しい結果」を出さなくなる場合があります。
そのとき,ソフトウェアをどのように改善し,クレームをもつ人たちからの不満を解消するか,また変化した後の前提条件でも「正しい結果」が出るようにするかを考え対応するのが,私が専門とするソフトウェア保守開発の仕事です。
ただし,クレームが出てからや,「前提条件」が変わってから考えるというような受け身(リアクティブ)の姿勢では,クレームを発した人たちの我慢や「正しい結果」の得られない状態をより長く放置することになります。
<私のIT業務の理想形>
私が考える理想のソフトウェア保守開発の姿とは,新システムや現行システムに対するクレームの種類,そしてそのクレームがいつ頃強く出されるかを事前に予測したり,「前提条件」が変わる兆候を察知したりして,先手を打って(プロアクティブに)対応するのがその姿です。
できるだけ先手の対応をするためには,現行システムへの大きなクレームになる前に人が不満を募らせるパターンを早い段階から予測しておく必要があります。
<人間の欲求の本質は理系のヒトだけで分かる?>
その正しい予測には人間が持つ欲求の本質とは何かを如何に幅広く理解しているかが重要なポイントだと私は考えます。そのためには,心理学者,哲学者,社会学者,経済学者,教育者,法律家,宗教者,そして文学者のさまざまな考えを知ることが不可欠なのです。それぞれ専門家の考え(仮説)は,人間のある側面の本質を表すモデルに他ならないからです。
<ITエンジニアは政治も関心を持て>
いっぽう,「前提条件」の変化の話ですが,例えば「消費税は5%」というのが前提条件があったとします。消費税がいつごろどのよう変更されるのかを予測するには,政界や世論の動向に十分目を向けたり,政治活動にさえ参画するくらいの強い関心をもってこそ,その兆候を的確に予測できるのだと私は考えています。人々が不満を募らせる(不幸に感じる)内面要因,社会対する不満を極小化を目指す政治のあるべき進め方などに対する洞察力を高めることが重要です。
<文学はマクロとミクロのギャップを明確化する?>
そのためのバックグラウンドとして,文学(特に詩歌)はとりわけ重要ではないかと私は考えています。なぜなら,文学に興味を持つ人はさまざまな文学作品を通し,実は世の中の常識通りに人間が対応できないケースが現実としてありうることを理解しています。
人間が本質的に持つ性質(個々に異なる性質)と,ひとつの社会システムの一員として守らなければならない常識との間にあるギャップを文学は常にテーマにしているから非常に参考になるのだと私は思います。
<万葉集はそのギャップを多数明確化している?>
そして,私が特に万葉集に魅かれる理由は,当時人々が律令制度という新しい社会システムへ急速に適応することを求められることとのギャップに悩むさまざまな姿が見えるからです。また,率直な表現(言葉)を通して「人が生きるために失ってはならないものは何か?」を考えさせるものが凝縮された形で数多く存在しているからなのです。
何らかの形で人間が関係するコンピュータシステム(ほとんどすべてそうである)を構築,修整するとき,人を薄っぺらで・画一的なモデルに当てはめ,それで良しとする考えには慎重でなければならないと私は考えています。

次は,あまりにも有名な山上憶良貧窮問答歌の併せ短歌です。

世の中を憂しとやさしと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば (5-893)
よのなかをうしとやさしとおもへども とびたちかねつとりにしあらねば
<<今の世の中が憂鬱だとか生きていることが恥ずかしいとか感じても,そこから飛び立って離れて行くことはできない。鳥ではないのだから>>

この和歌,豊かで幸せな生活を送っているあなたにとっても,特に解説はいりませんよね。

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