2017年10月19日木曜日

序詞再発見シリーズ(27) … 「道」にはさまざまなものがあり,人はさまざまな感じ方をする?

本投稿は,一度出した「雲居」に関する(441回目の)投稿を取り消し,以下の文に差し替えます。内容が不適切であることが判明したためです。「雲居」に関しては,「序詞」シリーズとしてではなく,改めてどこかで取り上げたいと思います。

いろいろなオファーの対応に追われていて,しばらくお休みをしてしまいましたが,今回からは自然や地名を表す言葉を離れ,人工物を序詞に詠んだ万葉集の短歌をを紹介していきます。
今回は「道」「路」を序詞に詠んだ巻11と巻12の短歌です。
「道」や「路」は,人間が踏み固めたもの,獣(けもの)が踏み固めてできたものなどのように自然にできたものもあります。しかし,国が大きく変わった万葉時代では,多くは人間が人工的に整備したものを指したのでしょう。
「道」や「路」には,識別する標識や人工物(溝,石や砂などを敷き詰め舗装,道祖神,庚申塚,一里塚,垣,並木,澪標(みをつくし)など)によって,「道」や「路」とそれ以外の場所を区分けしていたと考えられます。
万葉集には,序詞だけでなく,さまざまな表現で「道」や「路」は使われています。
さて,最初は序詞で「道」を詠んだ短歌です。

玉桙の道行き疲れ稲席しきても君を見むよしもがも(11-2643)
たまほこのみちゆきつかれ いなむしろしきてもきみをみむよしもがも
<<道を歩き疲れて稲筵を敷いて休むことができたとしても,いとしい君を見る方法があるだろうか>>

「玉桙の」は「道」に掛かる枕詞ですので,今回は特に訳しませんでしたが,道には鉾のような形をした標識が立てられていたのかも知れませんね。
「道」を長く歩き続けることは大変なことで,「疲れる」というイメージが当時からあったのでしょう。
今のような道の整備技術が高くなかったことに加え,馬や荷車の車輪であちこちデコボコの場所があり,雨の時はぬかるみ,乾燥した日が続くと風の強い時は土ぼこりが大変だったと考えられるからです。
そんな道で疲れても,稲筵を用意して敷けば休めるが,恋人になかなか逢えない疲れはどうしても取れないという気持ちを表していると私は感じます。
次は,「路」でも水路を序詞に入れた短歌です。

駅路に引き舟渡し直乗りに妹は心に乗りにけるかも(11-2749)
はゆまぢにひきふねわたし ただのりにいもはこころにのりにけるかも
<<水路の向こうとこちらをつなぐ渡し船が付くと皆がすぐに乗るように,あなたは逢ってすぐ私の心に乗ってきた>>

水路」ですが,運河ようにな水路を指している訳ではなく,川の対岸の間,そして湖や海など島や陸(をか)との間などを結ぶ水路です。この水路を通って行き来する舟を「渡し舟」と呼びます。
渡し舟の営業が始まると,その便利さに多くの利用者が出て,利用のピーク時間帯では乗り切れないことも考えられ,早めに乗り場に来る人もいるかも知れません。
その勢いと同じぐらいの勢いで「あなたは私の心に乗ってきた(直ぐに好きになった)」という作者の気持ちが私にはよくわかります。
次はまた「道」に戻ります。

新治の今作る道さやかにも聞きてけるかも妹が上のことを(12-2855)
にひはりのいまつくるみちさやかにも ききてけるかもいもがうへのことを
<<新しく開墾した場所に作ったばかりの道が心地よいように,君の身の上ことを心地よく聞くことがてきた>>

田畑が新しく開墾されると種苗,肥料,収穫物を運ぶ道が必要となります。
現地の人たちが昔から田畑として使っている場所は,道の整備が計画的でなく,農家には苦労が多いのです。しかし,新しく計画的に開かれた農地では,必要な道も必要十分で効率的に作られます。
当然,その道は幅も広く,平らに作られることから,歩くにしても,荷車でモノを運ぶにしても,古い道よりも心地よく通れるのです。
それと同じくらい心地よいのが好きな相手の世間の良い評判です。
万葉時代,女性の評判はあまり外でその姿を見せないことから,「姿を見た」という人の噂話がほとんどだと思います。
しかし,恋人か夫婦(といっても,妻問婚ですから基本別居)の関係の女性に対して,「凄く綺麗らしいよ」とった評判が立つのは,かなり嬉しいものなのだったのだろうと私には想像できますね。
(序詞再発見シリーズ(28)に続く)