2011年2月28日月曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…去る(1)

前回,本ブログ3年目突入スペシャル投稿で本シリーズは1回お休みとなりました。今回から,前々回の「去(い)ぬ」に続いて「去(さ)る」について万葉集でどう使われているか見ていきます。
実は,万葉集で「去る」は「去ぬ」よりも多くの和歌で出てきますが,それだけではなく,万葉仮名で書かれた原文でも「去」という字が多くの和歌で出てきます。
出てくる「去る」の意味はたとえば現在使われている「消え去る」の「去る」といった意味だけでなく,異なった意味で使われています。
次の和歌たちのように「(季節などが)移り巡ってくる」という意味で使われているのがその例です。

春去ればををりにををり鴬の鳴く我が山斎ぞやまず通はせ(6-1012)
はるされば ををりにををり うぐひすの なくわがしまぞ やまずかよはせ
<<春が来て満開の花に鶯が鳴く我が家の庭です。何度でもお出でくださいな>>

この短歌は,天平8年(736年)12月12日,葛井広成という貴族の自宅で行われた宴で詠まれたと題詞にあります。
この短歌の「春去れば」の原文は万葉仮名で「春去者」となっています。
「ををり」は花や葉がいっぱいに繁る状態を表しています。春になって,庭にウグイスが来るほど咲きほこる花は梅でしょう。

あさりすと礒に棲む鶴明け去れば浜風寒み己妻呼ぶも(7-1198)
あさりすと いそにすむたづ あけされば はまかぜさむみ おのづまよぶも
<<浅蜊(アサリ)を餌として磯に棲む鶴が,夜明けになり,浜から吹く風が寒いので(2羽で寄り添って暖まろうと)つがいのメスを呼んでいるよ>>

この短歌の「明け去れば」の原文は「暁去者」です。
(タンチョウ)鶴の鳴き声は動画サイトでも投稿されていて,聞くと何かしら悲しげです。この短歌の作者(詠み人知らず)はその悲しげな鳴き声からこのように感じたのでしょう。
もしかしたら作者は妻か恋人に対し,この短歌で「ふたりで暖まろう」と誘っているのかもしれませんね。

君がため手力疲れ織れる衣ぞ春去らばいかなる色に摺りてばよけむ(7-1281)
きみがため たぢからつかれ おれるころもぞ はるさらば いかなるいろに すりてばよけむ
<<あなたのために腕の力が弱るまで織った衣ですよ。春がきたら(あなたのために)どんな色に染めたらよいでしょう>>

この旋頭歌の「春去らば」の原文は「春去」です。
この旋頭歌の作者(詠み人知らず)は,冬の間に丹精込めて織った衣を春になったら生えてくる草花でどんな色に染めれば相手が喜ぶだろうという気持ちを詠んでいのではないかと私は感じます。

さて,「春去れば」のように「~されば」という表現は万葉集に数十首出てきますが,万葉時代より後の短歌でも古風な表現として使われています。
その代表例が,小倉百人一首に選ばれた大納言経信(源経信)が詠んだ次の短歌です。

夕されば門田の稲葉おとづれて芦のまろ屋に秋風ぞふく(小倉百人一首:71)
ゆふさればかどたのいなはおとづれて あしのまろやにあきかせぞふく
<<夕方になると,門田の稲葉を音立てて秋風が訪れ,葦の仮小屋の中まで吹き入って来る>>

この意味から「去(さ)る」はもともと「そうなる」であり,さこから「さなる」へ,そして「さる」と変化したのかもしれません。
去る(2)に続く。

2011年2月27日日曜日

「葉」が「言葉」である可能性は否定できない(本ブログ3年目開始に寄せて)

「動きの詞シリーズ」の途中ですが,このブログも開始して丸2年となり来月からは3年目に入ります。ここで3年目突入スペシャル投稿を行うことにします。
このブログ開始当初,私は「万葉集という名前の意味は『よろずの言葉を集めたもの』と考えている」と書いています。私がそう判断した理由を今まであまり詳しく書いてきませんでした。3年目開始という節目でもあり,その理由を書いてみます。

最近の万葉集の解説では「よろずの和歌」または「よろずの世」という意味という説が大勢だそうで,「よろずの言の葉」という考え方は無理があり,支持者は少ない書かれているようです。
「よろずの言の葉」では何故ダメなのか?
しかし,私があえて「よろずの言の葉」という意味ではないかと考える理由は次の通りです。
「よろずの和歌」説,または「よろずの世」説が有力視されるのは理解できるが,「よろずの言葉」説を有力な上の2説(「和歌」,「世」)と同列かそれ以上に有力なものとはせず,除外してしまうのは納得できないということです。
一般に「よろずの言の葉」説が否定される理由は,「ことば」に対して「言葉」という漢字を当てたのは平安時代以降であり,万葉時代では「葉」が「ことば」という意味は無く,万葉集の「葉」を「ことば」として考えるは無理があるというのが除外の主な理由のようです。
万葉時代「葉」に言葉の意味は本当になかった?
一見,非常に説得力があるように見える除外理論なのですが,私はこの除外論理は論理的に飛躍がありすぎると考えています。

「ことば」は万葉集の和歌には4首ほどですが使われ出てきます。また,今の「言葉」とほぼ同じ意味で「言(こと)」という名詞ではもっと多く使われています。この「言」は「繁く」と対になり,次の但馬皇女が詠んだような慣用的な使い方が万葉集ではあちこち出てきます。

人言を繁み言痛みおのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る(2-116)
ひとごとを しげみこちたみ おのがよに いまだわたらぬ あさかはわたる
<<他人の噂が次から次から出て,辛い思いをしても,私はあなたに逢うため冷たい水の流れる朝川を始めて渡ります>>

このように「言」と対で使われる「繁く」は,植物が繁ることをイメージして使われているのではないかと私は考えています。その端的な例として次の詠み人しらずの短歌があります。

人言は夏野の草の繁くとも妹と我れとし携はり寝ば(10-1983)
ひとごとは なつののくさの しげくとも いもとあれとし たづさはりねば
<<人の噂が夏の野の草の繁るようにたくさん出ても,あなたと私が手をとって寝てしまえば(気にならないよ)>>

この短歌では草が繁るとなっていますが,草の代わりに「木の葉が繁るように」としても,植物が繁る例えとして妥当性は十分あります。「言繁く」の「繁く」のイメージとして植物の草は認め,木の葉は認めない理由はまったくありません。
さらに,次の東歌で使われている「八十言のへ」の「言のへ」は「言のは」の東国方言とみれば,「ことのは」や「ことば」の「は」や「ば」は,「葉」の意味がすでにあったかもしれないという考えに無理はありません。少なくとも「葉」の用例はなかったと断言はできないはずです。

うつせみの八十言のへは繁くとも争ひかねて我を言なすな(14-3456)
うつせみの やそことのへは しげくとも あらそひかねて あをことなすな
<<世間の人からいろんな噂を言われ煩わしいと思っても,その煩わしさに負けて,つい私との関係を口に出したりしないでね>>

このことから,万葉時代にすでに「ことば」と植物の例えは密接に関係しており,「ことば」の「ば」は「葉」もイメージがされていたと私は考えているのです。

ただ,その根拠がこれだけの事例では希薄という指摘はあるかもしれません。では,百歩譲って万葉時代には「葉」と「ことば」は結びつかなかったとします。
それでも,まだ「言葉」説を除外する理由にならないと私は考えます。
万葉集(まんえふしふ)という読みは漢字の音読みです。ところで,奈良時代大伴家持によって万葉集の編纂がほぼ完成した時点で,名前が万葉集という名前ではなかったとしたらどうでしょう。
たとえば,「よろづのこと(言)をあつめたるもの」という名前だったとします。
それを,平安時代に万葉(言葉の意味)集という漢字を当てて,音読みした名前にしたとすると,万葉集の「葉」が「言葉」の意味であっても何の不自然さもありません。
「言葉」除外論は,「万葉集」という漢字表記名が奈良時代に万葉集の中身が完成した時に既に命名されていたことを前提としているように見えます。
先日(2月16日)にNHKで放送された『歴史秘話ヒストリア「感動!「万葉集」ヒットパレード ~なぜ日本人は歌が好き?~』で「万葉集は平安時代の平城天皇が編纂し公開するまで封印されていた」という説には私は同感できません。しかし,「万葉集」というネーミングをしてプロモーションしたのは平城天皇であったというのはあり得ると考えています。
「万葉集」という名前が家持が編纂したときからあったという前提が許されるなら,他の2説(葉の和歌説,時代説)を除外するための前提はいくらでも考えることができます。
私は,万葉集の「葉」は「言葉」の意味ではないと断定する除外説は,逆に論理的,集合論的に無理がある説と考えており,万葉集の内容(大和言葉の宝庫)を見て,「葉」は「言葉」を意味するのが他の2説より妥当だと判断しているのです。
上述の歴史秘話ヒストリアでも「言の葉」とは言っていますが,それイコール「和歌」とは言っていませんでした。それは正しい判断だと私は思います。
<本スペシャル投稿完>

2011年2月19日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…去ぬ(3:まとめ)

万葉集で「去ぬ」を使った和歌の多くは相聞歌です。やはり,恋人や夫が去ってしまうことの辛さを詠ったものが多いのです。
ただ,雑歌や防人歌にも「去ぬ」が使われているものが一部にはあります。それを2首紹介します。

さを鹿の胸別けにかも秋萩の散り過ぎにける盛りかも去ぬる(8-1599)
さをしかの むなわけにかも あきはぎの ちりすぎにける さかりかもいぬる
<<牡鹿が通ったとき胸にあたったのかなあ。秋萩が散ってしまい,盛りが過ぎてしまった>>

この短歌は,大伴家持が天平15(743)年8月(家持25歳の時)に詠んだ秋の歌3首の内の1首です。
家持が詠んだ場所は,恭仁京(現在の京都市木津川市)の近くと思われます。
秋萩が散ってしまったところがあった。きっと牡鹿が通って胸にあたった花がその勢いで散ってしまい,早々と盛りが過ぎてしまったことを嘆いているように私には感じられます。
家持がこの短歌で恭仁京造営が挫折している状況を秋萩で表していると考えると考えすぎでしょうか。
聖武天皇が恭仁京を新しい都にしようとして造営を始めたが,最初の構想とは裏腹に資金,氏族思惑などで計画がとん挫し始めていたことを暗に示したと読めるような気がします。
朝,白露で美しく見えた秋萩が一瞬の内に牡鹿によって散らされてしまう。そんな果敢ない姿を恭仁京造営の当時の状況に当てはめているのかもしれません。

暁のかはたれ時に島蔭を漕ぎ去し船のたづき知らずも(20-4384)
あかときの かはたれときに しまかぎを こぎにしふねの たづきしらずも
<<夜明け前の東側が明るくなった時間に島の向こうに漕ぎ去った船。今はどうしているのだろう>>

これは,助丁(すけのよぼろ)海上郡(うなかみのこほり)海上国造(うなかみのくにのみやつこ)他田日奉直(をさだのひまつりのあたひ)得大理(とこたり) という下総(今の千葉県)出身の防人が詠んだ短歌です。
この短歌の作者は国造という役職から下総出身の防人部隊のリーダ的存在だったのだろうと思われます。
これから防人として筑紫へ向かう前,先に向かった防人の船は無事に着いているのだろうかという不安はあるが,極力冷静に詠んでいるなと私は感じます。
リーダとしては,メンバの不安を増幅させるようなおろおろした表現や残してきた自分家族と会いたいといったプライベートなことを表現はしにくいですからね。
でも,本当は残してきた家族ことが恋しいという軟派な歌を詠いたかったのかもしれません。

さて,万葉集に出てくる「去ぬ」について見てきましたが,当時の「去ぬ」の意味は現代の「去(さ)る」に近いように感じます。それも,かなり重く,暗い,悲しいイメージが強いように私は感じます。
一方,万葉集では「去る」という言葉も出てきます。次回からは万葉集における「去る」はどんな意味なのかについて見ていきましょう。
去る(1)に続く。

2011年2月13日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…去ぬ(2)

「去ぬ」の2回目として,「去ぬ」が出てくる万葉集の相聞歌(女歌)を紹介します。

大船の思ひ頼みし君が去なば我れは恋ひむな直に逢ふまでに(4-550)
おほぶねのおもひたのみしきみがいなば あれはこひむなただにあふまでに
<<大船のように頼みに思っておりました貴方が去ってしまわれても,またお逢いするまでずっとお慕い続けるでしょう>>

この短歌は,神亀5年(729年)に石川足人(いしかわのたりひと)という人物が筑紫の蘆城驛家(あしきのはゆま)へ赴任するときの送別会で,恋人の女性(名前は不詳)が詠んだもののようです。
実際,本当の恋人だっかどうか分かりませんが,送別会ではこういう和歌を贈って別れを惜しんだのでしょう。

武蔵野の小岫が雉立ち別れ去にし宵より背ろに逢はなふよ(14-3375)
むざしののをぐきがきぎしたちわかれ いにしよひよりせろにあはなふよ
<<武蔵野のほら穴に住んでるキジが飛び立っていってしまうようにあなたが別れて行ってしまったあの晩より、いまだに恋しい貴方と逢えないでいます>>

こちらの短歌はもう少し厳しい現実を詠んだ相聞の東歌です。
おそらくこれを詠んだ女性は相手の男性の妻で,夫は戦地への徴兵,土木工事への駆出し,遠地への出稼など何らかの事情で家を出ていってしまったのでしようか。
けれど,私があなたを恋する気持ちは今も変わっていません。早く帰ってきて,あなたと逢いたい。そんな切ない残された妻の気持が伝わってきます。
<万葉時代の「去ぬ」は重い言葉?>
当時は,出先でさまざな事故や事件によって死を迎える人が多かったと思われます。
死去という言葉はあの世に逝(い)ってしまうという意味で「去」を当てているのは,万葉時代のような昔では「去(い)ぬ」という言葉は死までを予感させる言葉だったのではないか。それほど「去ぬ」は重い言葉だったと私は想像します。
それが,現在の関西弁では「去ぬ」は単に「帰る」に近い意味で,死を思い起こすようなニュアンスはありません。
このように,時代とともに言葉の意味は変化し,国語学の定説によると重い言葉も徐々に軽く扱われるように変化する言葉が多いとのことです。
たとえば「やがて」という言葉ですが,昔は「すぐ」という意味だったのです。ところが,今では「そのうち」という意味に近くなっています。
さて,天の川君も「やがて」また出てくるでしょう。

天の川 「たびとはん。『やがて』はいったいどっちの意味やねん?」

やっぱり「すぐ」出てきたか。「そのうち」でも良かったのに。今回はここまで。
去ぬ(3:まとめ)に続く。

2011年2月11日金曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…去ぬ(1)

今回からいつものように3回に渡り,万葉集の「去(い)ぬ」について考えてみます。
「去ぬ」は現在でも関西方面では普通に使われています。天の川君,いくつか用例をやってもらいましょうか。

天の川 「仕事の邪魔や。早よ去なんかい!」「わてが戻ってくるまでここに居てや。去んだらあかんで。」「えらい長いことお邪魔しました。ほんなら去にますワ。」

天の川君ありがとう。壱岐の麦焼酎「天の川」をまた買ってきてあげるからね。

天の川 「よっしゃ。けど,風呂桶(注)は許さへんで。」
  (注)風呂桶=湯(言う)だけ

実は万葉集では,同じ漢字を当てる「去る」の用例も出てきます(「去ぬ」と「去る」は異なる意味で使い分けているようです)。
その後長い年月を経て,関東では「去る」が「去ぬ」と同じ意味で使われるようになり,関西では「去ぬ」がそのまま残ったと考えると面白いかもしれません。
私が京都で暮らしていた頃「風と共に去(さ)りぬ」という映画のタイトルを見て,「カッコええタイトルやな~」と思ったのを記憶しています。
これが,「風と共に去(い)ぬる」だと,当時の私は「アカン。ダサい。」と思ったかもしれませんね。
<関西弁と標準語の違い>
東京に出てきて,たまたま見たテレビドラマで「貴方が突然去(さ)ってしまうなんて,私どうしたらいいの?」というようなヒロインのセリフを聞いて「去った男は何て薄情な男なんや」と思ったのは,「去る」は「去ぬ」に比べて,永遠の別れを予感させる男側の強い意志を私は感じたからでしょうか。
しばらくして,東京で友達が何人かできた頃,その中でいつも難しい議論を吹っ掛けてくる関東出身の友達が同じ大学の寮にいました。
私が勉強中にその日また何回目か面倒な問いかけだったので「今日はもうええわ。去んでんか?」と私が笑いながら言ったら,その友達はプライドを大きく傷つけられたと感じたのか,それからなかなか口をきいてくれませんでした。
<万葉集では>
さて,万葉集で「去ぬ」はどんな使われ方をしているのでしょうか。今回,まずは仏教思想的な短歌での用例を見てみましょう。

世間を何に譬へむ朝開き漕ぎ去にし船の跡なきごとし(3-351)
よのなかをなににたとへむ あさびらきこぎいにしふねのあとなきごとし
<<この世を何にたとえようか。朝、漕ぎ出していった舟の跡がすでに残っていないような世の中を>>

これは,有能な官僚から出家し,仏門に入った沙弥満誓が,筑紫で大伴旅人と一緒にいた時に詠んだ和歌の一首です。
一般的に世の中を儚(はかな)んだ暗い歌と解釈が多いようですが,私は次のように解釈します,

過去の栄光や成功にいつまでも浸っていてはいけない。また,前うまくいったやり方でこれからもうまくいくとは限らない。世の中は例えるものがないほど多様で常に変化しているのだから。
今朝は昨日とはもう違うのだ。昨日とは違った新しい世の中に適応していくことが,生きるる道であると。
<現代でも通じる無常観>
かなり飛躍した解釈だと思われるかもしれませんが,仏教の無常観は決して後ろ向きなものではないと私は思います。
世の中は常ではないから,今は辛くてもじっと我慢して待っていればそのうち良いこともあるだろうという「待ち」の考え方ではなく,次のように力強く生きて行くことを無常観は求めていると私は解釈しています。

今は如何に苦しい状況にあったとしても,逃げず創意工夫をして,常に自分を高め,自分自身を変革していくポテンシャルを持ち続け,人のために積極的に行動し,生きて行くことが無常な世界を生き抜く仏に近付く道であると。

仏教に深い造詣があった思われる山上憶良の次の「去ぬ」を使った短歌はまさにその気持ちを表しており,子育てに頑張っておられる方々に贈りたい一首だと私は思います。

すべもなく苦しくあれば出で走り去ななと思へどこらに障りぬ(5-899)
すべもなくくるしくあれば いではしりいななとおもへど こらにさやりぬ
<<どうしようもなく苦しいので,この世から逃げ出して去ろうと思うけれど,この子たちがいるからそんな気持ちになることが妨げられる>>

去ぬ(2)に続く。

2011年2月5日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…侘ぶ(3:まとめ)

万葉集で「侘(わ)ぶ」が出てくる歌はすべて短歌です。そして,「侘ぶ」が使われている短歌には女性歌人作と考えられるものが多いのです。
万葉時代,「侘ぶ」が女性の感情や女性から見た相手の感情を表す言葉として多用されていたと考えてもよいのではないかと私は思います。
今回は「侘ぶ」の最終回として「侘ぶ」を使った短歌が巻4に続いて多くでてくる巻12の短歌3首を紹介しましょう。
この3首はすべて詠み人知らずの短歌ですが,女性歌人作のものだろうと私は思います。

物思ふと寐ねず起きたる朝明には侘びて鳴くなり庭つ鳥さへ(12-3094)
ものもふと いねずおきたる あさけには わびてなくなり にはつとりさへ
<<(恋のことで)物思いして、寝られずに起きてきた朝には、庭の鳥まで悲しそうに鳴いている>>

この短歌から,切ない恋のことを考えていたら知らないうちに鳥の悲しそうな(侘びしい)鳴き声で朝になったことを知らされたという情景が読み取れます。
この悲しそうに鳴く鳥は「ヒヨドリ」ではないかと私は想像します。
ヒヨドリは日本ではポピュラーな鳥ですが,生息地はほぼ日本に限られている世界的には結構珍しい鳥なんです。
キョー,キョーと鋭い鳴き声は,もしかしたら作者とって悲しい気持ちを表す鳴き声に聞こえたのかも知れませんね。

我がゆゑにいたくな侘びそ後つひに逢はじと言ひしこともあらなくに(12-3116)
わがゆゑに いたくなわびそ のちつひに あはじといひし こともあらなくに
<<私の言ったことが理由でどうかそんなに落ち込まないでね。金輪際逢わないなんて言ったこともないのに>>

作者の女性は大好きな相手の気持ちを試そうとして,遊び心で「別れましょ」なんて言ったのでしょうか。
余裕をもってうまく受け流してくれると思っていたら,相手の男性がマジで狼狽したのを見てこれを詠んだのかもしれません。

国遠み思ひな侘びそ 風の共 雲の行くごと言は通はむ(12-3178)
くにとほみ おもひなわびそ かぜのむた くものゆくごと ことはかよはむ
<<国が遠いって心配しないでね、風に乗って雲が行くように、ちゃんと便りが通うでしょうよ>>

この短歌は,夫か恋人が地方に赴任または戦地に向かうときに贈ったものでしょう。
当時は,交通の便が飛躍的に(街道,荷馬,港湾,大型船等の)整備され,地方と中央との物流がどんどん盛んになっていった時代です。
それ以前では遠くに行ってしまうことは音信不通になることと同義だったのが,そうではない可能性が出てきたさまざな発展の時代だったことをこの短歌は伺わせます。
<現代の通信手段>
さて,今やインターネットが世界中の人々と文章だけでなく,画像,動画,音声で瞬時にコミュニケーションできる時代になりつつあります。
数日前のテレビで韓国のある家族が2人の子供をアメリカに留学させ,母親も同行しているため,残った父親が一生懸命働いて収入の8割を仕送りしている姿が紹介されていました。
けれど,家族はインターネットのテレビ電話で毎日のように顔を見ながら会話できていて,家族の絆はちゃんと保てている様子が映っていました。
こんなコミュニケーションの姿は,インターネットが普及する前では莫大な費用が掛かり一般家庭のコミュニケーションの手段としては不可能だったのではないでしょうか。
私は,日本が近い将来,人々が生きていくため,より豊かな国へ出稼ぎに行くことが珍しいことではない時代が再び来るのではないかと思います。
例え家族が出稼ぎに行く必要が出ても,12-3178の短歌のようにものごとを前向きにとらえ「侘ぶ」気持ちを難なく乗り越えていける活力溢れる人ばかりであってほしいと考えています。
去ぬ(1)に続く。